2009/05/16

ユダヤ人広場博物館


ウィーンの中にはユダヤ広場(Judenplatz)というのがある。その名のとおり、このあたりはかつてユダヤ人がたくさん住んでいたエリアであるのだが、そんなに広いところではない。そのためなのか、妙にこの広場は閑散として、そして良く分からないピリピリとした雰囲気を感じてしまう。それはきっと、広場の真ん中に、かなり不自然な白い箱型のモニュメントがあるからなのだと思う。

実はこの建物は、ナチス戦犯の追跡者としていろいろなナチ関係の本には登場し「那智・ハンター」と知られているユダヤ人シモン・ヴィーゼンタールのアイディアによって2000年に建てられたもので、ナチスの被害者となったユダヤ人を追悼する意味で造られたもの。建物の中には何が入っているのかよくわからない。それもそのはずで、ドアラは常に硬く閉ざされているからだ。

それにしても、ブログを書いていて、久しぶりにヴィーゼンタールという名前を書いた気がする。この人は、ホロコースト最終決断者であったアドルフ・アイヒマン追跡で名を馳せたことだろう。ナチス崩壊後、密かにイタリア経由でアルゼンチンへ逃亡したアイヒマンを、ほとんど執念に近い思いで探しだした人である。

実はオーストリアはユダヤ人の迫害に対してナチスに荷担したという「罪」をいまでも背負っており、いまだにユダヤ人呪縛から逃れられていない。戦前のオーストリアの産業はユダヤ人の手に有り、多額の税金を払っていたのもユダヤ人であり、第二次世界大戦前の経済低迷の原因とその責任を、オーストリア人は自分たち以外の何かに見つけなければならないというやりきれない状態であった。自分たちドイツ系オーストリア人は、職もなく、インフレで食べ物も困っているのに、デブって裕福に生活しているのはユダヤ人で、よくヒトラーの「わが闘争」の中でも、何度も述べられているのだが、ユダヤ人だけがなぜドイツ人を差し置いて満足の生活をしているのかという不満は、どのオーストリア人にもあったようで、すべてのユダヤ人が裕福であったわけではないのだが、ユダヤ人は妬みの対象となり、逆に貧しい底辺の生活をしているユダヤ人は社会の邪魔者でしかないと考えた。

そこへナチスがオーストリアを併合するようにやってきたときに、ほとんどのオーストリア人は大歓迎したことは有名な話。やり方は違っても、元々オーストリアでは国粋主義が蔓延っていたので、特にナチスのようなものが入ってきても、拒否感は全くなかったことも原因の一つである。そして、自分たちではない他人が、ユダヤ人を駆逐してくれたので、薄汚れたユダヤ人がいなくなり、町がスッキリし、各分野の上層部を握っていたユダヤ人もいなくなったので、まず借金を抱えていた商店の店主が借金帳消しになって歓び、ビジネスマンたちはユダヤ人との競争がなくなり幹部になれるチャンスを得ることができ、家を追い出されたユダヤ人の財産はナチスによって没収されため、空いた家屋はオーストリア人の手に安く手に入ることができたという、オーストリア人にとっては夢のようなことが現実になったということがあった。そんな過去があるために、いまだにオーストリアではこれらの話題はタブーになっていることが分かっている。

1938年に起こった「水晶の夜」事件によって、ウィーンのシナゴークの90%以上が破壊され、7500人のユダヤ人の商店と住居を破壊し、91人のユダヤ人を迫害したというのが起こっている。こなごなに砕けた路上に散ったガラスの破片の様子から「水晶の夜」と言われているのだが、ナチスはこの破壊行為の責任をユダヤ人に押し付け、ユダヤ人に10億マルクの課徴金を課していた。さらに後始末としてウィーン市内では、ユダヤ人は人々が見ている中、ひざまついてたわしや雑巾で道路を清掃させられたというのもある。だから、戦後に建てられた唯一のシナゴークであるウィーンシティ・シナゴーグには、常に警戒の警官が警備している。

中立国として戦後の出発を果たしたオーストリアは、このユダヤ人に対する戦中の扱いに対する報いとして、どこにも属さないことを条件に独立したのだが、戦後60年以上経っても、このトラウマからはどうも逃げられないようである。東洋の国に属して、同じように戦後60年以上も経っているのに、いまだに「謝罪」なんていうのを思っているどっかの国と同じようなものである。

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