2009/02/24

福建会館(長崎)

長崎にやって来た中国人の多くは、福建省出身の人たちであった。そのためちゃんぽんも根付いたことは「四海楼」のところでも記載したとおりである。遠い海向こうからやってきた福建省のひとたちにとって、長崎の地は、異国の地でもあるが、他の同胞中国人(といっても福建人)が住んでいる場所でもあるために、互いに情報交換したり、困ったことがあったりした場合には助け合ったりすることができる場所としても有益であったに違いない。

そんな福建人たちのあつまる場所として作られたのが「福建会館」である。

もともとは福建省でも南のいわゆる閩南地方のひとたちの集まりであったために「閩南会所」と言われていたのであるが、1897年に今の場所に移った際に名前を福建会館という名前に変えたようだ。

福建会館は長崎の原爆の際に消滅してしまったのであるが、かろうじて正門と天后堂だけが残っていまに至っている。かの革命家孫文も何度も資金調達や軍事的介助を求めて日本にやってきているが、その際には上海からの船でまずは長崎にやってきて、作戦を練っていた。その際には長崎の福建会館に立ち寄り、地元の中国人の援助を受けていた模様である。孫文自体は福建人ではなく広東人であるため、特に中国語で言う「幇」を受けるには同胞というわけでもないのだが、清朝に不服を持っている福建人は多かったため、革命には手を貸すようになったという意味では、長崎と横浜の中華街の役割は大きいと思う。

福建会館には2001年に辛亥革命90周年を祝うために上海から送られた銅像が「孫中山銅像」という名前で建っている。

天后堂では、清朝のときの服装を着て二胡を弾いているひとが居た。

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