ルジャ広場からさらに南に下り、広場自体の本当のどん詰まりにくると、ひときわ異彩を放つ大聖堂が見えてくる。ここが大聖堂だと思うのは、天井に丸いクーポラが見えるからだ。この教会の名前は「聖母被昇天大聖堂(Katedrala Uznesenja Marijna)」であり、大聖堂が出来上がったときのエピソードが面白い。
時は1192年。日本は頼朝による鎌倉幕府が開府されたときなのだが、ヨーロッパでは第三次十字軍の遠征として、ヨーロッパ各地からの諸侯や国王が聖地エルサレム奪還を目指して、海を通ってオスマントルコで征服されたエルサレムに向かって戦いが繰り広げられていたときのこと。イングランド王のリチャード1世(あだ名は獅子心王)が遠征の帰国途中アドリア海を通っているときに酷い嵐にあったことから話が始る。イギリスの王様はなぜかすべての王にあだ名がついているので、本名よりもどちらかというとあだ名のほうが覚えられている場合が多い。脱線するが、このリチャード1世は、この人のことだけでもなかなか面白い歴史年表がかけるくらいの逸話を持っている人。
戦い大好きのリチャード1世も、帰国の途で、戦わずして死んでしまうのはイヤだったのか、嵐に出会ってしまって沈没寸前の当時の船の中で彼は神に対して命乞いをした。「もし、命が救われたならば、その血と祖国イングランドそれぞれに教会を建てよう」と、聖母マリアに誓った。このときに違う神に祈ったのであれば、ここには聖母大聖堂が作られずに違う大聖堂のものができたことだろうと思う。船自体はドブロブニク沖で座礁し、結果的にはロクロム島の住民にリチャード1世は助けられる。それを感謝して、ロクロム島に神への約束を果たすために、教会を建てるとしたのだが、すでに小さなロクロム島にはベネディクト修道士会の教会があったため、市民は旧市街の大聖堂の補修の献金を王に願い出た。王はそれならばと、10万ドゥカータ(dukata)の資金を援助し、その援助金でいまの位置にロマネスク様式の教会が建てられたことになる。
つまり、この教会はもともと建てられた教会を建て直しで作られたということを意味するため、もっと前から教会がここにあったということを意味する。
しかし、リチャード1世の資金で改修された教会がそのまま現代まで残っていたかというとそれは残念ながら否である。1667年の大地震に大部分が崩壊してしまったが、ラグーザ共和国の運営に携わっていた評議員は大聖堂再建に対してイタリアの有名建築家に声をかけた。まずはどういう教会にするか模型で案を提示したアンドレア・ブファリーニ(Andrea Bufalini)に再建協力依頼を行い、その後はパウロ・アンドレオッティ(Paolo Andreotti)やピエール・アントニオ・バッツィ(Pier Antonio Bazzi)などの建築家が案で提示された模型を元に実際に再建工事に取り掛かった。結局は1671年から構築を行い、1713年に完成している。もちろん、構築には地元の石工だけではなく、イタリアから石工を連れてきて作らせている。この中で建築家の Tommaso Maria Napoli of Palermo は現教会の風貌に決定的特長を与えることになった。それは交差ボールト(アーチ型の天井)と大きな断熱窓を採用したことである。これにより内装全体が明るく温かみのある雰囲気になることができたようだ。これにより建物全体はバロック式に作りかわる。1979年に教会修復の際に地下を掘ってみると、前に地震でぶっ壊れたロマネスク様式の教会の基盤が見つかり、その下からさらにロマネスク様式に改修される前の7世紀に作られたバジリカ教会の基部が見つかった。
建物の歴史はこれくらいにして、中に入ってみることにしよう。主祭壇のほうを見ると、これが大聖堂かというくらいとてもシンプルな大理石ベースのスペースがある。祭壇というより、本当にスペースなのである。その空間の大半はなにもない。なにも飾られていない。ただ、壁には聖母が昇天する肖像画が掲げられているだけだ。そのシンプルさがあまりにも素っ気無いので、本当にこれが大聖堂と呼ばれるものなのかというのを後で考えるととても不思議に思ってしまう。この肖像画はどのガイドにも紹介されていることなのだが、ヴェネチア派の巨匠ティッツィアーノ(Tiziano Vecellio)が描いた「聖母被昇天」である。普段はあまり公開していないし、それを見せるための番人みたいな人がいるわけではないのだが、教会の関係者を是非見つけて、それで中を見せて貰うことをお勧めしたいのが、祭壇左側の小部屋みたいなところになっている宝物殿である。たまたま、自分たちが訪れたときには、改装工事中だったためか、いきなり宝物殿に入ったら、改装用の足場があって、見るのにすごい邪魔だなーと思ったりしたのだが、ガラス張りになっている向こう側には、祭壇で使われる儀式の道具や、過去の司教の遺骨を納めた聖遺骨入れがかなりの数で並んでいる。遺骨入れといっても、日本人が考える壷のような遺骨入れというわけではなく、聖人の体のパーツをばらばらにして、手だったものは手の容器に、足だったものは足の形の容器に入れて保管しているものである。そして、ガイドによると、このなかに、聖ヴラホの遺骨もあったようなのだが、あまりにも膨大な容器があって、どれが聖ヴラホのものなの?というくらいの量があるのでどれなのか全然検討もつかなかった。しかし、実は一番目の前のテーブルに頭の遺骨をいれた冠があったようなので、再度確認したいところだ。
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