
皇帝としては、当時として当然の生業だったのだろうとおもうのだが、宗主国のフランスに若いときには留学しており、その時にフランス文化に触れることにより、ベトナムの文化とフランスの文化を融合するような陵墓を生前から命じて作らせていたのが、いまのカイディン帝廟である。皇帝自体が幼いころから病弱だったために、いつでも死んじゃうかもしれないという思いから、皇帝に就いたあとの1920年になってから作り始めた。だが、皇帝が無くなった1925年の段階になっても実は予定していた帝廟は出来ておらず、なんと15年もかかった1935年に出来上がったという。それまでは当然屍は、棺おけに収められていたのだろうが、その棺おけをどう置いていたのだろうか気になる。
ベトナム文化の典型的な風格というのは、この帝廟を見る限りにおいては、どこにも見受けられない。ベトナム風というと、木材と瓦屋根の色彩豊かな中国風の建物が通常なのだが、ここではそんなものは一切無く、全面的にコンクリートで出来ている。タクシーで乗りつけた入口から、いきなり数十段階段が出迎えてくれるのだが、ここからもうすべてコンクリートなのである。階段は2列になっており、真ん中にもやはりコンクリートの仕切りがあり、狛犬や獅子のような守り神が備わっているところがいかにも皇帝の墓というのがわかる。そして、階段がいきなり廟まで続いているというようなつくりになっていないところが、じれったい感じがする。中間に踊り場のようなものがある。そして、その踊り場に入るところに、簡単な門があるところが面白い。この門が、一番下の階段に備え付けているのであれば、いかにも門だというのがわかるが、中間地帯にあるのが面白い。この中間地点から廟なのだという表わしなのかもしれない。














壁や柱を見れば、天井が高く見せるためなのか先が細くなっているようなつくりに成っているのはまさしく教会と同じつくりである。そして、ギリシャ風の柱の形をしているのも、まさしくキリスト教の教会だ。皇帝はフランス留学の際に、キリスト教の文化に触れて、西洋の良い所だけを取り入れたのだろうと思う。








別室に行くと、カンディン皇帝の凛凛しく立っている銅像がある部屋に出くわす。全体的に埃だらけになっているので、もっと管理を徹底して欲しいなとは思うのだが、そこはベトナム人に文句を言っても無理なものだ。もう少し対面的なことに気をつけ、観光収入としてこの場所を使うという努力を怠らなければ気付くことだろうと思うが、それまではベトナム人のメンツを傷つけることになるために、あれがダメだこれがダメだとは直接言わないほうが言い。むしろ褒め殺すのがいいのである。そこでベトナム人に自らで理解して貰うというのが一番言い方法である。面倒くさいがこれで双方の会話と体面性が保たれるのであれば、面倒くささは惜しまないほうが良いだろう。





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