2009/03/06
時刻表昭和史
列車の時刻表というのはとても複雑に見えるが、これほど整理整頓されたものはないとおもう。さらにいうと、日本の列車はその運行の正確さは世界一だと思うので、列車がどこを走っているかという状況で、いまが何時なのか分単位で分かるというものだ。この芸術的数字と地名の羅列が記載されている書物は、旅行者にとっては必須であるが、じっくり中を見たことがあるひとは、よっぽどの時刻表マニアだといえよう。ところが、この時刻表というものは、あなどるなかれ、かなりの情報が記載されている。
列車の運行時刻と、どこを通るかという地名が書かれているのは当然だが、簡易ながらの地図も掲載されている。他の国の時刻表で地図まで記載されているというのは見たことがない。それと各駅の駅弁情報が欄外に記載されているのを知っている人は知っている。今ではたまにデパートの駅弁フェアで知られるようになったものでも、昔からの弁当はこの時刻表には記載されているのである。それから、季節ながらの特別列車状況や、列車の時刻表なのに飛行機の時刻表と地方路線のバスや船などの時刻も乗っている場合がある。
ある時期において時刻表を見ても実はあまり実感しないのであるが、長いスパンを見たときに、時刻表というのはその中に記載されている内容がかなり変わってきていることがわかる。
筆者・宮脇俊三は、なく子も黙る時刻表オタクの代表的な人ではある。この人、戦前の衆議院議員の息子であるために、かなり裕福な家で育った。おかげで、父親に付いて全国あちこちに旅行ができたというとても幸せな人である。いまの列車旅行と違って、昔の列車旅行はお世辞にでも楽なものじゃなかったと思う。子供のころから列車に乗ることが好きだったようで、最初は身近な距離である山の手線から、あとでは遠いところまで夜行寝台列車で移動ということをやってのけている。
著書は子供のころからの列車への思いと実体験がかかれている為に、時間の経過とともに、どういう列車に乗って、どういう場所に行って、列車に関わる逸話をたくさん載せている。
最初の逸話は、渋谷駅のことから始まる。いまでは東急の庭になっている渋谷ではあるが、昔はそれほど繁華街になっているわけではなかったらしい。それに驚いたのはあの「ハチ公」を生で見ていたようだ。単なるおとぎ話としか思っていなかったハチ公の話を生で見ていたなんて言うのは、とても羨ましかった。ハチ公は大学教授に最初飼われていたが、のちに別の人に飼われるようになっても、いつものとおりに渋谷駅で待っていたというから、あの銅像が立ったのだろう。
だんだん生臭くなってきた戦時中の話についても、あまり他の書物では見た事が事実がかかれている。1つは列車の等級が今では2つしかないが、戦前までは3つあったこと。いまのグリーン車は2等車の意味であったことは、列車の歴史には書かれていること。そうではなく、戦時中どんなことがあっても列車は時間どおりに運行され、特に山の手線は東京空襲があったときでも運行され、被害が少なかったということ。長距離列車は快速特急がだんだん少なくなってきて、最終的には特急列車はなくなってしまったこと。それと、時刻表オタクにとっては寂しいことなのだが、紙原料が少なくなってきたことによる時刻表の出版部数自体が少なくなってしまったということだろう。青函連絡船のような海の国鉄は、時刻が正確だと潜水艦からの攻撃により船がぶっ飛ばされることになるため、出発運行の時刻は職員のみしか知られないようになっていた。実際に、船はほとんど破壊されてしまったようである。
玉音放送後は田舎から疎開として避難していた人たちが都心に帰ってきたのだが、そのときの列車というのは、いまのインドの通勤電車なみに、座席や通路は関係なく、入り口もドアも窓も関係なく出入りしていたようである。列車自体は時間どおりに動いていたのに、その本数がとても少なくなっているということと、戦時中では「贅沢は敵」というスローガンの元、意味なく旅行として出かけるのを禁止していたため、列車に乗るためには最寄の警察署に何故列車に乗る必要があるのかという理由を貰いに行かねば切符を買うことができなかったという名残のために、戦後の規制が終わったとしても、やっと買えた切符を無駄にはしたくないという一身で乗客は無理やりでも列車に乗り込んだためなんだそうだ。そういう逸話は他には見たことが無いし、実際に経験したことがある人はたくさんいるはずなのに、過去の嫌な思い出なのか誰もこういう話はしたがらないのが何故なのか。
時刻表と列車の運行という歴史から、日本の戦前・戦中・戦後の事実を垣間見ることができたのだが、読んだ後は悲しい思いをした。
時刻表昭和史 (単行本)
宮脇 俊三 (著)
角川書店
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