2009/10/06

ミンマン帝廟(Hue)

カンディン帝廟の後は、そのままタクシーでミンマン帝廟のほうに向かった。廟に向かう途中、ツアーだったら使うであろうフォーン川の川上りの船を何度か見ることができた。しかし、あんな船でのんびり行くよりは、やっぱりタクシーで好きなところに早く到着できるほうが便利だ。

ミンマン帝(明命帝)は阮朝の第二代皇帝であり、父親のザーロン帝(嘉隆帝)の後をついで国家の基盤つくりに躍起になった人である。

死ぬ寸前に建設を着手し、約3年間かかって作られたこの廟は、カンディン帝廟とはまったく異なり純中国風の作りになっているというのは、ミンマン帝が中国を宗主国と見なし、朝鮮と同様に自らの国家を「小中華」の位置付けにしようとした結果の現われなのだろうと思う。20年間の統治の中で、ミンマン帝がやったことは、清国と同じ政策として鎖国である。17世紀以降東南アジアにじゃんじゃんやってきたヨーロッパ人も、当時は当然ながらやってきたが、断固として拒否したことがあとでフランスの怒りを買ってベトナムが植民地化されてしまう結果を作った張本人である。

そんな帝廟は、入口がなんだか寂しいくらい寂れている。それも車が止まる簡易駐車場みたいなところから廟の入口まで、民家の裏庭みたいなところをしばらく歩いて行かねばならないのである。途中、その民家から「バナナ食べない?」としきりに庭の柵越しに営業活動をしてくる。これがうるさいのだ。また可愛らしいことに、飼われている鶏が、本当に放し飼いになって育てているため、元気の良さそうな卵も一緒に売っているのである。鶏の放し飼いなんて、よほどの田舎に行かないと日本では滅多に見られなくなった風景なのだが、ここではこんな有名な廟の前では普通に行なわれているのが面白い。そしていよいよ廟の敷地内に入ることになるのだが、これがなんとも不思議だ。門は全部で3つあり、真ん中の門はミンマン帝が亡くなったときに使用されただけで、今では使用されていない。だから、目の前は草茫々のジャングル状態になっている。訪問客はそんなジャングル状態とは違って、一番駐車場に近い左側の門から入ることになる。ちなみに中央の門を門を潜ったあとの広場から見ると、いかにも中央の門という雰囲気が残っているから面白い。手入れをしている側と、放置プレーの状態になっている側では、こうも違うのかというのがよくわかる。門を潜ると広い広場が見えてきて、ここでもカンディン帝廟と同じように武官と戦争に使われる動物が石像として広場の両サイドに置かれている。最初の広場自体が結構広いために、カンディン帝廟のように二列になっているわけではなく、1列に並んでいるところが凄い。カンディン帝廟のときにも思ったのだが、戦争時には、馬だけではなく象も使われていたのがこれでよくわかる。タイあたりは象のイメージはあるが、ベトナムもやはり隣国なので象も戦闘兵器として重要な役割が行なわれていたのだろう。
廟の作り方は、北京の紫禁城を小さくしたようなものを真似したものなので、なかなか廟のつくりを建築学的に眺めてみると面白い。

まず最初に見えてくるのが、ミンマン帝が生前に行なわれた業績を記した石碑のある建物である。真っ赤な柱が印象的な石碑の建物は、十数段の階段を上って石碑のところにいくことができる。これまた細かい字でたくさんのことが書かれているようなので、じっくり時間をかけて解読したい人はどうか解読してほしい。その後ろには顕徳門(Hien Duc Mon)があるのだが、このときは改修工事中であったために、ここを潜っていくことができなかったのが、残念だ。その顕徳門がすぐ傍にあるのかというと、実はそうではなく、本来ならその門の手前に3つの建物があったように思われる。地面に土台だけが遠目にも見えるからだが、この土台になにかを作るためにこの場所を現在通行止めにしたのだろうか。仕方が無いので池のあるほうをぐるりと廻って皇帝と皇后の位牌が置かれている建物の崇恩殿のほうにいくことにする。決して綺麗とはいえないような池ではあるが、水と緑のコントラストはやっぱり落ち着かせてくれるものだ。アヒルだかなんだかわからないようなものも人間を怖がっておらず、すぐ傍にいっても飛び立とうともしないのが笑える。アホウドリのように捕まっちゃうぞーと心の中で思いつつも、その時間が止まってしまったかのような風景をちょっとだけ楽しんだ。崇恩殿(Sung An Dien)のあるエリアは、崇恩殿の両脇に寺がある。しかし、この両寺は近寄ることができない。単なる工事現場の物置になっているのだ。なんとも痛々しい。これから修復工事をするのだろうと思われる。痛みが酷すぎて一般観光客が近寄ってはいけないことになっている。ただ、寺を支えている柱と屋根だけはいまでも健在しているため、これを残しつつも修復作業をこれから行なっていくことになるのだろうと思う。さてメインの崇恩殿だが、これがまた見事なまでに修復されているからびっくりだ。現在の政権が1998年と2000年の2回にわけて修復工事が行なわれた結果としてなのだろうとおもうのだが、細かいところまでかなり綺麗に修復している。まず外見からだが、屋根のところに花鳥風月の綺麗な絵画が小さいながらも描かれていて、それがたくさん掲げられている。それを1枚1枚見るために顔をあげてみていると、首が疲れてくる。あと、屋根瓦をよくみると、月餅の絵柄なのでは?とおもうようなデザインのものがたくさん見られた。こういうのも中華の影響で作られたものなのだろうか。その決定的証拠として、屋根の色が黄色、柱が赤というのが典型的な中華だからだ。さて、中に入ってみると、その印象が尚一層顕著にわかる。金色と赤色で統一されている殿のなかは、外の鬱蒼とした雰囲気とは全く異なり、なんとなくピンと張り詰めた雰囲気を感じることができる。中央には皇帝と皇后の慰霊が奥にあるので、ここが中心地だというのがよくわかる。慰霊の前にはお供えや金色のテーブルクロスがかけられた祭壇がある。ここが廟の中の一番奥と思っていたら大間違い。さらに奥があるのだ。廟の置くには三日月形の池があり、その奥にこんもりとした小高い山のようなものが存在する。ここにミンマン帝の墓があるのだ。しかし、墓は日本の古墳のようになっているので、中には入ることができない。高さ3メートル、周囲280メートルの壁がその行く手を阻んでいる。三日月池からこの小高い古墳風の入口にいくまでにも、結構長い階段があるのだが、階段の最後にいきなり門があって、開かずの状態になっているので、がっくりくるのである。その古墳風にいくまでにわたる三日月池の橋は3本あり、おそらく真ん中の橋は皇帝のみが歩けた場所なのだと思うが、いまでは誰でも渡れる。ちなみにそれぞれの橋は、「左輔橋」「中道橋」「右〇橋」という石碑が建っている。墓からみて右側のほうの端の石碑は腐食が激しいため、残念ながら真ん中の字が読めない。また入口のほうに戻ろうと思って、池のほとりを歩いていたのだが、このときにフランス人の観光客の集団に出くわした。アジアに来ているヨーロッパ人は、自分が文明国からきた先端的な人種と勘違いしている馬鹿が多いのだが、やはりこれらのフランス人たちもその馬鹿であり、平気にこの木造建築の建物群のなかでタバコを吸っているのである。本国フランスでは公の場所では一切禁煙になっており、多額の罰金刑になるのだが、ベトナムなら多少ハメを外してもよかろうとおもっているのか、所構わず吸いまくっている場形なのである。頭にきたので、このバカ集団の1人を世界中に繋がるネットにさらけ出してやることにした。

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