2007/11/10
わが青春のハプスブルク
ウィーンという街は訪れる人を虜にする街のようだ。ローマやパリのような街は、買い物大好き日本人にとってはおなじみの街であるために、文化的知識がなくても買物だけやっていれば、なんとなく自分もパリッ子やローマッ子になった気分になれるということが体験できるのだろうが、そういう感覚ではウィーンを訪問すると、かなりカルチャーショックを受けるものだと考える。浮ついた感じでウィーンを訪れた場合、見た目には質素のように見えるために、ウィーンで楽しいものは一体なんだろう?と思ってしまうに違いない。それはウィーンが持つ文化的背景を全く知らない日本人にとっては、超つまらない場所になるに違いない。本来なら、ウィーンはパリやロンドンよりも古い街であり、歴史と文化が随分詰まっている町なので、世界中から人が集まってきてもいいところである。しかし、ヨーロッパ人以外の人間にとっては、かつてのハプスブルク帝国領の魅力に付いては、全然知識も教養もないので、あの真ん中にあるあたりは、一体何なんだろう?と思っているに違いない。今でこそ、小国に分かれてしまった中欧諸国であるが、これらはもともと1つの国・ハプスブルク帝国を形成していた地域であり、いまのEUの原形ともなる、多民族国家で成功していた国家のお手本であったものだ。他民族所以で、文化と知識と教養がこの中では発達したため、その後、現在の我々の学問に直結するような基礎学問もこの領土内から生まれたことは否めない。もちろん、世界の学問の中心であったために、世界中から人が集まってきていたのは当然だが、ここに来ればなんとかなるとおもって集まってきた輩も多いのは確かだ。あのスターリンやヒトラーも、一時期ウィーンに来て、その文化的刺激を受けることで自分たちの思想を発達させていったのは有名な話である。当の本人たちがウィーンで出会っていたかどうかは知らない。多民族国家であるため、色々な民族の人たちがこの町を闊歩していたからである。
著者の塚本氏は、新聞記者としてウィーンに滞在し、その滞在期間内にハプスブルク家のことに接することから、いまでは小さくなってしまったオーストリアがもともとは世界を席捲していた大帝国の中心であり、他の兄弟姉妹国である、チェコやハンガリーとの関わりあいを調べるとその偉大さを改めて叫喚するという意味で、自分が住んでいたときに触れたウィーンを中心として形成されたハプスブルクの文化形成についてまとめているのがこの本である。
ハプスブルク家の簡単な歴史的紹介は出てくるのだが、それよりも、ハプスブルク家と絡んで文化がどのように形成されていったかということが詳しいし、ハプスブルク家と芸術面というのがこの本を読めばよく分かる。特に音楽の都・ウィーンと言われる所以を知りたい場合には、この本は最高だと思う。モーツァルトやシューベルト、そしてベートーベンのような超有名音楽家とはハプスブルク家は全員絡んでいるし、ハンガリーやチェコの作曲家の活動に対しても同じ帝国領なので保護したために、スメタナやドヴォルジャークなどの非ドイツ系民族じゃないひとたちも、その活動の土壌が与えられたのは良い環境だったと思われる。
この中ではいくつかの焦点にあわせて、ウィーンとハプスブルクを見ていることに注目したい。
最初は、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の皇后として名高い「シシー」こと、エリザベートである。この人がウィーンにいるよりも、ブダペストを愛し、ハンガリー民族の擁護に立っていたことは誰でも知っていることである。著者はなぜこれを最初にもってきたのだろうか?ハプスブルクというと、どうしてもウィーンだけに注目しがちなのだが、それを最初からウィーンだけじゃなく、ハプスブルクは他の領土内の都市も重要なのだということを言いたいからなのだと考えられる。確かにハンガリーとの関係は、特に末期になればなるほど重要になってくるからだ。
次に焦点が当たっているのは、シューベルトである。死ぬまであまり有名になれずに、音楽の亡者として作品を作りに作っていたシューベルト。死んだ後になってその功績が評価されたという典型的な不幸な人なのだが、彼も実はウィーン生まれの人間である。心の葛藤と純粋に音楽への傾倒が人生を速めてしまったという結果になったようだが、シューベルトの生きていた31年間の間に、色々な人と彼が関わっていたようで、その奇異な関係が、のちのちの他の音楽家に影響しているところが歴史だなと感じる。
街の点からみた場合、オーストリア第二の都市であるザルツブルクは、省略できない場所だろう。それも音楽の面から見た場合、その重要性は知れば知るほど楽しくなる。音楽家であれば、誰もが一度はザルツブルク音楽祭に参加してみたいとも言わしめたこの音楽祭が、なぜザルツブルクなのか?それはモーツァルトに所以することになるが、後世では、カラヤンに影響する。芸術面においては、他の追随を許さなかった音楽祭だっただけに、ヨーロッパの強敵になってしまったヒトラーでさえも、ザルツブルクでの音楽について制御しようにも制御できなかったといわれている。
都市としてハプスブルクを見る場合、ウィーン・ブダペスト・プラハの兄弟を外すことは、絶対無理である。それぞれの街で何が起こったかを本当に簡単な歴史の紹介と、重要点だけを簡潔に示しているのはさすが新聞記者としてまとめている才能だと思われる。ここのスペースだけをみているだけで、なぜこの3都市が兄弟のように扱われてきたのかが本当に理解できるものだ。特にハプスブルク分裂後の各国がどのような変遷を経て現在にいたっているのか、そして、これらの国々に住む人たちが未だに「ハプスブルク時代のほうが良かった」と思っている哀愁がなぜあるのかは、ここを読めばよく分かる。それだけ三者三様で違いがあるのだが、すべてがハプスブルクという共通基盤の上でそれぞれの文化性を形成したところの太っ腹に大して、哀愁があるものであり、共産主義とか中立主義とか政治的な背景により分裂させることは、それが生理的に受け付けない結果であったことを証明するものだと思う。それがハンガリー動乱だったり、プラハの春だったりする抵抗として現れるものだろう。なかなか難しい中欧の各国である。
最後は意外にも映画の巨匠ヴィスコンティにフォーカスを当てている。実はヴィスコンティは名家中の名家出身であり、ハプスブルク家に忠誠を誓っていた家柄なのである。彼の作品は本当に定評があるのだが、その作品は、ハプスブルク統治時代のことを忠実に表現していることであり、名家だから知りえているその繊細で文化的に高貴な雰囲気を寸分狂わず表現の世界に取り込んでいるからなのだといえよう。これが、そのへんの平民上がりの映画監督であれば、絶対にその感性高い貴族的な雰囲気を漂わせるような作品は絶対に出てこない。成長過程においてその知識を知る基盤がないからである。しかし、ヴィスコンティ自身は知りえる環境に合った。だから、彼の作品に溢れてくる気品の高さは、いまだに定評があり、その作品をみるたびに、ハプスブルクの偉大なる文化的程度の高さを、それを知っている人たちによって改めて評価することができるのだろうと思う。これは、アジア人にとっては全然知りえることができない環境だろう。いかにハプスブルク家がイタリア・中欧に影響が強かったかを示すものである。
著者は、ウィーンに行ったことで、ワインの美味しさと、オペラの魅力を知ったと書いてある。もし自分がウィーンにしばらく住む機会を与えられた場合、なにに取り憑かれることになるだろうか?音楽的教養が全くないので、きっとクラシック音楽には手を出さないだろう。でも、これだけ著者による文化の薫り高さを本ではあるが示された場合、本当にウィーンに行って、一体どんなものかと体感してみたくなる。しかし、冒頭でも書いたとおりに、パリやローマのようにわかりやすい文化の高さではない場所であるのは想像できるので、どの程度自ら文化の中へ入る込んでいけるかにとって、ウィーンの奥底を知ることが出来るのだろうと思う。是非、次の渡航先はウィーンにしてみたい。
「わが青春のハプスブルク」塚本哲也著
文春文庫 514円
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