2010/03/27

旧監獄(宜蘭)

宜蘭監獄と呼ばれる建物がかつて建っていた場所に来てみた。いまではすっかりそのおもかげがなく、巨大ショッピングセンタの蘭城新月広場(Luna Plaza)があるために、過去の暗い歴史を感じることは出来ない。このショッピングセンタの中に入ると、どこにでもある巨大モールなのだが、ショッピングセンタの敷地全部を見回してみると、実は結構過去の遺物が残っていることに気づく。

まず、駅から新月広場のほうにやってきたときに目に付くのが、「カルフール(Carrefour、家樂福)」の看板と、鐘楼だろう。北京にある鐘楼のようには大きくは無いのだが、ショッピングモールに沿って建っており、大きな時計も鐘楼の壁に掲げられているので、最初は時計屋の宣伝のためにあるのだろうと思っていた。それに、鐘楼自体があんまり古い感じがせず、どちらかというと、ヨーロッパの街中にある鐘楼にとてもつくりが似ていたので、こんな田舎にシャレたものがあるなと感心したものだ。しかし、実際にはこれはそんなにシャレたものではないことが後でわかる。この鐘楼は、ここに監獄があったときに使われていた、時を示すための鐘なのだそうで、そう考えると、この鐘の鳴りによって、囚人たちが行動をしていたというイメージが想像できた。鐘が鳴ったらご飯を食べ、鐘が鳴ったら強制的に点呼を採られ、鐘が鳴ったら就寝という生活だったのだろうと思われる。宜蘭監獄は、日本統治時代の1896年「宜蘭監獄署」として設置されたもので、刑務所として使われていたのは、名前の通りである。設置当時は、宜蘭あたりは台北県に属していたが、その後、1897年から宜蘭あたりは宜蘭庁が設置されたことにより、管轄が庁になった。廃庁置州が起こった1920年には、台北州に置き換わることにある。そんな複雑な統治の状況なので、この刑務所の名前も、説明書きの中では、いつの時代に焦点を当てて書いたものかによって、全く呼び名が変わってしまうものである。「台湾宜蘭監獄署」と書いている場合もあるし、「宜蘭監獄」で終わっている場合もある。しかし、いずれにしても、統治者日本人が管理していたことは変わりない。ここに入れられた人は、ざっくり犯罪を犯した人たちではあるが、殺人や傷害というようなものだけではなく、日本に反抗した人たちも入れられたことは確かだ。特に山間部の原住民の人たちは、最後まで日本の統治に反抗していた人たちであるのは、霧社事件等を見れば明らかだ。特に宜蘭あたりの山間部に住んでいた原住民は、首狩り族としても有名な人たちであったので、凶暴さと残忍さには定評があったに違いない。集団反抗の首領を逮捕したとしたら、きっとその仕返しに監獄を襲いにきたことは想像が容易にできそうだ。話は遺跡のほうに戻す。

新月広場の入り口には、監獄の監視塔の名残があったりする。これをみると、監獄の塀はそんなに高くはなかったのではないか?と思われる。当時最高でもどの程度の人たちが収監されていたのかしらないのだが、ショッピングセンタの広さから考えると、かなり広い監獄だったのではないだろうか。
なお、監獄のすぐそばには、監督官宿舎が存在し、そちらは現在見学ができる建物としてたっている。これについては、別途記載したいと思う。

蘭城新月広場(Luna Plaza)
URL : http://www.lunaplaza.com.tw/

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