2010/02/13
捨て童子 松平忠輝
「捨て童子・松平忠輝」は、原作が大ヒットした隆慶一郎の作品であり、それを巨匠の
横山光輝が漫画化した作品になっている。決して横山光輝が独自に考えたストーリーではない。だが、はっきりいって、この作品を読むまでは、正直、徳川家康の嫡男にこのような子供がいたなんていうのをまったく知らなかった。家康の第6子として生まれ、生まれてすぐに「鬼っ子」として捨てられてしまった松平忠輝の人生は波乱万丈だったといえよう。
実際の松平忠輝は歴史上、あまり出てこないように見受けられる。鬼っ子として捨てられつつ、必要なときだけ駆り出されて、将軍職になれる見込みは無く、最後まで家康ににらまれた存在だったということが歴史では伝わっているのだが、それがどこまで本当なのかわからない。最後は、数々の失態をしたために家康に勘当をされてしまい、最終的には諏訪に死ぬまで封ぜられてしまい、1990年代になってようやく徳川家により勘当を解かれたというのが歴史になっている。
これではあんまりじゃないかーっというのが前提になっているのかよくわからないが、特にかく漫画の中での松平忠輝は、鬼っ子というよりもスーパーマンとして書かれている。
幼児期に暴れん坊であったというのはどの偉人にも言えることなのだろうが、とにかく10歳以下のがきんちょのくせに、忍者と剣の勝負をして勝ってしまうとか、忍者顔負けの高飛びを披露していたりする。こんなのを家臣の前で見せたら、誰もが魅了してしまうことだろうし、この天真爛漫さをどうにか徳川家のお家騒動の中に巻き込まれるのは避けたいと思うのは当然だろうと思う。
漫画の中で松平忠輝は、剣の重鎮にまずは剣の指導を小さいときに受ける。それも泊り込み。最初から「いつでも自分を襲って来い」という挑戦的な態度で師匠から指導を受ける。寝ているときや風呂に入っているときでも可能だそうだ。子供から考えると、こんなすごい楽しい遊びはほかには無いと思ったことだろう。おかげで剣と忍術に近い技を習得することができた。たが、最初にそこで師匠が死別するという悲しい経験をする。
そのあと、子供ながら10万石の諸大名の地位になる。しかし、子供なので、城の中でじっとしているということはまずできず、江戸の町には出歩いて、世の中の様子を楽しんでいた。まだ身分制度が出来上がっている時代の前であるとはいえ、武士と農民や渡世の人とは、少しながら身分の違いはあったときである。松平忠輝は、街中で大道芸人として金を稼いでいる人たちがおもしろいとおもったらしく、ほぼ毎日顔を出して、終いには彼らを「友達」と考え入りびたる。身分の高い人だと毛嫌いしていたひとたちにとって、自分たちを友達だと考える人がいたことに感動をし、以後、松平忠輝が赴任する先には必ず一緒について周り、また、出張のようなもので遠出をする際には、影ながら常に警備をしていたという強い味方を得る。彼らは忍びとは違うが「傀儡子(くぐつ)」と呼ばれる大道芸人であり、異民族の人間である。なので、文化が違うため、彼らの持ってくる文化が先端的であったため、その文化を吸収しようと表に出歩くのである。
それが講じてか、キリシタンが集まる場所に出向き、最初のキリシタンが医療という名目で布教活動をしていたとおりに、その溜まり場で西洋医学について学ぶ。驚いたことに、その医学があまりにもおもしろく、医学書を読むためということと、キリシタン聖職者と会話するために、ラテン語、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語、英語を短期間で習得してしまうという離れ業を行う。まだ、オランダの医学がくる前の話だ。そんなことがどこまで本当なのかわからないが、こういう西洋の高度な文化を受け入れることが日本の道だということを確信し、将軍職の争いにはまったく興味が無く、民衆のためにやるべきだと決意をする。
ところが、こんなスーパーマンをよくおもわない人間が1人いる。それは兄弟で将軍職についた第2代将軍秀忠だ。彼は歴史上でも、小心者で無能力者としても有名であり、親の七光りでどうにか将軍職として君臨できたものだが、こういう小心者にとって、民衆に人気があり、素晴らしい技能を持ち、剣術にも長けているひとに対する憎悪の念は、とても強いものである。秀忠にとっては、忠輝はいつ自分の将軍職を簒奪してしまうかという勝手な恐怖心を持っているために、常に忠輝を憎み、いつでも失脚させるためのネタ探しをする。また、柳生一族を雇って暗殺を企てたりするのだが、常に忠輝のまわりには、傀儡子というスパイが街中や沿道にいるために、敵の動向はすべてお見通しになっているものである。暗殺の忍者が来ても、ズバズバ斬ってやっつけるところは爽快だ。
いつか殺されちゃうんだろうとおもっていたら、最後まで殺されないで終わるところも良い。また、家康からは信長→秀吉→家康と受け継いだ笛を渡される場面があるが、その場面でのコメントに、笛を吹いたら地下から10万の兵士が味方をしてくれるという言い伝えを家康が述べるときに、そばにいた秀忠が忠輝には10万の兵士がいつでも出動できる状態になっていることに、さらにびびる。その怨念から、家康死後、将軍の立場からすぐに島流しや封じる場所を転々とさせられるという運命になる。本人は将軍職になるつもりがないのだが、勝手な恐怖心からの命令によるとばっちりをうけたわけだ。
そんなひとが徳川家にいることにとても興味を持った。もう少し、徳川家について調べてみたいとおもう。
『捨て童子 松平忠輝』上・中・下巻
原作:隆慶一郎 画:横山光輝
文庫: 383ページ
出版社: 講談社
発売日: 1999/11
2010/02/11
プノンペンどくだみ荘物語
バックバッカーの溜まり場というのは、世界中にどこかというのは決まっているみたいで、その中でもかつてはカンボジアは、まさしく、世界のアウトローなひととや、世間がいやになっちゃった人や、渡りに渡ってやってきて、人生どうでもいいやとおもっているような腐った人間が集まってくる典型的な場所のひとつだったようである。筆者のクーロン黒沢氏も、なぜかそんな人たちが集まるような場所を好んで住んでいたりするような人で、そこで体験できることは、一般の良い子ちゃんではどうしても経験できるようなものではないものばかりなので、これが本当の世界なのか?と良い子ちゃんにとっては疑ってしまいそうな内容ばかりのことが現実には起こっているし、それをつぶさに描写して本にできる観察力というのは、筆者の得意技なのだろうと思う。
バックパッカーといえども、どこかで他人の協力なしでは生活はできないし、旅はできない。ましてや怪しい場所に定住となると、これも単独では生活できず、どうしても仲間が必要になってくる。そんな仲間が集まってきたとしても、その集まった人たち自体が、一癖もふた癖もあるような怪しさ満載の人たちなのだから、普通の神経の良い子ちゃんでは、毎日が小便垂れ流しの状態になるだろう。ましてや、日本人の仲間だけじゃなく、現地カンボジア人たちが仲間かもしくは獲物を狙う敵としてうじゃうじゃ囲んでいるのだから、これもまたまっとうな神経の持ち主では生活できないだろう。
カンボジア内戦は、カンボジア自体を疲弊してしまったが、それは物質的に疲弊しただけではなく、国民全体自体を腐らせてしまった。互いに互いを信用せず、元兵士が番犬になって金持ちを狙ったり、金持ちの擁護をしているし、いちおう武器保有は禁止といえども、腐るほど武器を持ち込んだ内戦のあとに、すぐにそんな武器がなくなるわけがなく、だれかれとも安価で武器が買える市場ができていたのは記憶に新しい。武器だけじゃなく、なにも生産していていないところなのだから、金儲けしようとして手っ取り早いこととしたら、麻薬の売買か売春、そして武器売買と殺しのエージェントである。これが全部カンボジアには揃っていた。そんな環境が本当に嫌ならさっさと国外脱出するのだろうが、この本に出てくる人たちは、その環境をとても楽しんでいるようにしか見えない。
いったい彼らはこのカンボジアで何をして生計を立てているのかまったくわからない。日本で稼いで、その金でカンボジアで遊んでいるとしか思えないのだ。たまに、現地の会社で働いている人もいるのだが、その人も会社自体が適当な会社であり、昼間からギャンブルをしていても社長に怒られることは無いというわけのわからない環境にいるのだ。どうも、日本人観光客がカンボジアにやってきたときに、社長自らがコーディネートし、その観光客からがっぽり金をとるという手法をしているようである。でも、ほかの人は昼間からベトナム人の売春女を囲ってみたり、有り余る金でヤクに手を出し、昼間からスーパーマン気取りになって強気になったり、ヤクが切れたら精神が抜けたみたいに腑抜けな弱い人間になったりするのも面白い。なんとかして、金儲けをしようと考えたのが、売春宿から売春女をリクルートしてきて、その女に稼がせよう家に泊めさせていたら、翌朝早朝に田舎に帰ってしまったという不始末もしている人もいる。やっぱり手っ取り早い金儲けが売春なのだろう。
見よう見まねで適当に作っている日本料理を提供する中国人が経営するレストランの話がでてくるのだが、まともに食べられるのがレバニラ炒めだけで、そのほかのものは、物が腐っていて不味くても誰も文句が言えないようなめちゃくちゃなレストランが存在する。ここに日本人が結構屯していて、お互いの情報交換をしている場にしているのは、まるでチャイナタウンの親分の店のような感覚だろう。それと、中国からカンボジア内戦のドサクサで、たくさんの土地を買い占めている成金婆が、カンボジア兵士を傭兵にして囲っていたり、なかなか環境としてもアグレッシブな人たちが囲んでいるところなのだといえよう。
そんなはちゃめちゃぶりな生活の様子を面白おかしく書いている著者は、一気に本を読んでしまうくらいのインパクトがある内容だ。現在のカンボジアは、中国資本がめちゃくちゃ入ってきて、ほとんどカンボジアの金はこの華僑のやつらに全部かっさられているのが事実であるのだが、そんな中国資本が入ってくる前の話なので、この本を読んでカンボジアに行ってみようなんていう時代錯誤な人がいたら、物価も高くなっているし、女も普通には抱けないじゃないか!と怒るだけだろう。
プノンペンどくだみ荘物語
クーロン黒沢 (著), 浜口 乃理子
文庫: 270ページ
出版社: 徳間書店
発売日: 2003/07
バックパッカーといえども、どこかで他人の協力なしでは生活はできないし、旅はできない。ましてや怪しい場所に定住となると、これも単独では生活できず、どうしても仲間が必要になってくる。そんな仲間が集まってきたとしても、その集まった人たち自体が、一癖もふた癖もあるような怪しさ満載の人たちなのだから、普通の神経の良い子ちゃんでは、毎日が小便垂れ流しの状態になるだろう。ましてや、日本人の仲間だけじゃなく、現地カンボジア人たちが仲間かもしくは獲物を狙う敵としてうじゃうじゃ囲んでいるのだから、これもまたまっとうな神経の持ち主では生活できないだろう。
カンボジア内戦は、カンボジア自体を疲弊してしまったが、それは物質的に疲弊しただけではなく、国民全体自体を腐らせてしまった。互いに互いを信用せず、元兵士が番犬になって金持ちを狙ったり、金持ちの擁護をしているし、いちおう武器保有は禁止といえども、腐るほど武器を持ち込んだ内戦のあとに、すぐにそんな武器がなくなるわけがなく、だれかれとも安価で武器が買える市場ができていたのは記憶に新しい。武器だけじゃなく、なにも生産していていないところなのだから、金儲けしようとして手っ取り早いこととしたら、麻薬の売買か売春、そして武器売買と殺しのエージェントである。これが全部カンボジアには揃っていた。そんな環境が本当に嫌ならさっさと国外脱出するのだろうが、この本に出てくる人たちは、その環境をとても楽しんでいるようにしか見えない。
いったい彼らはこのカンボジアで何をして生計を立てているのかまったくわからない。日本で稼いで、その金でカンボジアで遊んでいるとしか思えないのだ。たまに、現地の会社で働いている人もいるのだが、その人も会社自体が適当な会社であり、昼間からギャンブルをしていても社長に怒られることは無いというわけのわからない環境にいるのだ。どうも、日本人観光客がカンボジアにやってきたときに、社長自らがコーディネートし、その観光客からがっぽり金をとるという手法をしているようである。でも、ほかの人は昼間からベトナム人の売春女を囲ってみたり、有り余る金でヤクに手を出し、昼間からスーパーマン気取りになって強気になったり、ヤクが切れたら精神が抜けたみたいに腑抜けな弱い人間になったりするのも面白い。なんとかして、金儲けをしようと考えたのが、売春宿から売春女をリクルートしてきて、その女に稼がせよう家に泊めさせていたら、翌朝早朝に田舎に帰ってしまったという不始末もしている人もいる。やっぱり手っ取り早い金儲けが売春なのだろう。
見よう見まねで適当に作っている日本料理を提供する中国人が経営するレストランの話がでてくるのだが、まともに食べられるのがレバニラ炒めだけで、そのほかのものは、物が腐っていて不味くても誰も文句が言えないようなめちゃくちゃなレストランが存在する。ここに日本人が結構屯していて、お互いの情報交換をしている場にしているのは、まるでチャイナタウンの親分の店のような感覚だろう。それと、中国からカンボジア内戦のドサクサで、たくさんの土地を買い占めている成金婆が、カンボジア兵士を傭兵にして囲っていたり、なかなか環境としてもアグレッシブな人たちが囲んでいるところなのだといえよう。
そんなはちゃめちゃぶりな生活の様子を面白おかしく書いている著者は、一気に本を読んでしまうくらいのインパクトがある内容だ。現在のカンボジアは、中国資本がめちゃくちゃ入ってきて、ほとんどカンボジアの金はこの華僑のやつらに全部かっさられているのが事実であるのだが、そんな中国資本が入ってくる前の話なので、この本を読んでカンボジアに行ってみようなんていう時代錯誤な人がいたら、物価も高くなっているし、女も普通には抱けないじゃないか!と怒るだけだろう。
プノンペンどくだみ荘物語
クーロン黒沢 (著), 浜口 乃理子
文庫: 270ページ
出版社: 徳間書店
発売日: 2003/07
猫に精神分析入門(Podcast)
Podcastで面白そうな番組は無いかと日夜探しているのが最近くせになってきたのだが、おもしろそうなものでも、すでに更新が無いようなものは残念ながら興味が無い。いまでも更新されているものをよしとする心情なので、なんかないかなと思っていたところに、意味不明なタイトルを発見。「猫に精神分析入門」。精神・心理の世界というのは、どうしてもとっつきにくいと思う分野であり、ひとつ間違えば、自分が精神病の領域になってしまう可能性もはらんでいる心理学の世界は、どうしても素人では難しい。そこに枕詞として「猫に」とつけることで、「あほでもわかる」と暗喩しているようにみせているから、なんだろうなーと飛びついてしまった。
中身はというと、偉そうなおじさんがボソボソとつぶやいているものかと思っていたら、ぜんぜん違った。精神世界とはまったく関係なさそうな声の持ち主である、主催者である沖田民行さんというかたと、そのひとの言葉に、聴講者の代表者のような形でアシスタントをしているPistachioさんの2人でやっている、おもしろ漫才風のような内容だ。そして、むやみやたらに精神世界についてを述べているのではなく、ちゃんと題材はある。それは、20世紀の名著とでも言うべき書物であるフロイトの「精神分析入門」をわかりやすく説明しているのである。
もともと、この「精神分析入門」自体が、フロイトが大学で教えていたときの授業の内容をそのまま文章化したものなので、難しい内容をすでに本にした段階でわかりやすい内容になっているものである。たまにフロイトが授業をしながら、話を脱線していく様子も、この本の中で述べられているのだが、普通に読んでいくと、その瞑想振りについてはわからなくても、このポッドキャストの番組を聴くと、沖田さんが「フロイトのおっさん、ここでエロ話をし始めます」とか「もう、ここで1章は終わろうと思っていますが、なぜか話が盛り上がったのか、それとも時間があまったのか、余計なことを話し始めます」という解説をしてくれるので、本を読まなくても、本の内容と、フロイトが授業をしているときの様子がなんとなく目に見えてきそうになる。ポッドキャストの番組は1回あたり20分くらい。本でいうと、1回の授業を2回の番組にわけて説明しているので、内容はとてもわかりやすい。難しい内容を下世話な話題に持ち込んで説明するのはもともとフロイトが持ち込んだものだろうと思うのだが、それをさらに輪をかけて沖田さんが現代人にわかりやすく説明しようとしている努力は理解できる。ただ、関西人じゃないのに関西弁を使って例文を出そうとしているのは、ちょっと聞き苦しい。かといって、沖縄の言葉を使われても、現代日本人には理解できない。
暴走しかけの沖田さんをたまに横から突っ込みと、ほっほーという相槌で進行に深みと修正を加えているピスタチオさんの役割も大きいと思う。この方、女性なのだが、声だけから判断すると、あんまり明るそうなかたじゃないように見える。まじめそうなめがねをかけている大学の助手なのではないかと想像してしまった。あと、沖田さんにしても、声だけから判断すると、その辺の本好きなおにいちゃんが話をしているのかなとおもっていたのだが、番組の中で「でぶっとしているんで」と言っていた事から、もしかしたら伊集院光みたいな体型なのでは?と思ってしまった。だから、やたら声がでかい。
これまで精神世界については、かじりたいとはおもいつつも、なぜか自制心が働いてなかなかとっつきにくいものだとおもっていたのだが、この番組を聴いて、ちょっとおもしろそうだなと思えた。人間観察や対人関係として、この学問を使うと面白いのではないかと思う。かといって、心理学者の誰もが人間的につきあいやすいひとたちかというと、疑問視だ。
番組自体は70回にわけて解説してくれるという。2月の中旬において、ようやく第1章を終えたところなので、これから先、どのような展開になるのかどうか気になるところが。
そういえば、番組最初に入るジングルと終わりにかかる歌がどうしても気になる。初めのほうは「猫に小判」というフレーズを、ラップ調にそれもめちゃくちゃ早い口調で言っているので、最初は「ねこねこバーン!」と頭のイカれた子供が騒いでいるものかとおもっていたが、実は違った。そして、終わりにかかる歌も、沖田さん本人が友達に作らせたという本人が歌っている歌は、聴いていて苦しい。ジングルは良しとしても、歌はやめてくれー!
猫に精神分析入門
iTune登録はこちら
公式サイト:http://okitachio.sakura.ne.jp/nekobu/
中身はというと、偉そうなおじさんがボソボソとつぶやいているものかと思っていたら、ぜんぜん違った。精神世界とはまったく関係なさそうな声の持ち主である、主催者である沖田民行さんというかたと、そのひとの言葉に、聴講者の代表者のような形でアシスタントをしているPistachioさんの2人でやっている、おもしろ漫才風のような内容だ。そして、むやみやたらに精神世界についてを述べているのではなく、ちゃんと題材はある。それは、20世紀の名著とでも言うべき書物であるフロイトの「精神分析入門」をわかりやすく説明しているのである。
もともと、この「精神分析入門」自体が、フロイトが大学で教えていたときの授業の内容をそのまま文章化したものなので、難しい内容をすでに本にした段階でわかりやすい内容になっているものである。たまにフロイトが授業をしながら、話を脱線していく様子も、この本の中で述べられているのだが、普通に読んでいくと、その瞑想振りについてはわからなくても、このポッドキャストの番組を聴くと、沖田さんが「フロイトのおっさん、ここでエロ話をし始めます」とか「もう、ここで1章は終わろうと思っていますが、なぜか話が盛り上がったのか、それとも時間があまったのか、余計なことを話し始めます」という解説をしてくれるので、本を読まなくても、本の内容と、フロイトが授業をしているときの様子がなんとなく目に見えてきそうになる。ポッドキャストの番組は1回あたり20分くらい。本でいうと、1回の授業を2回の番組にわけて説明しているので、内容はとてもわかりやすい。難しい内容を下世話な話題に持ち込んで説明するのはもともとフロイトが持ち込んだものだろうと思うのだが、それをさらに輪をかけて沖田さんが現代人にわかりやすく説明しようとしている努力は理解できる。ただ、関西人じゃないのに関西弁を使って例文を出そうとしているのは、ちょっと聞き苦しい。かといって、沖縄の言葉を使われても、現代日本人には理解できない。
暴走しかけの沖田さんをたまに横から突っ込みと、ほっほーという相槌で進行に深みと修正を加えているピスタチオさんの役割も大きいと思う。この方、女性なのだが、声だけから判断すると、あんまり明るそうなかたじゃないように見える。まじめそうなめがねをかけている大学の助手なのではないかと想像してしまった。あと、沖田さんにしても、声だけから判断すると、その辺の本好きなおにいちゃんが話をしているのかなとおもっていたのだが、番組の中で「でぶっとしているんで」と言っていた事から、もしかしたら伊集院光みたいな体型なのでは?と思ってしまった。だから、やたら声がでかい。
これまで精神世界については、かじりたいとはおもいつつも、なぜか自制心が働いてなかなかとっつきにくいものだとおもっていたのだが、この番組を聴いて、ちょっとおもしろそうだなと思えた。人間観察や対人関係として、この学問を使うと面白いのではないかと思う。かといって、心理学者の誰もが人間的につきあいやすいひとたちかというと、疑問視だ。
番組自体は70回にわけて解説してくれるという。2月の中旬において、ようやく第1章を終えたところなので、これから先、どのような展開になるのかどうか気になるところが。
そういえば、番組最初に入るジングルと終わりにかかる歌がどうしても気になる。初めのほうは「猫に小判」というフレーズを、ラップ調にそれもめちゃくちゃ早い口調で言っているので、最初は「ねこねこバーン!」と頭のイカれた子供が騒いでいるものかとおもっていたが、実は違った。そして、終わりにかかる歌も、沖田さん本人が友達に作らせたという本人が歌っている歌は、聴いていて苦しい。ジングルは良しとしても、歌はやめてくれー!
猫に精神分析入門
iTune登録はこちら
公式サイト:http://okitachio.sakura.ne.jp/nekobu/
登録:
投稿 (Atom)