浦上天主堂から歩いて路面電車の停車場にいく途中で、南下するような方向に行こうとすると、公園のように広がったところが出てくる。そこが原爆が投下されたときの中心地を記念公園としている「爆心地公園」というところである・
原爆が落下し爆発したのは、この公園になっているところ上空500メートルのところであり、その爆風と放射能によって市街地は一瞬のうちに全焼。これによって15万人の死傷者を出したというものなのだが、なんで長崎なんかに原爆を落としたのかというのは、実はあんまりよくわかっていなかった。元々、原爆を積んだB29は、長崎をターゲットとしていたわけじゃなく、八幡製作所を中心とした工業地帯になっていた小倉を狙って、グアムのテニアン空軍基地を出発してきたらしいが、天候不良だったために、目標地を変更。長崎は、開国以降、重要な日本の港として貿易や大陸との乗客輸送の拠点になっていたことと、ここにはいまでは三菱造船の造船場があるが、戦時中は現三菱重工業に該当する三菱長崎兵器製作所の巨大な工場群が存在していた。アメリカ軍としては武器製造工場を潰して日本の敗戦を早めたいという思いのため、最先端の爆発兵器を使って壊滅させたのだろうと思う。
その爆心地は、広島の原爆ドームみたいに象徴になるようなものがないために、わざわざ浦上の教会の建物あとを持ってきているというところが、なんともつまらないものになっている。傍に平和記念公園があるが、それとリンクしないのも、長崎の原爆跡地に関して広島よりも一歩どうしても見劣りしているしまうことや、世間的に認知が低くなっている原因にもなっていることだろう。ただし、外国人の関心はやっぱり高いようで、自分たちがここの公園にきたときにも、ドイツ人だかフランス人だかの観光客が、地元の説明員による解説を熱心に聞いていたのを見かけた。それくらいであるが、これと言って他になにもない単なる公園になっているのがここの場所の現状だ。
というのも、あまりにも爆風が過ぎすぎて、あらゆるものが吹っ飛んだために、何も残らなかったというのが正しい話で、だから記念になるものや目立つものを残すことができなかったと言うことなのだろう。広島の原爆と同じ型なのか爆力についてもどうなのかは、それは戦争関係の人のサイトを確認することにすれば良いと思うのだが、頑丈なものはここには無くすほどの威力だったことは確かだろう。
漫画「はだしのゲン」でもそのシーンは読んだことがあるのだが、原爆が投下されたあと、大火傷を負ったひとたちがこぞって冷やすために川に入ったという内容がここの公園の説明書きに書かれている。それはどういう川なのかと思ってみてみた。ちょうど裏側に川がまだあるのだが、それを見ると、そんなに大きな川というわけじゃなく、むしろいまだとドブ川とでも言うべきくらいの狭さなのだが、ここには水があったので、それを追い求めたのだろう。ただ、漫画でも記載されていたとおり、川に辿り着いた途端に亡くなる人も多く、さらに上流で亡くなった人がそのまま流木のように流れてくるというような光景があったようだ。そのときの死体による異臭はものすごいことだったろうというのは容易に想像できる。
原爆の悲惨さについて説いている碑があるのだが、それを見てどう感じるかというのは、ここを訪問をしているひと各個人によるところだろうと思う。おそらく、買物しか興味が無いような中国人や台湾人はこういう場所にくることはない。なにしろそんな辛気臭いところを見るよりも、食う・寝る・食べるをしたほうが楽しいと思っているからだ。そういうのんきな人たちと戦時についての話をするつもりもないし、どうせ、彼らの政治家による捏造的歴史が史実だと勝手に思わされているようなので、どうでも良いと思う。
先ほども書いたのだが、広島の原爆については「はだしのゲン」で描写がいろいろ書かれているから、原爆投下直後のこともよくわかるのだが、長崎の様子というのはほとんど知らない。もちろん長崎が地元のひとは知っていることなんだろうが、他の地方に住んでいたものにとっては全くというほど知らない。広島のおまけ的なものしか思っていないのが正直なところだろう。もっと長崎の原爆投下については宣伝したほうがいいとおもう。政治的な配慮なのかしらないが、中国のように、やられたら倍以上に宣伝してこんな酷いことがあったと宣伝しても良いと思う。広島が表立ってやってくれるから、それに便乗するだけでいいというような思いが長崎にあるんだったら、それは間違っている。広島は広島であり、長崎は長崎の事情と環境があったわけだから、独自に世界にアピールするべきだとおもう。
さて、原爆が投下されたのは、実は8月9日の日曜日の午前11時過ぎごろのこと。この時間帯には浦上天主堂では日曜ミサがいつものように行われていた。そんな中でキリスト教国家であるアメリカが、同じ宗教信者がたくさん集まっているエリアに原爆を落としたということが災いしてしまい、長崎にカクレキリシタンがいたことは世界的なキリスト教徒には発見当時は大ニュースになったので、いち早く世界遺産になってよかった事実だったが、アメリカによる反対が長年あったために、世界遺産に登録されることはずっと実現されることがなかった。さすがに戦後70年近くなってくると、原爆投下を支持したひと、実際に落とした爆撃機に乗っていたひとたちも、この世からいなくなったことにより、関係者不在という棘がなくなったことで、ようやく昨年辺りから世界遺産登録の動きが活発されたことは良いことだ。世界遺産を政治に使うのは強国のいつもの手段なのだが、長崎は、もろにこの悪影響を受けていたことを改めて感じたのはこの場所に来てからだ。
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