2010/05/13

サンティアゴ要塞 (Malacca)

独立宣言記念館の目の前には、サンティアゴ要塞(Porta de Santiago)があり、マラッカを訪れる観光客の必見ポイントになっている。一見するとボロそうに見える石の塊みたいなところだが、これはなかなかマラッカの歴史を通しても切っても切れない遺跡なのである。

世界を2つにわけて支配しようとしていたスペインとポルトガルのうち、東方支配の命を受けていたポルトガルは、マラッカ海峡を貿易とキリスト教の布教拠点としてやってくる。その際に、マラッカを中心とした地域を支配することに成功する。ただし、支配するといっても、あくまでも原住民政権であるマラッカ王国をバックアップするという意味であって、マラッカ王国を支配するつもりは無かった。そのあとにやってきたのが、オランダだ。スペインのイギリスとの戦争により没落の途に陥ったと同じように、小国のポルトガルが東方支配を継続するための資金は無かった。が、そのあとフランドル地域の独立に成功したオランダが急速に力をつけてアジアにやって来る。まずは、最初にインドに東インド会社を建設して、ここを拠点に活躍するが、徐々にアジアにやってきて、とうとうマラッカ王国の地域にもやってくる。そうなると、先に支配をしていポルトガルと戦うことになるのだが、国力が弱ってきているポルトガルと、イケイケどんどんの勢いがあるオランダが戦争をしたら、あっさりオランダが勝つにきまっている。

そんなオランダとの戦争の際にこの要塞地域は作られた。廃墟となった宮殿や王族の霊廟やモスクからとった建材を使って、幅3メートルの壁のついた四角い砦を建設した。もちろんこれはポルトガル人が奴隷を使って作らせたのは言うまでも無い。鹿島や清水建設が作ったわけではない。しかし、せっかくの砦もオランダが占領した後は、全く意味がなくなる。オランダは1670年にオランダ東インド会社の本社ビルとしてこの砦を利用することになる。そのために、砦にはなぜかオランダ東インド会社の紋章が付いているのである。そのあと、イギリスがオランダに遅れて150年後にアジア地域にやって来る。マレーシアを中心に、インドネシアや台湾、そして日本までもがオランダの直轄地域になっていたところ、このイギリスがやってきて、「わしらにも土地をくれ」とやってきた。スタンフォードを中心とした艦隊がオランダ軍と大喧嘩する。結果は、現在のインドネシアとマレーシアの国家形成になるような土地の分捕り合戦になってしまうのだ。そんなイギリス軍からみたときに、この砦は全く用無しのものであるために、ぶっ壊そうと考えられたが、スタンフォードから「待て」がかかり、いまに至るというものだ。

実際に見るとたいしたものは無い。傍でマジマジと見るよりは、丘を含めて全部を1つの光景としてみるのが一番良いだろう。

0 件のコメント: