2013/07/27

南伊予・西土佐の道(書籍)

司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズで国内の場合には、なじみのあるところを積極的に読むようにしているのだが、司馬遼太郎の書く国内の本は、結構マニアックな場所を積極的に書いているので、なかなか「そこ、知っている」というようなところは出てこない。小さいころ、親の都合で全国いろいろと転勤したことにより、それなりに各地は知っているつもりなのだが、どうしても都市部ばかりなので地方のそれも辺鄙なところというのは土地の名前は知っていても馴染みは薄いものである。

その中でも四国は結構それなりに大きくなってから住んだところなので、地理的には知っているつもりでいたのだが、今回紹介したい「南伊予・西土佐の道」については、四国の中でも一番辺鄙なところだし、実際に行こうとした場合、四国内でも移動するのがとても時間がかかる場所で、場所によっては四国から東京に行くよりも時間がかかるところは結構ある。この南伊予・西土佐で取り上げられている場所はまさしくそういう場所の1つであり、四国に住んでいる人、または住んでいたことがある人でさえ行ったことが無いひとがほとんどだろうとおもう。

いつもながら司馬遼太郎の博学とその知識の豊富さには文章を通して感銘と脱帽の気持ちと、勉強になるなーという点がたくさん出てくるので、1ページ1ページが楽しくなってくる。次にどんなどきどきするような新しい発見があるかということを期待したくなるからである。ただ、読者側がそれなりに受け入れられるほどの知識がないと読みきれないという点が少し出てくるのだが、それは仕方が無いことだろうと思う。なにしろ、知識量が半端なく違うから出る。特に歴史と地理、そして東西の文化についての知識は、こういう本を読むことで自分も近づいていければという期待はあるものだ。

さて、今回の南伊予・西土佐は、愛媛県の南部の城下町である大洲から始まる。大洲から宇和島、そして高知の松野町にいくのであるが、このよくわからない地域に対しても歴史はとても深く、そして奇妙なものがたくさん見つかるのはさすあ司馬遼太郎の本だとおもった。だいたいまず最初に「愛媛県」の名前がなんでそういう名前になったのかという、全くこれまで考えたことも無かったようなところから論じ始めるからだ。名前からとても可愛らしい名前だとおもうし、それまでは「伊予」と呼ばれていたわけだから、なぜ「いよ⇒えひめ」となったのかという全く共通性がわからないところから始まる。伊予は以前から学問が発達していたところであり、その教養人が古事記を披いて「愛比売」から引用したと書かれている。名前をつけるときに、安直ではなく、過去の文献から引用するというのは相当の教養が無いと思いも着かない作業だろうが、そこを伊予の人たちは問題なく行ったところが素晴らしい。

言葉の問題としては、途中の「卯の町」の小学校あとを見学したときに、明治時代の小学校1年生の段階で、いまではすごい簡単な漢字しか教えないのに、虫偏の漢字を片っ端から紙に書いたものを壁に貼って覚えさせたとか、明治時代の教育の熱心さに感銘を受ける場面が出てくる。確かに昔のひとは初等教育程度でも結構難しい言葉は知っているし、漢字は読めるしというひとが大抵だ。現代人は本を読まなくなったということもあるのだが、教育のなかで教える漢字を極力減らしてしまっているということにより漢字も読めなくなってしまったというオチになっている。また、知らなかったのだが「おかあさん」「おとうさん」という言葉は明治政府が強引に共通語として作った造語であることが説明されている。「親」という言葉、「父」と「母」という言葉は昔からあるのだが、子供が親を呼ぶ敬称は地方によってかなりまちまちだったようで、それを共通化しようとしたということだ。そういえば、それまでの藩制度のため、日本は1つの世界的な国家ではあるが、国家の中にまた違う国家が存在しているかのように、かなり異なる方言が藩毎に持っていた。明治維新の前に薩長同盟なんかが行われたときに、薩摩弁と長州弁という全然異質の言葉をお互いの方言で話していたときには、どういう会談がなされて、それぞれ理解できたのか不思議だというのは毎回思うことなのだが、明治政府はその共通語を作ることから始めたようである。なるほど、納得ではある。その証拠をこの南伊予のところで発見する司馬遼太郎も素晴らしい着目点をもっているひとだとおもった。

そういえば、宇和島も城下町であるのだが、ここは伊達家が収めていたところである。伊達家といえば、東北の雄であり、遅れて出現してきた英雄・伊達政宗を輩出している家ではあることは有名だが、その伊達家の分家が宇和島にあるのだ。どこの土地に誰を封じるかは徳川家の采配だったのだが、伊達政宗の次男である秀宗がこの宇和島藩の初代伊達家の当主になるいきさつは、本の中に記載されている。豊臣家に最初は靡いていた伊達家が途中から徳川家に靡くのは時代の流れに乗るためだということだが、体裁的に豊臣の息がかかっているというのでは始末が悪いために宇和島に分家を作ったようだ。そのとき、金持ち伊達家から家老と金庫番と当主が一緒に宇和島に到着したあと、お家のなかの家老と金庫番による確執が問題で金庫番が殺される。しかし、領内の住民はこの金庫番の味方だったため慕われていたことは、当主にとって今後治世を進めていく上では都合が悪くなる。ひと波乱もふた波乱も宇和島では起こるわけだ。こういう人間臭いところの確執というのは他人から見ると楽しい限りである。偉そうにしていても所詮自分の地位を保ちたいと思っているバカ家老と、将来の「お家」のことを考えて戦略的に考えていた金庫番と、将来どうしたらいいのかを全く予想できず、金庫番が説く将来像を全く理解できなかった当主という哀れな組み合わせというのは、大企業にはありがちな構図と同じであるからだ。
最後に出てくるのだが、南伊予の方言で「お道を」という言葉がある。一路平安をという意味だ。こういう京言葉が残っているのは綺麗だと思う。そう、南伊予もそうだが、西土佐のほうには、応仁の乱のころに京の公家がこぞって逃げてきて、かの地に京都を作ろうとしたところでもある。だから、ところどころ京都を感じる場所がこのあたりには存在するのであるが、西園寺家が南伊予にはやってくる。このあたりの話も本には記載されているので、読んでほしいところだ。

街道をゆく 14 南伊予・西土佐の道
著者:司馬遼太郎
文庫: 220ページ
出版社: 朝日新聞出版
発売日:2008/11/7

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