2007/02/20

21世紀の大学図書館

現代のわれわれは、高速通信技術の発達により、インターネットという地球規模の情報リ ソースを日々の生活の中で利用するようになっている。相互に連接しあい、容易に検索可能であって、しかも成長して止むことのない偉大な百科事典、古代のア レキサンドリア図書館以来、人間が夢見て止まなかった地上最大のデータ貯蔵庫を、現実のものとして我々は掌中にいれたのである。

周知のとおり、インターネットによる情報検索は文字を介して行われる。検索事項に関わり が深いと思われるキーワードを入力し、これを繰り返すことで、間連行もl苦を次第に絞り込んでいき、最終的に必要なデータへたどりつく。まさしく「網」を 手繰り寄せるようにして、ねらったデータを獲るのである。この、大きな枠から小さな枠へ検索項目を絞り込んでいく方法は、広大無辺な情報の海のなかから必 要な事項にたどりつくまでの筋道として、一見、理に適ったようなものにみえる。しかし、問題は、その水先を案内する「ことば」である。先端的なテクノロ ジーを駆使した検索システムで用いられる「キーワード」はいまだ書記言語であり、これは人がこれまでに築き上げてきた「ことば」のくびきから自由でありえ ない。極論すれば、インターネットで検索行動を取る我々は、中世スコラ文学の遺産を舵としてデータの海を航海しているようなも等しい。

18世紀の半ば、植物分類学者のリンネは、どのような未知種が見出されようと、常に、一 定の規則性をもって位置づけることのできる分類体系を編み出し、以来、このシステマティックスは、万物を認識し、整序する有力な方法のひとつとして、今日 に至るまで、その規定的な有効性を揺るがされずにきた。「キーワード」を入力しながら情報を精細に絞り込んでいく検索手法もまた、樹形図の太い幹から細い 幹を経て、枝の先端へたどりつくというプロセスを踏み直すという意味では、実際のとkろお、古くからある序階的な分節法を一歩もこえでるものではない。そ うした検索行動が日常生活のなかであたりまえのものとなったいま、われわれがかんがえねばならないのは、とめどなく量的に拡大しつつある情報財のなかか ら、どのようにして質的に有位なデータを取り出すか、その方法についでである。

「量」から「質」へ、情報基盤整備事業の発展的な転換をはかるためのヒントは、検索可能 なデータではなしに、むしろ検索可能な事柄のほうにある。従来の認識システムにおいて隣接しがたいものを、ある特定のニーズに従ってシステマティックに接 合させていく手段-それは、例えば、夢にみたおぼろげなイメージに類する画像を検索しようとするときの、あの、もどかしさを解消するにはどうしたらいいの か、という問いに対する答えでもある。そのイメージを構成する何か具体的な要素を、それの呼び名をキーワードとして検索する。すると、その名称を媒介して 画像が山のように抽出されはしよう。しかし、それは、夢にみた心象とどうにも連関の見出しがたい、単なるデータの集積にしかすぎない。場合によると、夢に 現われたさまざまな心象を紙の上で自由に構成して見せるシュールレアリスム的自動記述法のほうが、情報伝達の確度という点では、むしろ高いといえるかもし れない。「キーワード」を与えるわれわれの思考形態が古典的な言語体系に縛られている限り、「ネット」にぶら下がっている情報もまた、そのようなかたちで しか整除されないからである。

しかし、今日のデジタル画像は「手術台の上のミシンとこうもり傘の出会い」を容易に実現 しうるところにその最大の技術的特性がある。時間的・空間的に隔てられた画像情報を自由に収集し、蓄積し、加工し、照合し、そこからさまざまな情報を引き 出すことができる、その非=序階性にこそデジタル画像の利用価値があるのである。それが十分に勝つようできていないとしたら、それはネーミングのシステム も検索用のキーワードも、ネット検索のシステマティクスとして機能しがたいことの証なのである。

デジタル技術は物理的・空間的に隔てられたものを、均質な、一つの同じ枠組みのなかでな がめることを可能にしてくれる。どのような物体や現象であれ、ひとたびデジタル情報化してしまえば、あとは一元的な記号システム内で自由自在に変形加工で きるからである。この素晴らしい汎用性・可塑性は、人類が営々と築いてきた資料保存庫という壁という壁を一掃し去り、またたくまに地球規模的なサイバー文 化圏を現出させるにいたった。しかしながら、その巨大なデジタルアーカイブの情報分節システムはいまだ旧態依然のままである。例えば、象とノミ、大宇宙と DNA、昆虫の斑紋と大地の地形、鉱物の結晶と現代の絵画、植物の葉脈と河川の流痕 - これらの間に見出される意味深い相同性や対照性をシステマティックに開陳して見せる、そうした集類型分類システムはいまだ存在しない。確かに、時間的・空 間的に隔てられたもののあいだの相関性から驚くべき知見が得られたというニュースは枚挙にひまがない。しかし、それらの成果の大半は、鋭敏な研究者の直感 や偶発的な出会いの産物にすぎないのである。もしわれわれに、博物館の将来像を構想することが許されるなら、それは万象間の相互関連性をシステマティック に検出していくことのできる情報環境基盤の上に立つもの以外でありえない。「量」として蓄積されたデータを、21世紀の多様なニーズにこたえられる多元 的・多軸的な時空間系列内に配分しなおし、「質」として、より高度な利用形態を可能とする布置モデル、その創出こそが21世紀大学博物館における情報戦略 のかなめなのであろう。

21世紀社会が必要としているのは、自然物であれ人工物であれ、なかで有価値であると認 められるものを効率的・選択的に収集・蓄積しつづけるための資源戦略であり、他方でそれらの資源をデジタル情報化し、脱文脈的な観点からの集類、定時、照 合を可能とする情報戦略なのではないか。ものを収集し、蓄積することの重要性については、ここで触れぬこととするが、この後者の汎界的、超域的なデジタル アーカイブの将来的な可能性については、繰り返し強調しておいてよい。確かに、大学や研究所等の情報研究環境整備は、この面においても急速な勢いで進んで いる。その一方で、それらの具体的な活用成果が容易に見えてこないのはなぜか。理由は明白である。どのデジタル情報財も、それぞれの教室内、研究室内、研 究分野内でしか適用しない「学術用語体系」に縛られ、身動きがとれずにいるからである。人類が真の意味での「地球共存」を実現するためには、必要な知恵と 情報を自然財のなかに求め、それらを現実的な課題解決のために統合する手法の開発が不可欠である。とくに、地球温暖化や環境汚染など、人類が地球規模で直 面している深刻な問題については、上述のような異界を近接させ、接合させ、融合させるためのあたらしい検索ツールの開発が急務である。換言するなら、デジ タル情報財の高度利用を図るための非序階型分類システムの開発研究は、地球環境の危機的な状況を前にした現代のわれわれにとって、焦眉の急なのである。

このあたらしい分類システムは、すでに膨大な量に膨れ上がった多種多様な博物財(自然 財、文化財、情報財)を「かたち」「骨組み」「色」「組成」「表面構造」など脱文脈的な観点から整序しなおし、情報の新たな組みかえと張りかえを行なうた めのものである。言葉をかえるなら、古くからある「貼り交ぜ」技術をデジタルベースで実現するための検索ツールといってよい。もしそうしたものが存在すれ ば野は梨であるが、微小世界から極大宇宙、二次元から四次元、無機物から有機物、自然携帯から人間文化という、現在のわれわれが考えうる限りの汎界的なデ ジタル情報財を大量に備蓄している大学博物館は、高精細画像を媒介する高速検索、変形加工、集類対比等の実演によって、新たな知や技術や素材の構成母体と なりうるにちがいない。この機能の充足を図らずして、大学博物館の将来像は思い描きがたい。

現に、堆積物コアの含有物から新薬や化粧品が研究開発され、さめの皮の表面構造からあた らしい工業的テクスチャーが開発され、製品化される時代である。また、みつばちの巣や動物の骨の構造が、現代の最先端テクノロジーを駆使した建築物の骨組 みに反映されることもある。調和の取れた「地球共生」は、人間が自然界の秘めるさまざまな知恵や情報を汲み取り、それらを人間的な文化の体系へ無理なく組 み込むことのできたとき、初めて実現可能となる。高度情報化社会のニーズにかなうあたらしい博物財分類システムの確立は、博物資源の内在する情報を社会生 活の思いかけぬ局面で役立てるための具体的な視点を獲得させ、ひいては、新たな産業産物の発明や工夫の誕生を誘い、促すにちがいない。

デジタルアーカイブは、情報財のなかから思いかけぬ論点を導きだしたり、意外な試料にた どり着いたりすることで既存の知的体制を根本から揺るがし、その基底的な刷新を実現する。そうした研究の基盤装置として今後ますますその重要性をましてい くにちがいない。デジタル技術を最大限に活用し、バイオからアートまで多種多様な博物財をひとつに統合する場としての公共的資源蓄積庫、近未来にあるべき 大学博物館像の一斑がそこにあるのではないか。

博物館の歴史をひもとくと、近代博物館の祖型とされる王侯貴族のコレクションや自然哲学 者の「珍奇陳列室」では、優れた古代の美術遺品も珍しい自然史標本も、いかがわしい人工物も、すべてを抱き込むという姿勢が貫かれており、その包容力の大 きさが、コレクション全体の価値を左右していたことがわかる。コレクションをかたちづくるというのは、世界を自らの掌中に収めるに等しい、そうしたアナロ ジカルな発想があったからである。それに対して、現代の博物館はどうかといえば、情報基盤の整備が進む一方で、「もの」を博物資源として蓄積するための戦 略はおろか、それらの啓発的な展示物として組み立てるための想像力さえ、見事なまでに喪失してしまった。21世紀博物館に必要なのは、異界を隣接させる大 いなる想像力と、世界を抱き込もうとする多分に誇大妄想的な意志力なのである。

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