2006/08/29

感謝と謝罪

 知り合いのなかに1人、その人からこれまで一度足りとも「ありがとう」という感謝の言葉や、「ごめんね」という謝罪の言葉を聞いたことが無いという奇特な友人(?)がいる。大抵、何かしてもらったりすると、必然的に感謝の言葉が出てくると思うのだが、何かこちらがやってあげても、その事象は当然のことと受け止めるらしく、何事もなかったかのように、そのまま時間が過ぎるのである。一言、ありがとうとでも聞ければ、こちらも何かをしてあげたことに対して、嬉しさが出てくるのだが、全く何も言わないので、一体何様のつもりと腹立たしく思うときが有る。本人は教養もあり学歴もある人なのだが、人間として最低限、他人に対する接し方を誰も教えなかったか、怒られなかったか、もしくは「王子様」のような環境下で育てられてきたのか、兎に角他人へのおもいやりが無い人なのである。

 頭のいい人のなかには、頭の悪い人を見つけて、そいつよりも立場が上であるということに喜びを感じるという心の狭い人間がいるのは良く知られている。養老猛が書いている「馬鹿の本」の中にも事例として紹介されているので、ご存知のかたも多いと思う。そして、頭のいい人は、小さい頃から「優等生」としてちやほやされているために、あまり学校の先生や家で起こられたことが無いという人が多いのだと思う。よっぽど親のしつけがよくなければ、頭のいい子は、自分が悪いことをしていても怒られないのだと思う。とくに、両親とも働いている環境で育ってしまった子どもは、親の目から生活している大部分の時間離れているわけで、怒られる環境下にはない。学校の先生は注意はするけど、怒ることは最近は無い。なぜなら、馬鹿な親の集団PTAがうるさいから、あまり子どもを怒れないからである。それでも、注意される子はいるが、頭のいい子は怒られない。小学生のときが一番怒られる時期だと思うので、年齢があがるたびに、その「怒られる環境」が少なくなってくる。何も怒られないで育ってきたまま大きくなった場合には、自分が「王様」のような感覚で振舞ってしまうのは、当然なのだと思う。やっぱり親のしつけはとても重要だと思う。親も子どもを殺すような人はいないので、多少の折檻は必要だろう。犬や猫も言うことを聞かなければ叩かれるのだから、ほとんど動物に等しい子どもも同じように叩かれて、「何をしたら悪いことなのか」を体で覚えされられるのが、一番の教育だと思われる。それを体験しないで大人になった人は、当然、単に対して「失礼」なことは言うし、態度を示し、不快感を与えるのは当然のことだろう。

 自分が王様であると勘違いして育ってしまった馬鹿な大人は、他人が何か自分にしてくれたことに対して、当然のことであるとおもうのは納得だ。さらに自分が間違っていても、それは論破すれば何とかその難関を突破できると思っているようで、正論ではなく、脅しや矛盾だらけの主張をすることで、自分の否を認めようとしない。特に頭のいい人の場合は、頭の回転が速いので、論破するために脳みそをフル回転して、なんとか「相手が悪い」ことを最大限の努力を払って言いくるめようとする。その態度が卑しいし、仮にも相手が悪いということに成功した場合でも、その後、暢気に生活している態度が許せない。つまり、謝罪の言葉を言わないのだ。謝罪するということを、その結果死んでお詫びをしなければならないと思っているくらい重要なことだと思っている馬鹿もいるのだ。一言謝ってしまえば、その場が治まるという場合でも絶対に自分が悪かったということを言わない。言うと、相手に「弱点を見せた」とか「弱点を握られた」と思うからなのだろうか?もし、そう思っているのであれば、他人とは仲良く出来ないのだろうと思う。そういう人は友達がいるのだろうかかなり疑問である。

 人間関係をスムーズに進めるためには、やっぱり他人に対する尊敬の念は、いつ何時でも必要なのではないかと思う。相手を思うことで自分が存在し、自分が存在しているのは相手の何らかのサポートがなければ、実際には生きていけないと思う必要があると思う。どんな宗教に属していても、これは同じ教えなのではないだろうか?なぜなら、他人に対する自分の考え方は、人間生活を送る上で、最低限必要な知識・常識・習慣だからである。それを知らないというのは、馬鹿か、人間じゃないか、王様化のどれかなのだろうと思う。

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