2007/09/16

ハプスブルク家最後の皇女エリザベート


ハプスブルグ家が600年間君臨した中部ヨーロッパは、いまでは小さい国に分裂したのだが、中世以来続いていた、多民族国家の典型的であり理想的な国家形成だったのではないかと、色々な方面で見直されている。ヨーロッパ共同体(EC)を形作るための原形ではあったし、当時の最先端文化の集約地であったことも言うまでも無い。そして、その文化形成を政治的にサポートしていたのがハプスブルグ家であったので、ハプスブルグ家亡きあとのヨーロッパは、昔のような華やかさは確かに消え、つまらないものになったものだとおもう。

「エリザベート(ハプスブルク家最後の皇女)」は、ハプスブルク家の末期、長期皇帝として君臨したフランツ・ヨーゼフの孫に当たる女性で、父親は、宮殿でじっとしているより街中に出て時代の先端の情報を感じ取り、皇帝の変わりに各国との調整を行っていたが、皇帝の権力の下では自分は無力だと感じてしまい、不倫の末、銃殺してしまったルドルフ皇太子である。母親は、ベルギー皇室から嫁いできたシュテファニーである。祖父のフランツ・ヨーゼフから溺愛されていただけあって、ハプスブルク家のなかでも特別の女性であろう。

この本では、エリザベートという女性の生き方と考え方、そして時代に翻弄されたその半生を紹介しているのだが、ハプスブルク帝国の崩壊から、第2次世界大戦前後の、急激に変化した中部ヨーロッパの流れを知るためには、良著だと感じる。いままでは1つの帝国として治められたところを強引に小国に分割し、民族的には同一でも考え方としては全然異なるドイツとの関係や、第1次世界大戦後に急激に台頭してきたソ連共産党との戦いと、それに翻弄される旧帝国内の小国のその後のソ連支配からの脱却を狙った反逆などは、その時代にしかフォーカスを置いていた場合は絶対に知ることが出来ないものだと思った。ハプスブルクが納めていた、オーストリア=ハンガリー帝国の時代からの流れを知らないと、第1次世界大戦および第2次世界大戦の真相は分からないし、かつ、戦後東よ-路派諸国が共産党政権に成るが、その共産党政権でもソ連一辺倒ではないというのを知り、そしてハンガリー動乱やプラハの春が起こった理由がようやく分かったきがした。

さらに、よく旅行のパンフでは、ウィーン・プラハ・ブダペストと3都が一緒に紹介されているのだが、その理由は、旧ハプスブルグ帝国内という共通の文化圏内だったために、これらの都市は似たような風景と文化のにおいを感じるは、そのためだろうと思う。確かに、民族は異なるのだが、それでも文化的には共通というのは、同じハプスブルクという下にいるという文化だからできたものだったのだろう。

文化的な中部ヨーロッパを知ることができたという上に、元王族であるにもかかわらず、父親と同じように時代をいち早く汲み取って、自分がどのように振舞えばいいのかというのを感じ取り、こうと決めたら断固として信念を変えず、思ったとおりに実行していったというのは、王の血筋を感じる行動力だと思われる。敵国の軍人が家を明渡そうとした際にも、自分の胸を指差して「撃つなら撃ちなさい」と潔く相手に貫禄のあるドスを効かせて迫ることにより、鉄砲を持った相手が後退したというのは凄い。

中部ヨーロッパが好きな人は、是非、この本を読むことによりより知識を深めて欲しいし、かつ、華やかなハプスブルグ家が君臨したウィーンを中心とした文化形成と、その影響範囲を知る上では、是非参考資料として欲しいと思う。

「エリザベート(ハプスブルク家最後の皇女)」上・下巻
塚本 哲也 著
文春文庫

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