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2014/03/12

マレーシア航空機の捜索

久しぶりに飛行機に関する事故のニュースが入ってきた。

クアラルンプールから北京に向かうマレーシア航空機が、タイとマレー半島との間のところで行方不明になってしまい、墜落したのか、どこかに亡命したのかさえ、その証拠となる機体の一部ですら海上にも残っていないという事故が発生した。通常、海に墜落したのであれば、機体の一部かまたは荷物の軽いものが海に浮かんでくるということがあってもよいかとおもうのだが、その1つでさえも浮いていないというのが不思議なことだ。

乗客のほとんどは中国人。そのほかマレーシア人、台湾人、アメリカ人、ヨーロッパ人もいたらしいのだが、乗客乗員239名のうち150人くらいが中国人だった。このうち、ヨーロッパ人乗客のうちの2人は、イタリア人とドイツ人と見られていたが、実際にはそのパスポートを持っていた張本人は該当の飛行機には乗っておらず、全く関係の無いイラン人がその人たちに代わって乗っていたようだ。この2人のヨーロッパ人は、以前バンコクでパスポートを盗まれた経験がある人たちで、そのときに盗んだパスポートを偽造して搭乗したんだろうと思われる。
北京に向かう飛行機で起こった事件であるため、最初はテロではないかという噂もあった。北京政府に対する抗議行動の一部として襲ったものではということも言われたのだが、それだったら北京の空港近くで怪しい行動を飛行をしたり、または政府幹部がたくさん住んでいる中南海に911のように飛行機ごと突っ込むということも想像されるのだが、そのような事件がもしかしたら起こるかもしれないと事前に聞いていた中国政府が、極秘にこの飛行機が中国領土に入る前に飛行機を墜落させて、中国政府が関与したということの痕跡を消してしまいつつ、自爆テロを事前に抑えてしまうということをしたのではないかという噂も聞えてくる。なにしろ、直前に、昆陽でテロ爆破事件が行われた直後だから、北京政府と金持ちたちを妬んでいる人たちによる攻撃が行われるかもしれないというのは、十分警戒していたことなのだろうと思われる。

ベトナム沖に怪しい油の川の流れが見えるという報告があった。それだけで判断してはいけないのだが、このベトナム沖で実は飛行機は墜落したのではないか?という話が出ていたのだが、実際には単なる油で、飛行機から出てきた重油というわけじゃないことは分かっている。それに、航空レーダーからもあるときからパタッと消えてしまっているということも分かっているのだが、これがまた一段と謎を深めさせているものだった。

あとから分かったことだが、衛星による航空機の追跡を調べてみると、飛行機は最初は北京に向けて直線で飛んでいたが、途中から大きく左に回転して、最終的にはオーストラリアのパース沖のほうに行って、そこまでトレースは見つけられるが、その先はわからないという話になっている。ベトナム沖とは全く関係なかったわけだ。そのあと、乗客が一番多く乗っていた国籍の政府である中国の海軍や、オーストラリア政府軍、そのほかの海軍が大規模に飛行機が墜落しただろうというところの周辺地域を調べていたようなのだが、なにも見つかっていない。本当に謎の事件だ。

飛行機の機長はマレー人であり、自宅にフライトシミュレータを保有しているくらいの飛行機オタであったことが後から分かっている。そして、この機長は、プミプトラ政策の強力賛成者であり、中国系マレーシア人に牛耳られているマレーシア経済から中国人を追い出したいと思っている熱烈の支持者であることも分かっている。だから、自分が担当した飛行機には中国人がめちゃくちゃ搭乗しているから、なにかの迷いで、この飛行機をわざと墜落させたのではないかとも言われている。ムスリムによる自爆テロと似ているのだ。でも、これも実際にはどこまで本当なのか全く分かっていない。

ネット上では、衛星から撮られた写真に、なんらかの機材の一部でもいいから映っているのではないかということを、ネットの人間を大量に使って、グリッドコンピューティングの理論から画像解析させようというプロジェクトまで出来ている。ここまで来ると、ほとんど人捜し、物捜しに似ているような気がするのだが、地球の海面を探索するというのは、なかなか骨が折れる作業ではないのだろうか?

今後の飛行機の捜索はなかなか謎が多すぎるものだ

2011/03/19

マラッカ ペナン 世界遺産の街を歩く

以前、マレーシアおよびシンガポールのペラナカン文化に言及したブログを、著者「マレー半島 美しきペラナカンの世界」に関して記載のだが、あくまでもそれはペラナカン文化に言及したものであり、ペラナカン全体の概要を写真とそれが見られる場所の紹介をしたようなものだったが、今回はペラナカン文化の中心地となっている2つの都市に焦点を絞った参考書があったので、それについて記載したい。

ペラナカンの中心地は、マラッカとペナン島の2箇所。この2箇所はマレーシアの中においても特別であり、異質な場所なところだ。マレーシア全体はイスラムの国であるために人口の3割が中華系だとはいえ、やっぱりマレーの雰囲気が強いところである。しかし、この2箇所はやっぱり違う。横浜の中華街みたいな感じだ。なので、マレーシアの中の異質文化圏をぜひ訪れないと、マレーシアの良いところを知ることはできないだろう。

そんな2箇所に特化した都市について写真入りで、よく説明された本が、「マラッカ ペナン 世界遺産の街を歩く」である。この本の最初のほうはマラッカのこと。後半はペナンのことが書かれている。

マラッカについては、マラッカの良いところを取りこぼさず記載しているといえよう。ポルトガル、オランダ、中華、そしてイスラムと複雑怪奇ないろいろな文化が残っている場所なので、その良いところばかり、観光地として人気のあるところは、見所および食べ物とお土産などを含めて紹介しているという意味では、最高のガイドだろう。文字だけではなく、ほとんど写真というヴィジュアルで紹介されているために、行く前からどういうところかというのを知ることができる貴重な本だと思う。特にカラフルなペラナカンの食べ物や民芸品の紹介の部分については、写真つきの紹介が一番わかりやすい。それを見て、うまそうとか、きれいとか、毒々しいとか、事前にわかるところが現地にいっても驚かなくてもいいものだ。一度行った事がある場所の紹介を、書物というメディアを通して再確認した場合には、その紹介のよしあしというのが良くわかる。マラッカに関して言えば、よくまとめて紹介しているなと感激した。それも写真のアングルがやっぱりプロだなというところが、随所に散りばめられているところが良い。

マラッカのバスターミナルがある北部のほうにある有名なホテル「マジェスティックホテル」については、一番きれいに紹介されていると思う。イギリス的な文化が残っていて、それとマラッカの特殊文化が融合された最終形態というのがあのホテルだろう。実際にこのホテルに泊まると、観光地に出向くのはとても面倒くさいところではある。観光地までタクシーで移動をするという手段をとるのであれば、特に何の問題もないところだろう。
同じ量のページを割いて紹介されているペナン島のことは、正直、行った事がないのでわからない。わからないが、その紹介の内容を見ると、いってみたい場所だということと、ペナン島は小さい島だと思っていたのに、意外にも大きな場所であり、ペナン島よりもずいぶんとイギリス的な雰囲気が残っている場所なんだなというのが良くわかった。マラッカ海峡の貿易の要所として、ペナン、マラッカ、シンガポールが上げられる。どちらもイギリスが最終的に占有して、それに便乗してやってきた華僑がたくさん住み着いた場所だというところではある。島になっている場所はそれ全体が要塞になっているため、なんとなく雰囲気はシンガポールに近いというように書面から感じた。

イギリス的とかシンガポールに近いと思われるのは、建物がコロニアル様式という形式を採用したものが多いからなのだろう。華僑が多い地域だと、道路に半分張り出したような作り方だが、コロニアル様式は1軒が単独で建っているだけで、それ自体が城みたいなものだ。マラッカのような場所よりも広い範囲で文化全体が広がっているような土地がペナンであり、その最大都市がジョージタウン。島全体は縦長の長方形であり、ジョージタウンは北東部の町。空港は南東部に存在。ジョージタウンは特に電車が発達しているわけではないので、町の中を移動するにはタクシーくらいしか交通手段はないという意味では、マラッカよりも広範囲に点在する観光地としては動きにくいかもしれない。

マラッカとペナンの両方を比べることはできないのだが、どちらもマレーシアの中の都市なのだが、かなり魅力的。ペナン島の場合は、リゾート地としても行く人もいると思われるので、情報は結構あると思う。

マラッカでもペナンでもどちらの都市においても、町全体が歴史遺産であることは間違いない。いずれにしろマラッカは行ったことがあるので良さはわかるが、ペナンもよさそうな場所なので一度は行ってみたい。ただし、ペナン出身の人が前に言っていたのを思い出したが、ペナンの海は汚い。だから、ペナンで泳ごうと思ったらそれはやめたほうがいいだろう。

マラッカ ペナン 世界遺産の街を歩く
単行本:128ページ
出版社:ダイヤモンド社 (2009/10/31)
発売日:2009/10/31

2011/02/12

マレー蘭印紀行(書籍)

旅行記の名著というものは、文脈や文章のつづり方もそうだが、使われている表現の言葉も荘厳で、現地の臨場感が読み手に伝わってくるような内容を記載している本なんだと思う。その書き方が、筆者の一人称でみたものなのか、それとも仮想的に設置した別の「私」を中心に描くのかは、著者の見せどころだとは思うのだが、だいたいの場合は、筆者が目や耳や皮膚で感じたものをそのまま言葉にしているようなものが多い。

特に戦前に書かれた書物と言うのは、日本人が言葉に対して教養の深さを一番表現できる手段だという意味で使っていただけに、書き言葉に対する表現はとても難しい。それは明治維新以降戦前までの書物を見れば一目瞭然である。教養はヨーロッパでは家柄の次に一番重要だった要素であり、その流れは文明開化をした日本でも同じことだったからだ。今ではすっかり教養というのは、二の次で、いかに金儲けが出来るかということが重要だという下世話な拝金主義が蔓延っているので、高尚な文章を書く旅行記のひとが居なくなってしまったのは残念なことである。

名著「マレー蘭印紀行」は、随分前から探していたのだが、なかなか手に入らず、どこに行けば入手が出来るのだろうとやきもきしていた。しかし、マレーシアの旅行やマレーシアに限らず、旅行記全般のことで調べてみると、絶対に金子光晴の書物のことが出てくるので、どれだけ素晴らしい旅行記なんだろうと期待してしまっていた。ただし、書かれたのは戦前であり、文庫本として刊行されたのも1970年代なので、新刊として刊行されている書物ではなかなか見つからない。ブックオフのような店頭でもなかなか見当たらないので、ずっとイーブックオフに「入荷登録メール」を登録しておいたが、念願3年目にしてようやく手に入ることができた。

読む前から分かっちゃ居たことなのだが、これは戦前に、それも満州事変が起こっている時代に旅行した筆者の旅行記である。したがって、読む際の思考を1930年代にしなければいけないのである。1930年代のマレーシアおよびシンガポールというのがどういう地域であり、どういう生活スタイルであり、どういう人たちが統治していて、どういう産業が行われていたのかというのを知った上で読まないと、全く理解できない。現在、マレーシアやシンガポールというと、東南アジアの経済隆盛著しい場所であり、ほとんど世界の金の亡者が集まる場所として世の中で映っている場所である。そんな現在のマレーシアやシンガポールの町の様子を頭にいれて読み進んでしまうと、ちっとも実感が湧かないし、なにをこのオッサンは言っているんだ?と途中で思考停止になってしまい、読み進むのにとても苦労する。マレーシアは錫炭鉱と天然ゴムのプランテーション地域であり、シンガポールはまだジャングルがたくさんあり、マラッカ海峡を通る船の立ち寄り所というだけの役割でしかなかった場所だという基本情報さえ持っていないと、全く読むのに苦労する。

つまり、マレーシアもシンガポールも、まだまだ原生林がたくさんあり、そして、そのジャングルの中に人間が密接しながら、そして統治者であるイギリス人の指導の下、マレー人と華人とインド人が、プランテーションを中心に働いたり、イギリス人の補佐として働いていたり、あるいは苦力として、雑用全般を行う仕事をしているひとたちがうじゃうじゃいる時代であったということを意識しないと読み手の言いたいことが全く理解できないだろう。反対に言えば、現在経済繁栄しているシンガポール人やマレーシア人にとっては、そんな昔の自慢にもならないような時代のことを蒸し返されるなんて、メンツが潰された気がすると思うのは致し方ないことだとおもう。しかし、これは事実である。どこの国でも通ってきた歴史なのであって、それを第三国の人間が見た正直な感想を述べているだけであるので、それに対して現代人が文句を言う権利はまったく無い。たぶん、現在マレーシアやシンガポールで活躍して、現地で財や地位を確立した日本人においても同じような感想を持つんだろうと思う。現地でそのように活躍している人間は、「昔は昔、今が大切」ということと「何も暗黒の時代やみすぼらしい姿を蒸し返すのは下品だ」と言う人もいる。それは変な事だ。

さらに土地の名前もたくさん出てくる。確かに聞いたことがあるような名前の土地名が出てくるのだが、どこもこれもほとんど野蛮人というか原始人が住んでいるような風景とその景色が表現されている。今の同じ場所を考えると、もうその違いがびっくりするようなものだ。例えば、ジョホール州の東部にあるペンゲランなんか、ほとんど竹と藁で出来たような家しかなく、いかに天然ゴムのプランテーションを経営しているところだとはいえ、今想像するととてもみすぼらしい住まいのようなところに滞在していたりする。雨を凌げばいいようなところがホテルだったりするような場所だ。いまどき、そんな場所はさすがに無いだろう。

本書では、ジョホール州の中部に流れるセンブロン河流域、パドパハ(正式名:バトゥパハト、Batu Pahat)、ペンゲラン(Pengelan)、スリメダン(Seri Medan)、コーランプル(現:クアラルンプール, Kuala Lumpur)、シンガポール、爪哇(ジャワ島)、スマトラ島とのんびり旅行して、見聞した内容を記載している。正直前半の部分については、時間的にものんびりしており、さらに文章として表現されているものもなにか内容がつまらないものばかりなので、一気に読むのに耐えられないとくじけそうになる。途中ペンゲランの章あたりから、こちらの読む意欲と、書き手の内容について理解する意欲がようやくシンクロできる。そのあとの読みのスピードはめちゃくちゃ速い。別に時代背景が分かっていなかったとか、著者のバックグラウンドが分からなかったとか、そういう問題ではない。あまりにも文章が単調すぎだし、表現して見えてくる映像というのがとても刺激があるわけではないものだったからである。なにせ、センブロン河の章は、ジャングルの真ん中みたいな場所での話しなので、そんなところでこんな凄いことがあったとか、わくわくする刺激が起こったなんていうのはあるわけが無い。それも他の章のなかよりも一番ページを割いて書かれているから、もう読むのが遅くて遅くて仕方なかった。

人間の生活が見えてきて、いろいろな人種の風習や服装、そして文化全般が表現化されてきたのが見えてきてからは、脳内において当時の様子が想像ながらもできるようになるので、とても楽しい紀行文として読める。それも繊細な描写が、その場所に居なくても見えてくるようだから、ますます文章にのめりこんでいってしまうのである。たぶん、日本国内にいると日本人ばかりで、似たような風習のひとしか生活していないため、こういう東南アジアの発展これからというような地域に来て、それもいろいろな文化を持っている人たちが混雑して生活しているような光景を見たとしたら、当時は何でも見てやろうという意欲が湧いて、毎日の滞在生活が楽しくて楽しくて仕方なかっただろうと思う。現在の人でさえ、わくわくするような光景が見られるときもあるんだから、戦前のそれも1930年代の人たちから見るとアドレナリンがバンバンでていたことだろう。

やっぱり清朝の流れを汲んで故郷を捨ててきたような苦力の人たちが多く住むマレー半島やマラッカ海峡あたりは、普段の仕事の辛さを紛らすためにアヘンを吸っているのがたくさん居たようだ。それは大陸中国においても同じだったし、その悪習というのはなかなか捨てきれないのだろう。日本人はアヘンを税金の収益として満州で1つの政策としてお起きに役立てたが、実際に購入する民衆にとっては、身はボロボロになるわ、金は取られるわでなんのメリットも無いがそれでも続けてしまう。日本が侵略後の手っ取り早い税金徴収としてアヘン専売というのは大いに役立った。そんな光景もちゃんと著者は見抜いている。

もっと面白いのは、いわゆる「からゆき」さんのことも、ちゃんと逃さず表現しているところだろう。下層身分だったから人身売買として売られてきたからゆきさんたちは、故郷を離れた東南アジアの人間が住んでいるようなところで、売春組織の1メンバとしてどうしても生活することになる。この生活が、のちに「日本人はセックスを軽く考えている」という悪評にもつながることになるのだが、故郷では口減らしであり、身分制度が残っているため、その身分層から抜け出すことも出来ないというジレンマから、当地にそのまま居残って、現地のひとと結婚してしまうのも多かった。花街として輝いていたクアラルンプールやイポーの当時の様子についてもちゃんと描いており、当地に住んでいるからゆきさんたちの苦労話も垣間見ることが出来る。しかし、こういうからゆきさんの話については、別の書物(例えば、「からゆきおキクの生涯」など)を読んでもらったほうがいい。

日本が富国強兵として、西洋諸国に遅ればせながら海外の炭鉱や資源を開発し始めたのもこのころ。マレーシアのド田舎にでも日本人が活躍し、日本の会社が開発を行っていたという事実を旅行者の目でみてそれを現代の日本人に文章として残すことができるというのは、文章としての魅力の1つだろうと思う。なにしろ、最初に刊行されたのは、戦前の1940年10月に山雅房書から刊行されている。したがって、中央公論新社からのこの本は改訂版である。是非、一回機会があったら読んでいただきたい。

マレー蘭印紀行
著者:金子 光晴
出版社: 中央公論新社(改版版)
発行日:1978年3月10日

2010/05/16

5月13日事件 (Malaysia)

マレーシアに住んでいる華人にとって、末代にまで忘れられない事件がある。それあ1969年5月13日に発生した、通称「5月13日事件 (May 13 Incident)」というものだ。この事件以前からも以後もマレーシアの華人は、常にマレーシア政府に対して不満を持っているのは、あまり知られていないと思われる。

マレーシアはマライ連邦としてイギリスから独立する前から、王様が存在するイスラム国家であったことは言うまでも無い。そして、独立後も当然イスラム国家であり、イスラム教を信仰しているマレー人は、独立後もそのまま政治の中心に君臨することが多かった。一方、広東や福建などからお玉と鍋だけを持ってやってきた華人たちは、元来の商売上手の手腕により、経済的には裕福になっていた。この立場の違いが大きな溝の原因として、事件が起こる前までは表面化しなかったのである。

建国の父であるラーマン(Tunku Abdul Rahman)はマレー人と華人の融合を目指していたのだが、1969年の総選挙でマレー優遇政策をしていたUMNOが大敗したことにより華人が大喜び。大喜びをしたら町中を練り歩くのは、どうやらどこの世界も同じようで、このときも華人たちがわんさか集まってきてパレードをした。逆にマレー人優遇を支持していたマレー人もUMNO支持のためにパレードを行う。そしてセランゴーン州で激突する。

激突したら最後、マレー人側は政府軍人を含めた人間が無差別に華人たちを殺し始める。これは、台湾の228事件と非常に良く似ていると思う。ただし、台湾の228事件と違うのは、そのあと戒厳令が敷かれなかった事だ。華人たちのこの記憶は、代々伝えられて、結局華人たちはいつまでもマレー政府に対して信頼を持っていない。

マレーシア政府がいやならマレーから出て行けば良いといわれるが、祖籍の福建からやってきて、やっと経済的に地位を得ることができたものを、みすみす捨てることはもうできないのは心情である。これが福建のままでいるのであれば、逃げ出して次の土地で頑張ろうとはおもうものだ。したがって、マレー優遇政策がいくら強く言われても、マレーシアの華人たちは、違う土地に移住するということはせず、政府にたてついてでも商売にいそしむことになる。マレー人側は、華人たちの経済的な能力を羨ましがっているだけではなく、それを権力という立場で強引に奪おうとする傾向でもある。王様からDatukの称号をもらって、ある地域を支配することの許可を貰い、それをいいことに美味い汁を吸おうとするマレー人も多い。また、そのやり方に対して、華人たちが不満を余計募っているのは言うまでも無い。

この一向に埋まらないマレー人と中国人との溝は、教育・住居から生活環境まですべてにおいて不満を中国人に残すような政策を今でも続いて行っていることにも現れている。UMNOのやることは素晴らしいと、圧倒的なマレー人人口をもつ支持組織をバックにいまでも君臨している。マレーシアの華人たちは、高度な英語教育も受ける人が多いために、大学はマレー人しかほぼ入れないことにより、金銭を使ってオーストラリアやシンガポール、アメリカの大学に入学せざるを得ない状況にもなっているため、マレー人との教育程度の差にも出てくる問題になっている。

日本にいると、自称「単一民族」になっていることにより、異民族であった琉球人やアイヌ人は日本人と同じ扱いになっているし、日本語以外のことを利用することに対して全く拒否を政府は行っている。最近は、ようやく雪解けとして、自己民族の尊重というよりはひとつの地方の文化を残そうというような動きになっているところが、なんとも不思議な気がする。

マレーシアの華人たちは決してマレー人との融合を望んでいないこともある。彼らに「何人か?」と聞くと、ほぼ100%「Chinese」と答える。決して「Malaysian」とは答えない。ただし、大陸の中国人とは一緒にして欲しくないというアイデンティティもあるため、単なるChineseというより、Malaysian Chineseという表現を使う。文法的には Chinese Malaysian なのであるが、そういう言い方をしないということは、世界のどこに行っても、住んでも、自分が Chinese であるということは絶対的な定義であると自負しているからなのだろうと思う。

話が発散してしまうが、この5月13日事件を契機に、それまでのマレー人およびマレー政府に対する不満というのは、継続的に華人は続いているということは、マレーシアを訪れる日本人は知っておくべきである。

2010/05/15

マラッカからシンガポールへバスで移動 (Malaysia)

マラッカからシンガポールに行く際には、一番楽で便利なのがバスである。これはネット上で検索すればたくさん情報が載っているので、すぐに知りたい情報は見つけられることができる。マラッカに関しては一番情報が載っている「Melaka Guide」を見ると、707トラベルというところのバスが一番乗りごごちがよさそうだというのは、渡航前に情報を仕入れていた。バスの予約はマラッカに行かないと無理だということはわかっていたので、マラッカに着いたらバスの予約だけはしておこうと思っていた。

しかし、マラッカのバスターミナルというのは、泊まっているホテルの場所からかなり離れているところにある。ホテルからバスターミナルまでは、ローカルバスで移動するか、またはタクシーで一度移動しなければならないということはわかっていたので、面倒くさいなと思っていた。

そこでホテルの人に、シンガポールまでバスで行こうと思うのだが、予約はできますか?と聞いてみた。こういうときにこそ、ホテルの人を使わない手は無い。聞いた相手が悪かったようで、「それはコンシェルジェに聞いてほしい。詳しいことはわからない。」と言われてしまった。そう言われてしまったら仕方が無い。コンシェルジェに聞いてみた。ついでに、ホテルを経由していくバスはありますか?と聞いてみたところ、あるとのこと。おぉ!それは便利だ。バスターミナルまで行かなくてもいいというのであれば便利なこと。どこの会社のバスで、何時出発でいくら掛かるのかと聞いてみたところ、Glassland というバス会社のバスで、一人40リンギットだそうで、バスは12時半「ごろ」玄関の目の前から出発するので、12時15分くらいまでにロビーに来ればいいという。コンシェルジェいわく、これは現金でいま払ってもらわないと処理できないから、いま現金をくれとのこと。なんだ、それ?少し怪しい気がする。でも、予約と切符の手配をしてくれるというのであれば、試してみることにした。お金を渡すと「夜には部屋にチケットは置いておく」と言った。まぁ、コンシェルジェの顔も名札の名前を覚えたので、いざとなったらホテルに訴えてやるともおもっていた。

ちなみに、バスの値段は同じ路線で、行きと帰りでは値段が全く違う。シンガポールから来る場合は38SGDもかかる。マラッカからシンガポールに行く場合の倍の値段である。シンガポールから物価の安いマレーシアに行く人が多いからなのか、シンガポールからの値段は高い。逆に、シンガポールは海外からシンガポールにやってきて、シンガポールに金を落としてくれる人たちは、大いにウェルカムなので、そのためにマレーシアからの値段は激安なのかもしれない。

ところが、その晩になっても部屋にはチケットが届いていなかった。やっぱりホテルの人間とはいえ、騙されたか!?と半分思っていたが、文句を言うのは翌朝またそのコンシェルジェを見つけたときに言ってやろうと思い、翌朝早速コンシェルジェのところに言ったら、さも頑張ってチケットを取ったかのような顔をしながら「これだ」と渡してくれた。「おいおい、昨日は部屋に持ってくると言ってたじゃないか」とちょっと文句を言ってみたところ、相手は一瞬たじろいだが、すぐに体裁を整えて「チケットは問題ない、そう、問題ない」ともう会話になっていないコメントが返ってきた。

チケットを見ると、ピンク色で、向こうが透けるように薄いペラ紙だったのだが、そこには、全然関係ない人の名前が書かれていた。それも女性の。Ms. Chen なんていうのが書かれていたので、「これ、全然違う人の名前だ」と言ったところ、「関係ない、問題なし」だそうだ。なんだ、それ?意味がわかんない。もしかして、この女の人から奪い取ってきたのかともおもっていたが、チケットには座席番号に「9B/9C」というのが書かれていて、いちおう席は決まっているらしい。バスに乗るときに、このチケットを見せれば問題なしとのこと。どこまで本当に信じていいのかわからない。それでもう一度何時に出発かを聞いてみたところ、12時半ごろかなー、だと。昨日と言っていることが違うじゃないか。大丈夫かぁ、このひと?とそのときは思う。

チェックアウトをクラブフロアで済ませて、いちおう12時ぴったりくらいにロビーに到着した。荷物は重かったので自分で持ち歩くのではなく、ホテルの人に持って降りてもらおうと、フロントに頼んだ。そして、ホテルのドアマンに、「シンガポール行きのバスに乗るのにどこで待っていたらいいですか?」と聞いたら「おまえらかー!ドライバーが待っているぞ」とのこと。は?出発はもっと後じゃないのか?と一瞬ビビる。しかし、トランクはまだ部屋の中にあるようなので、荷物はまだ下りてきていないとドアマンに伝える。露骨に不快な顔をされたのは、いまだに覚えている。その後、ようやくトランクが下りてきたときに、今度はバスのドライバーが血相を変えて「ハリーアップ、ハリーアップ」と急かす。自分たちに全く非があるとはこちらは全然思っていないので、なんでこんなにいろいろな人に怒られるのかが全くわからない。全部コンシェルジェのおっさんが適当なことをこちらに教えたことに始まるので、コンシェルジェのオヤジに文句を言ってくれとおもった。

バスは大型バスで、席は横では1席-2席の3席分しかなく、縦は全部で9列しかない。だから、座席はかなり広く、まるで新幹線の席くらい前後が広い。そして、リクライニングはほぼフラットになるくらい倒れるので、シンガポールまでの運行時間が4時間だというのを聞いていたが、それも苦痛ではないなと思った。おまけにトイレも当然付いているので、最近、長距離移動のときに、妙にトイレに行きたくて仕方なくなるときが続いたので、今回もどこで途中休憩するのかわからないようなバスに乗るとすると、もし万が一、急にトイレに行くことになったら絶対トイレがないと死んでしまうと思ったからだ。トイレがあることでかなり安心した。さらにいうと、座席には飛行機の座席みたいに音楽やテレビの音声が聞こえるようなイヤフォンジャックと音量調整が付いていた。バスはジョホール・バル方向へ、高速道路をひたすら南下していく。しかし、高速道路からの車窓は、クアラルンプールからマラッカに途中で1度休憩を入れる。Pusat Perniagaan というところにある高速道路に隣接したサービスエリアで休憩をする。ここでは約30分の休憩だ。このサービスエリアは、とても中は広くて、お土産屋やご飯を食べられるところなど、まるで本当に日本のサービスエリアと全く同じである。本屋やレコード屋なども一緒にあるので、マレーシアで買い忘れたものがあるなら、ここで買ったらいいと思う。バスはとうとうマレー半島の最南端であるジョホール・バルの国境に到着する。ここまででだいたい3時間くらいである。途中休憩を入れているので、実質2時間半くらいだろう。ジョホール・バルの国境では、全員がバスから降りて、出国審査を行う。この出国審査はとても簡単で、パスポートとパスポートに挟まれていた書類だけを提出すればOK。出国審査を受けたあとは、そのまま、またバスに乗るのである。

バスは全員が乗り込んだことを確認すると、バスはジョホール水道を渡って、いよいよシンガポールに到着する。ずいぶん昔にシンガポールからジョホール・バルを炎天下に歩いて渡ったことがあって、もう二度と歩いて渡らないと誓ったことがあったことを思い出した。やっぱりバスでジョホール水道を渡るのは簡単でいい。
シンガポール側の入国審査は、マレーシア側とは打って変わって、全員がバスから降りる際には、手荷物のほかにバスのトランクルームにトランクを預けているのであれば、それも持って降りなければならない。シンガポールに入国なので、もちろん入国審査のための入国カードも書かねばならない。これはバスで移動する際に先に書いてあったので、何の問題もなかった。問題はここから先である。

入国審査自体はほとんど混んでいなかったのだが、入国審査後の荷物検査の際に、なぜか係員に別室に連れて行かれた。何の悪いこともしていないのにである。荷物の中に怪しいものがあったのかと聞いたら「違う」という。一緒にいた友達も同じように連れて行かれた。トランクと一緒に別室に連れて行かれて、言われたことは「ランダム検査だ」らしい。そのためになぜか指紋押捺もさせられた。シンガポールに何度も入国・出国をしたことがあるのに、こんな屈辱ははじめてである。いかにも怪しそうな顔や身なりをしているのであれば、「おまえ、ちょっと来い」と言われて別室に連れて行かれるのであれば理解できる。そんなに汚い格好をしていたわけでもないし、どう考えても、一緒のバスに乗っていた中国系のやつらに比べて、普通の格好をしていたし、挙動不審な行動もしていなかったのに、なぜなのか全然理解できなかった。それも顔写真とかを撮られるならわかるが、指紋押捺である。それってほとんど犯罪者に適用されるための手段だろう。屈辱的にもほどがある。これ以来、シンガポールに対する印象は格段に下がった。もう二度とこんな国に来てやるものかとさえ思った。

ほとんど不貞腐れた状態でバスのほうに戻っていくと、今度はバスの運転手が「おまえら、なにしていたんだ」という無言のプレッシャーをかけてくる。それも腰に手をあててにらんでいるような感じだ。今度のことも自分たちが悪いわけじゃない。悪いのは、このシンガポールの入国審査官たちである。こいつらが勝手に人のことを犯罪者のように扱ったために、バスに戻れなかっただけなのにーと、心に思った。

あとでいろいろな人に聞いてみると、日本人のくせにバスでシンガポールに入ってくるということと、大きなトランクを持って入国してくる際に、普通の日本人だったら飛行機で来るはずなのに、飛行機を使わないでバスで移動するということは、怪しいものを運ぼうとしているに間違いないと考えられたのでは?と言われた。それって、シンガポール人が勝手に日本人に対して思っている妄想でしょう。押し付けられても困る。おかげで、こちらはこれからシンガポールでは指紋が常に確認させられるかもしれないのだ。シンガポールに導入されているシンガポール人にのみ利用可能な無人入出国審査のゲートが指紋によって使えるかというと、そうではないのである。何の利用価値もないのに、指紋だけとられることに対して、こんな侮辱的なことはない。
バスは最終的に、シンガポールの Golden Mile Complex に到着する。Golden Mile Complex は最寄りのMRTの駅は Bugis か Lavender になるが、どちらも駅からは少し離れているので、移動するのはちょっときつい。だから、タクシーを利用したいところである。

Melaka Guide
URL : http://tonyjsp.com/melaka/index.html

Glassland Bus Corporation
URL : http://www.grassland.com.sg/golden-schedule.html

Nyonya Culinary Experience (Malacca)

ホテル・エクアトリアル・マラッカが発行したニョニャ料理の料理本がある。ペラナカン文化の典型的なご飯であるニョニャ料理を自分で作ってみたいという人には、かなり楽しい本だ。全ページオールカラーで刊行されており、料理の選択や調理方法は、ホテル内に存在するレストランである「Seri Nyonya Peranakan Restaurant」の監修となっている。ただし、1人暮らしのひとが、この本で書かれているとおりに作ったら、きっと数日間は同じ料理を食べないといけない嵌めになる。というのも、基本的にこの本で書かれている分量は、すべて6名分の料理になっている。だから、自分の家庭の人数に合わせてその数値を読み込まねばならない。

値段 RM60.00 は決して本としてマレーシアでは安いわけじゃない。むしろ高い。でも、めったに手に入らないものであるため、実際にマラッカで購入するというのを考えた場合には安い買い物だろうと思う。
なお、この本は箱入りカバーがついている。ホテル内の喫茶兼ケーキ屋のところで買うことができるので、興味が有る人は買ってほしいと思う。絶対満足できるはず。

K5 The Street Bistro (Malacca)

夕ご飯に行く前に、無料なのを良いことに、ホテルのラウンジでケーキ類とコーヒーをバカ食い・バカ飲みをしてしまって、夕ご飯を食べることをすっかり忘れてしまった。そんなことをしているところ、ラウンジの窓から稲妻が光っていることが見えて、「もしかして、雨?」と気づいたときは、すでに外は滝のような雨が降っている状態だった。実際、自分は晴れ男と思っていたくらい、どこに出かけても雨に降られたことがないとおもっていたのだが、初めて雨に降られ、それも外を歩けないようなくらいの雨の量に出くわしてしまった。こんなに雨が降っているのでは外に出かけられない。不本意ながらもホテルで食べるかと決心した。まぁ、満腹ではないが、ある程度、腹が満たすくらいのケーキと飲み物を飲んだ後だったので、そんなにバカ食いをしたいとは思っていなかったので、ホテルに併設しているオープンカフェ風の店「K5 The Street Bistro」である。何を食べたのか、今となっては料理名はすっかりわすれてしまったが、写真だけは撮っておいたので、それを紹介したい。

Nyonya Curry Laksa
Homemade Prawn Dumplings with “Har Chai Min”外は雨なのだが、天井には大きなテントが敷かれているので、雨には全く気にせず食べることができる。夜だとかなりお洒落なオープンカフェスタイルのレストランに見えるので、結構地元のひとにも人気のようだ。だが、屋台なんかで食べるよりは多少値段が高いとおもわれる。この店がいいなとおもうのは、24時間営業をしているところ。いつでも腹が減ったらたべられるというものだ。だから、ホテルでルームサービスを頼んだら、ここから料理を持ってくると思われる。

Menara Taming Sari (Malacca)

マラッカのどこにいても目立つランドマークは、やっぱり展望台の Manara Taming Sari だ。高さ110mの高さまで上る、回転式の展望台である。ステダイスあたりを観光にいるときに、たまに回転しながら昇っていく様子を見ることがあるが、ほとんど動いているところを見ない。たいていは、長い棒が立っているようにしか見えず、もしかしたら、巨大な国旗でもはためく為の棒なのか?と思ってしまうほどだ。

実際に近くに行ってみると、まぁまぁ大きい展望台だということがわかる。

ところが、やっぱり展望台が動いていない。でも、客はそこそこ回転する展望台の乗り物のなかにいる。つまり、こちらから見ると、ガラスの箱の向こうに観光客がいるようにみえ、それはまるで動物園のガラスケースの檻の中にいる動物を見ているように、こちらから見える。展望台の上昇は、時間によって上昇するというものではなく、ある程度人が集まったら上昇するという、極めて観光客にとっては不快な運行システムをとっている。マレーシア人だから、やる気がないということもあるのだろう。まさか、電気代をケチるために動かさないというのであれば、それは本当にケチだ。

ちなみに、このタワーはスイス企業の技術を使って建てられたもので、マレーシアで一番大きな回転式展望台になっている。展望台自体にはもちろんエアコンが入っているため、蒸し風呂サウナ状態になることはない。全部で68人までは乗れるらしいのだが、そんなに乗る人はいないだろう。

いつ回転と上昇が始まるかわからない展望台に待ってでも乗りたいという人があるなら、ぜひ乗ってみたほうがいいと思う。なぜなら、この展望台の上からは、マラッカの市街地全部がみえるし、もちろん、マラッカ海峡を望むことができるからだ。

辛口批評の Lonely Planet では、「この展望台にいけば、あなたがどれだけ我慢強い人間かということと、展望台の素晴らしい景色の両面を知る機会を得るだろう」と書かれている。あぁ、そうですか、と言いたい。

Menara Taming Sari
Fee : RM20.00
Open : 10:00am - 10:00pm

海洋博物館 (Malacca)

マラッカが海港都市として発展したことを記念するために作られたのが、マラッカ海洋博物館(Maritime Museum Complex)だ。ポルトガルがマラッカにやってきたときには、すでにマラッカ王国が王国近郊の各国と交易を行っており、それは陸地での交易ではなく、海洋貿易をして反映していたために、当時では海の王様の1国だったポルトガルさえも息を撒いたという。

ポルトガルはマラッカ王国にやってきたあとも、東洋と西洋の間を貿易によって国へ大変な反映をもたらせたのだが、その貿易船のうちの1つ「フロール・デ・ラマール号」は、マラッカからトルコへ向かう際に、途中で沈没してしまった船である。その船を復元して展示しているので、遠めでもその船の大きさがとても目立つ。木造の船とはいえ、結構大きな船だ。この船の中も実は博物館になっているのだが、今回はここには入らないで通り過ぎるだけにした。

ナンシーキッチン (Malacca)

マラッカのチャイナタウンのところにも比較的有名なレストランがあるので、底に行ってみることにした。名前はナンシー・キッチン (Restoran Nancy's Kitchen)。名前から考えると西洋風の店なのかなとおもうのだが、これが全然、コテコテのペラナカン料理の店である。それなら、西洋人が経営でもしているのかなと期待したのだが、そんな期待が馬鹿だったことがわかるくらい、これもまたコテコテの福建人が経営している店だった。店内に入ると、あんまり広くはなく、それなのに、店の真ん中に巨大な円形のテーブルがあり、その周りに、4人がけのテーブル席が、狭い空間に置かれているようなものだった。前後のテーブル同士の間隔がとても狭く、互いに座った状態が一番椅子が引いている状態。だから、それ以上椅子を引くことができないので、後ろの席にひとが座っていた場合には立ち上がることだけでも大変だ。ましては、椅子自体も小さいので、この状態でデブでもやって来た場合には、もう目に当てられないほど混雑しているように見えることだろう。
店員は全員中国系なのかなとおもっていたら、どうみても中国系じゃないのが混ざっている。一番フロアの中を切り盛りしていたのは、たぶん肌が濃い色のひとだったので、インド系だったのだろうと思う。またはマレー人か。表で粽を作っていたおばちゃんは典型的な中国系の顔だったのでこれは安心。
さて、この店で食べたものは以下の通り。

・Peranakan Braised Pork (Sek Bak) : RM 10.00
・Chicken with Bean Paste (Ayam Pongteh) : RM10.00
・fresh spring rolls (popiah) : RM 8.00
・粽

粽だけは名前を控えてくるのを忘れていたが、店内のあちこちに、三角形の粽が吊り下げられていた。そういう釣り下がったところから、りんごの収穫のように捥いでくるから、なんとなく食べ物じゃないような気がする。豚料理についてだが、見た目は日比谷公園の炊き出し隊で配給している1杯のスープのように見えるのだが、これが全然違う。角煮みたいな豚肉が入っているのは、黒豆のソースと数種類のスパイスと野菜を煮て作った、ここのママ特製のスープなのだそうだ。何味?と聞かれると、なかなか答えにくいが、香草類が入っていることと、何かしらの野菜が入っていることはわかるが、日本の料理と比較すると何に似ているかというのが想像できないものだった。豚肉自体は何時間も似ているからなのだろうが、かなり見た目に比べるとかなり柔らかかった。鶏肉だが、これもまたよくわからない。ただ、キュウリ類の野菜と一緒に盛り付けられているのだが、それを味噌が上から掛かっているため、見た目はかなり不味そうに見える。ところが、これがまた美味かった。このソースがまるで、飲み屋で出てくるもろきゅーの味噌みたいに思えて、なすやキュウリのようなサイドメニュがこの味噌に漬けて食べるのが、ほとんど飲み屋感覚だった。この店に来ている客層も、自分たちと同じようにロンリープラネットを片手に来るひともいれば、インド系のように、ペラナカンの料理なんかに本当に興味が有るのか?というような人種偏見もはなはだしいようなことを思いたくなるような人たちも来ていた。もちろん日本人の女性観光客もやってきたのはいうまでもない。

Restoran Nancy's Kitchen
Address : Jalan Hang Lekir | Off Jalan Tun Tan Cheng Lock, Melaka, Malaysia
Tel: 062836099

セントポール教会 (Malacca)

スタダイスの丘の上に立っているセントポール寺院(St. Paul's church)はポルトガルがカトリックを布教する際に、ここを本拠地として活動した教会であり、1521年にオリジナルの教会は建設された。
丘の上に建っているので、スタダイスの丘を上って行くのは結構楽しい。しかし、脳天が解けそうなくらい暑いときに、この坂道を登るというのはちょっと嫌になる。しかし、坂道の道中に振り返って地上を見てみると、遠くマラッカ海峡が見えるくらいの高さのところまで来ていることがわかるし、海沿いに聳え立つ観光名所になりつつある回転展望台も見ることができるからだ。こういう風景を見ると、ちょっと俄然やる気が出てくるのは不思議だ。両側が芝生になっているレンガの階段を上っていくと、その階段の上のところには、ザビエルの白い像が海の方向を向いて立っているのが見える。このザビエル像も、ザビエル教会にある像とは違う顔つきをしているので、昔の人の顔はいったいどれが本当の顔なんだろうと想像すると楽しい。丘のてっぺんには、問題のセントポール寺院が存在するのだが、あいにくこの教会は崩壊されて、その残骸だけが残っているものだ。これはマカオの聖ポール天主堂が正面のファザードだけ残って、あとは崩壊しているのとちょっと似ている。だが、マカオの教会よりはまだ残っている部分が多いところが良いだろう。

セントポール寺院の残骸だが、丘の斜面に沿って建っていたため、よく見ると、斜面に建っている建物のあとだったということがよくわかる。よく都会の坂道においても、建物の建て方がまっ平らのところに建っている建物と違う建て方をしているのがよくわかるように、ここでもそれがわかった。もし現在でもこの教会が昔のまま残っていたら、どんなに奇麗な教会だったのだろうと想像すると楽しくなる。石のブロックを積んで作られているのが良くわかる教会の跡なのだが、内部に入ってみると、この教会が崩壊した原因を作った戦争の生々しい跡が残っているのがよくわかる。この教会、ポルトガル人が作ったことは述べたが、その後にマラッカにやってきたオランダと交戦をしてそのときにポルトガルは敗走する。オランダは、プロテスタントなので、カトリック教会を教会として使うことはしない。そのままこの教会を東インド会社の事務所に使ったが、そのあとにやってきたイギリスと交戦したことで、結果的にこの教会は崩壊する。そのときの戦争で使われた銃弾の跡が生々しく壁に穴として掘られているのが見られる。教会の一番真ん中には、ザビエルの遺体が一時保管された場所がある。最終的にザビエルの遺体はインドのゴアに埋められることになったが、中国で死んでしまったザビエルが遺体を運ぶ途中で、中継貿易地としてすでに発達していたマラッカに立ち寄ったときに、この教会に収められたのだと思う。

マラッカの中では一番小高い場所なので、太陽がめちゃくちゃ高い位置で見られる。そのおかげで日差しがとても強い。その代わりに日陰のところに行くと、風がそよそよ吹いているのでとても心地よい。

サン・フランシス・ザビエル教会 (Malacca)

オランダ広場をさらにラスサマナ通りをどんどん北上してみよう。この通りはひっきり無しに車が通っているので非常に危ない。なにしろ、マラッカの北部にある高速道路から街中に入ってくる場合には、まずこの通りを通ってこないと来れないからである。そんな幹線道路なのだが、幹線道路のくせに道幅が、片道1車線どおりなのでかなり車が混雑している。そういうときには、道路の端が、ペラナカン独特の建物になっているから、アーケード形式になっている歩道を歩けばいいと思う。ただし、歩きにくい。そんな通りをしばらく歩くと、いきなり目の前に真っ白な教会が見えてくる。ここがマラッカにあるフランシスコ・ザビエル教会(Church of St. Francis Xavier Melaka / Gereja Katolik St. Francis Xavier Melaka)なのである。日本人にはなじみの深いカトリックの聖職者であるあのザビエルに関する教会である。

ザビエルは日本に最終的にはやって来たが、その前には本国ポルトガルから東南アジアのあちこちを通って日本にやって来た。だから、ザビエルが立ち寄った土地にはザビエルを祀る教会が必ずといっていいほど存在する。一番有名なのはマカオだろう。そのほかにはここマラッカが挙げられる。

さて、教会の敷地に入って、教会内部にでも行こうかなとおもったところ、右側に石像が二体立っていた。そのうちの1体はザビエル本人の像である。しかし、日本の歴史で習ったザビエルの顔とは全く違うような顔にしか見えないため、最初はこの禿オヤジは誰だろう?と思ったほどだ。歴史の本に出てくるザビエルは、右斜め上のほうをみたチョビ髭を生やしたひとなのに、ここではすっきりした顔になっていたからである。もう1体、なんだか小学校の校庭に昔建っていた二宮金次郎みたいな石像があった。石像の足元を見ると「やじろう Yajiro Angero」というのが日本語とアルファベットで書かれている。実はこのヤジローというひとは、薩摩藩出身の人で、このひとがザビエルを日本に連れてきた。というのも、ザビエルが1547年にここマラッカにやってきたときに、ヤジローと出会い、彼の案内で1549年に薩摩藩主の島津貴久と出会い、そこで宣教の許しを得る。ここからは、日本の歴史に出てくるザビエルの働きだ。ただ、ザビエルは日本に2年しかいなかった。ザビエルは滞在中にカトリックの流布に努めたのだが、思ったほど成果を挙げられず、結局そのまま帰国してしまう。しかし、日本にカトリックの門を開いたという意味ではザビエルの功績は大きく、日本に連れてきたという功績ではヤジローの功績も大きい。そこで、鹿児島マレーシア友好協会というところが記念して2006年7月1日にこの2体の石像を立てたという。
さて、教会の内部はどうなっているかというと、まず白い壁と高い天井が映えていて、とてもすっきりした感じに見える。ごつごつしたキリストの肖像画が存在するのではなく、正面も派手すぎる祭壇があるわけでもないからなのだろう。
その代わりに、すべての窓枠のところには奇麗なステンドグラスが飾られている。ところが、ヨーロッパの教会のように、キリストの一生を順番に追って紹介しているというものでもない。肖像画として描く代わりに、キリスト教の話について題材になるようなものをいろいろ紹介しているという感じに見える。ただ、おもしろいのは、どんな題材なのかということをステンドグラスの下のほうに文字で説明が書いているのだが、英語・中国語・タミール語では書かれているが、マレー語では書かれていない。マレー語で書くことは、イスラム教だからということで、嫌われているみたいである。