2009/09/13

東門城(新竹)

新竹駅から中正路を右手にSOGOを見ながらてくてくと歩いていくと、大きな門が見えてくる。台湾のどこに行っても蒋介石のあだ名である「中正」がつく通りがあるのは、気になるのだが、まぁ、それはよしとしよう。

さて、その問題の門だが、現在の名前は「東門城」。正式名称は竹塹城迎曦門という。300年ほど前にまだこのあたりに平埔族のタオカス族が住んでいたときに、オランダ人が作った地図では、新竹のあたりを「竹塹」と呼ばれており、肥沃な草原が広がったところであったようだ。その豊かな土地に、福建省から徐々に漢族がやってきて開墾していったのが新竹の始まりである。中華系のどの街もそうなのだが、人間が住むとまずは城壁で囲まれた町が形成される。新竹の町もご多望に漏れず、城壁で囲まれた町であった。城壁の建築はそんなに古くなく、1827年からの2年間にわたる工事で作られた。最初は町に4つの城楼があったようなのだが、日本統治に伴ない東門を除いて撤去してしまった。日本の感覚では城壁は邪魔なだけである。1902年にはいま残っている東門から南門の間の壁が取り払われたのを皮切りに、城壁が徐々に撤去された。取り払われた壁は何に使われたかというのは、そこは医師資格のある後藤新平が考えたことだろうが、治安維持と衛生事情の改善が優先されるために、取り払われた石材は、兵営の造営と上下水道の整備に使用された。頭がいい。だが、門だけ残ったものを見ると、なんだか情けないような気がするが、なぜこの門だけ残したのかが、当時の台湾総督府の考えがわからない。

そういえば、残った東門の南北に緑地帯が存在する。現在は「親水公園」と呼ばれているものだが、ここに実は城壁があったのである。だから、まっすぐに伸びた緑地帯の公園が広がって見えるのはそのためである。

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