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2013/09/28

ルードヴィヒ2世(映画)


最近のヨーロッパへの渡航で利用する飛行機の中では、機内エンターテイメントをあまり利用せず、ひたすら、寝る+ご飯を食べるくらいしかしないようにしていることが定番になっていたのだが、ロンドン行きのシンガポール航空では、機内誌をパラパラと見ていたときに、ドイツ映画「ルードヴィヒ2世(Ludwig)」が機内映画であることを発見した。ハプスブルグ帝国オタとしては、この映画を観ないとダメだろうと直感的に思う。

そういえば、同名の映画はイタリアの元貴族映画監督であるヴィスコンティによって随分前に作られていたことがあったのは知っていたので、てっきりその映画かと思っていたら、実はそれではなく、ワーグナー生誕200年を記念して作られた映画だった。それも出演している俳優・女優たちは、若い人たちばっかりで演技派ばかりだった。
この映画の主役であるバイエルン国王「ルードヴィヒ2世」役をしたのは、ルーマニア出身で歌劇団出身であるザビン・タンブレア(Sabin Tambrea)。ルードヴィヒ2世の有名な肖像画を誰しもが見たことがあると思うが、あの肖像画をそのまま現代に映し出し、動いた形で表現している俳優としては、本当にこの人が一番ぴったりだと思うような俳優である。華奢な体格で、色白で、背が高くて、見るからに気品があるような振る舞いができそうな俳優と言う意味では、この抜擢をした今回の映画監督は素晴らしいと思っている。なにしろ、ルードヴィヒ2世が後世「狂人」とか「同性愛者」と言われるゆえんになった、何ごとに対してもナイーブで純粋な思考と、そしてノイシュバンシュタイン城を作るくらいの情熱を持っていたハートを、この俳優はよく演じているからだ。
映画の内容としては、全体的に、ルードヴィヒ2世とワーグナーの異常な絆とその周りの取り巻きおよび政治情勢という感じで書かれている。

小さいころから音楽や読書に傾倒していて、馬術や武術に対しては全くと言って良いほど興味を持っていなかったルードヴィヒ2世に対して、父王であるマクシミリアン2世(Maximillian II)からは頻繁に「そんなんじゃバイエルンをまとめられない」と怒られていた。戦闘と戦略が国家を守っていくものと思っていた父王とは、水と油、静と動のくらい考え方に違いがあり、ドイツ連邦内で覇権争いをしていた大国オーストリア・ハプスブルグ帝国とプロイセン帝国の狭間でバイエルンが生き残るのは、戦闘ではなく、藝術の都としてバイエルンはヨーロッパの中であるべきだということアバンギャルド的な考えを持っていたために、全く相容れなかったのだと思う。

そんなときに、突然のマキシミリアン2世の死が起こる。皇太子として父王のサポートをする役割になっていたため、そのまま必然的に王になることになっていたのだが、もともと王として君臨すること自体も嫌がっていたので、周りから「王、王」と騒がれることに対して、最初の嫌気を刺す。日頃から考え方の違いから怒られていたのだが、そんなルードヴィヒ2世にとって父王が亡くなったことは一番のショックだったようである。

王になってやったことは主に2つ。一番最初にやったのは、幼いときに観た歌劇に感動し、それを作ったワーグナーを招くことだった。しかし、家臣たちはワーグナーに対する印象は悪かった。なにしろ、ワーグナーは1849年にドレスデンで起こったドイツ3月革命の運動の中心人物として振舞っていたのであり、それを知っている家臣たちは悪の元凶になるような人物がバイエルンに来ること自体が許せなかったのである。国家基盤を揺るがすような力と思想を持っているワーグナーをそれでもバイエルンに呼びたかったのは、政治思想というよりも、ワーグナーの音楽能力を高く買っていたからであり、老家臣たちに「20年前のドレスデンでの出来事は忘れろ」と説得していくところは、その時代背景を知らないと、何を言っているのか全然分からないだろうと思う。一方、ワーグナーにとっては、半亡命生活をするようになっていたわけだし、奔走し音楽活動ができない状態から、大国で金がそこそこあるバイエルンに招待されたことは、千載一遇の思いだったに違いない。

次にやったのは、芸術の中立国家を目指した国づくりだ。宮殿内の執務室をいきなり植物園並みにプランタンを運び入れて並べたりしたことには、さすがの家臣たちもビックリしたことだろうと思うし「こいつで大丈夫なのか?」と徐々に思い始めたのだろうと思う。そして、ヴェルサイユ宮殿のような宮殿に憧れていたので、藝術大国に相応しい城を作ることを目指した。それがノイシュバンシュタイン城である。

バイエルンが調子が良かった時代は、それでも良かった。問題は、プロイセンとハプスブルグの間で戦争をすることになった普墺戦争からである。このドイツ覇権戦争とでもいうべき戦争に対して、バイエルンはどちらの陣営で参加するかということだった。プロイセンのドイツ連邦からの脱退により始まったこの戦争を、バイエルンではプロイセンの背任だとしていたので、当然ハプスブルグ側に就くのは当然だと家臣たちは考える。ところが、意見や相談を既にワーグナーにいろいろしていたルードヴィヒは、ワーグナーからプロイセン側に就いたほうが良いということを言われる。家臣の考えとワーグナーの考えが真っ向から違うことで悩んだ末、「どちらにも就かない」という考えに一時期は陥る。なにしろ、もともと戦争なんか大嫌いの人物なのだから、どちらかに就けということを求められること自体が嫌なのだ。ただ、議会や家臣からはハプスブルグに就け就けと煩く言ってくる。戦争が起こると人が死ぬ。人が死ぬことに対して嫌気がしていたルードヴィヒも最終的には家臣の言うこと、議会の言うことを飲み、戦争への参加を宣言する紙にサインをしてしまう。サインをしたあとは、現実逃避をするかの行動に出る。こういう繊細なところの表現は巧いなと思った。

結果、バイエルンは敗戦する。多数の部下が戦争で死んだことの報告を受ける。内心は「だから言わんこっちゃない。あんな戦争に参加するからだ」と思っていた。のちに普仏戦争が始まる際には、プロイセンとともに「ドイツ」として戦い、フランスを撃破するのだが、そのときに、憧れのヴェルサイユ宮殿でプロイセンのヴィルヘルム1世が統一ドイツ帝国の皇帝として戴冠する式に参加することが、とても悔しくて仕方なかった。

いとこで、オーストリア皇帝のエリザベートの妹であるゾフィーと婚約するのだが、結局は婚約を解消する。それは映画の中では彼が同性愛者という形で描かれているのだが、それが納得いかない。何度もゾフィーのほうから「結婚はいつあげるの?」とリクエストされるのだが、「そのうち」という曖昧な答えを何度も出すことで、ゾフィーの父親が怒ったことが、より一層婚約解消に走ったことになっている。実際はどうなのかはわからない。このときの性的表現を、ゾフィーと結婚しなかったということと、かつて馬の世話をしていた家臣の1人に対して特別な感情を産むことになることで、同性愛者ではなかったかということを表現しているのだ。どこに惹かれたのかということは、映画の中では述べていない。なんとなく気に入ったから傍に置くようにして、そのうち仲がだんだん良くなるというありがちな描き方をしている。

その後、弟のオットー1世がキチガイになるのだが、それは戦争の後遺症によるもの。そのキチガイぶりを目の当たりにして、精神異常の世界に人間は陥るのは戦闘によるものだとより一層嫌気をさすことになる。

家臣たちは現実逃避していこうとするルードヴィヒに対して、「ルードヴィヒは政務を行うこと出来ないほどの精神異常者である」ということにして、王位から蹴落とそうと目論む。家臣たちはバイエルンの国家としてよりも、王が王らしく振舞わないことにイラついたことが原因だったようだ。最初は、精神病院化した城に隔離し、そこで異常病人のような扱いをする。こないだまで王だった人間をよくもまぁここまで虫けらのように扱えるなという、この突然の扱われ方の違いに、映画を観ているひともこころを痛むのだが、問うのルードヴィヒにとっても、こんなところで生きているのか殺されているのかわからないような生活を送るのは嫌だとして、湖に担当医者と行き、一緒に無理心中をするということで映画は幕引き。

若い頃のルードヴィヒを演じたザビン・タンブレアはすごいカッコ良いのだが、中年になってきたときのデブの姿になったルードヴィヒ役をしたひとは、やっぱり品がなさそうに見える。もともと、肖像画として残っているルードヴィヒの晩年の顔は、どこを向いているのか分からない。あの顔を忠実に表現している俳優だなと思った。個人的にはどうでも良いと思っている

映画はもちろん全面的にドイツ語なので、ドイツ語の勉強になるとは思うのだが、言葉が早すぎるために分かりにくい。そしてドイツ語もバイエルンの本拠地であるミュンヘンあたりで使われる上ドイツ語ではなく、標準語である下ドイツ語で話されているという点ではちょっと惜しいと思っている。

晩年は、戦争賠償金を支払うことで、国家としてのサイフが乏しい状態にはなっていたのだが、王は性懲りもなく、新しい城つくりにのめりこんでいく。そのうち家臣から「もう金が無いんです」と言われたときに「え?なんで?信じられない」と考えたとする俳優の表現が印象的。映画の中では、戦争に参加したのは自分が望んでやったわけじゃなく、乗せられて渋々言われたから参加するようにサインをしただけと思わせるような演劇をしていたことも、よく表現されていると思われる。

2012/02/12

ウィーン・小さな街物語(書籍)

筆者のご夫婦がウィーンを新婚旅行で行ったときの印象がとてもよかったため、そのまま再度ウィーンに渡り、そのまま居ついてしまったというから、それだけウィーンの街には魅力的なものがたくさん詰まっている場所なのだといえよう。本書は、観光ガイドによくあるような、その街に関する情報がつまったものなのであるが、1軒1軒の店についての詳細な情報を書いているわけではなく、ウィーン全体の街の様子やウィーン気質はどういうものか、そして、ウィーンに行ったら是非こういうところで何をしたらいいというような全般的なことを記載されたガイドブックだ。さすが、ヨーロッパの文化の中心地であったところの街なので、すべてのニーズに関しては満たされる場所なのだといえよう。それは買い物から芸術から自然まで含めてである。

こういう書物の場合、書いている人のバックグランドによって、同じような内容であっても全く内容が異なるように見られるのが不思議だ。この著者お二人は、文化程度がとても高いため、オペラや絵画、そしてダンスや陶器という、知識が無いと少し読みこなすには大変なのと、買い物1色でしか都市を見ないような馬鹿ねえちゃんには、この本は全く役に立たないと思われる。逆に言うと、これらの趣味があるひとにとっては、とても有益な情報が満載になっているので是非ご覧になったほうがいい。特に、ウィーン少年合唱団の記事なんていうのは、ほとんどの似たようなガイドブックには記載がされていない内容だ。これだけ世界的に有名なのに、歌っている少年たちのことについて言及して、引退後の人生にまで踏み込んで記載しているようなものは皆無だ。

本の中を見ると、結構カラー写真を豊富に使っているし、2005年に出版されたものだとはいえ、あまり見劣りしないような内容になっているので、いまこの本を参考にしてウィーンを訪れてもかなり役に立つだろうと思う。特に音楽に興味がある人はいい。別にクラシックの基礎を知っている必要があるとか、そういう意味ではない。クラシックの本場のような場所なので、それを体験したいという気持ちがちょっとでもある人にとっては、ここは理想的であり、その理想が実現化しているところなのがウィーン。それを上手に解説しているのがとても素晴らしい。素養と知識を持っていないと、簡単には説明が出来ないと思う。

筆者はウィーンの人になりきるように、表面的にウィーンの人と付き合っているのではなく、もともとウィーンで生まれて、ウィーンで育ったかのような振る舞いができるように現地でとても努力をされているようだ。あとから入ってきたアジア人が、世界的文化の中心地に現地の人のように振舞うのはとても難しいし、現地の人から見ても、いつまでもお客さんという扱いではなく、前から知っている現地の人という扱いとして認めてくれたというのは本当に努力したんだろうなと思う。そうじゃなければ、表面的に知りえるようなウィーンではなく、ウィーンの内部に入り込み、ウィーンの内面を紹介しているように思える。単に現地の言葉が話せるという程度ではこれは得ることが出来るものではないのじゃないかなと思う。

是非、ウィーンに行く前には他のウィーンに関する本と一緒に参考にしていただきたい。

ウィーン 小さな街物語
須貝 典子 (著), 片野 優 (著)
出版社: JTBパブリッシング
発売日: 2005/03/15

2012/01/11

ニコライ二世の日記

以前、オーストリア皇太子の日本日記を読んだときに、サラエボ事件で暗殺されるフランツ=フェルディナンドが日本にやってきたときの渡航日記の内容があまりにも素晴らしく、そして将来、オーストリア=ハンガリー二重帝国の皇帝になることが約束されたことは当然だったし、そういう人が生で書いた文章がとても繊細だし、詳細な視点を持っているし、感性が豊かだし、興味があるところはとことん掘り下げて追求しているし、どちらかというと興味が無いものは知るかボケーという感じのものがストレートに伝わってきたからだ。これこそ猫人間的視点で書かれた最高傑作の日記だとおもう。それも1冊の本になったときに、1つも追記や補足説明のようなものがなく、すべて日記をそのまま転記されているもの。フランツ・フェルディナンドが日本にやってきたときに、何を感じ、何を見て、日本をどう思ったかというのが本当に率直に書かれている。そして、なんといっても、当時の日本から見ると、オーストリアは超一級の先進国であり、オーストリアと比較してどうみても目下の日本に対して、まったく蔑視を持ったり、偏見な眼で観察していたというところが全く無いのがとてもいい印象だった。

皇帝になる素養が有る人は、もともと他国に対して尊敬の念を持って接するべきであるということを教育され、そしてすべての事象に対していい面として観察するように教わっているんだなということをここで知った。ということは、他の王家に属しているひとの日記というのも、似たような視点でモノを見ているんだろうと考えたのは言うまでも無い。一般的なヨーロッパのことを書かれたのでは、現代日本に住んでいる自分にとっては理解しにくい。やっぱり、フランツ・フェルディナンドのように、日本にやってきて、日本をどう見たかというのを比較したほうが理解しやすいかなと思った。

日本にやってきた王家のひとといえば、フランツ・フェルディナンドのほかに有名なひととして、ニコライ二世が皇太子だったときにやってきたという事実がある。彼は、日本滞在中に大津事件というものに巻き込まれてしまうのだが、きっとそのときにも日記を書いていたのだろうと勝手に想像した。

調べてみると、やっぱりニコライ二世も日本滞在中に日記を書いていたおり、それを1冊の本にして出版されていることがわかった。それが「最後のロシア皇帝・ニコライ二世の日記」である。書物への期待はフランツ・フェルディナンドの書いた内容に近いものが書かれているものというのだったが、それは見事に打ち砕かれた。

上記の本は、日本人学者がモスクワの古文書管理をしているところに足しげく通って、ニコライが書いた日記を書き写してきたものを、ダイジェストで紹介しているというものである。つまり、ニコライが書いた日記を原文そのままを書物に掲載しているというものではない。更に言うと、この学者もどきの人が、たくさんの注釈や個人の考えを、勝手な補足説明として記載しているものだから、テレビを見ている最中に、途中でCMをバンバン入れられているような感覚と似ていて、余計な説明要らないから、ニコライの生の声だけを聞かせてくれーと思うような本だった。

フランツ・フェルディナンドの日記の場合は、一字一句、毎日の日本滞在期間中のすべての日記を途中省くことなく記載しており、毎日書いた日記にしては、1日あたりの日記として書いている量はすごい量で、この文章を書くのに一体どのくらい時間を費やして書いているんだろう?と不思議になってくるものだった。だいたい、毎日宴会をしているような貴族の遊びみたいな日の終わりに記載しているんだろうけど、今の時代のように電子テキストで記載しているわけじゃないから結構時間がかったことだろうろ感心する。

ところが、ニコライの日記もおそらく本物の記載については、内容が濃いものだったと思われる。しかし、この著者が勝手にダイジェスト化して、著者が伝えたいことだけを書いていることなので、文章に勢いやリズムが途中で崩れるのである。おまえの感想や補足は要らないのだ。

更に言うと、日記というからには、滞在期間中を古い日付から順番に記載していくものかとおもうではないか。ところが、この著者が編集したニコライの日記集は、日付があちこちとぶっ飛ぶ。ある日記の中で記載した内容は、実はこの日にこういうことを書いていることから発生した思考なのだというような書き方をしている。そういうのは要らないのである。だったら、日本滞在中の日記だけではなく、数年前からの日記をずらずらと記載すればいいじゃないのか。せっかく講談社学術文庫から本を出版しているのだから、それなりにバカがこの本を読もうとしているわけじゃないんで、もっと読者に考えさせるような書き方にすればいいのにと思った。読者を馬鹿にしすぎている。

確かに、ロシア皇帝の情報というのは、ソ連が徹底的に破壊してしまったので、実はそれなりに残していないような気もするのだが、それでも自称「足しげく通って資料をまとめていた」のであれば、要らぬ情報を追加せずに掲載されてほしかったものだ。

ただ、この著者を通して知ったことは、ニコライが皇太子のときに日本にやってきて、日本のことを本当に楽しんでいたということもそうだが、結構遊び人で長崎では芸者といいこともしているし、部下のひとたちにも「ヤレヤレ」とお咎めなしにやっていたということは、たぶん日本に興味があったということもあったのだが、所詮東国の原始人的な扱いをしていたんだろうと思う。ただし、中国や韓国と違って民衆レベルで繊細でかつ文化高いものを持っていた民族性には驚いていたことに、日本に対する考えが変わったということらしい。

さらに、ニコライは大津事件という暗殺未遂事件を経験するのだが、これはモスクワに帰国してから死ぬまでずっと記憶とトラウマとして残ったようで、大津事件があった日付になると、毎年「今日まで生かせて戴いてありがとう」と神に祈っていたというのには驚いた。大津事件できりつけようとした日本人警官のことを恨んでいるようなことはせず、むしろ、自分を助けた部下とその警護をしていた日本人に対して感謝を常に持っていたことも驚く。それが毎年の日記に載っているというのがすごい。

そして、ニコライが皇帝として在任中、日露戦争が勃発する。日露戦争に関しては日本は総力をかけて戦争に望んでいたが、ロシア側は足並みが揃っておらず、だいたい軍のトップだったニコライ自体が戦争に乗る気がなかったというから笑える。これも軍部からの圧力でしぶしぶニコライが日露戦争に突入したということがわかった。もっと吃驚していたのは、戦争中だというのに、彼はいとこがいるギリシャやクリミアのほうによく旅行をしていたということ。皇族は戦争には関わらないということなのだろうか?この悠長さがロシアに死に物狂いの戦争をさせなかったガンだったのではないかと思われる。

日記というものを通してニコライの人間性を説明するにはおもしろい本だとおもうのだが、フランツ・フェルディナンドのような日記ではないというのだけは再三付け加えておく。両者の本を比較して読むととても面白いと思う。

最後のロシア皇帝ニコライ二世の日記
出版社:講談社学術文庫
著者:保田孝一
発売日: 2009/10/13

2011/10/09

軍事歴史博物館(ブダペスト)

ブダの丘にある大きな博物館ではあるのに、あまり興味がないのか、訪れる人が少ないところがある。それが軍事歴史博物館(Budapesti Torteneti Muzeum)である。入り口自体が、ブダの丘では裏側に存在するため、建物はわかっていたとしても、いったいどこから入館すればいいんだよー?と欲求不満で行くのをやめようとする観光客が多いのではないだろうか?

しかし、中の展示物は結構見ていて楽しい。個人的にはミニタリーオタクは当然涎モノで楽しいと思うのだが、服飾デザイナーのような人たちにも、かなり良い参考物件になったんじゃないかなと思っている。なにしろ、トルコ軍が攻めてきた時代から近代の軍服まで勢ぞろいだし、その時代、その時代に特色のある戦争グッヅや戦争を鼓舞するような身の回り品があったりするのを見るのも、平和な時代だからこそ笑って見られるものなんだろうなと感慨深い。

館内は有料であるので入館料を払って中に進むのだが、ここでは写真を撮るのは許可がある人だけじゃないと撮ってはいけない。カメラを撮る人は、入り口で撮影費用を700HUF払わないといけないのだ。それを払っていないと、あらゆるところで暇そうに立っている監視のおじさん・おばさんたちに「No Camera!」と怒られる。来場者数が少ないこの博物館は、エリアごとにほぼ担当の係員の人が観光客に付きっ切りで監視をする。ただし、カメラ撮影費用を払った場合には、金を支払ったと証明するものを見せると、今度は虫けらのように近寄ってこないし、相手もされない。好き勝手に撮影してーという感じで。この激しいギャップが面白い。

伝説の世界化としている、マジャール民族がハンガリーのカルパチア盆地にやってきたときの遠征の様子の模型もあるのだが、それはあまりこの博物館のメインではない。どちらかというと、この博物館はハプスブルク帝国時代から二重帝国時代を経由して、共産主義の時代くらいまでの時代を網羅している。超近代の兵器や軍事様子については全くここでは展示が無い。むしろ見せ場に値しないという感じだ。マリア=テレジアの時代あたりは、まだまだ騎馬および歩兵隊がメインの戦争をしていただけあって、人間くさい生々しい道具や、兵隊宿舎での様子、そして動きやすい服装をしているのが展示されているのがわかる。だんだん近代になってくると、飛び道具が発達し、さらには殺傷能力が極めて上がってくる道具が増えてくるので、戦争の規模も多き来る成るのは手に取るようにわかる。また、第二次世界大戦くらいになってくると、今度は戦争の行為だけではなく、戦争を助長させるようなマスコミと宣伝文句も軍事利用として発達してくる。ヒトラーの時代がまさしく代表的なものだと考えればわかりやすいだろう。ヨーロッパの戦争ばかりが中心になって展示されているところに、突如、日本に関係する展示物が出てきたりするから、見逃せない。ハンガリー軍の偉い人から日本に対して感謝状を贈ったときの日本語で書かれた巻物が飾っていたりするのである。どうやら日本近郊で軍艦を率いてやってきたときに、遭難をしてしまい、それを近くの漁民が助けたことによってハンガリー政府から送られたものらしいのだ。
軍服および勲章の世界に目を移してみると、やっぱり軍事関係者にとっては、勲章というタイトルがほしいがために、戦場では戦いに明け暮れ、戦争前の諜報戦では情報収集に命をかけたり、戦争になった時にいかにすばらしい成果がでるかを道具に願いを込めたりするようなことが起こる。メダルにはその功績を称えるためには十分効力が発することができるものだと言えるのだが、時代によってそのメダルのデザインがだんだん豪華になっているということもなんだかおもしろい。そして、階級がいろいろあることに気付くのだが、写真や絵画でみる、胸にたくさん勲章をつけている本物がこれなのかーというのを感慨深く思ってしまうのである。服装の変遷を見てみる。
現在の軍服は本当に機能的な性質を重視しているため、明細だったりセーラーだったりするのだが、昔の軍服は動きやすさというよりも、目立つようなデザインだったりして、ちょっと派手な舞台衣装というようなものだった。よく舞台劇で登場するような軍人の服装があるが、あれそのままを本当に使っていたようなので、こんなものでよく戦っていたなーと感心する。しかし、このデザインのまま現在の服装にした場合でも、軍事目的ではなくちょっと派手な服装という意味で転用できるんじゃないのかな?と思う点はたくさん見受けられた。すべてをコピーしてデザインするのではなく、服装の形だけをまねるとか、色合わせの部分をまねるとか、局所的に昔のスタイルを引用して作るというのはあるかと思う。まるで、日本の着物のデザインをベースに、それを洋装のデザインに取り入れるようなものだ。これって、銀河鉄道999の車掌か、もしくはベルばらのアンドレ?
軍事歴史博物館(Budapesti Torteneti Muzeum)
URL : http://www.btm.hu/
Address : Castle Building "E", Szent Gyorgy ter 2. Budapest, 1014
Phone : (36-1) 487-8800
Open : 10.00-18.00, Monday closed
Admission Fee : 1400HUF (Camera 700HUF)

ミュンヘン空港

ミュンヘンの空港に到着したときに、まずしなければならないことが今回はあった。それはミュンヘンからブダペストへ向かうための搭乗券を発券して貰うことである。成田では揉めに揉めた際に結果的にはミュンヘンより先のルフトハンザの搭乗券が発券できなかったからである。そういえば、ミュンヘンにシンガポール経由で到着したのはいいのだが、まずミュンヘンの地が、シェンゲン協定内の踏み込んだ最初の都市に当たるので、シェンゲン協定外の場所から来た人たちは、ミュンヘンで降りようが、ミュンヘンでトランジットして別の場所に行こうが、かならずここでパスポートチェックを受けることになる。つまり、ドイツ入国と同時にシェンゲン協定域内に入域したということになる。パスポートコントロールの係員もその辺もわきまえてチェックをするのだが、最近はいろいろと厳しくなったようで、必ず「最終目的地は?」と聞くようだ。ミュンヘンでもすべてのゲートでこの質問はしていた。もちろん、こちらはミュンヘンは単なる途中経過の場所なので、最終目的地である「ブダペスト」と答えると「おぉ!Enjoy!」と言われた。めちゃめちゃフランクじゃないか、係員!ついでに、一緒に同行していた友達はあまり英語が分からないので、係員の質問に対して「???」になっても困るから、「後ろの友達も一緒です」と一言付け加えておく。そうしたら、その友達の場合は「なにも聞かれなかったよ」だって。友達いわく、こちらが係員とごちゃごちゃ話をしていたので、自分も同じようにいろいろ聞かれるんだろうか?とちょっと不安になっていたらしい。心配する必要はないのだよ、うん。

そして次に搭乗券をもらうのだが、成田空港みたいにトランジット客用のカウンターがあるのかなーと思ったら、どこにもない。そうこうしているうちに、もう出口のところに出てきてしまった。これはまずいな?と思ったので、荷物を受け取る場所に、荷物が見つからなかった人たちのためのご相談口があったので、そこで搭乗券はどこでもらえるか?と聞いてみた。そうしたら、「あぁ、一旦出口を出て、カウンターで貰ってね」だって。そうか、もうここはドイツ国内なので出口を出ても、それは単に荷物受け取り場所からの出口であって、あんまり気にする必要は無い。つまりシェンゲン協定内に入ってしまったら、行き来は簡単なのである。乗り換え時間が5時間半もあったので、特に急いで搭乗券を発券する必要は無いのだが、それでもやることがないし、到着したのが早朝なので、ミュンヘン市内に一度出向いても、まだオクトーバフェストが開催されているような時間帯ではないので、全く無意味。となると、空港内でポカーンとすることしかない。以前、バルセロナに行ったときには、スペインの航空会社であるスパンエアを使っての乗り換えのときに、ネット上でのキャンペーンもあったのだが、20ユーロプラスして払うと、往復分でラウンジの利用が可能であったので、何時間でもそこにいても平気だなと思ったのだが、ミュンヘンではそんな優遇された待遇はない。しょうがないので、音楽でも聴いたり、ハンガリーのガイドでも読んで時間をつぶそうと思っていた。案の定、ブティックのような空港内のショップは全部まだ開店していないだった。開いているのは一部のカフェテリアだけ。それも全部のカフェテリアが開店しているわけじゃない。それだけ早朝すぎる時間帯での到着なのである。そんな何も無い状態のところで待っているのはかなり辛いと思うのだが、ご安心あれ。なんとミュンヘンの空港の搭乗口のあたりには、もちろん搭乗待ちの椅子がたくさんあるのだが、それと当時に、新聞とセルフで行うコーヒースタンドが用意されているのである。新聞は地元のミュンヘンの新聞。それも特別版ではなく、当日の最新版である。コーヒースタンドは、いわゆる、一杯ごとに抽出するタイプのコーヒーであり、それも種類が結構いろいろあるのだ。コーヒーが苦手な人用にはTパックの紅茶も用意されている。紅茶用の熱湯も出てくるようになっているのだ。これがあれば、別にカフェテリアなんか行かなくても全く問題なし。それも無料なんていうのはなんとありがたいのだろう。設備としては最高のシンガポールのチャンギ空港でも、さすがに無料で提供するということはしないだろう。あの国は金が入るものに対してわざわざ無料で行うことになんの意味があるのだ?と思うような国だからである。ミュンヘンを真似して無料で提供してくれたら、それは拍手喝さいを揚げてもいいと思うが、まず無理だろう。さて、そんな無料の設備が空港内にあって、見逃さない人種がいる。そう無料だと分かると群がる中国人観光客である。最初は「なんだろう、このスタンドは?」と遠まわしで見ていたのだが、だれか1人が試しに無料でコーヒーが出てくることがわかると、我もわれもと10数人が群がり始めた。それもぎゃーぎゃーうるさい。どうしてこんなにゴキブリが群がるような行動をするんだろうか、彼らは。早朝から嫌なものを見ちゃったなーと、気分がかなりダウンしてしまったのであるが、中国人のうるささから逃げたかったこともあったので、中国人団体客が来なさそうなくらい離れた場所まで遠ざかってみることにした。でも、自分たちが乗る飛行機が出発する搭乗口の傍であるのは言うまでも無い。

無料のコーヒーが傍にあり、のんびりできる椅子があれば、もうほとんどラウンジでのんびりしているのと同じである。ラウンジなら、さらに酒類や軽食もあったりするのだが、さすがにそこまで贅沢なことは要らない。だいたい御飯については、ブロイラーのように飛行機の中で眠い目を擦りながら食べさせられたから、いまは要らない。朝から酒というのも、飲兵衛の友達は飲みたかったらしいが、さすがに早朝から酒というのは辛いとおもうので要らない。

自分たちは何をしていていたかというと、結局、各自でガイドを見ていたり、無線LANも無料で使えたのでそれでネットで遊んでいたりと結構自由気ままに遊んでいた気がする。特にネットが使えるというのは便利なことで、あまりにも長い時間使っていたから、持っていたiPod touchの電源がなくなりそうになった。充電したかったのだが、どこに充電できるコンセントがあるのかもわからなかったので仕方ないし、だいたい充電しようにも、ソケットが違うし、iPod 専用のUSBの口がどこかに転がっているということはないのだろうから。でも、なぜか空港内の施設には、携帯電話やiPod用の充電できる設備があるというのが書かれていた。最後までどこにあるのかは分からなかったのだが。

もちろん、金があるひとはルフトハンザのラウンジ Senator Lounge を利用するのが良いだろう。自分たちのような貧乏旅行者にとっては、そんな高そうな場所にいくのはまず無理。金があるひと、会社の金で旅行をしているような人、そういうひとが行けばいいのであるが、ここミュンヘンに関しては特に自分としてはラウンジなんか行かなくてもいいなとおもっている。ただ、残念なことに、ミュンヘンでシャワーを浴びたかったな。こんだけ時間があるのであれば、眠気をふっ飛ばしたいということもあるし、確かに飛行機だけしか乗っていないから汗なんかかかないのだが、それでも気分転換にはなるので、シャワーを浴びたかった。それがミュンヘンの空港にはラウンジしか設備が無いのが残念である。まぁ、普通は我慢すればいいだけなんだけど。
ちなみにミュンヘン空港の正式名称は「フランツ・ヨーゼフ・シュトラウス空港(Flughafen München Franz Josef Strauß)」である。誰これ?なのだが、ドイツ統一前の西ドイツでは有名な政治家フランツ・ヨーゼフ・シュトラウスからの名前である。ミュンヘン生まれの大政治家。ドイツでは知らないひとは居ないくらいの有名人である。

2011/05/11

ウィーンからドブロブニクへ

ウィーンからクロアチアに行った今回、最初の土地はアドリア海の真珠と呼ばれているドブロブニク。ドブロブニクは海沿いにあるので、絶対到着前には飛行機の窓から見えるだろうというのは予想していた。

お昼の12時50分発オーストリア航空731便は、エアバスA321なので、3-3席で、まるでバスみたいな感じ。でも、乗る人は結構いるようで、ほぼ満員の状態でウィーンを出発しようとしていた。搭乗口前のところにいる乗客を観ていると、統一感がないというか、ドブロブニクになにをしに行くのかなというような人たちがたくさんいた。それに自分もふくまれているのはいうまでもない。ただ、意外にもアジア系の人がそこそこ乗っていたのには吃驚した。もっと少ないのかと思っていたからである。お昼出発の飛行機なので、なにか軽食でもでるのかなーとおもっていたら、袋に入った1個のりんごが配られていた。それを食べろということらしい。あとは飲み物のサービス。1時間くらいのフライトなので、ちゃんとした昼ごはんが出てくるわけがないとは思っていたが、まるでこれでは動物園の動物と同じみたいだ。

やっぱり予想通り、アドリア海のクロアチア沿岸を飛行機は通っていき、飛行機の左の窓からドブロブニクの旧市街の町がよく見えた。少し雲が掛かっていたのだが、それでも町全体が見られるのはとても素晴らしかった。似たような赤レンガの街が途中で見えたのだが、それは別の街なんだろうと思う。
ドブロブニクの空港はとても綺麗な空港なのだが、とても小さい空港でもある。飛行機が到着したあとは、車やバスで出迎えが来ているわけでもなく、ボーディングブリッジが出迎えてくれるというわけでもなんでもない。昔ながらの、タラップの階段を下りて空港ターミナルまで自分の足で歩いていくというスタイルだ。こういう田舎臭いところが残っているのはまた味があるではないか!

ウィーン空港

ウィーン市内から空港に向かうにはCAT (City Airport Train)が一番楽だ。20分おきに出発するし、途中でどこにも寄らないで空港まで到着するからである。オーストリア航空の航空券を持っている人は割引券が使える。改札は無いので、車内で車掌が検札に来たときに、航空券の半券と一緒に割引乗車券を見せればいいのである。さて、空港に着いたらチェックインカウンターに行くのだが、オーストリア航空に乗るのであれば、馬鹿でもわかる真っ赤なカウンター群のところに行くとよい。ウィーンからヨーロッパ各国に出発する飛行機の数が多いということもあるのだが、これほど1つの航空会社にカウンターを占有している数が多いというのもすごいものがあるというくらい、ずらーっと並んでいる。それも全部オーストリア航空専用カウンター。カウンター群の前には、自動チェックイン機もあるので、それを使い、席だけはチェックインをして、荷物だけをドロップするようにするのが普通なのであるが、たいていの人はそれが面倒くさいのか、荷物をもってチェックイン作業をせずにカウンターに並ぼうとする。しかし、だいたいが、真っ赤な制服を着た空港職員に「先にチェックインをしてからカウンターに並んでね」と促されている。そう。カウンターは荷物をドロップするだけに存在しているのである。だから、すごい長い列ができていたとしても、その列の進み具合がめちゃくちゃ早いのである。ただ、中には、チェックインしたときの席が気に食わないので変えてくれーというひともいるのは当然だ。チェックインをしたら、そのまま搭乗口のほうに普通に行くのもよし。しかし、なにかお土産を買おうとした場合には、不思議なことに、空港の到着ロビーのほうが出発ロビーよりモノの値段が安く、出発ロビーのほうが搭乗口コンコースより安いという現象に気づくだろう。だから何か決まった製品を買う予定であるのであれば、到着ロビーのフロアにある店で買ったほうがいい。

ちなみに、雑誌類も食べ物も上記の現象に該当する。特にクロアチアのガイドブックを買い忘れてしまって、到着ロビー、出発ロビー、搭乗口エリアの3種類の場所を見たときに、同じ本なのに値段がぜんぜん違ったのには吃驚した。しかし、お土産の種類としては、搭乗口エリアのほうが断然多い。ウィーンで買うとしたら、マンナーのウエハースと、ザッハトルテはお土産として最高だが、これらは搭乗口エリアで買ったほうがいいと思う。しかし、マンナーだけでいえば、マンナー専門店が実は空港内にあるので、そこで買ったほうが良い。普通ならピスタチオ味のオーソドックスのものしか置いていないが、この専門店ならレモン味やら別の味まであるので種類が豊富だ。ザッハトルテは、2個入り32ユーロのものが一番手ごろなのかなと思う。これ1個だけでもかなり満腹太郎になれるだろうと思うのだが、家族4人で半分ずつ食べてもいいし、お土産に渡してもいいだろう。なにせ、本場のザッハトルテなのだから。やっぱりホテル・ザッハーのザッハトルテは最高。チョコレート嫌いでもこれだけならちょっとは食べられる。なぜだろう?気分の問題?ところで、オーストリアはシェンゲン協定に加盟している国であるため、同じシェンゲン協定の国にいく場合には、全くパスポートコントロールを通ることはない。しかし、オーストリアからクロアチア、そして日本に行く場合には、クロアチアと日本がシェンゲン協定に入っていないため、必ずパスポートコントロールを通らないといけないのだ。ただパスポートにスタンプを押されるだけだろ?と思うと何の考えもないと思われるが、実はシェンゲン協定外に行くためのターミナル側ではお土産屋が本当に貧相である。お土産らしいものが売られていないのだ。だから、このパスポートコントロールを通ってしまったあとに「買いたいものがあったのにー」と思った場合には、あとの祭りだ。是非パスポートを出す前にもう一度改めて買うものはなかったかを確認したほうが良い。

もっと裏技をご紹介。クロアチアのザグレブからウィーン経由で日本に帰る場合、本来ならウィーンの空港ではパスポートコントロールを受ける必要がなく、そのまま日本行きの搭乗口に行けばいいだけだ。もちろん、それはクロアチアでウィーンから日本行きの搭乗券を持っている場合による。しかし、それではせっかくのウィーン航空での買い物が全く楽しみがない。パスポートコントロールの向こう側、つまりオーストリア国内側に行くと、お土産がめちゃくちゃたくさんあるので、ここは一度オーストリア国内に入国するようなことをしてみよう。つまり、お土産を買うためだけにオーストリアに入るのである。別にパスポートコントロールのところでは怪しまれることはない。正しい入国方法で入国しているのだから。また、オーストリア入国時には特になにも書類に記載することはない。だから、なおさら気軽に入国をすることができるのである。入国したら、そのまま荷物を受け取るふりをしてそのまま到着ロビーに行っちゃおう。そこで、到着ロビーで買い物するのもよいし、また出発ロビー経由、出発搭乗口コンコースに行ってお土産を買うのもいいだろう。搭乗券を持っているのであれば、出発搭乗口コンコースをうろうろしても全然問題なしだからだ。

しかし、帰国の便としてウィーンから日本に戻る際に、ウィーン空港でお土産を買おうと上述の方法をとるために出発ロビーに行ってみると、異様に人がたくさんチェックイン待ちになっていた。あとで詳細については記載する予定だが、このとき、ウィーンの空港ではチェックインシステムが空港全体で故障してしまい、一時期チェックイン処理ができなくなってしまっていた。そのためにめちゃくちゃたくさんの人が列を作って並んでおり、どの人もうんざりした顔をしていた。
そうそう、忘れるところだったが、ウィーンの空港にはなぜかアダルトショップが存在する。それも搭乗口エリアにだ。売り場は他の店のど真ん中ではなく、一番外れに存在するので、ウィーンの空港全体をウロウロすることをしなかったら、絶対見落としてしまうような気がする。売られているのはビデオや小道具、そして下着類。興味がある人は入店してください。なお、店内での撮影は禁止です。

ベートーベン像(ウィーン)


市立公園ではないところにあり、ホテルから近いところにベートーベン像が建っている。このベートーベン像は、像の本人が世界的に有名なので、これを見るためにやってくる観光客は多い。しかし、なぜベートーベンが選ばれて像を作られたのかがわからない。確かに時代を代表とする音楽家であることは確かだった。
明石出身のおっさんで、50年間議員をやっていると国会議事堂内に銅像を作って貰えることを唯一の生きがいにしていた原健三郎元衆議院議長みたいなひとは、後世まで名を残したいがために、何も成果を出さないにも関わらず議員であることに固執していたが、ベートーベンは後世まで名を残したいと思ったか、それとも像を建ててくれと周囲の人にお願いしたのかといったら、絶対そんな思いは無かったことだろう。
自分の像を建ててくれといって立てられた像を見に行く人は居ないが、後世の人があの人は偉大な人だという意味で立てられた像は、ずっと後になってもいろいろな人が訪問に来て尊敬の念を集めることだろう。

市立公園(ウィーン)

駅の前にもなっている市立公園(Stadtpark)はウィーン市民の憩いの場になっている。駅を降りて右手にいくと市立公園の入り口にぶち当たり、用水路かな?というようなつくりになっているウィーン川を右手に見ながら公園の中に入っていってみよう。

もともとウィーン市街を囲むように建っていた壁をぶっ壊して、シューベルトリンクの大通りにしたところと、ウィーン川の間にこの市立公園を作ったのが、フランツ・ヨーゼフが皇帝だった時代の1862年。ウィーン最初の市立公園として作られたところ、なにを作っていいのかわからなかったのか、あちこちに銅像をおくようになったのが特徴かもしれない。園内には有名どころだとシューベルトやヨハン・シュトラウスの像があったりする。しかし、その像があったとしても、本当に像が置いているだけというものとして認識されているのか、だれも像に対して写真を撮ったりしようとしているひとが全く居ない。所詮、生きているものじゃないでしょ?というのを言わんばかりの扱われ方だ。でも、そんな銅像をみるよりも人工的に作ったものではあるのだが、街の喧騒が全く聞こえないくらい広い公園で、真ん中に大きな池が用意されているところにいってほしい。ここでたくさんの鳥たちが水浴びしたりしているのを見ることができる。アヒルなのか鴨なのか全くわからないが、たくさんの鳥が好き勝手に池で遊んでいるのが見える。そして、その池を挟んでたくさんの木々と芝生が緑を覆っているのを見ているだけでも和むではないか。だから、この池の周りには、その日、のんびり過ごしたいと思っている人たちが、子供連れも含めて好き勝手に遊んでいる。それにしても、鴨とかアヒルは柵がないので、どこかに行ってしまわないのかな?思うのだが、ご心配なく。全く放し飼いでも問題なし。