2013/09/26

チャーチル博物館(ロンドン)

イギリスの政治家として有名なのはウィンストン・チャーチル(Sir Winston Leonard Spencer-Churchill)。生まれながらにして貴族の家柄に生まれていた人。この人の活躍は実は第二次世界大戦時のイギリスの首相であるというくらいしか知らなかったのが、実はこの人、若い頃から世界各地の紛争地帯ばかりを歩き回っている人であり、イギリスが植民地時代を徐々に放棄せざるを得ない時期にどのようにその土地を統治していけばいいかいうことに尽力を注いだ人である。

国会議事堂の近くには、チャーチル博物館と言うのがある。正式名称は「チャーチル博物館・内閣戦時執務室(Churchill Museum and Cabinet War Rooms)」というもので、第二次世界大戦中にイギリス政府が戦争遂行の指揮統制の為に設けた地下複合施設を基礎として、その中にチャーチルの生涯を紹介した各種の展示物が展示しているのである。第二次世界大戦時にはドイツ軍による空爆もあったので、こういう地下壕を緊急統率本部として戦争を乗り切ったのだが、この地下壕を主に使っていたのはチャーチルの時代の時。地下壕といっても、ベトナム・ホーチミンにある統一会堂にあるような地下壕みたいに狭さは全くここにはない。大きな建物をそのまま窓のない部屋で作りましたというようなものに見えたので、当時はそこそこ動きやすい建物だったことだろう。全部がコンクリートスラブで作られているので、頑丈に出来ているのはいうまでもない。

チャーチルに関する展示はこの建物中央奥のところに巨大なスペースを作って、その中に時代ごとの仕切りとつけて紹介をしている。ただ、メインとして紹介されているのは、第二次世界大戦中におけるイギリスおよび戦時中の宣伝などに関するものが多い。これについては後述することにしよう。

チャーチルとその妻・クレメンティーンは戦時中の寝起きをここの地下壕で行っていた。それぞれの部屋が今での残っており、簡素ながら、それなりに生活をしていたことが覗くことができる。同じように部屋として残っているのは、当時のロンドン市長の部屋も残っている。
 
 
 
 
そのほかは通信設備や会議室を中心とした各種執務室の展示が人間模型と一緒に行われている。
 
 
 
 
 さて、奥にあるチャーチルに関する博物館エリアに行くとしよう。こちらは、光と音楽によるインスタレーションのようなデザインになっているので、意外に長居したくなるくらいのものだ。だた、地下壕を利用しているということもあるのだが、展示物が薄暗いところにあるために、よく見えない。たぶん紙や服が焼けちゃうことを考慮したものだろうと思う。
まずはチャーチルが青年期に従軍記者として南アフリカにいたということを知った事実にビックだ。冒頭でも書いたのだが、実際のチャーチルは、かつての栄光の英国帝国の没落の途中にあった時代に各地で宰相として活躍しており、植民地をいかに経営していこうかということに翻弄していた。それにあわせて実際に各地に出かけていったのだが、従軍記者として南アフリカにいたときの文才のおかげで、のちにノーベル文学賞を獲っているのはあまり知られていない。ノーベル平和章だったら戦争を終わらせたという功績から貰えるのはわかる。
ヒトラーとチャーチルは同世代を生きた人間だが、どちらも出身国でのカリスマとして崇められたのは有名。その2人を色々な面で対比して紹介しているところもあるのが面白い。ヒトラーについては敵国だからということもあるのだが、比較的悪人の扱いをされているところは戦勝国として軽視している位置づけなのだろうか?
戦時中の1944年に、総選挙が行われており、その選挙ではチャーチル率いる保守党は大惨敗をする。そのときの選挙活動として、保守党に投票するように仕向ける宣伝と、保守党とチャーチルを馬鹿にする宣伝をする労働党の宣伝というのが両方展示されていて、それぞれの主張がおもしろく紹介されていた。こういうプロパガンダは、戦時中だからというわけじゃなく、なにかしらのイベントのときには広報するひとたちにとって大活躍する時勢だから、思い切ったキャッチコピーも生まれて楽しいのである。
 
 
戦時中の戦況は会議室等で議論している話題のひとつであるのはいうまでもないのだが、ドイツと戦っていたイギリスは、ドイツが敗北したあと連合国内でどのようにドイツを分割して統治するかという議論も既に始まっていたことを知って面白いと思った。イギリス、フランス、ロシア、アメリカの4カ国によるドイツ分割統治は、それぞれの主張でどこのエリアが欲しいかというエゴが向き出し合っていて面白い。ロシアは東半分、フランスは南西エリア、アメリカはミュンヘンあたりのビール地帯、イギリスは北海沿岸を中心としたエリアだ。
 同じようにアジアにもたくさんの植民地を保有していたイギリスは、日本帝国軍によるアジアの侵略に関してかなり舐めた戦略を持っていたようだ。アジア軽視していたということもあるが、アジア人がヨーロッパ人と戦って勝つわけがないと思っていたからである。なぜならこれまで獲得したアジアの植民地は、現地住民と戦って即効で獲得したところもあるが、同じヨーロッパの列強であるオランダやポルトガルから奪い取って大きくなってきたところなので、ヨーロッパ人の軍事力は認めるがアジア人には戦闘能力がないとおもっていたようだ。だから、手薄になっていたところに、日本軍が快進して速攻でシンガポールが陥落したときには、なにもないところをいちから作り上げた場所であり、当時世界の港の5本の指に入っていた貿易港であったところを奪われていたショックは大きかったらしい。おまけに、この陥落によって、「イギリス人って実は弱いんじゃない?」とこれまで奴隷のように扱っていた現地住民たちの意識を変えさせてしまったことは、後世のアジア諸国の独立運動の始まるきっかけになったことは有名。特にインドは既に1930年代から自由独立の運動が始まっており、英国帝国主義者であったチャーチルは、運動の先駆者であるガンジーを毛嫌いしていたのも有名だが、結局はインドの独立を戦後許してしまったことになる。アジア戦略の軽視がここに現れていた。
 
なお、チャーチルが口頭筆記した「第二次世界大戦」というベストセラー本がここには展示されているかと思っていたのだが、なぜかあの本がなかったのは不思議。たまたま見つけられなかったのだろうか?この「第二次世界大戦」という本はノーベル文学賞を受賞するきっかけになった本である。

チャーチル博物館・内閣戦時執務室 (Churchill War Rooms)
URL : http://www.iwm.org.uk/visits/churchill-war-rooms
Address : King Charles Street, London SW1A 2AQ
Open : 9:30am - 18:00

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