グエン朝第12代皇帝のカイディン帝(啓定帝)の陵墓である「カイディン帝廟(Lang Khai Dinh)」へ行ってみた。帝位としては1916年から1925年の9年間しか居なかったのだが、それでも王朝末期の皇帝としては、なかなか興味をそそるようなことを生前はやっていたようである。
皇帝としては、当時として当然の生業だったのだろうとおもうのだが、宗主国のフランスに若いときには留学しており、その時にフランス文化に触れることにより、ベトナムの文化とフランスの文化を融合するような陵墓を生前から命じて作らせていたのが、いまのカイディン帝廟である。皇帝自体が幼いころから病弱だったために、いつでも死んじゃうかもしれないという思いから、皇帝に就いたあとの1920年になってから作り始めた。だが、皇帝が無くなった1925年の段階になっても実は予定していた帝廟は出来ておらず、なんと15年もかかった1935年に出来上がったという。それまでは当然屍は、棺おけに収められていたのだろうが、その棺おけをどう置いていたのだろうか気になる。
ベトナム文化の典型的な風格というのは、この帝廟を見る限りにおいては、どこにも見受けられない。ベトナム風というと、木材と瓦屋根の色彩豊かな中国風の建物が通常なのだが、ここではそんなものは一切無く、全面的にコンクリートで出来ている。タクシーで乗りつけた入口から、いきなり数十段階段が出迎えてくれるのだが、ここからもうすべてコンクリートなのである。階段は2列になっており、真ん中にもやはりコンクリートの仕切りがあり、狛犬や獅子のような守り神が備わっているところがいかにも皇帝の墓というのがわかる。そして、階段がいきなり廟まで続いているというようなつくりになっていないところが、じれったい感じがする。中間に踊り場のようなものがある。そして、その踊り場に入るところに、簡単な門があるところが面白い。この門が、一番下の階段に備え付けているのであれば、いかにも門だというのがわかるが、中間地帯にあるのが面白い。この中間地点から廟なのだという表わしなのかもしれない。
階段を全部上りきったところに廟があるのだが、その廟に入る前に、廟の前にある広場のところもしっかりと確認したい。真ん中の廟を挟んで両脇に、まるでその前を皇帝がこれから通るのではないかと思うように、兵士と文官と馬が整然と並べられている。兵馬俑ほどの数は存在しないのだが、石像になっているその姿はどれ1つとっても同じ形が無い。顔も違う。こういう細かいところのこだわりは中華の影響を受けているのではないだろうか。
そして廟の前には皇帝のこれまでの業績が書かれた石碑が建てられており、その文章は漢文で書かれている。ベトナムにも独自の文字があったのだろうが、正式文章は漢字で書かれることだったようである。ただ、石碑が大きいので、上の方に書いてある文章が全く見えない。だいたい近寄らないと読めないくらいの小さい文字でびっしりと書かれているのだから恐れ入る。実際に廟に入ろうとすると、その入口が重厚で、なんだかドラキュラでも出てくるくらいの雰囲気を感じる。至る所に龍をふんだんに使っているため、それが仰仰しいようにも思える。しかし、ここは皇帝の廟なのだから、それくらいのものでも丁度いいのである。廟の中に入ると、いきなり天井は龍を模した図柄の絵が天井一杯に描かれており、青い海に龍が踊っているような様子を表現しているのだろう。まだできあがって100年くらいしか経っていないからかもしれないのだが、建物のコンクリートの黒さにくらべると、内部が綺麗になっていることに対して吃驚した。
廟は3つの間から成っており、真ん中の間に、皇帝の墓が置かれている。中国の明皇帝の陵墓に行ったとき、中国の皇帝は地下に皇帝の墓を作るような慣わしだったのだが、ベトナムではそんなことは気にせず、皇帝の墓は地上のそれも高い位置に置かれているというのが全然違う。どちらかというと、フランス文化を皇帝が好んでいたことにもよるのだが、キリスト教国で使われている皇帝の墓のつくりをそのまま真似しているような気がする。煌びやかに飾った室内に、ものすごい装飾と派手なデザインの棺桶を皆に見てもらうためのように置かれていると言ったほうが良いかもしれない。そう、棺桶が置かれている場所だけみると、ここはキリスト教の教会か?と勘違いしてしまいそうになるのは、このためなのかもしれない。実際に棺桶の中には、宝飾品を入れられていたのかどうかは不明である。
壁や柱を見れば、天井が高く見せるためなのか先が細くなっているようなつくりに成っているのはまさしく教会と同じつくりである。そして、ギリシャ風の柱の形をしているのも、まさしくキリスト教の教会だ。皇帝はフランス留学の際に、キリスト教の文化に触れて、西洋の良い所だけを取り入れたのだろうと思う。自分の墓の上には金箔が施された皇帝の座った姿が銅像として残されている。その座っている上にある天蓋には、やはり龍を模したデザインが残されており、中華的な要素とキリスト教的要素の融合が面白いように調和をとって存在している廟なのではないかと思う。皇帝の墓のある間を正面から見ると、「啓義殿」と書かれた看板と皇帝の白黒写真を通して墓を見ることが出来るが、日本の寺院のように、天皇の墓があるからといって、それにお賽銭を入れるような行為はここでは出来ない。ただ、大理石や貝殻で作られた土台や目の前に置かれた鶴を見ていると、墓とはあまり思えなくなってしまうのが不思議だ。どこにいるのかわからず、ここがむかしこの皇帝の執務室だったのではないかと勘違いしてしまいそうだ。フランス文化に触れて西洋かぶれになったのだろうとおもうのだが、やっぱり皇帝はベトナム人である。だから、着飾ったとしても顔はやっぱりベトナム人にしか見えない。いまのベトナムには中華系の人たちもいるために、顔が色々といるのだが、まだこのころのベトナムは、中国色が強いとは言いつつも、それでも民族的にはまだ純ベトナム色の人種が多かったのではないだろうか。
別室に行くと、カンディン皇帝の凛凛しく立っている銅像がある部屋に出くわす。全体的に埃だらけになっているので、もっと管理を徹底して欲しいなとは思うのだが、そこはベトナム人に文句を言っても無理なものだ。もう少し対面的なことに気をつけ、観光収入としてこの場所を使うという努力を怠らなければ気付くことだろうと思うが、それまではベトナム人のメンツを傷つけることになるために、あれがダメだこれがダメだとは直接言わないほうが言い。むしろ褒め殺すのがいいのである。そこでベトナム人に自らで理解して貰うというのが一番言い方法である。面倒くさいがこれで双方の会話と体面性が保たれるのであれば、面倒くささは惜しまないほうが良いだろう。フエ郊外にある数ある廟の中では、この廟を見ることは絶対必須だと思う。
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