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2013/09/28

ルードヴィヒ2世(映画)


最近のヨーロッパへの渡航で利用する飛行機の中では、機内エンターテイメントをあまり利用せず、ひたすら、寝る+ご飯を食べるくらいしかしないようにしていることが定番になっていたのだが、ロンドン行きのシンガポール航空では、機内誌をパラパラと見ていたときに、ドイツ映画「ルードヴィヒ2世(Ludwig)」が機内映画であることを発見した。ハプスブルグ帝国オタとしては、この映画を観ないとダメだろうと直感的に思う。

そういえば、同名の映画はイタリアの元貴族映画監督であるヴィスコンティによって随分前に作られていたことがあったのは知っていたので、てっきりその映画かと思っていたら、実はそれではなく、ワーグナー生誕200年を記念して作られた映画だった。それも出演している俳優・女優たちは、若い人たちばっかりで演技派ばかりだった。
この映画の主役であるバイエルン国王「ルードヴィヒ2世」役をしたのは、ルーマニア出身で歌劇団出身であるザビン・タンブレア(Sabin Tambrea)。ルードヴィヒ2世の有名な肖像画を誰しもが見たことがあると思うが、あの肖像画をそのまま現代に映し出し、動いた形で表現している俳優としては、本当にこの人が一番ぴったりだと思うような俳優である。華奢な体格で、色白で、背が高くて、見るからに気品があるような振る舞いができそうな俳優と言う意味では、この抜擢をした今回の映画監督は素晴らしいと思っている。なにしろ、ルードヴィヒ2世が後世「狂人」とか「同性愛者」と言われるゆえんになった、何ごとに対してもナイーブで純粋な思考と、そしてノイシュバンシュタイン城を作るくらいの情熱を持っていたハートを、この俳優はよく演じているからだ。
映画の内容としては、全体的に、ルードヴィヒ2世とワーグナーの異常な絆とその周りの取り巻きおよび政治情勢という感じで書かれている。

小さいころから音楽や読書に傾倒していて、馬術や武術に対しては全くと言って良いほど興味を持っていなかったルードヴィヒ2世に対して、父王であるマクシミリアン2世(Maximillian II)からは頻繁に「そんなんじゃバイエルンをまとめられない」と怒られていた。戦闘と戦略が国家を守っていくものと思っていた父王とは、水と油、静と動のくらい考え方に違いがあり、ドイツ連邦内で覇権争いをしていた大国オーストリア・ハプスブルグ帝国とプロイセン帝国の狭間でバイエルンが生き残るのは、戦闘ではなく、藝術の都としてバイエルンはヨーロッパの中であるべきだということアバンギャルド的な考えを持っていたために、全く相容れなかったのだと思う。

そんなときに、突然のマキシミリアン2世の死が起こる。皇太子として父王のサポートをする役割になっていたため、そのまま必然的に王になることになっていたのだが、もともと王として君臨すること自体も嫌がっていたので、周りから「王、王」と騒がれることに対して、最初の嫌気を刺す。日頃から考え方の違いから怒られていたのだが、そんなルードヴィヒ2世にとって父王が亡くなったことは一番のショックだったようである。

王になってやったことは主に2つ。一番最初にやったのは、幼いときに観た歌劇に感動し、それを作ったワーグナーを招くことだった。しかし、家臣たちはワーグナーに対する印象は悪かった。なにしろ、ワーグナーは1849年にドレスデンで起こったドイツ3月革命の運動の中心人物として振舞っていたのであり、それを知っている家臣たちは悪の元凶になるような人物がバイエルンに来ること自体が許せなかったのである。国家基盤を揺るがすような力と思想を持っているワーグナーをそれでもバイエルンに呼びたかったのは、政治思想というよりも、ワーグナーの音楽能力を高く買っていたからであり、老家臣たちに「20年前のドレスデンでの出来事は忘れろ」と説得していくところは、その時代背景を知らないと、何を言っているのか全然分からないだろうと思う。一方、ワーグナーにとっては、半亡命生活をするようになっていたわけだし、奔走し音楽活動ができない状態から、大国で金がそこそこあるバイエルンに招待されたことは、千載一遇の思いだったに違いない。

次にやったのは、芸術の中立国家を目指した国づくりだ。宮殿内の執務室をいきなり植物園並みにプランタンを運び入れて並べたりしたことには、さすがの家臣たちもビックリしたことだろうと思うし「こいつで大丈夫なのか?」と徐々に思い始めたのだろうと思う。そして、ヴェルサイユ宮殿のような宮殿に憧れていたので、藝術大国に相応しい城を作ることを目指した。それがノイシュバンシュタイン城である。

バイエルンが調子が良かった時代は、それでも良かった。問題は、プロイセンとハプスブルグの間で戦争をすることになった普墺戦争からである。このドイツ覇権戦争とでもいうべき戦争に対して、バイエルンはどちらの陣営で参加するかということだった。プロイセンのドイツ連邦からの脱退により始まったこの戦争を、バイエルンではプロイセンの背任だとしていたので、当然ハプスブルグ側に就くのは当然だと家臣たちは考える。ところが、意見や相談を既にワーグナーにいろいろしていたルードヴィヒは、ワーグナーからプロイセン側に就いたほうが良いということを言われる。家臣の考えとワーグナーの考えが真っ向から違うことで悩んだ末、「どちらにも就かない」という考えに一時期は陥る。なにしろ、もともと戦争なんか大嫌いの人物なのだから、どちらかに就けということを求められること自体が嫌なのだ。ただ、議会や家臣からはハプスブルグに就け就けと煩く言ってくる。戦争が起こると人が死ぬ。人が死ぬことに対して嫌気がしていたルードヴィヒも最終的には家臣の言うこと、議会の言うことを飲み、戦争への参加を宣言する紙にサインをしてしまう。サインをしたあとは、現実逃避をするかの行動に出る。こういう繊細なところの表現は巧いなと思った。

結果、バイエルンは敗戦する。多数の部下が戦争で死んだことの報告を受ける。内心は「だから言わんこっちゃない。あんな戦争に参加するからだ」と思っていた。のちに普仏戦争が始まる際には、プロイセンとともに「ドイツ」として戦い、フランスを撃破するのだが、そのときに、憧れのヴェルサイユ宮殿でプロイセンのヴィルヘルム1世が統一ドイツ帝国の皇帝として戴冠する式に参加することが、とても悔しくて仕方なかった。

いとこで、オーストリア皇帝のエリザベートの妹であるゾフィーと婚約するのだが、結局は婚約を解消する。それは映画の中では彼が同性愛者という形で描かれているのだが、それが納得いかない。何度もゾフィーのほうから「結婚はいつあげるの?」とリクエストされるのだが、「そのうち」という曖昧な答えを何度も出すことで、ゾフィーの父親が怒ったことが、より一層婚約解消に走ったことになっている。実際はどうなのかはわからない。このときの性的表現を、ゾフィーと結婚しなかったということと、かつて馬の世話をしていた家臣の1人に対して特別な感情を産むことになることで、同性愛者ではなかったかということを表現しているのだ。どこに惹かれたのかということは、映画の中では述べていない。なんとなく気に入ったから傍に置くようにして、そのうち仲がだんだん良くなるというありがちな描き方をしている。

その後、弟のオットー1世がキチガイになるのだが、それは戦争の後遺症によるもの。そのキチガイぶりを目の当たりにして、精神異常の世界に人間は陥るのは戦闘によるものだとより一層嫌気をさすことになる。

家臣たちは現実逃避していこうとするルードヴィヒに対して、「ルードヴィヒは政務を行うこと出来ないほどの精神異常者である」ということにして、王位から蹴落とそうと目論む。家臣たちはバイエルンの国家としてよりも、王が王らしく振舞わないことにイラついたことが原因だったようだ。最初は、精神病院化した城に隔離し、そこで異常病人のような扱いをする。こないだまで王だった人間をよくもまぁここまで虫けらのように扱えるなという、この突然の扱われ方の違いに、映画を観ているひともこころを痛むのだが、問うのルードヴィヒにとっても、こんなところで生きているのか殺されているのかわからないような生活を送るのは嫌だとして、湖に担当医者と行き、一緒に無理心中をするということで映画は幕引き。

若い頃のルードヴィヒを演じたザビン・タンブレアはすごいカッコ良いのだが、中年になってきたときのデブの姿になったルードヴィヒ役をしたひとは、やっぱり品がなさそうに見える。もともと、肖像画として残っているルードヴィヒの晩年の顔は、どこを向いているのか分からない。あの顔を忠実に表現している俳優だなと思った。個人的にはどうでも良いと思っている

映画はもちろん全面的にドイツ語なので、ドイツ語の勉強になるとは思うのだが、言葉が早すぎるために分かりにくい。そしてドイツ語もバイエルンの本拠地であるミュンヘンあたりで使われる上ドイツ語ではなく、標準語である下ドイツ語で話されているという点ではちょっと惜しいと思っている。

晩年は、戦争賠償金を支払うことで、国家としてのサイフが乏しい状態にはなっていたのだが、王は性懲りもなく、新しい城つくりにのめりこんでいく。そのうち家臣から「もう金が無いんです」と言われたときに「え?なんで?信じられない」と考えたとする俳優の表現が印象的。映画の中では、戦争に参加したのは自分が望んでやったわけじゃなく、乗せられて渋々言われたから参加するようにサインをしただけと思わせるような演劇をしていたことも、よく表現されていると思われる。

2011/02/12

十七歳的天空(映画)

2004年に中華圏で大ヒットした映画「十七歳的天空」は、ゲイに対して寛容的になってきている台湾社会では、喜劇として作られた映画であり、同世代のひとたちにも共感が得られると共に、それまで、ゲイに対して少しでも偏見を持っていたような人たちにとっても、ゲイの若い子も相手が単に同性だったというだけで、基本的にはノンケの若い子と同じようなことをしているものだというのが大いに受け入れられたものだ。しかし、上映に関しては各国ではかなり反応が違っていて、特に、「清潔・潔白・純粋」ということを国義のようにしているシンガポールでは同性愛の題材だからというだけで上映禁止になった経緯がある。日本での反応はどうかというと、一部の世界では話題になっては居たが、全国の大箱でロードショーということにはならず、マニアックな映画のみを上映するような映画館でのみ上映された。

しかし、この映画に出演している人たちは、その後の台湾映画および台湾芸能界、もっと広義的に言うと中華圏全体で活躍する俳優人がほぼ全員出演していると言うところも面白い。特にこのあとすぐ日本でも人気になり、すっかり最高潮まで上り詰めたがいまではどこでなにをしているのかわからなくなってしまった陳柏霖も実はここにチラッと出演している。

主演格の人たちにスポットを当てるとすると、主役の周添財(ティエン)役をしているトニー・ヤン(楊祐寧)はもうすっかり台湾のスターである。ただ、この映画でポッと出てきた俳優というわけではなく、それまではCMモデルとしても活躍していたし、テレビドラマへの出演としても活躍していた。一番のヒットは間違いなく十七歳的天空なのだが、それと同時期にプロモーションビデオとして、周華健の「傷心的歌」に出演したことも大きかったと思う。十七歳的天空も傷心的歌も、どちらも映像としては同性愛的要素だったことが、一般の人に衝撃を与えたことなのだと思う。特にプロモーションビデオは、曲もヒットしたのだが、プロモーションビデオ自体が曲を別にして一人歩きしたようなところがあり、昔でいうところのピーター・ガブリエル(Peter Gabriel)の「スレッジハンマー(Sledgehammer)」のPVみたいに話題騒然となったことが思い出される。そんな映画とPVのおかげで、すっかり「トニーヤンはゲイである」という意味不明なレッテルを貼られてしまったのだが、実際には全く彼はゲイではない。そのあと、いろいろな役柄を演じるようにしているのだが、どうしてもこの映画とPVの印象からは、一般人は印象を抜け出せず、岩下志麻を見たら「極妻シリーズだ」と思うくらいの脳裏を植えつけてしまったのは、彼のこれからの俳優生活には支障だったかもしれない。が、それでもいろいろな役を演じることで払拭しようとしている努力はしている。

映画の中のもう1人の主人公であるプレイボーイ役を演じたダンカン・チョウ(周群達)は台湾人ではなく香港人である。映画の中でもビジネスパートナーであるジュンとの間は、たまに広東語で話している場面が出てきて、他の役柄から「やいっ、広東語で喋るな。わかんねーじゃないか!」と怒鳴られる場面もある。このダンカン・チョウは、この映画のあと、飛輪海のメンバーが出演したテレビドラマ「花樣少年少女」で出演したのだが、あまり台湾の映画やテレビドラマで拝見することは無かった。

映画としては、田舎に住んでいた高校生が夏休みの良い思い出を作るために、台北にやってきてひと夏の経験をしてしまうというもの。それも相手が、台北のゲイの間では誰もが知っているプレイボーイで、やったあとはすぐに捨てられてしまうという色男。妄想癖100%の高校生のガキが都会にやってきて、年上の金持ちリーマンとの恋愛に発展してしまうということは、それ自体がもう喜劇であるとしかいえないが、脳みそのなかに花が咲きまくっている高校生にとっては、雑誌や本でしか知りえなかったことが本当のことだと思い込んでいただけに、現実の人間関係にぶつかってしまうと、困惑してしまうというのも良くありがち。しかし、この映画の面白さは、この主演2人の周りに居る人たちだろうと思う。ドラッグクイーン丸出しという人もでてくれば、ゲイバーに勤める友人も出てくるわ、ジムのインストラクターのゲイも出てくれば、普通の世界でも「いる、いる、そういうひと」というような人たちがたくさん出てくるのである。それも誇張して。そこが面白い。

映画としてはとても面白いものなのだが、肝心の書物になったものが刊行されて、内容を読んでみてがっかりした。というのも、映画の内容で場面の都合上映像化できないような内面的な表現が文章化してくれるのかとおもって期待したところ、それが全く無い。ほとんど映画の内容をそのまま文字化しただけのところなのだ。こんな本は読む気にならない。だいたい文庫本になったのはいいのだが、その中身が、まるで水嶋ヒロのような小説みたいに文字がデカい。なので、横浜から湘南新宿ラインで新宿に到着するまでに読み終えてしまったくらいの内容である。内容を知っているからということもあるのだが、内容が薄いのである。映画の補完に過ぎないのだが、補完にもならない。ブックオフで100円のワゴンセールで売られていたから買ったようなものの、こんなもの定価の590円を出して買いたいとは全然思わないものだ。

小説から映画になったものであれば、小説はかなり内容が濃いものなので読み応えがある。しかし、概して映画が初めで、あとに小説が刊行されたものに対しては、全くといっていいほど内容がヘタれなので読んでいる時間がもったいないとおもうくらいである。この本はさっさとまたブックオフに売ってしまいたい。


小説「僕の恋、彼の秘密(原題:十七歳的天空)」
著者:チョン リン
翻訳:松繁 梢子
脚本:ラディ ユウ
出版社: 竹書房
出版日:2005年12月9日


2010/12/28

インセプション

羽田から台北に向かう便の中もう1本の映画「インセプション」を観た。この映画、人の脳みその中身を盗み取ってしまおうという基軸で、その脳みそ中で考えている内容を盗まれないようにしようとする対抗基軸と、ちょっとアレな世界で対決するというものだ。盗人のほうのボスがディカプリオで、盗まれまいとしているのが渡辺謙である。

もうすっかりハリウッド映画の中で、日本人を演じる上でボス役をする際の役割として渡辺謙は外せないものになったことは、それだけ世界が渡辺謙の演技と、演じることへの美学を吸収し認めていることだから、たくさんの映画に起用されているのだろうと思う。

映画の内容は、アレの世界の中で繰り広げられる話なので、ちょっと正常な目線で見ると意味が分からなくなる。実際の世界で武器を使って、殺し合いをするということではない。あくまでも精神世界のなかで、ターゲットとなる物体を盗もうとするものと、盗まれないようにするという戦いなのである。その戦いが、作り出された精神世界の舞台によって、どうすることが「盗む」ことに該当するのかというのは、舞台によって異なる。盗もうとする人は、できるだけ自分が作った土壌へ盗まれる人を盛ってこようとすれば、自分の作った世界なのでいかようにもコントロールできるだろうということだ。しかし、盗まれないようにする側もその防衛として、作られた世界をぶっ壊して、世界を作った人間の制御できないような防戦をする。

あくまでも精神世界の戦いなので、戦っている間に、実世界では一種の催眠状態になっていて、正常人間から見ると、催眠状態になっている人たち同士は、単に眠っているだけにしかない。映画の中でもたまにその場面が出てくる。そして、正常世界でのちょっとした出来事がトリガーになって、精神世界でも考えられないような展開に話が膨らむというようなこともできる。

その精神世界に入るこむ方法というのは、これまた奇抜である。催眠術が「あなたは眠くなーる」と眠りに落とすのではない。極限の死に近い状態に肉体を近づけさせることで行うのである。映画の中では、橋から車を突き落とし、その中で催眠状態になり、いろいろな精神世界にいきわたるのである。だから、はっきりいって、見たあとの感想としては、なんじゃこりゃ?とおもったのは確かである。

現実逃避をすることを趣味にしている精神的にイッちゃっているような人は結構いるが、これがまた対決には関係ない人物として出てくる。主人公の妻役になっている人がそうだ。普段から夫婦で、あっちの世界に現実逃避をすることで、自分が生きていることへの確証と安定感を求めようとする妻に付き合うことで、妻の生存意識を安定化させているという、とてもアレな人たちを演じている。これだけでも、かなりドキュンな感じがするが、それを映画にしているということは、観ている人も、自意識をめちゃくちゃ変更させないとまともに観られないんじゃないのかなとおもう。

映画をみたあとに、とても疲労感が出てきた。あの映画はもう一度観てみたいという映画じゃないなという感想を残して。

インセプション:Inception
URL : http://wwws.warnerbros.co.jp/inception/dvd/
上映公開日:2010年7月23日
配給: ワーナー・ブラザーズ
監督:クリストファー・ノーラン

エクスペンダブルズ

羽田から台北に向かう便の中では爆睡できなかったので、ご飯を食べている間以外はずっと映画を観ていた。まずは1本目として、シルベスター・スタローンが監督・主演している映画「エクスペンダブルズ(The Expendables)」である。この映画、内容よりも出演者のことが話題になったということだけが脳裏に残っていたので、どんな映画なのかなと少し気になっていた。

なにしろ、出演しているメンバーというのが、全員のギャラだけで一体いくらするんだろうということと、こんなメンバーを集められるのは、スタローンの交友関係じゃないと集められないというところだろう。

・「トランスポーター」でアクション演技が光っていたジェイソン・ステイサム。
・「ロッキー4」ではその存在がめちゃくちゃ印象に残るイワン・ドラゴ役をやった、ドルフ・ラングレン
・「ダイハード」シリーズで有名になり、禿の仲間では「にいさん」と言われるようになってしまった、ブルース・ウィルス
・知事の仕事が忙しいのになぜか出演していた、アーノルド・シュワルツェネッガー
・「猫パンチ」は誰でも記憶に残っている、ミッキー・ローク
・「少林寺」のジェット・リー

こんだけ主役級の人ばかり集めてみたら、一時期のスーパースターばかりをあつめてみたジャイアンツみたいに、内容が面白くないと、本当にどうしようもないような映画になるだろうなと思った。それも、映画の内容が、ドンパチもの。かつてのマッチョ系の人たちも、さすがに50歳や60歳代にもなっていて、それでもドンパチものに出ていたり、格闘シーンをやっているので、爺たちの戯れにしか見えないだろうなというのが、映画を観る前の勝手な想像だった。

映画のストーリは簡単に述べると、南米にある独裁国家の将軍を打倒するようにCIAより元グリーンベレーのメンバに指令が出る。だいたい、この設定自体がおかしい。現役のメンバではなく、引退した爺さんたちに指令を出すんだから変なのだ。ただ、そういうツッコミどころを気にしてたのでは、この映画を最後まで観ることは出来ないだろう。この映画の楽しみ方は、映画の内容を観るのではなく、それぞれの出演者の演じ方だけをみるべきだと思う。

分かりやすいところから観てみよう。

主役のスタローンは、友達なのか親友なのか分からないほかのメンバーよりももちろん出番が多く、一番かっこよく映っている。しかし、やつももう年齢は60歳オーバー。老体鞭打ちの格闘シーンがたくさんあるため、そのシーンが出てくるたびに、そんなにジジィをいじめるなよーと戦っている相手に対して憤慨してしまうような気持ちになってしまった。まるで、ジャイアント馬場が、リング上で戦っているときに、相手に選手が大げさな演技をして馬場の攻撃を受けているのを観ているのと同じだ。

シュワルツェネッガーは、映画の中では「協力できない」と仲間にならない宣言をするために教会にやって来るシーンで現れる。しかし、そのときのシュワルツェネッガーは、かつての映画の中でのムキムキな体型を披露しているわけでもなく、顔も皺くちゃで、だぼだぼの体にあってないようなジャケットを着て出演しているのだが、その姿が、さすがにしばらく映画に出演していなかっただけあって、ほとんど素人が出てきましたというような演技だ。こんなにこの人へたくそな演技だったのだろうか?といわんばかりのものだ。そして、現在、カリフォルニア州知事をしている彼だが、映画の中のセリフとして、仲間に協力できない理由が「大統領になるための準備に忙しいからな」である。なかなか笑わせるではないか。

ちょい役だったのだが、ブルース・ウィルスも見逃せない。映画の中では伝言役として出てくるのだが、そのときの様子があまりにも影が薄いのである。もっと長い場面に出演していればいいと思ったのだが、契約の都合なのかそれともブルース・ウィルスを起用する際の的確な役が無かったのか、短い出演を探してみたら良い。

一番笑ったのは、ドルフ・ラングレン。ロッキーのときのイメージしかなかった彼の演技が、ここまで映画の中で馬鹿な子のように演技しているのには、なにか痛々しさを感じてしまう。役柄、ヤク中になってしまっているというのだが、まるで壊れたロボットみたいな動きなのである。最終的には、仲間だったジェット・リーと戦うことになるのだが、背の高いドルフラングレンは、背の低いジェットリートの戦いの際、鉄骨が背の高さに存在するところに引き込まれてしまうことで、うまいこと戦えない。その様子も「馬鹿だな」と思う。もっと天井が高いところに誘い出せばいいのにとおもうのだ。

ミッキー・ロークは、諜報員・破壊工作員が集まるバーの店員をやっているのだが、ナイフの使い方はぴか一という役。ただ、彼もほとんどヒッピーのような格好で出ているので、最初、「誰?」と思ってしまった。落ちぶれたと思われるおやじが、ダーツの的をナイフで建て続けて真ん中にぶち込むというのは面白い。

ジェットリーは、やっぱり武器を使わず、肉体を使った格闘シーンだろう。背の高い人間達に囲まれているところでは、背の低さを馬鹿にされるようなことをされるのだが、それも愛嬌。でも、実際彼はもう50歳。少林寺のときのような技の切れは、さすがに無くなって来ているのだが、ドンパチものの映画の中ではその衰えは見え難いので、問題なし。ただ、もっとカンフー的な要素が出ていればいいのにと思うのだが、どうも洋式の戦い方に変わっているところが気に喰わない。

やっぱり、映画の中で一番輝いていたのは、ジェイソン・ステイサムだろう。年齢も実際には若いという理由もあるのだが、ジェット・リーに負けずと劣らず、空手技・足技の応酬で相手を倒していくところは圧巻だ。切れが良い。そして、無口で黙々と殺人マシーンのように殺したり倒したりするところが良いと思う。あまり、ぎゃぁぎゃあ騒がないところが爽やかだ。ただ、彼を見ていると、なぜかジャン・クロード・ヴァン・ダムといつもダブって見えてしまう。同じヨーロッパ白人だからなのだろうか?でも、ヴァン・ダムは腕による戦いは全くせず、ほとんど足技でしかやらないので、戦いのシーンを見るとイライラする。この映画では出演していなかったので、その出演が見れなくてちょうどよかったと思う。

ストーリはどうでもいい独裁国家撲滅が成功するということで終わる。そんなストーリはやっぱりどうでも良い。役に立たない独裁者が元CIAの悪人とグルになって悪いことをしているというところが、あまり悪そうに見えないところも、話に矛盾がでてくるような感じだ。

原題:The Expendables
URL : http://www.expendables.jp/
劇場公開日:2010年10月16日
上映時間:103分
製作国:アメリカ

映画「モンガに散る」の撮影現場

2010年台湾映画で一番の大ヒットといえば、映画「艋舺(日本語タイトル「モンガに散る」)」で、1970年代頃の今の萬華あたりのヤクザとチンピラもどきの抗争と、台湾人ならではのプライドと仁義という、日本のヤクザ映画に通じるものが台湾人にも心に染みたのだと思うが、なぜかあまり日本では話題になっておらず、東京国際映画祭で上映されたときくらいしか話題になっていないような気がする。個人的には2010年では一番素晴らしい映画だと思うのだが、日本での台湾映画の人気の無さをここまであらわしているのかと少し残念だった。

たまたま龍山寺に出向いて、そのまま帰るのはもったいないから、龍山寺の周りを散歩デモしてみようと試みてみた。というのも、龍山寺の周りは台北の中でも一番古い町であり、本当は一番面白い場所なのだと思うのだが、これまであまり広範囲において龍山寺の周りを歩いたことが無かったのである。

ぷらぷら地井散歩みたいな感じでうろうろしていたところ、なんだか古めかしい建物があったので、これは面白そうだと、ちょっと寄ってみた。映画の影響で作ったのかよくわからないが、萬華の古い町をそのまま残したい運動がどうやら映画をきっかけに起こったらしく、期間限定で映画「艋舺」の撮影のときに使われていたセットや衣装や小道具が展示されていたのは面白かった。それを目当てにやってきた映画をみたファン達もたくさん訪れていて、もともと萬華はなんとなく爺さんたちが集まる町だと思っていたのに、なんとなくジジィ色が色あせて、若い人たちが集まってきていたのはなんともおもしろい光景だった。そのセットというのは、映画の中で、ドラゴン親子の家でご飯を食べるシーンが何度か出てくるが、そのシーンで出てきた回転テーブルや麻雀台である。結構そのご飯を食べているシーンというのは印象的だったので、よく覚えているのだが、そのシーンがそのまま残っているというのはなんだか自分があのシーンの中に引き込まれているような感覚になるので面白い。衣装にしても、映画に出てくるあのチンピラ5人衆が来ていたそのままの服が展示されている。映画のときには、出てくる人たち全部がへんてこりんな服装だったので、あまり気にしなかったが、現代のそれも現実の世界にあの服装が出てくると、これほど変なデザインの服はないなーと思う。日本でもたぶん1970年代頃のファッションとしては、映画に出てくるような変なデザインも一般的だったと思うので、他人の国のことは笑えないなとおもう。なぜなら、そのころの日本はサイケデリックブームだったはずなので、奇抜なデザインやちょっと風変わりなデザインが一番流行だったからだ。でも、いま来たら、絶対似合わないと思う。映画の中では乱闘シーンが何度も出てくる。最初は素手での殴り合い。これは別に血が出るだけだし、誰も死ぬことは無い。後半になって、ドラゴンのセリフがだんだん少なくなってきて、5人組のうち、スポットライトが当たってくるのがモンクとモスキートの2人になってくると、乱闘シーンも飛び道具やナイフや剣を使ったシーンが出てくる。それもこれも、少林寺ならぬ戦闘の訓練の合宿に連れ出されたシーンが出てくるところから、戦闘シーンも血なまぐさくなる。そうなると、本当にヤクザの乱闘と変わらなくなってくる。そのときに使われていた短剣や銃のモデルが展示されているのも面白い。日本統治時代の名残なのか、日本式の短剣もあれば、大陸から新興勢力としてやってきたヤクザが持ち込んできた中国式の剣もあるので、台湾は武器だけをみても、いろいろとミックスされているところなんだなというのがよくわかる。そんな映画のセットのほかに、萬華を中心として中国大陸からやってきた漢族の氏族の歴史みたいなのが展示されているエリアもあった。中国式の名字は、その名字自体を保有しているとその祖先がどこの出身かわかるようになっている。が、台湾の場合、福建省からやってきた民族ならわかるが、原住民もいまでは漢族式の名字を使っているので、そういう人たちまで出身が適用されるかというと、かなり疑問である。だから、こういう展示物を置いているという理由がよくわからない。確かに萬華あたりの土地は、元々の原住民を追い出して漢族が住み着いた場所では有る。が、漢族が偉くて原住民が偉くないというのを示しているみたいで何か面白くなかった。展示している内容も内容なので、映画のセットがおかれているところと対照的に、全然人が入っていなかったのが笑える。
「モンガに散る」公式日本語サイト
http://www.monga-chiru.com/

電影《艋舺》官方部落格
http://mongathemovie.pixnet.net/blog

2010/12/27

新竹映像博物館

市庁舎の前を歩いていると、突然、映画の撮影機の歴史的展示物みたいなものが現れた。どうやらここは新竹市が管轄する映像博物館である。
入館料は無料であるが、日本統治時代から作られていた映画について、台湾でどのように発展していったかというのを紹介されている建物である。日本時代の映画作りは、最初は日本という国を台湾人に紹介するための教科書映像的なものを作っていたのに違いない。今ならテレビという宣伝ツールがあるが、当時はそんなものがないし、視覚的に洗脳するのは一番手っ取りはやいことだからであるからだ。次第に戦時的なものに内容が変わっていっただろうが、そのとき、映画に対する見る側の気持ちはどうだったのだろうか?実際に今回はこの建物の中に入ったわけじゃない。だから、台湾の映画がどのように成長していったのかというのは資料として博物館にあると思うが、それを見たわけじゃない。しかし、実際にこの建物に行く前には、台湾の映画について多少の知識を入れておいたほうがいいかもしれない。そういう場合には、小山 三郎著の「台湾映画―台湾の歴史・社会を知る窓口」を知識として読んでおいた方がいいだろう。新竹市文化局影像博物館
URL : http://www.hcccb.gov.tw/chinese/16museum/mus_b01.asp?station=101
開館時間:水~日 9:30~12:00、13:30~17:00、18:30~21:00
入館料:無料
住所:新竹市中正路65号.
TEL:03-5285840
FAX:03-5285843

台湾映画―台湾の歴史・社会を知る窓口
著者:小山 三郎
出版社: 晃洋書房
発売日: 2008/11

2010/11/14

海角七号

台湾で2008年の夏休み映画として空前の大ヒットした映画「海角七号」は、メイキャップアーティストのトニー田中の娘が主人公として活躍したり、歌手の中孝介が出演した映画としても日本でも話題になっていた。ネットでもダウンロードは出来たとは思うのだが、実はなんだかんだいってこれがダウンロードできない状態だったために、どういう内容の映画なのだろうというのは気になっていた。ウェブでは大体の内容は知っていたのだが、大ヒットになるということは、どういう点がヒットに結んだ内容なのかというのは知りたかった。

台湾に行ったときにDVDでもあれば買えば良いかなと思ったのだが、結局手に入らない状態だったのだが、本屋でたまたま見つけたのが書物版の「海角七号」である。

内容をあまりしないでネットでいろいろ書かれている内容だけを勝手に鵜呑みにしていた最初の印象は、へっぽこバンドが台湾の南にある屏東の村でサクセスするストーリーと、敗戦により台湾から撤退する日本人との間にできたラブストーリーを無理やり絡ませた映画だとしか思っていなかった。

ところが、実際には登場する人物全員が映画の中ではとても重要な役割を持っていて、話の裏側には、人間関係というのは偶然の重なりによって成り立っているということだろう。それと、人間にはいろいろな過去を背負っており、その過去と上手につきあっていけるか、それとも過去は忘れて前向きに進んでいくだけかということを考えさせられる映画だったと思う。

もちろん、映画の背景には、日本の敗戦により日本へ強制帰国しなければならなかった日本人教師と台湾人学生という古い時代の出来事を、手紙という形で離れ離れになってしまった間を詰めていきたかった残りが現代にも「偶然」娘が発見して、そのなかで出てきた相手というのは一体どういう人なのかということから話は始まる。せっかくの手紙は本来送り届けるべき相手に送る必要があると考えた娘が、いまは存在しない台湾の土地の住所に送っちゃうことで、現代に時代は戻り、台湾でどたばたが始まるというもの。このドタバタ自体が、また個性あふれる人たちで構成されていて、よくもまぁ、こんな小さな場所にこれだけバラエティな人が「偶然」にも集まってくるものなのだろうか?というような内容である。話の中心は、台北で一旗上げられず、夢破れて故郷に戻ってきた歌手と、これまた日本から留学のついでにモデルになった、中途半端な顔の日本人が、モデルではなく結局台湾人モデル達が現場で活躍できるために、半分マネージャー的な役割になってしまって、もう日本に帰りたくなっている日本人女性が展開する話だ。

今回は小説版を読んだだけなので、実際に小説に書いているような内容をどのように映像化したのかというのは、まだ映画を観ていないのでなんともいえないのだが、文章だけを読んだだけでは、一気に読みふけてしまったし、台湾の中の残された日本と、台湾が本来から持っている温かみというのも小説に登場する人物のキャラクターを通して、それはよく感じ取ることができたし、特に台北のような都会で繰り広げられる人間関係ではなく、南部のそれもド田舎といってもいいような場所での心温まる人間関係がなんとも楽しそうに脳裏に映った。

本を読んだだけなのに、なぜかやりとりがされている、行ったことも無い場所の景色が見えてきて、映像の中で演技している人たちの顔を見たことがないのに、どういう感じの人が演技しているのかというのを久しぶりに脳みそを使って妄想ゆんゆんに働かせた気がした。そして、この小説を読んで、輝く太陽と綺麗な海がある墾丁の国定公園に行ってみたくなった。

海角七号 ~君想う、国境の南~
原作:魏徳聖
小説:藍弋豊
訳:岡本悠馬, 木内貴子
出版社: 徳間書店
出版日:2009/12/17
単行本 : 256ページ

2010/09/28

未来警察

香港映画の醍醐味はなんといっても武器を使わない武道を使ったアクションムービーだ。格闘技なしの香港映画は、香港映画じゃない。これは香港映画のスタッフがハリウッドのスタッフになっても変わらないスタンスだとおもう。いつから「香港映画=アクションムービー」の図式を作られたのかわからないが、そこは、ブルース・リーとジャッキー・チェンの2人の功績は大きいと思う。人間と人間が本当に手足を使って戦うのは、ローマ時代のコロッセオで奴隷の剣闘士たちが戦うところを観る興奮と合い通じるものがある。武器フェチであれば、アメリカの戦争映画のように、ドンパチ激しいものが好みだろうとおもうが、個人的には肉弾戦になる香港映画のほうが好きだ。言い換えれば、香港映画のくせに、武器ばかりを使ってしまう映画だったら、見る気がしない。

さて、そんな前振りをしてしまっているが、シンガポール航空の機内でみた香港映画「秘密警察」について考察したい。確か、同名のアメリカ映画がかつてあったような気がするが、そのリバイバルなのだろうか?と一瞬思った。基本的なコンセプトは未来の警察を舞台にするドラマだということは変わらないが、話の内容は全然違うと思う。

今回主役に抜擢されているのは、香港映画の雄であるアンディ・ラウ。いかにも香港人臭い顔をしている男で、日本でも人気がある俳優の1人だろう。アンディ・ラウが出演する映画だから、もちろん手足を使った生の格闘が観られると期待するではないか。そして、共演者は台湾の女優のバービー・スー。いわゆる大Sと呼ばれている人である。この二人の競演が中華圏ではどの程度期待度の高い映画として認知されているのかよくわからない。そして、台湾のイケメン俳優・賀軍翔も出演している。どちらかというと、アンディ・ラウよりマイク・ハーのほうを観てしまいそうだ。

と書いたものの、実際、これを書くまでマイク・ハーが出演していたということに全く気づかなかった。実際には、アンディ・ラウとバービー・スーが所属する警察署の署長役として出演している。映画中では、飛び降り自殺を敢行しようとする女性を屋上から救出するとともに、「もう誰も私を好きになってくれない」と嘆いている女性に「僕が好きだ」と意味不明な喜劇というかコントを繰り広げて、なんじゃこれ?と言いたくなる様な役を演じていたあのボケ署長だったとは気づかなかった。マイク・ハーは、かっこいいイメージしかなかったのに、あのボケ署長の役は、確かに見た目は色男ではあるが、なんだか間抜けな人にしか映らない。マイク・ハーをそんな変な役に使った監督を恨むと勝手に憤慨してしまった。あと、昔のかっこいいマイク・ハーのイメージしか持っていなかったが、それから比べてオッサン化したから、映画を観ているときには全然気づかなかったのかもしれない。大丈夫か、マイク・ハー!

映画の内容は、近未来の香港を舞台にしている。当然このときには、香港ではなく中国バリバリになっていることだろうが、そんなことは一切無視である。警察が悪と戦うのは何も未来だから起こるわけではなく、警察システムが出来上がったときから、こんなのは続いている。ただ違うところは扱っている武器と、悪人の犯罪の目的だろう。未来なので何でもありの設定ができるという意味では、ストーリーは好き勝手に作れる。香港で行われた歴史展に改造人間化した悪党たちが地下からやってきて、香港市長をさらおうとするところから始まる。警察は、全員出動でこの改造人間化した4人組から市長を守ろうとするのだが、4人組が、まるでX-Menみたいに人間とは思えないような動きをしているために、生身の人間では歯向かえない。なんとかショベルカーにたくさん烏賊のようなアームを付けた車で対決するが2人までしかやっつけられなかったところから、アンディ・ラウ自体が人造人間に改造されて「スーパーマン」として活躍するという、なんだこりゃという映画だ。

話としては、ドタバタコメディに近いというべきなのか、それとも恋愛ものといっていいのか、なんだかわからなくなってしまうのだが、はっきりいってB級映画であることは間違いない。こんなものがヒットすること自体がおかしい。そして、冒頭で書いたが、香港映画だから格闘のシーンが気になるのだが、生身の体ではなく、決して飛び道具は使わないが、人造化した半武器で戦うので、戦うシーンが出てきてもあきれる。その動きがスムーズでなく、初期のアニメかーというくらいぎこちない動きをするために、観ていてもっとイライラした。

未来の警察官で改造されたアンディ・ラウが扮するロボ警官が現代にタイムマシンで移動してきて、これまたタイムマシンで過去に戻ってきた悪党と戦う際に、携帯カメラの動画を使って子供が撮影をして「すげぇスーパーマンを見たよー」と話題沸騰になる。それが同級生の女の子のお父さんがなっていたという想定なので、話がいっきに広がってしまうのだ。そして、悪党の弱点が心臓の部分をぶったたくと、機能停止で死んでしまうということを知るまでの長いこと、長いこと。殴る・踏みつける・ぶった切る、なにをしても死なない悪党にたいしてなすすべがないと半分諦めているところ、偶然、空飛ぶパトカーを使って悪党の1人を建物の壁との間に挟まって殺すというシーンで、心臓部分に当たったことから偶然知るという、これまためちゃくちゃなストーリー。

今回わかったのは香港映画でも、こんなくだらない映画があるだなということ。もっとまともな映画かと思って期待してみた自分がバカだった。これだったら、眠い目をこすって2時間くらいの長さの映画を観ているより、さっさと機内で寝てしまったほうがよかったかもしれない。

それにしても、マイク・ハー、もっといい映画を選んで出演してほしい。このままだとコメディ俳優になってしまうぞー。顔がカッコいいんだから。

艋舺

2010年の正月映画として台湾では空前の大ヒットを飛ばした映画「モンガに散る(原題:艋舺[monga])」は、是非機会があったら観たいと前から思っていた。ここ数年、台湾映画はすばらしい内容の作品が毎年必ず1本は出てくることが定番になったし、それが台湾人だけではなく世界的にヒットする映画に発展することもお決まりになっていた。その中でもこの作品は、俳優陣が個性豊かであることは宣伝時にも知っていたので、ぜひ、その活躍を見てみたいと思っていたからである。

台湾映画のここ数年の輝かしい実績は、もともと映画の土壌があった台湾に各種の文化的要素がミックスされたために、あの小さい島なのにも関わらず、豊富な作品が産まれているのがすばらしい。ただ、日本で言うところの太秦や調布のような映画の町という大きな環境は台湾にはない。故宮博物院近くに中影文化城というのがあるのだが、これがまたショボいくらいショボい。勘弁してほしいくらいである。冷やかし半分に行ってみたところ、確かに昔の映画に使えそうなセットはあるものの、そこで映画の中の出演者に扮したりするようなことはしたくないし、また、お化け屋敷のようなものがあり、それを小さいトロッコのようなものに乗って移動しながら見ることができるのだが、これまた、あっという間に終わるし、何が楽しいのだ?というくらいつまらないものがある。作品を作ってもそれをベースに商業化するような土壌は台湾にはない。

さて、今回の映画にしてもそうだが、舞台は実際の街を使っており、特別のセットを組んで撮影をされたようには思えない。資源の有効利用という意味では実に理に適った方法を採用されているように思える。

出演者についても、やっぱり主演のイーサン・ルアン(阮經天)はカッコいい。モデルあがりのためにスタイル最高。実は彼が出演したドラマをこれまで見たことがなかったが、台湾渡航時に購入する雑誌類では何度か顔写真を見たことがある。動いている、喋っているイーサン・ルアンを今回の映画で初めて見た。飛輪海のメンバが多数出演していた、台湾のテレビドラマ「花ざかりの君たちへ(花樣少年少女)」の中にも出演していたようなのだが、全然出演していることに気づかなかった。眼力があり、スッとした顔立ちをしているイーサン・ルアンだが、やはり映画の中でもひと際重要な役柄になっていたのは良くわかった。役どころは、街の不良グループの副番長的な存在で、成績優秀な不良という、一番やっかいな役だ。映画の中では、不良の要素は出すが、素行が悪い人という役を演じているわけではないところがとてもすばらしい。どこまで演技として勉強したのかわからないが、自然な形で演じているのが観ていてすかっとする。しかし、この役、最後には裏切り者という2つの組織を行き来する面倒くさい役でもあるため、大変難しかったことだろう。

ストーリのことを述べる前に、イーサン・ルアンのことを記載してしまったが、これまた話が良くできている。台湾の映画はテレビドラマもそうだが、構成と内容がよく考えられているものが結構多い。「花さかりの君たちへ」みたいのは、日本のドラマのように、演者ありきの内容で、原作にはあまり忠実に表現していないというものもたまにある。もちろん今回の映画はちゃんと練られた内容の作品だ。

1980年代の萬華地区を舞台とした、不良グループの青春物語というのが主体である話だ。しかし、それに大人の世界が加わることと、台湾ではいまだに根が深い、本省人と外省人との抗争、それと近代に入って各国で問題化されている「いじめ」という、全く異質で複雑な要因を綺麗に、見事に、そして誇張せず、現実の世界に合わせた目線で表現しているところが素晴らしい。そして、何事よりも仲間や所属グループへの契りを大変大切にすることに対して生じる犠牲についても、細かい描写ながら表現しているところがすごい。大人の世界でいうところの結局は権力闘争に巻き込まれることになるのだが、そのときの立ち位置によって、人生が変わってしまうというのは、なにもヤクザやギャングの世界だけではなく、一般企業の中で、組織というところに属している限りにおいては同じことだ。やっと仲間という心を許せる他人を見つけたことにより、その仲間を何事よりも大切にしようとする主役のモスキート(蚊子:マイク・チャオ演, 趙又廷)と、最初から所属はしていたが、敵対勢力との共存と組織を離れて町全体を守ろうとしたために、結局は仲間を裏切ることになってしまったモンク(和尚:イーサン・ルアン演)。大きな組織に属していると、だいたいこういう両極端な立場になるような状況というのは陥る場合もある。自分だったら、どちらの立場になるだろうか?というのは、映画をみながら思った。複雑な人間関係、そして台湾ではどうしても日本に対する思いというのが切っても切れない要素のひとつとして映画には登場し、それが絵葉書の中の富士山と桜という日本を代表する風景で表される。

映画の中でも印象的なセリフがいくつかある。一番気になったのは、序盤に出てくるが、モスキート登校初日に不良グループに因縁をつけられ対決する。そのときの様子を見ていたドラゴン(志龍:Rhydian Vaughan, 鳳小岳)のグループが気に入り、モスキートを仲間に入れる。因縁をつけてきたグループを呼び出して殴らせようとしたが、モスキートは何もしない。じれったい時間が経過したあとに、ドラゴンの指示でモンクが言ったセリフ「お前がいまヤラなければ、明日、奴らがお前を殺す」と。これは恐ろしいほど心に響いた。

自分は本省人たちのヤクザグループに属することになったモスキートが、外省人のボスがたまに自分の家にやってきて母親がそのひとの髪の毛を切っていることに対して、母親を責める。そして父親は日本への出張後、伝染病で死んだと聞かされていたのだが、実際にはその外省人のボスがモスキートの父親。外省人勢力と本省人勢力の権力闘争の中に巻き込まれてしまう自分の子供に対して助けを施そうとするが間に合わず、5人組の裏切りであるモンクに撃たれるという事件が遭遇する。この場面でも先述の富士山と桜の絵葉書で、わが子の思いを父親は知る。しかし、前半のところで、モスキートは仲間から「将来はどうするのか?」という問いに対して「日本に行きたい」と言う。父親からもらった唯一のプレゼントである絵葉書のことをそのときに話し、父親のことをみんなに話す。そのあとの場面が泣ける。仲間全員から「おまえの父親に乾杯」と言って、杯を酌み交わすのだが、偶然指を切って流れ出した血が地面に作った血跡が桜の花びらの形をしたというところも映画のなかでの憎い演出だった。

登場人物すべてが、俳優・女優という枠を超えて、絶対こういう光景は台湾では存在するというのを身近に感じさせてくれるもので、映画の中に視聴者をどんどん仲間にさせるようなカメラワークとストーリを作った監督はすごいと思った。

日本では2010年の12月に上映することが決定している。是非機会があれば、この名作を見たほうがいい。3D映画「アバター」なんかより断然良く、今年最高の映画の1つだと思う。

ちなみに「艋舺」とはいまの萬華あたりの地域の古い名前。元々は、ケタガラン語で丸太の船のことを意味する「ヴァンクァ」が語源。そこから台湾語音節を利用して「艋舺」の漢字があてがわれ、その発音から日本統治時代には「萬華」に変わる。


艋舺(モンガに散る)
公式blog : http://mongathemovie.pixnet.net/blog
公開年:2010年, 台湾
出演者:イーサン・ルアン(阮經天)
    マーク・チャオ(趙又廷 )
    マー・ルーロン(馬如龍)
    リディアン・ヴォーン(鳳小岳)
    クー・ジャーヤン(柯佳嬿)

Knight and day

テレビで最近ばんばんCM宣伝されているのが、トム・クルーズとキャメロン・ディアスの最新映画「ナイト・アンド・デイ」だ。元スパイの逃亡に素人女が巻き込まれて、スパイ顔負けのアクションと現場を一緒に潜り抜けていくというとてもわかりやすい映画である。

逃げ回るきっかけとなるのは、これまた本編の内容には強引にくっつけようとしたようなものであり、要はドタバタ芝居ができる環境であればなんでも良かったというものだ。脳みそを全く使わず、視覚的な刺激がたくさんある映画になるためには、途中の段取りや道筋については、多少強引に無視か割愛してしまうというのも常套手段だろう。キャメロン・ディアス扮する一般女性が、各所で眠らされて、気づいたら知らない場所にいるという舞台環境は、まさしく、繋がらない話を強引に繋げている手段の一つだ。1回くらいならわかるが、あまりにも多用化されると、「おいおい、またかよ」と観ているほうは白けてしまう。眠らされたり、気絶されたりする方法は、前に記載した「特攻野郎Aチーム」のコングが眠らされる場面と良く似ていると思う。

映画は、舞台を世界各地で繰り広げているので、旅行の視点から見ると楽しいかもしれない。シカゴの空港、ジャマイカ沖の無人島、スペインの牛追い祭り、ヨーロッパ・オリエンタル急行風の車両など。この中だったら、絶対体験不可能だと思われるのがオリエンタル急行への乗車だろう。こんな贅沢な電車に乗るくらいなら、ヨーロッパを3往復くらいできるくらいの金がかかる電車だからである。金が有り余ってどうしようもないような貴族な生活をしている人であれば、別に憧れや乗車は絶対無理だという思いはないだろうとおもうが、一般庶民にとっては無理だ。それより早くて安い飛行機のほうがよっぽど便利だからである。アメリカにいると思ったのに、気づいたら列車に乗せられ、オーストリアの山間部を走っている列車に乗っていることに気づいてしまったキャメロン・ディアスの表情は最高だ。でも、個人的はあの口デカ女を、スクリーンでアップでは見たくない。篠原涼子を大きな画面でアップで見るようなものだ。

むちゃくちゃなシチュエーションという意味では、映画の初めのほうで、空港から飛行機に乗るシーンがある。キャメロン・ディアスが予定していた飛行機より早い飛行機に無理やりのろうとして係員に止められ残念に思うようなところは、まぁありがちだ。問題はここから。係員からなんとか「乗っていい」と許可をもらったのはいいが、乗った飛行機の全員が暗殺者。乗客だけじゃなく、客室乗務員やパイロットまでが暗殺者という、そんなわけねーだろうという場面がある。キャメロン・ディアスだけが一般人で、トイレに入っている間に、トム・クルーズが全員を殺し、遺体は全部座席に座らせ、眠っているような状態にさせるところだ。トイレから出てきたキャメロン・ディアスは、トム・クルーズがシャンパンを持ってきて、戻ってくるのを待っていたという憎い場面なのだが、パイロットまで射殺しているので、操縦士ゼロ。飛行機は横揺れをして、それに合わせて死体も横に倒れる。それで全員が死んでいるという状態を無理やりキャメロン・ディアスが気づくというあの場面だ。多少強引といえば強引だが、これからトム・クルーズと一緒になって追われるという話しにするためには、こういう手段しかなかったのだろうとは思う。

映画を観終わったあとは、確かに爽快感があった。が、あとから、「どんな内容だっけ?」と思い出してみると、これがまた全然思い出せない。ストーリーがめちゃくちゃだから、筋道立てて、話を咀嚼しようにもできないのである。007シリーズでも同じ思いをするのだが、まだ007シリーズのほうが話として良くできていると思う。人気俳優と女優が、痛快アクションをした映画だと思えばそれでいいではないか。アメリカ本国では、全然評価が悪く、クソ映画の1つになっているのも理由がわかる。それを日本の配給会社が、大々的に各種番組とタイアップをしていかにも面白そうな映画として宣伝しているのだが、公開前に観てしまったから言えるのだが、クソ映画ほどめちゃくちゃな宣伝をするということだ。いい映画なら宣伝しなくても入場者数は稼げるからである。

一瞬だけでも爽快な気分を味わいたいのであれば、この映画を観るのは良いだろう。

ナイト・アンド・デイ (Knight and Day)
上映時間 : 109分
公式URL : http://movies.foxjapan.com/knightandday/

特攻野郎Aチーム


シンガポール航空の機内の中で一番最初に見てしまった映画は、昔からテレビドラマでやっていたシリーズの映画版である「特攻野郎Aチーム」である。昔の開会の映画やドラマの題名を日本語化する際には、配給会社の人が頭をひねりにひねってつけた名前が多く、これがとても印象的であるために、現在でも内容は忘れても題名だけ知っている、または覚えているというのは多いと思う。最近は何でもかんでも英語名をそのままカタカナにしたものばかりで、題名からどういう内容なのかというのを、観客に想像させるようなことはさせないような仕組みは、観客の知能低下をさらに拍車をかけているに等しいと思う。そして、宣伝として、「おすぎ」みたいな自称評論家が「これは良い」というのを引っさげているだけという内容のCMを見せられたのでは、「なにが?」とか「どこが?」というような疑問符ばかりが出てくる。そう考えると、原題が「The A Team」というのを、修飾語として「特攻野郎」なんていう言葉をつけるところの感覚は本当にすばらしい。また、登場人物を以前と総取替えした映画版であるにも関わらず、日本側配給会社が以前と同じ「特攻野郎Aチーム」という題名を継承したこともすばらしい。これが単に「Aチーム」だったら、サッカーか野球かのスポーツのことか?と思うに違いない。

そして、誰もが知っている以前の題名を継承するということは、テレビシリーズや映画にもなった以前の内容と新作の内容を比較されるのを前提につけたのだというのがわかる。ということは、観客側にとっても、新作がどんな内容なのか、以前の内容と比較するだろうし、期待することになるだろう。そして、新しいメンバーで構成されるということは、以前のメンバのキャラクタとどうしても比較して、以前の人が作り上げたキャラクタがどのように反映されているのかということも気になってしまう。

その中でも一番キャラクターがどのように演じられているのか気になるのが、以前はミスターTが演じていた「コング」だろう。飛行機が苦手、そしてゴツい黒人というのが最低限のキャラクターなのだが、これが継承されているのか?ということだ。新作を見ても、これは忠実に継承されていた。いや、よくもまぁここまでミスターTのような人間を探してきたものだと、あっぱれをあげたい。しかし、飛行機に乗せる時に、毎度嫌がるのはドリフのコントみたいで面白いのだが、睡眠注射を打って、すぐに寝るなんていうのは、医学的にありえない。でも、そんなオチも、わかり切ったお決まりの芝居だと思ってみれば楽しくなる。

色男で女たらしであり、かつ、どんな武器でも調達するフェイスマン。ハリウッド俳優であれば、色男ばかりなので誰がなってもいいものだと思われがちだが、そこはジェームズボンドのようなキャラクターを演じられなければ、この役はとても難しい。この役を Sex and the City に出ていたブラッドリー・クーパーが演じるというのは、まさに適役。誰もがイメージする色男のお手本のような顔をしているからだ。映画の中でもフランス人を半ナンパしながらグラスについた指紋を抜き取るという作業の前提を作っているし、女性上官に対してもナンパしているのは笑える。そういえば、フェイスマンは映画のなかでの通称であるが、正式な役名もある。その名は、テンプルトン・ペックである。でも、実はずっと「テントレナイ・ペケ(点取れない×)」だと思っていた。どこでどう間違えたんだろう。今回映画の最後のテロップを見たときに、役名が載っていて、それで初めて覚えていたのと全然違うことがわかった。

精神病役だがヘリの操縦には長けているクレイジーモンキーも、見た目やばそうな痩せているが、やるときには見た目以上の能力を出しそうな結構これも難しそうな役だが、上手にコングと絡んでいるところが、期待通りだ。まとめてしまうようだが、ハンニバル役は個性豊かな各メンバーを取りまとめるという意味では、強いキャラの中でも埋没しないスパイスの役割を演じていたのがすごかった。

今回の映画の話は、いつもながら4人が好き勝手に暴れるところから始まる。米ドル紙幣の原版をゲリラ集団が運び出すところを阻止しようとするのだが、これを失敗。失敗の罪を被せられ、軍法会議にかけられ牢屋にいれられてしまうところから概ね始まる。それをハンニバルがまたメンバーを集めて暴れまくるというところのアクションとスリリングさが期待通りである。しかし、毎度ながら、ハンニバルが仲間を牢屋から連れだすところのやりかたは、どうしてどこからそんな武器を集めてきたんだ?と疑問になることが思うところがあった。そういう話として繋がらないとおもうようなところはあるが、それを無視してしまえば、好き勝手にめちゃくちゃなことをして、おもしろければ良いじゃないかというところはある。話は別にして新しいメンバによる各キャラクターを楽しめば良いじゃないかと思う。

特攻野郎Aチーム「The A Team」
製作年 2010年
製作国 米
原題 THE A-TEAM
時間 118分
公式サイト http://movies.foxjapan.com/ateam/"
出演  Liam Neeson
    Bradley Cooper
    Quinton "Rampage" Jackson
    Sharlto Copley
    Patrick Joseph Wilson
    Jessica Claire Biel

2007/09/09

沿海岸線徴友


台湾のサイトをネットサーフィンしていると、短編映画のことを紹介しているところに出くわした。そこでゲイの短編映画である「沿海岸線徴友(Fragile Love)」というのを発見した。しかし、短編映画とはいえ、ほとんどゲイのポルノ映画に近い放送コードぎりぎりの内容が満載されているので、思わず見つけたときには目を疑った。


内容はというと、普通のゲイの青年が、普通のゲイが日常の生活をどのように過ごして、彼氏や彼の友達と何処で何をしているのか、そして、ゲイが相手を探したり相手に対して求めているのは何なのかということを、主人公の心情を通して、ゲイも普通に恋をし普通の人のように生活をしているのだというのを表している内容になっている。


その内容が、あまりにも生々しいので、主人公自体がゲイではないか?と思うくらいのリアルさがある。たぶん、周りのエキストラは本当のゲイなんだろうけど、演技指導をした監督がよくゲイの振る舞いや相手に対する求めるものの真情というのを理解しているから作品として出来上がっているのだろうと思った。舞台は台北なのだが、台北のゲイならたぶんどのゲイたちも体験しているような内容をそのまま忠実に表しているのだ。


みんな白い競パン1枚でクラブで踊っているところ、そしてクラブで相手を眼で品定めして、その場のパートナーを見つけていくところもそうだし、プールやジムのような場所では体が露骨にアピールポイントになるため、個人個人で鍛え上げた体を相手に誇示して見せつけ、シャワールームのような個室になれるところで、その場で軽い交わりを行ったりするところも、よくあるゲイの相手を探すシーンだと思う。でも、少し変だなとおもったのは、まぁドラマだからということもあるのだが、ベッドシーンでは、お互いに競パンのままベッドでじゃれあい、相手の股間を触ることもなく、ただ互いに相手の体を愛撫しているところは少し変である。まぁ、そこで露骨にフェラチオをしていたり、ファックシーンを出すのも変なので無理だろう。それだと単なるポルノドラマになってしまうからだ。このドラマをみて、実際の台北のゲイたちはどう感じているのだろうか?実際に聞いてみたい。


YouTube での視聴は下記のとおり

2007/05/19

ロッキー・ザ・ファイナル

マルタに行くシンガポール航空内には、エンターテイメント番組が豊富であるため、見ていない映画、聴いていない音楽を聴くきっかけになるときが多い。今回は3つの映画を見るきっかけがあったので、そのレポートをして見る。 そのなかの1つが、これ。

「ロッキー・ザ・ファイナル」

搭乗前から少し話題になっており、スタローンも金がなくなってきて、映画界に入るためにきっかけになった原点に戻ったのか?と思った映画だ。当人、もう50歳過ぎているのに、いまだにマッチョ系の映画で活躍しようとしていること自体が、もう痛々しいとしか見えない。それも一番激しい殴り合いのロッキーをするっていうのは、めちゃくちゃな設定だなと思った。内容は、そのままめちゃくちゃだ。爺になったひとと、現役チャンピオンが戦うための設定を考えることに無理があるとおもうが、本当に強引な設定で、んなわけないだろうというツッコミは多々有る。さらに、友達が殺されたからといって、自分がオトシマエをさせるために殴りこみを行うという設定は、一番最初のロッキーの設定の実質パクリとしかいえないところに、映画の陳腐さを感じた。

映画の中では、エイドリアンは死んでいることになっており、ロッキー自体は、有名人であるが、引退後の老後として、イタリアンレストランを経営しているオーナー兼仕入れ調達係りをしている。息子が生まれて、一流会社に勤めているが、父親が有名人であるために、少し気落ちしているところが、有名人の子供にありがちな現象を演じているのはいい事だ。ところが、シナリオが本当に悪い。現代チャンピオンと、過去のチャンピオンをバーチャルな世界で戦わせて、どっちが勝つか本気に討論するという番組をしているのは、よくありがちな番組設定だ。日本でも、昔の力士と現代の力士を対決させてどっちが勝つかとか、ありえない対戦相手として、現役日本の野球選手と、アメリカに行ってしまったイチローのバーチャル対決などはテレビでも放映されているから、それは良い。問題は、そのテレビのエンターテイメントでは飽き足らず、本気で対決する機会を設けてしまったところだろう。あーっ、なんじゃ、これーっといっせいに思った人はいるに違いない。

さらにひどいのは、スタローンの体格。自分の原点であるロッキーのために鍛えなおしたという話を聞いたのだが、やっぱり年齢には適わなかったのか、背中の贅肉が異様に見えて仕方なかった。そんなぶよぶよな体でボクシングなんかやったら、本当ならリング内でゲロ吐いて死んじゃうよと思う。それだけ腰周りおよび背中の贅肉は際立って見えた。対戦相手の黒人のほうがシャープな体をしているので、比較対象があるから余計目立つ。あれは最悪だ。こんな糞映画に本当に金を払ってみる人がいるのかと疑問に思ってしまうような内容だった。

最後のオチは、いつものようにどちらかが勝つという設定ではなく、あくまでも対戦は「エキシビジョン」であるため、どちらが勝っても関係ないということになっている。そして、試合は当然年寄りであるロッキーが負けるのだが、会場は一丸になってロッキーの大合唱。最初から現役チャンピオンを応援している人が居ないというところも怪しすぎる。年寄りのくせによくがんばったーという気持ちで「ロッキー、ロッキー」の大合唱を行っているというような場面に見えないところが、脚本の悪さを露呈していたと思う。

そして、本当のエンディングの時には、有名なフィラデルフィア美術館前の階段を駆け上り、広い場所に辿り着いたときに、後ろを振り返りジャンプしながら喜ぶシーンがあるのはロッキーの名場面として昔から言われている。それを真似している素人たちが出てくるところは少しほほえましい。やっぱり、有名シーンを真似したくなるのは誰でも有る心理なのだろう。でも、その素人を使っているシーンというのが長すぎる。もういいよーと言いたくなるくらい、エンディングのクレジットを出しながら映像化しているので、長いのだ。

久しぶりに糞映画を見たと思った。


ロッキー・ザ・ファイナル :  公式サイト

2007/02/25

The Queen

たいだい旅行に行くときには、最近機内のエンターテイメントを見るより、自分で持参した本を読むことが多くなってきた。しかし、先日台湾に行ったときの飛行機(UA)では、なぜか機内の映画を見たいなと久しぶりに思ってしまった。アメリカの航空会社なので、日本で未公開になっている映画も放映されている。その中で見つけたのが、「The Queen」だ。

この映画は、故ダイアナ妃が交通事故で死亡したときのイギリス王室の心境と舞台裏を表現したもので、ところどころで、事件当日および事件後の国民の様子や当時のニュース報道などを盛り込まれているドキュメンタリ-風の映画になっている。交通事故で死ぬまで、エリザベス女王はダイアナ妃をあまり快く思っていなかった。しかし、反面、国民には絶大な人気がダイアナにあったことは良くわかっている。従って、国民心情と王室としての威厳を保とうとする葛藤の間に揺れるエリザベス女王と、国民の様子をブレア首相が随時説得し、国民と同じように哀悼の意を表記するよう説得するところが見所だ。

しかし、なんと言ってもエリザベス女王を演じた女優ヘレン・ミレンの「激似」だろう。よくもまぁこれだけ似せられたものだと感心するくらい、現在のエリザベス女王にとても似ている。イギリス出身の女優であるために、イギリス英語を完璧にこなしてはいるが、如何せん、貴族ではないので発音が気になった。しかし、あまりにも似ているので、本物が演じているんじゃないのか?と思ってしまったほどだ。それに対して、ブレア首相を演じていたマイケル・シーンのほうだが、なんだかエリザベス女王の前では、テレビで見るような少し自身がありげな男性という感じではなく、その変の課長級のサラリーマンが無理して女王に取り合っているという感じに見えたのが印象的だ。もっと笑えたのが、実際にもそうなのかもしれないが、エリザベス女王の夫であるエジンバラ公フィリップは、何にもしない単なるお茶好きの年寄りとして映っているというところも笑えるが、まぁ、実際にもあまり目立った存在じゃないので仕方ないのだろう。

さて、女優のヘレン・ミレンであるが、実は彼女の祖父はロシアのロマノフ朝時代の貴族だったようだ。今では英語名の「Helen Mirren」を名乗っているが、実際にはロシア名の「イレーナ・ヴァシーリエヴナ・ミローノヴァ(Ilyena Vasilievna Mironov)」というのがある。ロマノフ朝時代に外交官をやっていた祖父がロシア革命と同時にロンドンに亡命を行い、そのままロンドンに住み着いたのだが、ヘレン・ミレンの父親の時代に、ロシア名のままだと生活に支障があるからという理由から「ミラー」という名前を名乗ったのだそうだ。だから、彼女が風格としては貴族としての風格はあるように見えるのが、こういう理由でもあるらしい。ちなみに、ヘレン・ミレンの母であるキャスリーン・ロジャー(Kathleen Rogers)のほうの家系は、ヴィクトリア女王時代にイギリス王室お抱えの肉屋だったらしい。日本版のウィキペディアには、「父親のヴァシーリイ・ミローノフはロシア帝国貴族の出であったが、ロシア革命により亡命を余儀なくされた。」と書いてあって、父親の時代に亡命したような書き方があるが、これは間違い。

苦悩する女王を絶妙な角度で演じているヘレン・ミレンの演技が光るが、ストーリーとしても国民の目、女王の目、首相の目、そして側近の目からみた故ダイアナ妃に対する思いがこれを見ると、いまのイギリスの状況が分かるというものだ。超有名人で下級貴族出であるダイアナと超上級貴族出身の現女王の「貴族観的視点」と人気の格の違いについて不服であることは良く分かる。伝統を守ろうとする王室と、開かれた王室を目指そうとする政府の間の軋轢についても良く分かるものだ。同じ王家を持つ日本も似た感覚に捕らえがちだが、やっぱりイギリスの皇室と日本の皇室は全く質が違うというものだ。ヨーロッパの諸国間にあった勢力争いに政略結婚が使われていた土壌と、所詮、島国の中で同じ民族のなかでの政治に皇室が使われていたのとは訳が違うと思う。ヨーロッパ人にとってはこの映画はとても分かりやすい映画だとは思うが、日本人にとっては何が問題になっているのか実は難しい映画かもしれない。一般市民と同じように、女王はなぜダイアナの死に素直に悲しまないのかというのかと考えてしまうことだろう。こういう映画を観て、ヨーロッパの複雑な貴族社会を感じ取れればと思う。

主役のヘレン・ミレンの演技が光っているので、ヴェネチア映画祭ではスタンディング・オーベーションが鳴り止まなかったというのは記憶に新しいところだ。

2007/02/23

台湾映画「盛夏光年」

台湾の友達から教えてもらった映画を早速観てみることにした。あまり大きな声ではいえないが、torrent ファイルを使って探してみたので、劇場とは違うから迫力感がないが、今回紹介しようとする映画は、特に劇場じゃなくてもいいと思う。

台湾映画の「盛夏光年/Eternal Summer」という映画だ。1981年生まれのレスト・チェン(陳正道)監督で、主役はジョセフ・チャン(張孝全)とブライアン・チャン(張睿家)。そして女性のケイト・ヨンだ。東京国際映画祭に出展していた映画のため、この映画祭に行った人は観たことがあるだろう。

内容はというと、簡潔に言えば「ゲイ的要素が強い映画」と言えば良いだろう。そういう映画はここ数年多く出てきている。有名な「ブエノスアイレス」はもちろんだが、ハリウッド映画では「Brokeback Mountain」なんていうのが該当する。この映画も、その種類に属するため、毛嫌いするジャンルだと思う人は多いかもしれない。しかし、内容はとても切なく考えさせられるような内容になっている。

初等学校(小学校)時代から始まるストーリーなのだが、そこで優等生と劣等性がペアになって友達になっていくことを学校の遊びで先生が強制的に始めるところから映画が始まる。優等生役のジョナサン(ブライアン・チャン)は活発なシェーン(ジョセフ・チャン)に年齢が経つごとに思いを寄せるようになる。しかし、同性なので「好きだとは言えない」。小学校からの付き合いが、高校になっても朝は一緒に登校し、帰りも一緒に帰るし、バスケをしているシェーンを見守っていたりする。そういう2人の同性の中に1人の女性ケリー(ケイト・ヨン)が入り込んでくるから面白い。そのケリーはジョナサンが好きになり、一緒に田舎から台北に遊びに行く。田舎者が都会にくるとはしゃぎたくなるのはあたりまえ。横丁でピアスをあけている様子なんか、悪乗りして開けたというような感じがしていじらしい。その勢いは、やっぱりホテルに直行して、さぁベッドイン。ところがジョナサンは「いざ」となったときに、ケリーをセックスの対象には見られることが出来ず、そのままホテルを出て行く。馬鹿にされたと思ったケリーだが、その真相を求めて追求。それがいつも2人で帰っている相手シェーンだと知る。田舎の田んぼ道をチャリで爆走競争している様子は、「田舎っぽい」シーンでとても良い。そのあと、話の流れは、シェーンとケリーが付き合ってしまうから、ジョナサンの思いは更に深く落ち込む。高校から大学へ上がる受験に失敗し、浪人生活に入るのだが、大の親友であるシェーンは頻繁にジョナサンの家に遊びにやってくる。勉強しているときでも、上半身裸で部屋の中をうろうろされたりしたら、もうムラムラして、勉強どころではなかったことだろう。そんな思いを知ってか知らないでか、シェーンの挑発は続くのだ。シェーンとケリーが付き合っているのになかなか自分の思いを伝えられない。勢いに任せてクラブで踊っている間に「自分とケリーとどちらが好きなのか?」とシェーンに質問。しかし、シェーンは答えない。シェーンの腕を振り切ってバスに1人で乗って帰るシーンは、とても切ない。自暴的になってその辺のおっさんとONSをするところも、現代の現実の世界を反映している様子が見えて納得。その後、事故を起したシェーンを迎えにジョナサンは行き、二人でシェーンの家に行く。いつものようにベッドに2人で寝転がっているのだが、なぜか上半身裸のシェーン。待ってましたとばかりに、その後「ヤオイ」の世界は開始なのだ。しかし、どうしてこういう映画の場合、バックからのセックスシーンしかないのだろうか?絶対正常位や騎乗位のシーンが出てこないのが不思議だ。絵にならないからだろうか?

ちなみに、監督は、映画初出演のブライアン・チャンに台湾のアカデミー賞にあたる「金馬奨賞」を絶対取らせるためという意味で、このシーンを取ったらしい。背中と尻が見えるセックスシーンは別に汚いものには見えず、本当のゲイビデオみたいに、おらおらーというような嫌らしく汚らしいシーンは無いから許せる。しかし、演技をしたブライアン・チャンは、このシーンはとても最初演じるのに躊躇ったようだ。友達に「本当にホモだって言われたらどうしよう」というのが原因。もちろん、彼はずばりストレート。一度ホモ系の映画に出たから、その後ずーっと「あの人は絶対ホモだ」と言われている台湾映画「十七歳的天空」に出演していたトニー・ヤン(楊祐寧)みたいになるのも嫌だったのだろう。彼の場合は、その後、シンガポールの華人歌手である周華健の「傷心的歌」のプロモーションビデオでも、ゲイカップルの演技をしていたので、ますます「彼はゲイだ」という印象を残してしまったのが原因だろうと思われる。ブライアン・チャンの場合は、いわゆる「ネコ」系の顔たちなので、絶対に層だといわれてもおかしくない。

さて、ざっと内容は書いたのだが、いまでは日本の月9にも出演するようにまでなってしまった陳柏霖が初めての映画として出演した「藍色大門(日本題名「藍色夏恋」)」風の台湾の高校生の様子が伺えて、ほのぼのした映画だと感じた。

「盛夏光年」の関係サイト : http://www.wretch.cc/blog/summermovie