泊まっていたホテルであるANAクラウンプラザホテル長崎グラバーヒルの敷地内に早速あったのは、「国際電信発祥の地」「長崎電信創業の地」「南山手居留地跡」の3つである。実は日本の電信の歴史は不思議にも、国際電信のほうが先に開業しているのである。時は1871年。長崎と上海、長崎とウラジオストク間でグレイトノーザン社による海底ケーブルが敷設されることにより、これでヨーロッパや大陸と長崎間では電信サービスができるようになったが、この時点では日本にもいちおう電信サービスは存在していたが、長崎までは国内電信サービスが届いておらず、長崎で国際と国内の交換サービスが始まったのが1873年というから面白い。それがこの場所というわけである。
大浦天主堂に向かうおみやげ屋が並んでいる坂道の途中に、忘れられたかのようにポツンと立っているのが「ボーリング日本発祥地」という碑。それも江戸時代である1861年に大浦居留地に「インターナショナルボウリングサロン」という名前で、居留地にいるメンバ向けにサロンの色を出した場として開業している。いまではボウリングは、その人気もそれほど高くないし、値段も安くゲームを楽しめるものではあるのだが、当日は社交場として酒とともに提供される場所だったようである。それがこの坂道の途中にあったのかは不明であるが、こんな中途半端なところにボウリング場を建てるほどの敷地を用意できたのかどうかは不明である。そう思うのは、実はもう1つボウリング発祥の地と表す碑が、実は四海楼の傍に立派な像として立っているからだ。どっちが本物か?というと、たぶんこの坂道のほうが先にできているようだから、この坂道のところにあったんだろうとは思う。
出島の中に「バドミントン伝来之地」という碑がある。出島に停泊していたオランダ人が敷地内で行っていただろうとは思われている。それは出島での様子を記した数々に絵画に残っているからである。ただ、いつ頃からバドミントンがやられていたのかは不明のようであり、いまだとラケットを使って行われている競技だが、最初からラケットがあったのかどうかも不明だ。もしかしたら、手のひらでやっていたかもしれないし。
諏訪神社から博物館方向に歩いていくと、途中で「日本最初の缶詰製造のchい」というのがある。1879年に長崎公園で行われた長崎博覧会のあと、長崎県がここに缶詰試験所を設置したのが始まり。勧業御用係に任命されていた松田雅典によって、その後払い下げられた試験所を松田缶詰所として開いたのが本当の始まりで、最初はどうやらイワシの缶詰だったようである。缶詰の歴史は意外に古いんだなと思った。
グラバー邸の敷地内に、その辺の碑とは比べ物にならないくらい立派な碑が立っているのは「西洋料理発祥の地」というもの。日本人で初めて西洋料理を自力で出したのが草野丈吉であるが、オランダ総領事で最初は使用人として働いていたが、そのうちコックの見習いとして腕を磨き、オランダ公使の調理人にまでなって、いろいろな国に廻り腕を磨いた人である。この人が西洋料理を日本に定着させたといってもいいくらいであり、それがなかったら、姪時代から続く洋食屋さんと言うのは存在しなかったと思われる。
他にも実はあとから調べると、いろいろ「長崎が一番最初に行われた場所」となる事象がたくさんあることがわかった。出来れば、事前にどこに何の碑があるのかを知った上で、その碑を探しに、長崎市内をうろうろするのも楽しいことだろう。
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