統一会堂からホテル方向に戻る際に、ベトナムの古代の遺跡や簡単な少数民族の紹介、そしてベトナムでの内戦時における住民の様子を展示した博物館であるホーチミン市博物館(Bao Tang Thanh Pho Ho Chi Minh)にいってみた。
この建物、実は結構古く、1885年から1890年にかけてフランス人の建築家アルフレッド・フルー(Alfred Foulhoux)によってオリエンタルの要素を備えた西洋建築として建てられ、最初はベトナム原住民の文化を展示する商業用の博物館として作られたが、後に、コチンシナ政府の宮殿として使われるようになった。しかし、その後のこの建物の所有者の変遷が凄い。説明書きによると、特に1945年の1年間だけでもその所有者が5人も変わるという出来事が起こった。まず最初は、日本軍の南侵に伴ないベトナムを占領しフランスの植民地だったベトナムがフランスの手から離れたのを機に、日本軍がこれを直轄した。これによって、ベトナムはフランスとの植民地支配と統治権をフランスから戻すことができ、フランスからの独立を果たす。こう言う意味では日本はアジアのヨーロッパの解放に協力できたことになる。そして新たにベトナム帝国として君臨することになったときには、それまではベトナムに阮朝がまだ存在していたが、実質植民地化されていたので、その主権が全く存在していていなかったが、晴れて上モノがなくなったのを機に、最後の皇帝だったバオ・ダイ(保大帝)はベトナム帝国初代皇帝になる。そのベトナム帝国に日本軍はこの建物を託することにした。王の特使であるグエン・バエン・サム(Nguyen Vaen Sam)は短期間ながらこの建物を個人邸宅として利用する。しかし8月25日に、日本軍が敗戦に伴ない撤退したあと、ベトミンが勢力を拡大したことによりベトナム8月革命が起こり、ベトナム帝国もそのまま崩壊。そして、南部政府委員会の本部拠点として利用されることになる。しかし、ポツダム会議でインドシナ処理は決まっていて、日本軍の武装解除にイギリス軍が南部を進駐。そして、その後もとの宗主国であるフランス軍に引き継ぐという処理を行なう事件に伴ない、共産党の勢力だった南部政府委員会は、いまの人民委員会ビルに移動する。その後も、統治するグループがコロコロ変わることになり、現在はホーチミン市博物館になるのだが、その前の名前は革命記念博物館という名前で1999年までは付けられていた。
ついこの前まで革命記念博物館という名前が付けられていただけあって、中の展示物の多くはベトナム内戦に伴なう歴史的遺産物が数多く飾られている。もちろん、建物が当初立てられたときの目的であるベトナム少数民族の文化遺産についての展示もあるのだが、どちらかというと、それはオマケのように見えてしまう。建物に入る前に入口には、ベトナム民主共和国時代に政府関係者が使っていた乗り物や、ベトナム内戦で使われた戦車や戦闘機が置かれているところからド肝を抜かれる。特にベトナム戦争の際に、実際に飛んでいたアメリカ軍のヘリコプターや偵察機が身近に置いてあるのを見ると、意外に小さいんだなと思ってしまう。もっと戦闘機は大きいものだと思っていたからである。しかし、決してこれがイミテーションというわけではなく、実際に使われていたものである。そういう遺産がベトナムには実はあまりにもたくさんありすぎるために、贋物を作る必要が無く展示ができるというのは凄い。マレーシアの博物館にあったような民族博物館的な意味あいがあるとおもわれるのだが、どちらかというと、普通の昔の生活を展示したものというものではなく、戦争中にいかにして住民は戦いながら生活をしていたのかを、無言で説明している場所だと考えたほうがいいかもしれない。観るものがなぜか気分が悪くなってくる。気持ち悪い映像があるとか、そういう意味ではない。なぜか、いかに自分達が戦って、それで戦いを乗り切ったのかというのをプロパガンダ的にあれやこれやと、いろいろな品物で展示しているからである。一番の見ごたえがあるところは、焼身自殺をして、マダム・ヌーから「バーぺキュー」と言われた坊主、ディック・クアン・ドゥックの着ていた服と焼身自殺をしたときの写真がコーナーだろう。あわせて米軍の撤退を求めた集団行進をしている写真もある。これは絶対観たほうが良い。
ホーチミン市博物館(Bao Tang Thanh Pho Ho Chi Minh)
URL : http://www.hcmc-museum.edu.vn/tintuc/
Open : 08:00~16:00
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