旗津砲台は、旗津エリアを一望できる旗后山の山頂に存在する。清朝末期の光緒年間の1875年に砲台の出来上がり、その出来栄えは西洋文化を西太后が進めた西洋文化の取り入れと中国独自の文化を結合した建物の作りになっている。設置された大砲はイギリス製で4基だった。
1895年の日清戦争時、台湾では「割台之役」と言われるときには、当時の打狗地区を管轄していた劉永福の軍である黒旗軍がこの砲台を所有していて、日本の軍艦との激しい砲弾の打ち合いにも使われた場所である。
でも、結局は過去の遺物。こんなものを作って抵抗しても、だめなものはだめだったのは歴史が示してくれていた。
この砲台に向かう際には、ちょっと雰囲気のいい部落の中を通る道を使っていく。途中で、砲台と灯台のどちらにいくかという看板が見えてくるのだが、それを左に行けば砲台で、右に行くと灯台だ。どちらも、高台の上にあるので、疲れているのであれば、どちらか片方に行くべきだろうが、歴史的な価値を考えると、砲台のほうが絶対お勧めだと思う。さらに砲台に向かうには坂道を上っていく。この坂道が結構辛くて、まっすぐな長い道になっている。途中で海水浴場に流木が並んでいるのを看ることができるのだが、その景色を見ていると少し悲しくなる。海岸とはもっと綺麗なものだと思うのだが、これでは海岸の意味がないからだ。煉瓦とコンクリで固められた砲台あとは、結構実は広い。砲弾の打ち合いをしてかなり破壊されてしまったために、多くの建物が壊れたままになっているのだが、まるでそこは、開発途中だったが途中で頓挫してしまったマンションやビルの跡地みたいなもののように見えた。ただ、良く看ると窓枠などは細かい瑠璃を使った装飾を施していたりしているので、当時はなかなか凝っていた建物だったに違いない。
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