2009/05/09

ペスト記念柱(ウィーン)

ウィーンには繁華街と呼ばれるものがたくさんあるが、そのなかでもグラーベン街(am Graben)は最も壮麗な通りのうちの1つだろうとおもう。12世紀松まではローマ時代から続いていた堀だったようで、それを埋め立てて道にしたのが始まり。マリア・テレジアの時代には、早くから高級店街としてヨーロッパ中に知られていた。いまでは、個人的にはどうでも良いとおりに思われるが、広場状に長さ約300メートルもある通りは、歩行者天国を巧みに使ったカフェやレストランのテラス席として空間を埋めているが、残念なことに現在のグラーベン街は道路を埋めているブロックの敷き詰めなおし工事のために、道の両端を行き来するのはとても困難なほど工事のため面倒くさいことになっている。その通りの真ん中にででーんと聳え立っているのが「ペスト記念柱(Pestsaeule)」である。
このモニュメントは、10万人とも言われる犠牲者を出した1679年のペストの大流行の収束を神に感謝して当時の皇帝レオポルド1世(Holy Roman Emperor Leopord I)が献じたものである。当初は、9体の天使像を持つ木製の柱であったが、1682年か1693年にかけて建築家のブルナチーニ(Ludovico Ottavio Brunachini)を指揮のもとに、若き日のバロックの巨匠エアラッハ(Mernhard Fischer von Erlach)らが加わって作り上げられた。台座には、天地創造、ペスト流行、最後の晩餐、のあの洪水などを描いた6つのレリーフが刻まれている。その上には、天に昇りゆく雲海の上に「父と子と聖霊」を象徴する黄金の三位一体の像が光り輝いている。でも、その金ぴかさが、却って、この通りには相応しくなく奇妙に映ってしまうのは何故だろう。

日本はペストが流行ったことがほとんど無い。それは下水道設備が発達していたことによる。ローマも同じようにローマ時代から下水道の設備が完備されていたから流行ったことが無い。ところがゲルマン系を中心とする地域では、下水道の知識が全く無かったので、糞尿はそのまま道か広場にどばーっと捨てており、その非衛生的な環境からペストは生まれる。ハイヒールが発達したのも、道端のウンチを避けるために開発されたもの。ベッドの脇にある棚は、寝ているときに読んでいる本を置くのではなく、トイレが無かった時代に寝ているときの尿を瓶を置く場所だったことも、意外に知らない人は多いと思う。

モニュメントに書かれているラテン語が読めると、結構ヨーロッパでは楽しいだろうと思う。このモニュメントに対しても「神に感謝します」みたいなことを書いているのだろうが、詳細の内容は解読できない。ラテン語に詳しい人、解読をよろしくお願いします。

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