ウィーンを旅行する前に、結構たくさんのウィーンに関する本を事前に読んで勉強していったのだが、役にも立たなかった本が1冊ある。それが「観光コースではないウィーン」という本だ。ウィーンの観光というと、どうしてもハプスブルグ家に関するものを中心としたウィーン文化に特化されると考えたのか、本著では、ほとんどハプスブルグ家とそれに関する文章が出てこない。どちらかというと、もっと近代的な時代のウィーンを述べている。具体的にいうと、ナチス時代から第2次世界大戦後のウィーンを中心として文章が書かれている。
ナチスのこととウィーンというのはあまり結びつきにくいと考える人が多いのだが、実は結びつきが強いのである。ヒトラーがナチスに入党する前に画家として活躍を目指していたのはウィーンであるし、ナチスに無血開城をして、ナチスがオーストリアにやってきたことを熱烈に歓迎したのもウィーンだからだ。当時のヨーロッパでは、例え第1次世界大戦で敗戦したからといっても、ヨーロッパの文化の中心地はパリかウィーンだったためで、文化的に華やかなところに人が集まってくるのは当然であり、その一角としてヒトラーもウィーンにやってきたのである。無血開城もウィーン市民がナチスに好感をもっていたからというのではなく、当時のオーストリア全体に国粋主義が蔓延していたことが、同様の主張を繰り広げていたナチスに対して特に敵対心をもっていなかったというのが正しい。
そんな歴史を経てきたウィーン全体は、いまナチスの匂いは全くしない。その全くしない匂いのなかでナチスとその歴史を感じ取れというのが本著の主張である。
日本はいつまでたっても政治家が、中国と韓国に対して「戦争は悪かった」と言い続け、中国と韓国もそれを手にとり、いつまでも「謝れ、ゴラァ!」と日本は言われっぱなしになっているのに、何もそれに対して主張しない土壌が日本にはある。これはダメだと、マレーシアのマハディールは言っているのに、全然援護射撃だとは日本は思っていないところも悲しいが、日本全体が、ドきつい言葉の暴力に対しては毅然とした態度で主張できないという態度が、欧米諸国から見るとイライラしてくるように見えるらしい。そりゃぁ、戦争中は戦争なので、勝つか負けるかだから、負けたほうが悪いに決まっている。その負けたあとの裁判も処理も既に済んでいる。だからそれで終わればいいのに、いつまでも中国と韓国は、日本が偉そうな顔をして世界を動かしていること自体が中華の世界からみると外に居るくせに何様なのだという気分から抜けないために主張しまくっていることに日本人は気付いていない。終わったことは終わったこととして処理できない日本人の未熟さはある。
ところがオーストリアのような周りを他国と陸で囲まれているところにおいても、日本と同じようにいつまでたってもナチスに荷担したことに対して悪びれたという責任をいつまでも負っている感があると、著者は主張するのだ。残念ながら、直接、オーストリア出身の友人を持っていないので、現在のオーストリア人がどのような心境でナチスのことを考えているか、またはあの戦争についてどう考えているのかは聞いたことも無い。ウィーン滞在中に対してもホテルの人に聞いてみたいとは思ったが、なぜ日本人がそんなことを聞くのかと怪しまれるのも変なので止めたこともあるが、どちらかというと、ホテルの中に本当にウィーン出身の人がいるかどうかが疑問だったことも有る。
せっかくウィーンに行って、そんな暗部なウィーンを見て歩くよりは、華やかだった貴族時代、つまりハプルブルグ全盛期のウィーンの歴史を知りたいとおもい、それを追って観光するほうが楽しいに決まっている。表立って、分かりやすいナチスの爪あとを捜し歩くことはとてもツマラナイだろうし、何度かウィーンを訪れたことが有る人か、もしくはナチス研究者だけがそういう暗部のウィーンを見ればいいと思う。確かに、ウィーンのなかには良く探せば爪あとはたくさん残っていることが分かる。でも、やはりみるべき物はハプスブルグの遺産だろう。そう考えると、本書は参考にしてもいいが、ガイドブックとしてウィーンに一緒に持っていくべき本ではないということも言える。
どこの国でも暗部はあるものだ。
観光コースでないウィーン―美しい都のもう一つの顔
松岡 由季 (著)
出版社: 高文研
発売日: 2004/06
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