
自ら明朝の延平王と称した鄭成功は最終的に安平で死んだのだが、オランダ軍から台湾を解放したということから、台湾民衆は鄭成功を称えて、ここに祠を建てたのが最初。そのときには、「開台聖王廟」という名前であったのだが、時は清の時代であるため、なにかと目に付きやすい台湾であったため、「聖」という文字を止めて、「開山王廟」という名前に改名された。しかし、政治に毎回振り回される台湾は、ここでも振り回される。牡丹社事件の処理責任として、台湾人の意識を一致させるために、鄭成功をそれまでの賊人という扱いから、忠義に立派な人だったということを清朝は認めて、祠ではあったが、ほとんど秘密結社のような祠だったものを大々的に福建式の建築様式にした祠に発展して建立。「明延平郡王祠」という名前に改称。しかし、その後、日本統治時代になると、祠は「神社」に変更され、特に日本の神様がやって来たわけではなく、祀られているのは鄭成功であるという、当時の日本国内では唯一台湾人が神様になっている神社「開山神社」ができる。中華民国時代になると、神社が廃棄され、もとの名前に戻って今に至る。
という歴史的な事実から、入り口に入ると、中途半端な鳥居が目に入ってくるし、それが目立つ。もともと、鳥居があった場所を、鳥居は日本をイメージするからダメだという、これまた宋美麗ばあさんの意向から、鳥居は撤廃されたのだが、その後、228事件が勃発し、台湾本省人がいっせいに国民党政府を弾圧しようと動く。本省人の怒りを鎮圧するためにも、日本統治時代にも国民党になっても強い人気だった鄭成功を手厚く支援することを目的として、まずは、鳥居もどきの門を作ったのが、今見えている白い鳥居もどきである。













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