2011/02/12

マレー蘭印紀行(書籍)

旅行記の名著というものは、文脈や文章のつづり方もそうだが、使われている表現の言葉も荘厳で、現地の臨場感が読み手に伝わってくるような内容を記載している本なんだと思う。その書き方が、筆者の一人称でみたものなのか、それとも仮想的に設置した別の「私」を中心に描くのかは、著者の見せどころだとは思うのだが、だいたいの場合は、筆者が目や耳や皮膚で感じたものをそのまま言葉にしているようなものが多い。

特に戦前に書かれた書物と言うのは、日本人が言葉に対して教養の深さを一番表現できる手段だという意味で使っていただけに、書き言葉に対する表現はとても難しい。それは明治維新以降戦前までの書物を見れば一目瞭然である。教養はヨーロッパでは家柄の次に一番重要だった要素であり、その流れは文明開化をした日本でも同じことだったからだ。今ではすっかり教養というのは、二の次で、いかに金儲けが出来るかということが重要だという下世話な拝金主義が蔓延っているので、高尚な文章を書く旅行記のひとが居なくなってしまったのは残念なことである。

名著「マレー蘭印紀行」は、随分前から探していたのだが、なかなか手に入らず、どこに行けば入手が出来るのだろうとやきもきしていた。しかし、マレーシアの旅行やマレーシアに限らず、旅行記全般のことで調べてみると、絶対に金子光晴の書物のことが出てくるので、どれだけ素晴らしい旅行記なんだろうと期待してしまっていた。ただし、書かれたのは戦前であり、文庫本として刊行されたのも1970年代なので、新刊として刊行されている書物ではなかなか見つからない。ブックオフのような店頭でもなかなか見当たらないので、ずっとイーブックオフに「入荷登録メール」を登録しておいたが、念願3年目にしてようやく手に入ることができた。

読む前から分かっちゃ居たことなのだが、これは戦前に、それも満州事変が起こっている時代に旅行した筆者の旅行記である。したがって、読む際の思考を1930年代にしなければいけないのである。1930年代のマレーシアおよびシンガポールというのがどういう地域であり、どういう生活スタイルであり、どういう人たちが統治していて、どういう産業が行われていたのかというのを知った上で読まないと、全く理解できない。現在、マレーシアやシンガポールというと、東南アジアの経済隆盛著しい場所であり、ほとんど世界の金の亡者が集まる場所として世の中で映っている場所である。そんな現在のマレーシアやシンガポールの町の様子を頭にいれて読み進んでしまうと、ちっとも実感が湧かないし、なにをこのオッサンは言っているんだ?と途中で思考停止になってしまい、読み進むのにとても苦労する。マレーシアは錫炭鉱と天然ゴムのプランテーション地域であり、シンガポールはまだジャングルがたくさんあり、マラッカ海峡を通る船の立ち寄り所というだけの役割でしかなかった場所だという基本情報さえ持っていないと、全く読むのに苦労する。

つまり、マレーシアもシンガポールも、まだまだ原生林がたくさんあり、そして、そのジャングルの中に人間が密接しながら、そして統治者であるイギリス人の指導の下、マレー人と華人とインド人が、プランテーションを中心に働いたり、イギリス人の補佐として働いていたり、あるいは苦力として、雑用全般を行う仕事をしているひとたちがうじゃうじゃいる時代であったということを意識しないと読み手の言いたいことが全く理解できないだろう。反対に言えば、現在経済繁栄しているシンガポール人やマレーシア人にとっては、そんな昔の自慢にもならないような時代のことを蒸し返されるなんて、メンツが潰された気がすると思うのは致し方ないことだとおもう。しかし、これは事実である。どこの国でも通ってきた歴史なのであって、それを第三国の人間が見た正直な感想を述べているだけであるので、それに対して現代人が文句を言う権利はまったく無い。たぶん、現在マレーシアやシンガポールで活躍して、現地で財や地位を確立した日本人においても同じような感想を持つんだろうと思う。現地でそのように活躍している人間は、「昔は昔、今が大切」ということと「何も暗黒の時代やみすぼらしい姿を蒸し返すのは下品だ」と言う人もいる。それは変な事だ。

さらに土地の名前もたくさん出てくる。確かに聞いたことがあるような名前の土地名が出てくるのだが、どこもこれもほとんど野蛮人というか原始人が住んでいるような風景とその景色が表現されている。今の同じ場所を考えると、もうその違いがびっくりするようなものだ。例えば、ジョホール州の東部にあるペンゲランなんか、ほとんど竹と藁で出来たような家しかなく、いかに天然ゴムのプランテーションを経営しているところだとはいえ、今想像するととてもみすぼらしい住まいのようなところに滞在していたりする。雨を凌げばいいようなところがホテルだったりするような場所だ。いまどき、そんな場所はさすがに無いだろう。

本書では、ジョホール州の中部に流れるセンブロン河流域、パドパハ(正式名:バトゥパハト、Batu Pahat)、ペンゲラン(Pengelan)、スリメダン(Seri Medan)、コーランプル(現:クアラルンプール, Kuala Lumpur)、シンガポール、爪哇(ジャワ島)、スマトラ島とのんびり旅行して、見聞した内容を記載している。正直前半の部分については、時間的にものんびりしており、さらに文章として表現されているものもなにか内容がつまらないものばかりなので、一気に読むのに耐えられないとくじけそうになる。途中ペンゲランの章あたりから、こちらの読む意欲と、書き手の内容について理解する意欲がようやくシンクロできる。そのあとの読みのスピードはめちゃくちゃ速い。別に時代背景が分かっていなかったとか、著者のバックグラウンドが分からなかったとか、そういう問題ではない。あまりにも文章が単調すぎだし、表現して見えてくる映像というのがとても刺激があるわけではないものだったからである。なにせ、センブロン河の章は、ジャングルの真ん中みたいな場所での話しなので、そんなところでこんな凄いことがあったとか、わくわくする刺激が起こったなんていうのはあるわけが無い。それも他の章のなかよりも一番ページを割いて書かれているから、もう読むのが遅くて遅くて仕方なかった。

人間の生活が見えてきて、いろいろな人種の風習や服装、そして文化全般が表現化されてきたのが見えてきてからは、脳内において当時の様子が想像ながらもできるようになるので、とても楽しい紀行文として読める。それも繊細な描写が、その場所に居なくても見えてくるようだから、ますます文章にのめりこんでいってしまうのである。たぶん、日本国内にいると日本人ばかりで、似たような風習のひとしか生活していないため、こういう東南アジアの発展これからというような地域に来て、それもいろいろな文化を持っている人たちが混雑して生活しているような光景を見たとしたら、当時は何でも見てやろうという意欲が湧いて、毎日の滞在生活が楽しくて楽しくて仕方なかっただろうと思う。現在の人でさえ、わくわくするような光景が見られるときもあるんだから、戦前のそれも1930年代の人たちから見るとアドレナリンがバンバンでていたことだろう。

やっぱり清朝の流れを汲んで故郷を捨ててきたような苦力の人たちが多く住むマレー半島やマラッカ海峡あたりは、普段の仕事の辛さを紛らすためにアヘンを吸っているのがたくさん居たようだ。それは大陸中国においても同じだったし、その悪習というのはなかなか捨てきれないのだろう。日本人はアヘンを税金の収益として満州で1つの政策としてお起きに役立てたが、実際に購入する民衆にとっては、身はボロボロになるわ、金は取られるわでなんのメリットも無いがそれでも続けてしまう。日本が侵略後の手っ取り早い税金徴収としてアヘン専売というのは大いに役立った。そんな光景もちゃんと著者は見抜いている。

もっと面白いのは、いわゆる「からゆき」さんのことも、ちゃんと逃さず表現しているところだろう。下層身分だったから人身売買として売られてきたからゆきさんたちは、故郷を離れた東南アジアの人間が住んでいるようなところで、売春組織の1メンバとしてどうしても生活することになる。この生活が、のちに「日本人はセックスを軽く考えている」という悪評にもつながることになるのだが、故郷では口減らしであり、身分制度が残っているため、その身分層から抜け出すことも出来ないというジレンマから、当地にそのまま居残って、現地のひとと結婚してしまうのも多かった。花街として輝いていたクアラルンプールやイポーの当時の様子についてもちゃんと描いており、当地に住んでいるからゆきさんたちの苦労話も垣間見ることが出来る。しかし、こういうからゆきさんの話については、別の書物(例えば、「からゆきおキクの生涯」など)を読んでもらったほうがいい。

日本が富国強兵として、西洋諸国に遅ればせながら海外の炭鉱や資源を開発し始めたのもこのころ。マレーシアのド田舎にでも日本人が活躍し、日本の会社が開発を行っていたという事実を旅行者の目でみてそれを現代の日本人に文章として残すことができるというのは、文章としての魅力の1つだろうと思う。なにしろ、最初に刊行されたのは、戦前の1940年10月に山雅房書から刊行されている。したがって、中央公論新社からのこの本は改訂版である。是非、一回機会があったら読んでいただきたい。

マレー蘭印紀行
著者:金子 光晴
出版社: 中央公論新社(改版版)
発行日:1978年3月10日

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