2014/01/03

寂れている長崎の中華街


長崎の中華街は、横浜と神戸についで三大中華街の1つに数えるところだ。なにしろ鎖国時代から貿易港として長崎は開港されており、そのときに出入りができた外国人はオランダ人と中国人だけだったため、その頃から中国人が貿易のために居ついたからということもあろう。でも、鎖国時代からというのは御幣があって、鄭成功を生んだ時代はもっと前の時代であり、その頃は長崎県の北のほうにある平戸のほうが前線基地だったのかもしれない。それでも三大中華街にもなっているので、横浜と神戸の中華街の規模があり、華やかさと賑やかさがあると思ったら大間違い。普段の長崎の中華街は、正直死んだように寂れた感じがする街である。でも店が倒産して閉まっているというところが多いというわけじゃない。どこもかしこも開店しているし、中華街特有のレストランや装飾があるのは変わらない。ところが、街はいいのだが、歩いている人があんまり居ないのである。そこが寂れているように見えた原因だと思われる。
 
中華街にはどこもそうなのだが、東西南北に入口になる門が必ず立てられている。玄武・朱雀・白虎、青龍である。これは四神の信仰から行われているものであり、中心は黄竜なのだが、それは中心なのであまり目立つことは無い。こういうところには中国人は金を惜しげもなくかけるのだが、長崎も結構派手な門になっていた。
 
中華街というと、食べもの屋がたくさんあるというイメージなのだが、長崎の中華街はおもったほど中華料理屋がひしめき合っているという感じはしない。もちろん無くはないのだが、見渡す限り中華料理の店というわけでもない。横浜の中華街は、最初は香港人、そして台湾人がやってきて、そのあと大陸中国人がやってきて、中華といえども、各地方の中華料理が食べられるようになったという歴史があるが、長崎はどうも香港系か福建系しかいないような気がする。そのために料理にも偏りがあるような感じがした。
ところで中華街はどういう場所で発達したかというのを考えたことは無いだろうか?先ほどにも記載したとおり、もともと中国人の溜まり場になっていたのは、輸出入をする港ん傍に生活圏を作ったことが原因。ということは、すぐにでも商売として船をだせるところに街が発達するのが常識。だから、山の中に中華街が発達したなんていうのは、世界各地では絶対無い。ところが長崎の中華街は、海にまぁまぁ近いところにあるとはいえ、なんでこんなところに中華街が出来たのだ?というような場所にある。でもそれは現代人の視感で土地を見ているのであって、太古からこの土地がこのままだったかというとそうでもない。中華街がある場所の傍には実はちゃんとした大きな運河が流れていた。いまでも中華街の北側には運河が残っているが、南側にも実は運河があったのだ。現代は「湊公園」という名前になった広い公園と普通の道になってしまったのだが、この湊公園が波止場になっており、道が運河になっていたのである。公園自体の名前に「湊」と書いているから海に関係するものであることは想像できたのだが、まさか波止場だったとは思わなかった。人口が増えてきたことにより人間が住むための土地が少なくなってきたことと、交通量が増えてきたことにより川・運河が邪魔になったというのが一般的な考え方だろうとは思う。



そういえば、ここの中華街にはよるになると、たくさんの猫が集まってくる場所がある。その数、何匹いるのかまったくわからないくらいいる。昼間はどうせ寝ているんだろうが、夜になると大人の猫から子供の猫までめちゃくちゃいるのである。猫好きのひとは行ってみると良い。
 


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