2013/05/12

リスボン市内の様子(そのほか)

リスボン全体を通して、特にトピックを設けなかった点について、追記という形で1つ項目を起こしてみた。それぞれの項目は1つのトピックとして長く文章が書けるほどでもないものばかりである。

ベレン地区とテージョ川を挟んで対岸のアルマダ地区を結ぶために作られた吊り橋が、「4月25日橋(Ponte 25 de Abril)」と呼ばれるものだ。見た目はサンフランシスコのゴールデンゲートブリッジみたいな形をしている。長さ2277mの橋は、1966年に開通したときには、当時の独裁者アントニオ・サラザールの名前にちなんでサラザール橋という名前だったのだが、1974年に起こったカーネーション革命(Revolução dos Cravos)の際に革命が起こった日付をとって、橋の名前がいまの4月25日橋という名前にかわったといういわくつきの橋だ。
この橋は高速道路と鉄道が走っている橋であるため、近くに行っても見ることができるのだが、ホテルからたまたま遠くに見える橋が見えたので、結構高台があるリスボンのしないからはどこからでも見られるんじゃないのかという気がした。

リスボン市内を歩いていると、歩道のところは見事なまでにモザイク模様にデザインされたたくさんの場面をみることに遭遇することは多いと思うのだが、これ、一体どうやって作っているんだろう?という単純な疑問がわいてくるのは当然だろう。もちろん、これは自動的に作っているわけじゃなく、実際には人間の手で作られているものなのだ。たまたま、その作っている場面に遭遇してしまった。
場所は交通の要所であるポンバル侯爵広場のところで、花壇があるのだが、その傍にもやはりモザイクのデザインの歩道が存在する。そこで補修作業を行っていたところに遭遇したのだ。働いている人たちはどうみても旧植民地からやってきたアフリカの人たち。ポルトガルの経済は、他のヨーロッパ各国が右肩あがりになっていったとしても、1人だけ取り残された感がいつまで経っても拭いきれないところではあるが、それでも宗主国だったポルトガルのほうが旧植民地よりは仕事があるという思いはあるために、とりあえずリスボンまでやってきた出稼ぎの人たちである。アフリカはほぼすべての国がヨーロッパの国のどこかの植民地であったのだが、ポルトガルの植民地だったところに限って言うと、モザンビークやアンゴラが上げられる。ここは2000年に入っても内戦が続いていたところであるので、そこから逃げてきたひとたちやその子供たちがリスボンに居るといってもおかしくないだろう。ただ、たぶんいまのポルトガルの経済がダメなところまで行っているので、それほど多くのアフリカ系の人たちを街中に観ることは無かった。たぶん、出稼ぎの黒人は、もっと経済的に発展しているが同じポルトガル語が通じるブラジルのほうに行っているんだろうと思う。だから、リスボンに残っている黒人はブラジルに行きそこなった人、奴隷じゃないが重労働のような仕事についている低賃金者、あとは広場によくいる麻薬売人としているんだろう。

彼らの仕事の傍で仕事をしていたとき「なにを撮っているんだ、おまえらは?」と思わず襲われそうな木が下ので怖かった。ただ、傍に現場監督をしているポルトガル人がいたので、たぶん彼らは文句を言わずに、小さいブロックを1個ずつ丁寧に並べていって、あの綺麗なモザイクを作っているのだろう。

それから、日本人は歩くのが早いといわれるのだが、リスボンの人たちだって負けていられない。特に地下鉄の乗り換え駅のときに、コンコースを歩くひとたちの足の速さは、日本人に負けず劣らずだった。たぶん何も考えず、自分が乗り換える電車に間に合いたいがためのただその欲望から歩くのが早いのだろうと思う。

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