2009/07/26

隠れキリシタン


長崎に以前行ったときに、街の中心地に大きな中華街があるため、長崎はどちらかというと道教のような中国式の宗教が根強いところかと思っていたのだが、実はそうではなく、歴史的にはキリスト教徒が多いところなのであるというのが、歴史の勉強をよくしていれば後で分かることだと思う。天草四郎の話だったり、キリシタン大名が登場したりを考えれば、長崎を中心とした九州北部が、キリスト教徒の多い場所だということに気付く。

徳川幕府の時代にキリスト教弾圧を中心としたキリスト教禁止の政策の下、いかに隠れキリシタンとして信仰を続けてきたのかとか、明治時代になって宗教の自由が保証されたあとの隠れキリシタンの動きというのは、実はよくわかってなかった。マカオに行った際に、なぜかマカオの教会に、日本人の殉教者を称えるような絵画を見つけて、なぜマカオで日本の隠れキリシタンのことがあるのかという疑問に思ったことがあった。キリスト教禁止のもとでも、信仰は止めないで続けていたことの証拠だろう。

そんな隠れキリシタンについての、キリスト教禁止時代、キリスト教解禁時代と現代にわけて、述べているし、隠れキリシタンについての定義についても厳密に分けて述べているところが、頭の整理に良い。

もはや長崎県にしか存在しない隠れキリシタンというのものに対して、世界の研究者が隠れキリシタンに興味や好奇心を駆り立てる理由として「信仰の自由が認められているのにもかかわらず、なぜ今日にいたるまでカトリックに戻ることなくその信仰を守っているのだろうか?」という素朴な根源的な疑問によるものだと著者は述べており、さらにその疑問は「隠れキリシタンは未だに”隠れてキリスト教を守りつづけている”という幻想的にロマンチックなイメージによって生み出されている」というようにばっさりと事実を斬っている。そして、その結論として「現代の隠れキリシタンは、もはや隠れてもいなければキリシタンでもない。日本の伝統的な宗教風土の中で年月をかけて熟成され、土着の人々の生きた信仰生活の中で完全に溶け込んだ、典型的な日本の民族宗教の一つである」と述べているところに尽きると思う。

最初はポルトガル人による指導があったのだろうが、ポルトガル人と言う師匠がいなくなったあとの隠れキリシタンは、伝え聞いた内容を、耳と口でしか伝えてこなかったために、本当のカトリックで行っている数々の儀式が、時間とともにだんだん日本風になってきて、唱えている文言についても、原文をどこまで忠実に再現しているかわからないが、結局は口承でしか伝えてこなかったために、もはや誰も原文の意味が分からなくなっているということがなんとも痛々しい。また、本当のカトリックの場合は、聖人は既に決まったものがあり、それを信仰に使うのはOKだが、新たに聖人登録するには、ローマ法王の許可が無いと無理なのである。しかし、隠れキリシタンのなかでは、日本の宗教や道教と同じように、身近な人で殉教したひとたひはすべて聖人のひとりとして崇めるようになり、「〇〇様」として祀られているのも面白い。そのときの聖人の名前が「さんじゅわん様」とか「ガスパル様」とか、いちおうヨーロッパキリスト教風の名前になっているのが笑える。もちろん、隠れキリシタンの間では、キリスト教名というのを持つらしく、さらにカトリックと同じように「洗礼」の儀式があるらしい。

しかしながら、現代の隠れキリシタンの世界では残念ながら、220年の禁断時代を乗り切ったあとの隠れキリシタン的な宗教を継承するひとが少なくなってきており、隠れキリシタンとして常に行ってきた儀式についても、よほどじゃ無い限り、もはや行われることがないらしい。これはもう宗教として継承するのを諦めているということを意味するではないか。そしておもしろいことに、隠れキリシタンとして継承してきたものが、地域によって少しずつ異なった形として継承してきたのも面白い。これも全体を統括する教区という考え方がないことと、ヨーロッパ人が明治以降にくるまで、独自で発展した文化を継承しているためなのだといえる。隣の町のキリシタン文化は、実はちょっと違った・・・というのが、時代とともに差が出てきたために、同じような教義のはずなのに、違った宗教のようになってしまった歴史がある。

隠れキリシタンがキリスト像やマリア像のような代わりに拝みつづけるものは、なにしろ「隠れ」として使っていたものなので、そんじゃそこらに普通に転がっているわけじゃない。だから、飾っている掛け軸や像や、または西洋から持ってきたメダルやイコンの片割れみたいなものを保持しているところの家は、その周辺の隠れキリシタンにとっては一種の教会と同じ扱いになっていて、何かのイベントのときには集まるという風習が残っているのが面白い。また、その集落で宗教的に一番偉い立場にいる人を「オヤジ役」というらしいが、そのオヤジが正月から誰にも見られないように沐浴をし、そして何も拭かずに隠れキリシタンとして宗教活動をするための特別の服を着なければならないという、「穢れ」をなんとかして避けるというのも、キリスト教やユダヤ教本来の宗教的活動と似ているところも面白い。

こういう隠れキリシタンのことをまとめている本は見たことが無いので、本当にためになる本だとおもった。宗教本としてみるのではなく、日本の歴史の一部分を知るという意味で大変勉強になる本だと言えよう。また出版したところが、長崎新聞社という、地元の新聞社だというところにも注目することだろう。他に長崎新聞社から発行された出版は、本の末を見ればなかなか面白そうな本が刊行していることも分かった。郷土資料として読むとためになりそうなものは買ってみたいと思うが、研究者ではないので、そんな高価な書物に手を出すのは無理だ。

隠れキリシタン
(オラショ-魂の通奏低音)
宮崎賢太郎 著
長崎新聞社
2001年10月19日出版

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