2009/10/07

チャン・フン・ダオ(Ho Chi Minh City)


チャンフンダオは、ベトナムの英雄として、神様と同じくらいの扱われ方をしているひとである。何をしたかというと、チャンフンダオが活躍した時代というのは、北にモンゴルによる巨大な統一王国である元朝が君臨しており、常に元は日本を含めて廻りの国々に対して戦争を仕掛けて、従属国にすることを目的としたことを行なっていた。日本でも、2度の元からの襲撃を受けており、時の執権・北条時宗を中心として、鎌倉幕府は大いに揺さぶられた。日本では、2度の襲撃に対して、「神風」が吹いたために元は日本への征服を諦めたと習うのだが、これは正しいことではない。なぜなら、世界観として日本と中国のれきししか見ていないからである。正しくは、元は東部の日本だけでなく、南部のベトナムにも攻撃を仕掛けていて、どちらにも船を使って移動しようとしていたのである。中国最高の技術を総決算として長江周辺で船を建造し、最初はそのまま日本に出帆する予定だったのだが、ベトナム側への攻撃が思いもよらず苦戦しており、大輸送団をベトナムへ送り込むために、日本への攻撃に使おうとしていた船をも使ってベトナムへ攻撃を集中させたおかげで、日本は3度目の攻撃を免れたというだけのことである。

その際にベトナム側で対決していたのがこのチャンフンダオ将軍であり、チャンフンダオはゲリラ戦を用いて元軍の攻撃に対してその進撃を阻止していたのである。この抵抗があまりにも激しく、当時の皇帝であるフビライも「やられたらやり返す」政策であったため、まずはベトナムをコテンパンにやっつけようと考える。それでもチャンフンダオをは踏ん張り、最終的には、元はベトナムを従属国にするようなことはできないで、ベトナムは独立を保つことに成功する。

当時のベトナムの王朝は「陳王朝」であり、チャンフンダオの功績により、ベトナムは未だに中国の配下による発展を受けることは無く、独自の文化を保つことができた。ただし、東洋においては中国は最高の学問を持っているところであるため、ベトナムの独自の文化は持ちつつも、中国の文化に対しては一目置いているような状態になるのである。これは日本においても同じだった。

そんなチャンフンダオ将軍は、いまでもベトナムでは最高の軍人と思われており、尊敬されている歴史上の人物である。日本だと織田信長や豊臣秀吉のような人たちと同じ感覚なのだろう。ホーチミンを東西に結ぶ大きな通りには、彼の名前をつけた通りが存在しており、銅像も建てられている。

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