2012/10/11

コーヒーショップで大麻を一服

大麻というと、なにやら廃人になるための手段の1つというイメージしかないのだが、たぶん、それは大麻のことをあんまり知らないからなんだと思う。ただ、大麻について、本当にダメなものなのか、それともストレス等を発散するための珈琲と同じような嗜好品なのかというのを問われると、本当のところはどちらなのかというのはよくわからない。わからないという状態では、大麻を麻薬の一種に位置づけて、これを利用する人はダメなひとであるという、短絡的な判断はしたくないところだ。麻薬という一言で片付けられると、なんでも麻薬に入ると思うからである。それはアルコールだって、そうだろうし、タバコだってそうだろうし、珈琲だってそうだろうし、常習性があるかないかということも1つの麻薬かどうかという判断手段かもしれないが、それなら常備薬になっているようなものは麻薬じゃないのか?といわれると、実にその判断が分からない。だから、大麻を利用するということ自体がどうのこうのというよりも、大麻を使っている人たちでしか知りえていないことや、大麻利用者では常識と思っていることというのは、大麻非利用者からすると、全く未知の世界なのである。未知の世界というのは、無理やりこじ開けて中の様子を見るか、それともみないで良いものは見ないで通り過ぎたいかというのも、個人の主観や考えによるところだろう。

自分は大麻を吸うことは無いが、大麻の言葉だけで感じる、勝手な妄想というのは一度棄ててみたいという感じを持っており、大麻を吸ってラリっているひとたちの幻想の世界というのがどういうものなのかということも含めて、大麻全般のことを知りたいと思っていた。とは言っても、分かりやすい本、それも常識に基づいて淡々と事実を紹介しているような本がなく、ラリった状態で書いただろうというような内容の本しか知らなかったので、なにか良い本がないか探していた。

「コーヒーショップで大麻を一服」は、大麻大好きの愛好者が書いたものであるため、大好きな大麻をいろいろ紹介してくれている本だった。ただし、多少、大麻についての予備知識がないと、書いている内容が分かりにくいという点は否めない。何でもそうだとおもうが、その分野では当然と思われて使っている単語というものは、未知の人にとっては全く検討もつかないモノであるため、これには解説が欲しかったところである。しかし、全く解説が無いというわけじゃない。本文の下に、分かりにくいことや補足しておくべき情報については欄外という形で説明が書かれているのである。その説明でもわからないものは多々ある。

大麻といったらアムステルダムとネパールが本場だと思っていたのだが、それだけじゃなく、大麻自体は結構いろいろなところで少量なら解禁というところがあるようで、いろいろな場所に出かけて、大麻を吸いまくって、種類や味や環境についてレポートをしているというものである。決して、大麻を吸ったことで、自分が見えてきた幻想的な世界のことについてレポートしているというわけじゃない。幻覚の世界は、他人に理解できる範囲を超えているからだ。

オランダに行くと大麻の本場であるかのように、コーヒーショップがたくさんある。本の題名にもなっている「コーヒーショップ」とは、オランダでは大麻吸引場兼売り場のことである。決して、コーヒーを飲んで談笑するような場所ではない。そういう喫茶店というのはオランダではカフェである。だから、道端で「この近くでコーヒーショップはどこにありますか?」なんていう質問をした場合には、普通に大麻を売られているところを紹介されるのだが、これはオランダではあたりまえ。他の国ではそういうのは無い。そして、オランダの街中の道を歩いていると、大麻を吸っているまたは吸ったあとの匂いが結構分かりやすく臭ってくる。大麻を吸ったことがなくても、あの甘ったるく、そしてタバコとは違うような匂いというのはすぐに分かるというものだし、別にそれが不快な臭いに感じないから、大麻を吸う人の気持ちも分からなくも無い。タバコを吸う人の気持ちは全くわからないし、あんな臭い匂いのものをなぜ嗜好品として吸い続けるのかがわからない。嗜好品というのは何がその人の高感度をあげるポイントになるのかわからないから困るのだが、タバコをそのポイントに上げる人は個人的にはわからない。たぶん、それは大麻を吸っている人に対する一般人の主観と同じなのだろうと思う。

大麻はやっぱり天然であり、太陽の光をたくさん浴びているものが絶対良いといわれている。たまに、大麻の種を日本に持ち込んで、押入れなどの人目につかないところで、始終電気をつけて擬似太陽とみなして育てている人がいる。それでも育つようだが、やっぱり天然の太陽を浴びて育てているのと、擬似太陽とでは、育ったあとの葉っぱとしては全然味が違うようである。見た目は似たようなものでも、全然品質としては違うみたいだ。これは、天然ハマチと養殖ハマチの違いと同じなんだろう。そういう違いもこの本を読まないと知ることは無かった。

大麻解禁を望んでいる人たちがこのほんの中では出てくる。タバコやアルコールは習慣的中毒を喫煙者にもたせる。もちろんシャブも同じだ。大麻の場合は、習慣性要素を含まないために、タバコやアルコールを飲むひとよりもずっと実は健康的なのであるということを主張している。これもどこまで本当なのかわからない。大麻が習慣性を生み出さないかどうかはその人の意思次第だとおもうが、タバコやアルコールのように、しばらく吸ったり飲まなかったりすると、イライラしてくるというようなことは大麻の喫煙者にはないようだ。なければないで生活ができる。あればあったでより楽しい生活が出来るという。ここで言う楽しい生活というのは、辛いことを全部忘れさせて、現実から逃避させる気分になれるということなのだろう。シャブの場合も同じような効能はあったとしても、副産物として中毒性もあるし、体を蝕んでいくという悪影響がある。葉が抜けるとか、髪の毛が抜けるとか、幻覚を常に見ているとかなどだ。ところが大麻にはそれが無いという。

じゃ、なぜ大麻は禁止されているのか?アヘンは中毒性があるためにシャブと同じように禁止されているのはわかる。大麻の場合はわからない。そしてタバコを禁止せずに大麻だけは禁止しているのは何故か?喫煙者・非喫煙者の誰もがたぶんまともに応えられないのだろうと思う。この本の筆者やその支持グループは、この問いに対して大麻が禁止される理由がまったく見つからないと主張する。世界各地でも少量の個人利用であれば所持しても全然問題ないというところはたくさん出てきた。宗教的儀式には大麻は欠かせない物質である。キリスト教会の聖香や神社などの護摩焚きなどには大麻は使われている。だが、それは見なかったことにするのか、存在しないことになっているのか、よくわからないのだが、一般人には知られていない。大麻はなにか一般正常者と呼ばれるようなひとは触れてはいけないものに神格化されてしまっている感もある。

本を読んでみて、結果のところ、大麻の大枠についてはなんとなく理解できた。決してこの本は大麻をみんなで吸ってみようというようなことも書いていないし、大麻のことをみんな理解してくれというようなことも書いていない。大麻の事実と喫煙者からみた大麻に対する思いだけは読み取れる。そして、大麻を取り巻く環境についても分かった。意外にオーストラリアが大麻大国であるということがショックだった。よく、オーストラリアに留学して帰ってきた人が大麻を吸った経験があるという話を聞くのだが、それはオーストラリアが大麻は一般的に手に入りやすいからなのだからだ。普通では知ることができないことを書物を通して知ることが出来るというのは、1つの有効な手段だろう。そんな本に出合えたという感じだ。

コーヒーショップで大麻を一服
著者:久保 象
単行本: 220ページ
出版社: データ・ハウス
発売日: 2007/9/7

空港・航空券の謎と不思議

ノーマルの航空券なんか一度も使ったことが無いのだが、格安航空券もいろいろな種類があって、それは航空券に記載されているとは言えども、航空会社や旅行会社に勤めていないと、記載されている格安航空券の利用条件の詳細についてはまったく知るよしもない。だいたい、格安航空券だからといって困ったことは数回しかないが、飛行機が飛ばなくなったときくらいなわけで、普通に旅行をしている分には、同じ飛行機に乗っているのに、隣りの人が買った航空券の値段と自分の航空券の値段は違うなんていうのは、当然あったりする。これが、シンガポールのように、航空会社で購入しても旅行代理店で購入しても、価格コントロールされている場合であれば、誰がどこで買っても同じ値段というのは当然だということになるだろうが、日本は自由経済なのでそんなことはない。

ちょっとは航空券についての知識も知っておこうかなという程度で、ebookoffで100円で買ったのが「空港・航空券の謎と不思議」という本だ。航空券の知識だけとおもったのだが、そういうのがなかったのが残念。たぶん、航空券だけだったら本になるほどの情報がないのだろうか?

本の内容は豆知識集のようなものなので、特に専門書に対して気合を入れながら読むということは全く無い。お気楽に寝転がりながら読んでいればいいものなのはありがたい。たぶん、行き帰りの1往復の通勤時間でかるく読めちゃうというものだ。そして、内容は1問1答のQ&A形式になっているので、気になっているジャンルだけ読むというのもありだろう。

個人的には航空券のことを知りたかったのだが、大半は空港に関する知識集になっているのが残念だ。空港とは自分にとってバス停や駅のようなもので、特に空港になにか特別な思いがあるわけがないので、あんまり興味がなかったのだが、空港には実は機能として数種類に分けられているという情報は知らなかった。軍用空港と民間空港というような区別かとおもっていたらそうではなく、それ以外にももっと詳細な区別があるようだ。それは本を読んで貰えればいいわけだが、ただ、それを知ったところで所詮「ふーん」としか思わないから、知識の本を読んでもなんの役にも立たないものだった。

じゃ、肝心の航空券のことはどうなっているのかというと、この本が記載されたときが随分前のことなので、いまではありきたりな世界一周チケットやら、同じアライアンス系統の航空会社を使った場合での乗り継ぎについてとか、LCCってなにかなんていう、もう誰でもいまなら知っている内容というのが書かれているので、情報がすごい陳腐化されていたのにはガッカリ。だいたい、最近は航空券なんて、ほとんどEチケットになっているので、昔みたいに厚紙のような航空券をパスポートと一緒になくさないように持ち歩くということを全くしなくてもよくなったわけだが、Eチケットになると、過去に複雑怪奇に書かれていた、条件に関する文言は全くなくなってしまったのは惜しい。だから、居間になってチケットの条件を知ろうと思っても、特に知る必要は無いということにも繋がるし、本に記載されていなくても、いまでは全く支障が出てくるわけじゃないということにもなるわけだ。

ということで、こういう情報が古い本を読むときには、最新情報も知りつつも、基礎知識を得るためのものと考えて読み始めるほうが良い。10年遅かった気がする。

空港・航空券の謎と不思議
著者:谷川 一巳
出版社: 東京堂出版
発売日: 2008/08


世界最悪の鉄道旅行「ユーラシア横断2万キロ」

旅行記・紀行文というのはそれぞれの筆者によるカラーが出てくるものであり、読者がその作品を読んで、疑似体験を目を通して行い、そして感動を得たり、共感を得たりするようなことができたり、あとは参考になるような情報を得られるというものであれば、その作品は良いとおもう。が、何のためにその旅行をしたのか、読んだあとでは何も残らず、嫌な後味だけが残るという不快極まりない本も中には存在する。

それが今回紹介する旅行作家・下川裕治氏の「世界最悪の鉄道旅行 ユーラシア横断2万キロ」である。上述のようにいわゆる「いまいち」という評価になってしまった理由は後で記載するとして、この本で書かれている内容に付いて、簡単に記載したいと思う。題名に「ユーラシア横断」と「鉄道旅行」というようなことを書かれていた場合、だいたいの場合は「シベリア鉄道でも使って行ったのかな?」と思うに違いないのだが、この人の旅のルートは全くそれとは違う。ユーラシア大陸の東の端から西の端まで行くという点では類似しているとは言うものの、ロシアのソヴィエツカヤ・カヴァニ操車場からポルトガルのカスカイスまで電車で乗り継いでいくという。それもすでに長距離列車として確立しているシベリア鉄道を使っていくというのではなく、かつてのシルクロード交易と同じように、中央アジア地域を通っていくというのだから、恐れ入る。

日本人にとっては一番謎だし、無知の地域である中央アジアは、昨今ではようやくカザフスタンあたりが直行便が出来たことでその地名は少しは知られることとなったのだが、日本人の多くの知識の中では、中央アジアは文明がなく、旧ソ連邦を構成する衛星国のあったところであり、元王朝から生まれた4つのハンのうちのいくつかがあった地域であるというくらいしかないし、今では独裁政権がある国家が存在している国ばかりだということくらいしか追加情報がない。さらに言うと、ネットでちょっと検索をかけても、それほど情報が載っていないのが、それが中央アジア。一番情報が少なすぎるので、どこがどうなって繋がっているのかというのは、本当に詳細に、かつ、たくさんの情報から正しい情報を探し出さないのが苦労するところだろう。

この本では、何日かかるのか分からない列車の旅、そして、簡単にはいかないだろう鉄道の接続、それから、国境を越えるたびに検問があるのが普通であり、ヨーロッパのような陸続きではあるが、シェンゲン条約によって国境を越えるにもなんの審査もないようなところに慣れていると、国内旅行のように感じるが、普通に国境を越えるときに、パスポートにスタンプを押されることで、ようやくその国に滞在や通過することが許されるという自覚が出てくるものだが、そういう気分を感じることが出来たというのを紹介しているのがこの本である。

そして、鉄道と鉄道の接続が日本の田舎を旅行するよりも大変だというのは伝わってくる。なにしろ、日本の鉄道は世界一時間に正確に運行されるものであるために、何時に着くかというのは絶対情報として乗客は知ることができるし、それを元に違う電車に乗り換えるということは可能なのだが、世界各地では、到着すればラッキーであり、時間通りに到着するなんて宝くじに当たるより難しいといわれているくらいなのだから、時間に余裕を持って次の電車の接続を考えなければならないという辛さはあるのだろう。

と、ここまでは大変な旅をされたんだなーという同情心が出てくる範囲である。

しかし、ここからは批判したいことの塊になってしまうし、その批評を見ると、きっとどんだけつまんない本であり、ワクワクしない本であるかというのがわかるかもしれないので、未読のひとにとっては、読む前から読む気を無くさせる不愉快な感想文だと思われても仕方ないと思うが、自分の記録としてこれは残しておきたい。

さて、まず最初のツッコミは、列車旅行を題材とするのにも関わらず、列車に乗車している間の様子について全くなんの文章もないのである。確かに「コンパートメント形式だった」とか「女性車掌がお湯を持ってきてくれた」というようなつまんないコメントは載っている。山手線のようなせいぜい長くても1時間程度しか乗らないような列車であれば、特に列車に乗ったからといっても、コメントしようもないとおもうのだが、1度乗ったら何時間も電車に揺られているような情景があるわけで、それは車内および車窓からの景色からの様子というのをいかようにも多角的な視点でなにか書けると思われるのだが、筆者はとても視点が狭いのか、列車に乗っている様子を一言「苦痛だ」ということで全部切り捨てている。その「苦痛である」というコメントに、読者に対して一種の同情心やら同意を強制的に求めているように思えて仕方ない。皆まで言わなくても、やることがないような列車の中で、ただ単に座っているだけの列車の旅行なんてツマンないこの上ないとでもいうのだろうか?だとしたら、この筆者は最初からそんな苦痛になることが分かっているのにも関わらず、ただ単に自分が本を書くためという目的のためにだけで、おもしろくもなんともないような列車に乗ったということを安易に示しているだけでしかないである。だったら、最初から乗るなよーと言いたくなる。列車に乗って、適度な揺れに心地よさを感じ、車窓の風景に対して、いろいろな知識を駆使して薀蓄を紹介してくれた旅行作家の故・宮脇俊三氏がこの筆者の作品をみたら「くだらなすぎる」ときっと切り捨てることだろう。

そして、随所に出てくる貧乏臭い表現。自称・バックパッカーなのかどうかしらないが、カメラマンを随行させて列車の旅をしていること自体で、もうこれは取材旅行であるわけで、あとでどうせ経費で落とせるんだから、そこでケチって何をしているんだろうと思うのである。車内に持ち込んで食べるための食糧などについての表現が出てくるのだが、これが金には糸目をつけず、現地でしか買えない様なもの、目に付いた変なものなどなど、あとで本にすれば良いじゃないのかというようなものを紹介しつつも買ったらいいのに、それが一切なく、日本で生活しているときに食しているものと同じものを現地で探そうとし、それを買いこんで腹を満たすというツマンナイ選択をしているということもあるのだが、なぜかしょっちゅう、カップ麺のことばかり出てくる。カップ麺なんて貧乏人で、不精なひとが選択する代表的な食料ではあるが、それが最高の食料だというような表現をしていること自体が、もう読む気をなくす。食べ物というのは、その土地、その土地で絶対美味いものがあるわけで、現地でしか手に入れられないようなものを探せばいいのに、その労力をケチって言うこと自体が、もうこの人は本当は旅行が好きじゃないんじゃないのかと思えるほどだ。

アマゾンなんかの批評にも書かれているのだが、この人の旅の計画は、綿密さが全く無い。上述の通り中央アジアを経由するような場合は、事前に、もうこれ以上の情報は手に入らないというくらいの十分な情報を持っている必要があるのだが、それさえも惜しんでいる。ちょっと調べてみて見つからなかったから、現地に行けばなんとかなるだろうというような安易な計画をしているのである。旅行代理店を経由して旅程を考えているようなのだが、旅行代理店にパックツアーでも申し込むような感覚で対応を求めていたことがそもそもの間違い。切符の手配をするところが旅行代理店という位置づけでしか考えなかったことが、あとで現地にいったときに、路線が廃止されていたとか、接続に超長時間待たされることになるとか、列車が別の列車に寄生するように連結する等等のような、調べればわかるということを事前に知らないで列車に乗っているんどえある。旅行代理店は、チケットを取るためのところであるのはもちろんだが、旅程に対してどのようにすればいいのかというコンサルティングを行うところでもあるのである。この著者には「用意周到」という文字は持っていないんだろうと厭きれた。どうせネットで知り合ったのであろう、中途半端な現地の友人と言われるようなひとを捕まえるのは良いのだが、その人を伝にして、現地の足らない情報を仕入れるように努力すれば良いのに、こと、鉄道に関しては駅にいけばすべての情報が集積しているだろうという、東京の電車の事情と同じようなことをしでかして、駅員にスケジュールと行程について相談をしている。これ、末端の事務員が切符を売るという仕事以上のタスクを求めること自体が間違っている。それこそ、現地にも旅行代理店が存在しているわけで、なぜそこに行かなかったのかがわからない。おそらく、この筆者は、現地の旅行代理店にコンサルティング兼切符の手配をした場合には、本来の鉄道旅費以上のものを支払わないといけなくなるのではないかという、ここでもつまらないケチなことを言い出しているんだろうと思われる。それを文字を通して読めるところがいやだ。

さらに、題名としてユーラシア横断と述べているのであれば、中央アジアでの混乱ぶりを記載しているのは良しとしても、トルコ以降ポルトガルまでのヨーロッパに入ってからの記載が、あまりにも全く内容が無いくらいすっ飛ばしているところも解せない。滞りなく列車は進んでいくことができたということが、きっと筆者の感情にはなんにも残らなかったのだろうと思う。もちろん、それは車窓からの変化に富んだヨーロッパの景色さえも、彼にはなにも映らなかったのだろう。つまり、この筆者は、「とりあえず中央アジアを列車に乗っていれば、いろいろな混乱ぶりに遭遇できるだろうし、それをおもしろおかしく文章化することが出来るだろう」という単純なつまらない名声or期待だけのために、あの長距離の列車を乗り継いだんだろうと思われる。中国大陸および中央アジアのなかを通っているときの、しっちゃかめっちゃかな状態を読んでいるときには、多少ムカつくところは出てきたとしても、なるほど結構いろいろなことがあるんだなーということがわかるのでとても楽しめたが、ヨーロッパになったとたんに、行程2000kmあたりが10ページくらいで終わっているなんていう書き方は、もうトルコに入った途端に読む必要がないと言っても良いだろう。

諸所に「よくわからない」とろくに調べてないのを露呈するような書き方をしているところがある。帰国後でもいいが、あとで調べた結果を追記して、列車が通っている線路にまつわる歴史・文化・背景とうとうの情報を記載すればいいのに、それを怠っているんじゃ、単なるまともな職についていない中年バックパッカー旅行記でしかないわけだし、これでよくもまぁ金を取って読ませようと思ったとあきれる次第だ。

世界最悪の鉄道旅行 ユーラシア横断2万キロ
著者:下川 裕治
文庫: 396ページ
出版社: 新潮社
発売日: 2011/10/28

ミッフィーの本

ユトレヒトにあるディック・ブルーナ・ハウスに行ったときに、ミッフィーのキャラクターは知っていたけど、作者も知らなかったし、ミッフィーが「お話」のある本であるということもしらなかった。まるで「リラックマ」のキャラクターに対するものと同じである。しかし、ミッフィーについてのことを含めて本全般にことを良く知っている友人がいて助かった。ミッフィーは小さい子供が読む本であり、結構大人が読んでもうならせる内容だったりするものであり、たまにブラックなミッフィーも出てきたりするから面白いというもの。

かわいいだけのミッフィーとおもっていたのに、これに「ブラック」が付くとなると、俄然、それはどういう話なのだ?というのが気になるというもの。ただ、その「ブラック」という程度というのが、ミッフィーがいきなりグレるとか、ミッフィーが友達を殴るとかそういうアナーキーなものではない。ミッフィーが友達と遊んでいるというような可愛らしいところだけを話にしているのではなく、死と直面するという話も堂々と紹介しているというものがあるというものだった。そういう話がプリティキャラクタで紹介されているなんていうのは、想像できなかったので、どういうものか見てみたかった。リラックマでいうところでは「子リラックマが死んじゃった」という話を書いているようなもんである。日本では絶対こういう話を子供が読む本の題材にすると、どこかのクレージーなPTAのババァたちから不謹慎だというようなクレームを出版社と作家につけてきて、出版社と作家が謝罪をするという意味不明なオチに陥ることなんだろうが、死についても生の反対で避けては通れないものだから、題材から削除するということ自体がおかしいのである。

ディック・ブルーナ・ハウスに行ったときには、同じ話の物語を複数の言語に翻訳されたバージョンが売られているのは知っていたので、そこでこの死について書かれた本「ミッフィーのおばあちゃん」の各国語版を買ってみた。

今回購入したのは、オランダ語、フリースラント語、中国語の言語だ。日本語があればよかったのだが、これは日本でも買えるだろうとおもっていたので、あまり熱心に探していなかった。それにしてもフリースラント語ってなに?とおもったのだが、これはオランダ北部にある古いオランダ地域で話されている言語であり、いまはフリースラント地方でしか使われていない言語である。だからここではオランダ語よりもフリースラント語じゃないと通じないと言われている。多少、現代オランダ語と似ているところもあるようなのだが、2つの言語は扱われ方が違うようだ。中国語の本は、台湾で出版された本なので、これは台湾で買えばよかったかなとは思った。

話の内容としては、唯一わかる中国語で各ページの内容を理解する。それも変な話だが、ドラえもんのように、全巻全部読んだことがあるというようなものではないので、手がかりになる物語が記載されている参考資料は、ここでは中国語でしかなかった。確かに、いろいろな人が書かれている通り、淡々とディック・ブルーナは、ミッフィーのおばあちゃんが死んだことを生の反対の状態であるという意図でしか記載しておらず、決して「あっちの世界に行った」というような表現を使っていないところに、子供がどこまで理解できるのかという難しさはあるだろう。ただ、これは人間が住んでいるときにはどうしても避けて通れないところなので、幼いながらも知っておくべき事象であることは必要だとは思った。
 
 
そのほかにミッフィーの本として、「女王様のミッフィー(Koningin nijntje)」と「ミッフィーどうしたの(nijntje huilt)」も買ったが、それは表紙で選んだだけ。話としてはどうでもよかったが、どちらもオランダ語。やっぱりこういう話は一度原語で読んでおいたほうが良いだろうと思ったので、時間があったら読んで見たいと思う。