2014/01/03

長崎歴史文化博物館

長崎滞在中にちょっと行ってみたいと思ったのが、長崎歴史文化博物館。他の名所旧跡に比べたら、たいしたことは無いと思って、あまり最初は注目をしていなかったのだが、ちょうど滞在中にこの博物館で、「対馬藩と朝鮮通信使」と特別展が開催していたので、これを見るためだけに行くようなものだと思って行ってみた。

日本の歴史の中でこの2つのどうしようもないグループの話は、調べれば調べるほど面白いと思うし、日本の歴史の中では汚点というか真面目なお笑いをしてくれたグループだという思いがあったからだ。なにしろ、対馬藩は、朝鮮半島に一番近く、秀吉の時代に朝鮮との国交を断絶していたことから、朝鮮との交易でしか生き残る術はないと思っていただけに、なんとかして朝鮮との国交回復をするために、日本を代表とする王からの正式の文書とする「国書」を偽装して朝鮮に送って、日本と朝鮮の交易を再開させようとしたというお笑い話。なにしろ、朝鮮側はニセモノだとしても国書というものが送られてきたら、日本が正式に交易を求めてきたのだろうと考えるのは当然なのだが、国書を日本から送ってきたという理由はこの時点では正式には何も無いのに、その日本の置かれている背景を全く研究せずにホイホイ承諾したことも笑える。それから朝鮮通信使も、もともとの目的は秀吉の朝鮮出兵のときに朝鮮から大量の儒教者と技術者を捕虜として連れてこられたのだが、これらの人たちを返してくれというお願いできた。いまでいうところの、北朝鮮に拉致被害者を日本に返してくれと頼んでいるのと同じである。が、それは最初のころの通信使の目的であったが、あとからは将軍が新しくなったときにそのお祝いのためにやってくるというものであった。来るだけならまだいいが、来日したときの彼らの行動がほとんど盗っ人と同じような行動しかせず、それも無駄に1000人以上の人間を連れてきたので、ただ食いして他人の所有物を片っ端からふんだくって持ってかえるという酷い集団であった。日本の歴史的文化財になっている巻物にも、その通信使が道端に民衆が飼っているニワトリを勝手に持って帰ろうとする様子が絵に残っている。やつらにとっては、公の場にあるのは誰がもっていってもいいという、もともとの中華文明特有の文化をもっているからだということもあるのだが、所詮、自分たちよりも劣等の民族である日本のものなんかは、優秀な朝鮮民族が持って帰ってもいいのは当然であるという、これまた中華思想に基づく考えがあったという。これらのアホ集団のことが実際に展示物として見られるというのだから、見ない理由が無い。

博物館自体は最寄りの諏訪神社電停から少し離れているうえ、少し高台の上にあるたえに、歩くのがちょっと難儀ではある。特に、バスも目の前まで行くことは無いので大変だとは思うのだが、このあたりはどうやら長崎市内の中でも格式高い家柄の人たちが住んでいるところのようなので、結構大きな屋敷の家がたくさんあるのと、夜に歩いたときには、何気に雰囲気がよく、静寂の中を闊歩するのがとても気持ちがよかった。
 
さて、博物館の敷地内には、旧制長崎県立長崎中学校がそこに存在したということを標す記念碑が建っている。終戦までここにあったわけじゃなく、1884年から1908年の間だけここに校舎が建っていて、その後は別のところに移転したらしい。長崎のこういう学校については全く知識がないので、へーとしか思わないのだが、その記念碑の傍に灯篭もあったりするので、一体寺なのかそれとも旧校舎なのか全く分からない意味不明な敷地だとおもった。
そして建物は、時代劇のセットなのか?と思うようなところのような建て方をしていた。そう思ったのは後で分かることなのだが、遠山の金さんが出てきそうな白州の間があったりするからかもしれない。それは旧税関の様子を再現したところだった。
 
 
 
 
常設展と特別展に分かれており、常設展だけなら600円で入館可能。年間パスポートみたいなのもあって、年間5000円払えばいつでも観られるというのある。そんなに来る人いるのかなーとおもうが、実際に中に入ってみてもらうとわかるように、長崎は歴史的に展示するべき事象がたくさんあるために、何度観ても飽き足らないものばかりが展示しているので、暇があったらここに来るということをしてもいいんじゃないのかとおもった。もちろん、その年間パスポートでは特別展は見ることが出来ない。

まずは特別展のほうに行ってみた。お目当ての「対馬藩と朝鮮通信使」のことを展示しているところだ。このときの展示物として注目したのは、1つは対馬藩が江戸幕府の代わりでウソの国書を作成し調整に出した、その本物の文書の展示である。その文章を読むと、まぁなんと自分勝手な国交復活の文章だというのが分かる。時の将軍、徳川秀忠がぶちきれたこともわからんでもない。そのときに、率先して行ったのは対馬藩主宗家ではない。家臣の人間がやったことに「なっている」ということだ。が、実際には藩全体で行った事件であり、藩主自らが命令をして朝鮮との貿易を再開することで対馬の財源を回復させたいという意向ではあったということ。結局、徳川幕府は「朝鮮からやってきちゃったんだったら、迎えるしかない」と江戸城には迎える。しかし、正面玄関からの入城は許さず、裏からしか入れなかったというところがこの朝鮮通信使が、どうでもいい人たちだったと言う扱われだったのだろうとは思える。
そして、人形ながら、朝鮮通信使が長蛇の列になって道中を歩いてきていた様子を表現しているところがあったのだが、見た目は華やかな感じだったのだが、1000人規模の集団でやってきたのであれば、徳川幕府もさぞ大変な受け入れだったことは想像できる。が、大して褒美も取らさず、接待的な受け入れをしているわけじゃないので、朝鮮通信使が道中のニワトリを勝手に奪っていったり、米を強奪したりしていたのは、自国や自分の利益にできなかったことによる腹いせだったんだろうなとは想像できた。道中の町人たちの表情が「また来やがった」という顔をしていたのが面白い。まぁ、これが事実だったんだろう。

建物は地下1階から地上2階まで存在して、博物館全体としての敷地も広いし、建物もとても綺麗である。2階は特別展を開催するところで、常設展は1階エリアに存在する。おみやげ類は地下階にあるので、長崎に関する書物を購入したいというのであれば、ここに来たらまず全部揃うと思う。

さて、常設展のほうはどういうものが展示されていたかというと、こちらは長崎の江戸時代の様子についてをあらゆる分野から見地されて展示されているものである。長崎特有の出島があることによる犯罪事件なんかも展示されていたりするから、結構実は地味に面白い。それに、特別展のほうは写真撮影禁止だが、常設展のほうはなにを撮ってもOK。中には実際のモノというのはこういうものだったと、触ってもいいようなものもある。両国にある江戸東京博物館にちょっと近い気がした。特にここでの展示は、長崎は海外との貿易の税関がある場所であったので、日本からの輸出、日本への輸入の両面において、何をどのくらいの量を運ぶつもりかと監査が入る場面を再現しているところだろう。どういうものが輸出入されていたのか、実物のものを展示しているので、これは歴史を勉強している人たちにとっては、とても興味深いものだろうとは思う。
 

 
 
あらゆるものが常設展に展示されているので、ここに頻繁にきて遊ぶというのもありだとは思うが、それは地元の人たちだけの特権だ。年間パスポートを発券するようなこともあるという理由が分かってきた。

<長崎歴史文化博物館>
URL:http://www.nmhc.jp/
開館時間:8:30~19:00
閉館日:毎月第3火曜日
住所:長崎県長崎市立山1丁目1−1
電話番号:095-818-8366

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