23日の昼ごろ、ツイッターを見ていると「速報:談志が死んだ」というのが流れてきた。最初、ウソでしょう?という衝撃しかなく、本当にそのニュースは正しいのかというのを検索してみたのだが、どこにもそんなニュースは載っていない。そうこうしているうちに、次々とどうやら本当かもしれないとか、なんとかかんとか、いろいろ議論が始まってきた。あの2chでさえも最初は情報が載っていなかった。でも、談志の体調が悪いことはもう昔から分かっていたことなので、そのうち死んでしまうだろうということは分かっていた。分かっていたのだが、そう簡単にあの人がくたばるということは無いだろうというのを誰もが思っていたのに違いない。だから、談志ニュースが流れてきたときには、誰もがその真相を疑ったのは間違いない。
たぶんまともなニュースサイトで一番最初に報道したのは日刊スポーツだったと思う。そのニュースが出たあとに、ようやくテレビでニュース速報が出て、ただ一言「立川談志氏死亡」だけ。いつ死んだか、どういう病状で死んだかというのは一切無い。まるで「革命が始まりました」といわんばかりの程度の短さ。
ようやくまともなニュースソースからのニュースが出たあとのツイートの上がり方はすごかった。もうHOTワードの上位20個が全部談志ばかり。こういう状態もすごい。だいたい談志の落語を聴いたことも無いような人がツイート上で談志が死んだことに対して、リツイートしたりしているから、言葉だけ先行猛威になっているだけなんだろう。
ちょうど出かける寸前だったので、このニュースを見たときに、はっきりいって、今日は出かける気合が全くなくなってしまったのである。それだけ落語ファンにとっては惜しい人を亡くしたという気分になったに違いない。緊急ニュースで盟友の石原都知事へのインタビューが出たりとか、一番弟子の志の輔が出たりとしたけど、誰もが「そんなぁ・・」という顔をしていたのはとても理解できる。分かっていたことだけど現実が目の前に出てくると、それは認めたくない事実なんだろうが、認めざるを得ないというジレンマが誰もに出てきたのだろう。
さて、それほどまでの立川談志師匠は、ご存知の通り、立川流一門の長であるが、その門下には落語家だけではなく、結構有名人が加盟している。ビートたけしや上岡龍太郎もそうだったし、デイヴ・スペクターのようなひとまでも実は立川何某という名前を持っているくらいである。そしてもともと談志自体が最初から一門を作るつもりで落語の世界に入ったわけじゃない。落語協会などの協会をはずれた、いや、外されたところから彼の人生が始まったようなものなのだ。
キャラクターとしては破天荒でハチャメチャな言動を起こす、ちょっと危ない人とテレビのなかでは見られるのだが、たぶん彼の中での照れ隠しの逆表現なんだろうと思う。本当の談志はとても常識人であり、弱いところを見せたくないという強がりなひとで、弟子に対しては厳しくもあるが愛情を持って接し、博学であったひとだったと思う。そうじゃなければ、談志が生涯をかけて落語の歴史や落語にまつわるすべての事象や噺、そして各落語家の特徴というのを研究し、書物化し、後世の落語を学ぼうとするひと、または現在でも活躍や学んでいるひとたちへの教科書的な辞典を残そうとは思わないだろうからだ。弟子に厳しくもあり優しさがあるような人情溢れるひとでなかったら、きっと立川流を立ち上げたとしても、たくさんの弟子は出来るわけが無かったと思う。それでも志の輔を筆頭にたくさんの弟子および孫弟子がいるということは、それだけ人望厚く、そして誰もが落語の実力を知っており、それに学びたいと感じていたからなのだろうと思う。
各テレビでめちゃくちゃなことをしでかしたこともあり、徐々に全国区のテレビからは消えていったのだが、それはテレビの中で本当のことをズバっと反論の余地もない意見を言ってしまうため、本来なら反論を100倍にして返したいところ、返せない論客やテレビ関係者が嫌がったからだろう。人間、本当の事を言われると逆切れするか、または無言になるものである。落語家だから口が達者だというように簡単に言われればそれまでなのだが、実はそうじゃない。すごい社会や政治そして歴史についてよく勉強をされているからこそ、その豊富な知識と経験から物事が言えるんだろうなと思う。本当の事を言われるのが怖いからとか、自分の実力の無さが露呈されるのがイヤだからという理由で、徐々に談志との共演を嫌うタレントが増えたことも、談志がテレビからだんだん消えていった理由なのかもしれない。談志とまともにやりあえるような人だった場合、これほどテレビを見ていて楽しいものはなかった。別に談志と喧嘩をしてほしいと視聴者は期待しているわけじゃない。談志からいろいろなものを引き出してくれるサポータの重要な役割を見たいのである。だから、MXテレビで放映されていた、野末陳平とのコンビで土曜の朝にやっていた「言いたい放題」は見ていてすごい楽しかった。野末陳平も辛口コメンターだし、両者とも国会議員をやったことがある人なので、政治というものも良く知っている。そして、お互い芸に関してはよくご存知の人たちなので、番組の内容の幅も広くて飽きることはなかったのである。
談志は落語家としての実力はもちろん誰もが認めるものだろう。談志の落語のDVDを見ればそれは一目瞭然。生で高座を観にいった事が無いのだが、是非現役時代の談志の落語を見たかったと思う。神降臨!と言われた「芝浜」の落語を会場で生で見たかった。幸いにもこの芝浜については、NHKで放映されたので、自分の家にも録画したものが残っているから、あとで観直して見たいと思う。あとは、談志が10時間落語というのをいつかの正月特番で行ったことがある。それも録画でとってある。これらの落語は、弟子へのお手本もあるだろうが、手を抜かないで演じるし、芝浜なんかで言えば、落語は本来言葉を発して面白さを伝えるところを、言葉なしで、顔の表情と体の動きだけで話しの流れを観客に見せたという神業的な落語を演じた。同じように体全体で落語を表現した枝雀の落語とは、また系統が異なる。江戸落語と上方落語の違いなんだろうけど、やっぱり東京に住んでいるので江戸落語のほうが個人的には好き。上方落語はリズムがあって、それも楽しいのだが、やっぱり大阪文化を生粋から知っているわけじゃないので、それを知らずして上方落語を心底聴けるような環境には自分には無いからというのが、自分に対する根本的な言い訳だと思う。
演出家としての談志も捨てられない特徴だった。あの長寿番組である「笑点」を企画し演出した最初のひとは談志。いまでは演者が1つのお題目に対して、いろいろ面白いことをいう「大喜利」を持ち込んだのも談志だし、その大喜利は、いまでは演者同士の掛け合いだったりして、アドリブのように振舞っているけど、最初のころの笑点では、すべて談志がシナリオを書いており、演者その台詞回しを台本の通り演じていただけということ。それを台本が無い様に見せるのが落語家としての演技の1つであるということだったらしい。確かに、落語の噺はすべてだいたい話の筋は決まっている。それを演者によってどのように工夫するのかというのは落語家としては当然必要な演技力の1つなのだろうからだ。その本質を分かっている演者のみが、談志の誘いに乗って、笑点で長く活躍しているんだろうと思う。ちなみに、そのときの初代ざぶとん運びは、今では老人たちのアイドルになっている毒蝮三太夫。毒蝮三太夫という名前を付けたのも談志であり、最初は談志がつけた名前を芸名につけることを嫌がっていた毒蝮三太夫に対して、「俳優として演技が下手糞でも、喋りが達者なのだから、落語の世界に来ればいいのに」としきりに誘っていたというエピソードを本人が言っていたのを聞いて、いまのラジオ番組で茶の間を沸かせている原点をすでに談志が早い段階で見抜いていたんだというのを知って、談志はやっぱりすごいとおもう。
そのうち、テレビでも追悼番組をするんだと思う。が、本当に追悼番組をするんだろうか?死人にくちなしだから、死んだひとのことをとやかく言う人は少ないとは思うのだが、それでも談志のことを嫌っているタレントは結構いたと思う。そりゃぁ、存在否定されるようなモノの言い方をされたら、今では偉そうに言っているそのタレントも腹が立つことなのだろう。追悼番組をするんだったら、余計なタレントの懐かしいコメント集なんか要らないから、談志の落語をバンバン流して貰いたいものだ。余計な演出は要らない。談志は落語のためにいきて、落語のために命を削って集大成を作り上げようとしていたのだから。だから、談志の落語をみんなで聴いてあげて、彼が落語を通して何を伝えたかったのかを各人で考えればいいのである。
立川談志、また一人、偉大なる芸人がいなくなった。小粒のどうしようもない芸人は見飽きた。談志のような毒があるが、可愛げがある芸人だけが残るような世界であってほしいものである。そして、家元の落語を本当に生で観れなかったことだけが悔しい。
最後に、「談志が死んだ」という超有名な回文があるが、もうこれは使えない。「かの談志が死んだのか?」というほうが適切な回文なのではないだろうか?
ご冥福をお祈りしたい。
2011/11/23
香嵐渓の紅葉
愛知県東部にある香嵐渓は周辺地域の人なら紅葉の名所として名高いところなのだが、正直この場所を全くこれまで知らないでいた。名前を聞いたときに、どういう字を書くところなのかも全く想像できないところだし、場所ももちろんどの辺かも検討ができない状態でいた。そんな香嵐渓への旅行会社によるバスツアーがうちに郵送されてきたのを両親が見て「行ってみたいわねー」と言うのはかなり時間が短かった。旅行会社にさっそく両親が申し込みをしてみたところ、紅葉の一番人気になるだろう11/23前後の日程では全く予約が取れないことわかり、空きもでる様子もなし。結果的にショぼーんとしているところへ「自分勝手に手配していけばいいじゃん」と軽く一言言ってしまったのが運のつきだった。案の定「日程は好きに決めて良いから連れて行け」ということになる。
だいたい場所もわからないし、どういうところなのかも全く知らないような場所に、計画を立てて連れて行けという横暴な振る舞いをされたのでは困るのだが「あんた、旅行に頻繁に行っているんだから、チョイチョイと手配すればできるでしょー」と言われちゃ立つ瀬がない。行き方やだいたいの場所をこれから調査する。
香嵐渓に行くには東京からだとかなり面倒くさいことになるということがわかった。だいたい新幹線で豊橋に行かないといけないというのがまず厳しい条件だ。豊橋なんかこだましか止まらないんじゃないのか?と思っていたのだが、1日に数本はひかりが止まることを発見。こだまでチンタラ豊橋までいくのはとても辛いので、すべての予定は豊橋に止まるひかり号に併せて行動することにしようということになった。
往路の旅程は下記の通りである。
東京 ひかり505号 8:33発 → 豊橋 9:59着
豊橋 名鉄特急 10:15発 → 東岡崎 10:36着
東岡崎駅 名鉄バス 11:10発 → 香嵐渓 12:16着
東京からの新幹線は「行く」と本当に決心したのが前日だったので、もちろん事前予約はしていない。ひかりだからこんなもの乗るやつはいないだろうと甘いことを考えていたのだが、切符の購入をする手間があったり、あとは東京駅で昼ごはん用の駅弁を買っていこうと思ったので、7:50頃には東京駅に到着しているようにしようとした。これが結果的には正解だったのだが、豊橋から先、新大阪まですべての駅を止まる列車だったため、特に北陸地方への電車に米原に乗る人が多いためか、東京駅で指定席券を購入しようとしたら満員だといわれて買えなかった。自由席券で行くことになる。ということは、早くホームに行って並んでいないと、良い席は取れないということになる。急いで駅コンコースで弁当を買って、8:00にはホームの自由席車両の列に並んだ。前から3人目。ラッキーである。最終的には乗り込み時には30人くらい並んでいたことを考えると、早めにホームに来て正解だった。
新幹線の中では、新大阪方向だと右側、椅子の番号で言うと、D席/E席のほうに座るのが良い。1つは南側から眩しい太陽の光を気にする必要がないということ、もう1つはこれが重要だったのだが、富士山を拝みたかったからだ。富士山はこの日厚い雲に覆われていたために見えなかったのだが、肝心の富士山が一番きれいに見える富士川の鉄橋付近のところでは、なんと爆睡してしまっていた。ハッと気づいたときには、牧の原台地を悠々と新幹線は走っていたのである。不覚だ。
さて、豊橋に到着したのだが、豊橋なんて全くこれまで降りたこともないところだったので、駅の様子が全くわからない。ここから名鉄特急に乗り込むのだが、乗換えに時間が架かるのかなと思っていた。意外にも豊橋の駅ターミナルは結構でかくて、JRおよび名鉄のターミナルになっているようだった。JRと名鉄の改札口は共通であり、これ自体がすごい不思議だった。豊橋からの特急列車は、平日の朝だからということもあるが、あんまり人は混んでいる様子はなかった。ただし、椅子という椅子を1人で座っている人たちばかりであったため、結果的には空き席がほぼ無いに等しかった。それでも空いているところがあったので、そこに座って20分くらいの電車のたびを楽しむ。距離はそこそこあるとおもうのだが、ほとんど止まらず東岡崎駅まで来てしまい、途中のぶっ飛び状態は、本当にあっという間の出来事だった。
行楽シーズンである香嵐渓に行く人は、きっとツアーじゃないひともかなりいることだろうと思っていたので、バスに座れるのかどうかというのはかなり不安要素の1つだった。事前に時刻表で確認してみると、香嵐渓までは1時間以上かかるのである。これをずっと立っていろといわれたら、到着前に疲れてしまって大変なことになることだろう。それだけは嫌だ。行楽シーズン特別便がバスも運行するようで、普段なら発車しないような時間帯に今回は出発するバスに乗る。このバスがなかったら、何も無い東岡崎駅で1時間以上も待たないといけないという悲惨なことになるのだ。そう、香嵐渓までいくバスはそれほど多くないのである。トイレ等にいく時間は全くあったので、バスが出発するまでの間に駅でトイレを済ませることができた。さらに言うと、ひっきりなしにバスが駅のターミナルブースにやってくるため、お目当てのバスに乗るまで結構待たないといけなかったのだが、香嵐渓に行く人たちが乗るバスが来るのを待っている人も結構いることになり、最終的には長い列になった。ただ、自分たちはちゃんと座って行きたいと思ったので、誰か1人は必ず並ぶような形にしていた。先頭から2番目のグループとして乗り込むことができたのでラッキー。バスは本当の路線バス。後ろのり前降りのバスで、香嵐渓までの片道は1人800円。香嵐渓近くの山道までは本当にスムーズに進むことができた。途中うとうとしてしまったので、どういう道を通ったのか全くわからないが、香嵐渓近くに来た途端、バスはぴたーと止まってしまった。いったいバスはどこにいるんだろう?とスマホを取り出し、自分たちの要る場所をGPSを使って確認する。これまでだったらこんな芸当はできなかったが、さすがスマホである。情報として何でも出てくるのだ。どうやら片側1車線の道なので、右折車両がいると、それだけでもう後ろは身動きができないというものに遭遇したようだ。
終点香嵐渓でバスを降りたが、本来ならバスはもっと先にある足助バスターミナルまで行く。臨時便は香嵐渓のメインバスターミナルまで。
バスを降りて即効で絶景ポイントに行こうとする人はバスの進行方向に進んで橋を渡り、そのあと道路を横断すれば良い。その前にちょっと小腹が空いたから何か食べてから行こうというような人の場合には、バスの後ろのほうに行き、道路を渡って向こう側が、ちょうどお土産エリアになっているので、そこで買っても良いだろう。しかし、ど田舎村のありふれたお土産エリアであり、また、追加として正月に神社や寺の近くに出店を構える屋台程度だったりするので、特にこれは!というようなものが目に付くことは無かった。
まずは、川沿いをどんどん上流方面に進んでみよう。いきなり香嵐渓の石碑が出てくるのだが、その石碑に書かれている書体があまりにも立派過ぎるので、最初の「香」という字がなぜあんな崩し方をするのかというのが全く理由がわからなかった。ただ、ここからが香嵐渓の見所のメインの場所ですよーというのを敢えて紹介するような場所なんだということがわかる。このゲートを潜るときにかなり紅く色づいている葉で充満の木があったのだが、実は全部の木が色づいているのではなく、紅くなっているのもあれば、黄色くなっているのもあれば、緑のままの木もあったりと、一番景色としてはおもしろいバリエーションの場所だろうなーと思った。特に途中でお寺があるのだが、そのお寺に上る階段の手前にある鬱蒼とした森のような場所から川側のほうに向いてみると、その色とりどりの紅葉の風景が一層きれいに見える。たまたまここを通りかかったときに、カメラマンのひとが訳のわからないところから写真を撮っているので、どういう映像になるのかなと自分で試してみたところ、あまりにもきれいだったからそれに真似してみただけだ。さらに上流に行ってみる。香嵐渓のパンフレットに出てくる有名な赤い欄干の橋が目の前に見える。この橋をバックに手前で紅葉している木をメインに、川の流れもわかるようなアングルで写真を撮るところが、ここに来ている観光客の中では一番競争率が激しい写真ポイントになっていた。このあたりの紅葉は一番見ごろの時期だったため、紅い葉と赤い欄干がとてもよくマッチングされていたことに、写真に収めたいと思っている人たちがたくさんいたんだろうと思う。悪く言えば「私もパンフレットみたいな写真が撮りたい」を実践してみたかったひとが多かったというだけだろう。最初は天気が曇っていてあんまり写真としては良くなかったが、帰りに同じ場所を通ってみると、青空が見える晴れになったので、写真にするとなお一層映えることになった。
もっと奥に行ってみる。今度はつり橋が見えてくる。このつり橋、たくさんの人が一緒に乗ると、訳のわからない横揺れが発生するために、振り落とされるのではないか?という恐怖を味わうことができる。下が丸見えの板ではないところだけが唯一ありがたいところだが、高所恐怖症のひとにとっては、この揺れは嫌なのだろうなと思う。吊り橋自体、多少大きな揺れになってもここから落ちることは無い。というのも、それを計算の上で作られているし、欄干部分も横からはみ出るようなつくりになっていないので、振り落とされるということはまず無いのである。
それにしても、広場のところで演歌歌手がやってきて何かの歌を歌っていた。この寒いところにご苦労様と思っていたのだが、最初はプロの演歌歌手ではなく、足助町の素人のど自慢大会でもやっているのかと思った。しゃべりの達者な素人が観光客を煽ったり、乗せたりして、盛り上げているのかと思ったからである。しかし、実際にはセミプロ程度だということだ。高音部分のところが全く声が出ておらず、音ずれしていたのだから、これではプロじゃない。ダメだ!、やり直し!帰りは香嵐渓から帰ろうかと思っていたのだが、同じような時間帯に帰ろうとする人が絶対多いだろうと思ったので、それだと帰りのバスで立って帰らなければならないと思い、無理して足助のバスターミナルまで行ってみることにした。これが大失敗。数少ないバスが歩いている途中で走ってしまい、それに乗っていけば、1時間早く家に到着できたのにと悔やむ。それでも、乗れなかったのだから意地でもバスターミナルまでは歩いてようかと思った。距離としては2kmもないんじゃないのだろうか?途中、足助の街中を通ったので気分転換になったとおもうが、決して遠い道のりのように見えなかった。足助の町は夕方に行くとしーんとしているのだが、祭りの時期になると活気が出てくるようだ。
足助のバスターミナルには、お土産・軽食が買える乗客待合室みたいなのがあった。そこを仕切っているおばさんの見事な三河弁が脳裏から離れない。元気一杯で、いろいろと知りたいことを教えてくれたりする。足助の生き字引みたいなものだ。バスの時間もちゃんと知っており、まだバス乗れないよーとか、じゃ、そろそろ出発するからどこどこ行きのお客さんは準備してーと、仕切ってくれる。寒風のなか突っ立っていなければいけないのかと思っていたので、風除け場所があるだけうれしい。
始発のターミナルを出発し、帰りは全く渋滞なく東岡崎駅へ時間通りにたどり着く。そのあと、豊橋に出るのではなく、新幹線の本数が多い名古屋に出ることにした。名古屋までは特急で約40分。平日の帰宅ラッシュ時間帯に重なってしまったので、名古屋まで全く座れなかったのは辛かった。名古屋からはのぞみに乗って品川まで。しかし、名古屋からの指定席を取ろうとしても、3列の真ん中席だけは残っているが、まとめて取れるところが全く無いので、そんな席はいやじゃーとダダをこねて、18時30分に出発する3列席で仲良く座って帰る。
弾丸ツアーこの上ないものではあったのだが、日帰りでよくもまぁ香嵐渓にいったものだと後から考えると感心する。ちょっと季節的には1週間くらい早かったかなーとおもったのだが、どのような紅葉を見たいかは個々の主観によるところなので、あまりこの時期、この場所、これを見よー!というのは言及しないことにしたい。
だいたい場所もわからないし、どういうところなのかも全く知らないような場所に、計画を立てて連れて行けという横暴な振る舞いをされたのでは困るのだが「あんた、旅行に頻繁に行っているんだから、チョイチョイと手配すればできるでしょー」と言われちゃ立つ瀬がない。行き方やだいたいの場所をこれから調査する。
香嵐渓に行くには東京からだとかなり面倒くさいことになるということがわかった。だいたい新幹線で豊橋に行かないといけないというのがまず厳しい条件だ。豊橋なんかこだましか止まらないんじゃないのか?と思っていたのだが、1日に数本はひかりが止まることを発見。こだまでチンタラ豊橋までいくのはとても辛いので、すべての予定は豊橋に止まるひかり号に併せて行動することにしようということになった。
往路の旅程は下記の通りである。
東京 ひかり505号 8:33発 → 豊橋 9:59着
豊橋 名鉄特急 10:15発 → 東岡崎 10:36着
東岡崎駅 名鉄バス 11:10発 → 香嵐渓 12:16着
東京からの新幹線は「行く」と本当に決心したのが前日だったので、もちろん事前予約はしていない。ひかりだからこんなもの乗るやつはいないだろうと甘いことを考えていたのだが、切符の購入をする手間があったり、あとは東京駅で昼ごはん用の駅弁を買っていこうと思ったので、7:50頃には東京駅に到着しているようにしようとした。これが結果的には正解だったのだが、豊橋から先、新大阪まですべての駅を止まる列車だったため、特に北陸地方への電車に米原に乗る人が多いためか、東京駅で指定席券を購入しようとしたら満員だといわれて買えなかった。自由席券で行くことになる。ということは、早くホームに行って並んでいないと、良い席は取れないということになる。急いで駅コンコースで弁当を買って、8:00にはホームの自由席車両の列に並んだ。前から3人目。ラッキーである。最終的には乗り込み時には30人くらい並んでいたことを考えると、早めにホームに来て正解だった。
新幹線の中では、新大阪方向だと右側、椅子の番号で言うと、D席/E席のほうに座るのが良い。1つは南側から眩しい太陽の光を気にする必要がないということ、もう1つはこれが重要だったのだが、富士山を拝みたかったからだ。富士山はこの日厚い雲に覆われていたために見えなかったのだが、肝心の富士山が一番きれいに見える富士川の鉄橋付近のところでは、なんと爆睡してしまっていた。ハッと気づいたときには、牧の原台地を悠々と新幹線は走っていたのである。不覚だ。
さて、豊橋に到着したのだが、豊橋なんて全くこれまで降りたこともないところだったので、駅の様子が全くわからない。ここから名鉄特急に乗り込むのだが、乗換えに時間が架かるのかなと思っていた。意外にも豊橋の駅ターミナルは結構でかくて、JRおよび名鉄のターミナルになっているようだった。JRと名鉄の改札口は共通であり、これ自体がすごい不思議だった。豊橋からの特急列車は、平日の朝だからということもあるが、あんまり人は混んでいる様子はなかった。ただし、椅子という椅子を1人で座っている人たちばかりであったため、結果的には空き席がほぼ無いに等しかった。それでも空いているところがあったので、そこに座って20分くらいの電車のたびを楽しむ。距離はそこそこあるとおもうのだが、ほとんど止まらず東岡崎駅まで来てしまい、途中のぶっ飛び状態は、本当にあっという間の出来事だった。
行楽シーズンである香嵐渓に行く人は、きっとツアーじゃないひともかなりいることだろうと思っていたので、バスに座れるのかどうかというのはかなり不安要素の1つだった。事前に時刻表で確認してみると、香嵐渓までは1時間以上かかるのである。これをずっと立っていろといわれたら、到着前に疲れてしまって大変なことになることだろう。それだけは嫌だ。行楽シーズン特別便がバスも運行するようで、普段なら発車しないような時間帯に今回は出発するバスに乗る。このバスがなかったら、何も無い東岡崎駅で1時間以上も待たないといけないという悲惨なことになるのだ。そう、香嵐渓までいくバスはそれほど多くないのである。トイレ等にいく時間は全くあったので、バスが出発するまでの間に駅でトイレを済ませることができた。さらに言うと、ひっきりなしにバスが駅のターミナルブースにやってくるため、お目当てのバスに乗るまで結構待たないといけなかったのだが、香嵐渓に行く人たちが乗るバスが来るのを待っている人も結構いることになり、最終的には長い列になった。ただ、自分たちはちゃんと座って行きたいと思ったので、誰か1人は必ず並ぶような形にしていた。先頭から2番目のグループとして乗り込むことができたのでラッキー。バスは本当の路線バス。後ろのり前降りのバスで、香嵐渓までの片道は1人800円。香嵐渓近くの山道までは本当にスムーズに進むことができた。途中うとうとしてしまったので、どういう道を通ったのか全くわからないが、香嵐渓近くに来た途端、バスはぴたーと止まってしまった。いったいバスはどこにいるんだろう?とスマホを取り出し、自分たちの要る場所をGPSを使って確認する。これまでだったらこんな芸当はできなかったが、さすがスマホである。情報として何でも出てくるのだ。どうやら片側1車線の道なので、右折車両がいると、それだけでもう後ろは身動きができないというものに遭遇したようだ。
終点香嵐渓でバスを降りたが、本来ならバスはもっと先にある足助バスターミナルまで行く。臨時便は香嵐渓のメインバスターミナルまで。
バスを降りて即効で絶景ポイントに行こうとする人はバスの進行方向に進んで橋を渡り、そのあと道路を横断すれば良い。その前にちょっと小腹が空いたから何か食べてから行こうというような人の場合には、バスの後ろのほうに行き、道路を渡って向こう側が、ちょうどお土産エリアになっているので、そこで買っても良いだろう。しかし、ど田舎村のありふれたお土産エリアであり、また、追加として正月に神社や寺の近くに出店を構える屋台程度だったりするので、特にこれは!というようなものが目に付くことは無かった。
まずは、川沿いをどんどん上流方面に進んでみよう。いきなり香嵐渓の石碑が出てくるのだが、その石碑に書かれている書体があまりにも立派過ぎるので、最初の「香」という字がなぜあんな崩し方をするのかというのが全く理由がわからなかった。ただ、ここからが香嵐渓の見所のメインの場所ですよーというのを敢えて紹介するような場所なんだということがわかる。このゲートを潜るときにかなり紅く色づいている葉で充満の木があったのだが、実は全部の木が色づいているのではなく、紅くなっているのもあれば、黄色くなっているのもあれば、緑のままの木もあったりと、一番景色としてはおもしろいバリエーションの場所だろうなーと思った。特に途中でお寺があるのだが、そのお寺に上る階段の手前にある鬱蒼とした森のような場所から川側のほうに向いてみると、その色とりどりの紅葉の風景が一層きれいに見える。たまたまここを通りかかったときに、カメラマンのひとが訳のわからないところから写真を撮っているので、どういう映像になるのかなと自分で試してみたところ、あまりにもきれいだったからそれに真似してみただけだ。さらに上流に行ってみる。香嵐渓のパンフレットに出てくる有名な赤い欄干の橋が目の前に見える。この橋をバックに手前で紅葉している木をメインに、川の流れもわかるようなアングルで写真を撮るところが、ここに来ている観光客の中では一番競争率が激しい写真ポイントになっていた。このあたりの紅葉は一番見ごろの時期だったため、紅い葉と赤い欄干がとてもよくマッチングされていたことに、写真に収めたいと思っている人たちがたくさんいたんだろうと思う。悪く言えば「私もパンフレットみたいな写真が撮りたい」を実践してみたかったひとが多かったというだけだろう。最初は天気が曇っていてあんまり写真としては良くなかったが、帰りに同じ場所を通ってみると、青空が見える晴れになったので、写真にするとなお一層映えることになった。
もっと奥に行ってみる。今度はつり橋が見えてくる。このつり橋、たくさんの人が一緒に乗ると、訳のわからない横揺れが発生するために、振り落とされるのではないか?という恐怖を味わうことができる。下が丸見えの板ではないところだけが唯一ありがたいところだが、高所恐怖症のひとにとっては、この揺れは嫌なのだろうなと思う。吊り橋自体、多少大きな揺れになってもここから落ちることは無い。というのも、それを計算の上で作られているし、欄干部分も横からはみ出るようなつくりになっていないので、振り落とされるということはまず無いのである。
それにしても、広場のところで演歌歌手がやってきて何かの歌を歌っていた。この寒いところにご苦労様と思っていたのだが、最初はプロの演歌歌手ではなく、足助町の素人のど自慢大会でもやっているのかと思った。しゃべりの達者な素人が観光客を煽ったり、乗せたりして、盛り上げているのかと思ったからである。しかし、実際にはセミプロ程度だということだ。高音部分のところが全く声が出ておらず、音ずれしていたのだから、これではプロじゃない。ダメだ!、やり直し!帰りは香嵐渓から帰ろうかと思っていたのだが、同じような時間帯に帰ろうとする人が絶対多いだろうと思ったので、それだと帰りのバスで立って帰らなければならないと思い、無理して足助のバスターミナルまで行ってみることにした。これが大失敗。数少ないバスが歩いている途中で走ってしまい、それに乗っていけば、1時間早く家に到着できたのにと悔やむ。それでも、乗れなかったのだから意地でもバスターミナルまでは歩いてようかと思った。距離としては2kmもないんじゃないのだろうか?途中、足助の街中を通ったので気分転換になったとおもうが、決して遠い道のりのように見えなかった。足助の町は夕方に行くとしーんとしているのだが、祭りの時期になると活気が出てくるようだ。
足助のバスターミナルには、お土産・軽食が買える乗客待合室みたいなのがあった。そこを仕切っているおばさんの見事な三河弁が脳裏から離れない。元気一杯で、いろいろと知りたいことを教えてくれたりする。足助の生き字引みたいなものだ。バスの時間もちゃんと知っており、まだバス乗れないよーとか、じゃ、そろそろ出発するからどこどこ行きのお客さんは準備してーと、仕切ってくれる。寒風のなか突っ立っていなければいけないのかと思っていたので、風除け場所があるだけうれしい。
始発のターミナルを出発し、帰りは全く渋滞なく東岡崎駅へ時間通りにたどり着く。そのあと、豊橋に出るのではなく、新幹線の本数が多い名古屋に出ることにした。名古屋までは特急で約40分。平日の帰宅ラッシュ時間帯に重なってしまったので、名古屋まで全く座れなかったのは辛かった。名古屋からはのぞみに乗って品川まで。しかし、名古屋からの指定席を取ろうとしても、3列の真ん中席だけは残っているが、まとめて取れるところが全く無いので、そんな席はいやじゃーとダダをこねて、18時30分に出発する3列席で仲良く座って帰る。
弾丸ツアーこの上ないものではあったのだが、日帰りでよくもまぁ香嵐渓にいったものだと後から考えると感心する。ちょっと季節的には1週間くらい早かったかなーとおもったのだが、どのような紅葉を見たいかは個々の主観によるところなので、あまりこの時期、この場所、これを見よー!というのは言及しないことにしたい。
草間弥生
初めて草間彌生の作品を見たときは、確か2001年に開催された横浜トリエンナーレだったと思う。そのときに展示されていたのは、銀色の少し大きめな球体が広いスペースにこれでもかぁというくらい敷き詰められていて、これが芸術か?とよく理解ができないという印象があった。それまでも前衛的な芸術を掲げるアーティストの作品はたまに見ていたいのだが、それでもこんな単純でしかもそのときには、その球体に対してなんのメッセージ性も感じ得ないという自分の未熟さは棚において、この芸術家はいったい何が言いたかったのだろうか?と常に疑問に思っていた。
そのあと、草間彌生作品として、香川県の直島に水玉模様のカボチャのオブジェを展示したり、携帯電話に水玉模様をあしらったデザインを発表したりと、やたら水玉模様を演出した作品を世の中にぶちかます。このあたりから、「草間彌生=水玉模様の作家」と勝手に自分の中で思うようになっていった。何かしらの水玉模様の作品が発表されたり、それが眼に衝撃的なデザインだったりすると、だいたいが草間彌生だろうという認識はあった。
しかし、これまで草間彌生の作品集として集合体では見たことが無く、この人は若いころからどういう作品を出していたんだろうと常に疑問になっていた。芸術家になったころから水玉模様をあしらったものを作品の基本とし始めたのだろうか?それともあるきっかけで水玉模様に異様にして固執したのか?というのが拭えなかったのである。だいたい、ちょっと前にNHKで放映されていた草間彌生に関する特集番組を見たときにも、一心不乱に巨大なキャンバスにキチガイじみた色使いで水玉ばっかり描いており、その気持ち悪い色の水玉には何か意味があるのか?そして100枚もの水玉ばかりの作品を作るということに固執していたことに何のメッセージ性があるのかということばかりを気にして放映された番組を視聴していた。
そこに青山のワタリウム美術館で草間彌生展が開催されるという話を聞いて、草間彌生のこれまでの作品を大量に展示するということから、ぜひ行ってみたいとおもっていくことにした。だいたい、草間彌生の作品集といっても、最近美術書籍で作品が載っている本も出ているのだが、それを見るよりは、実際に作品を見たり、解説を聞いたりするほうが楽しいだろうと思って乗り込んでみた。
渋谷駅からハチ公バスという渋谷・原宿界隈を走るミニバスに乗り込んで、ワタリウム美術館近くの停留所まで乗る。このバス、どこまで乗っても100円であるので重宝するが、ちょこまかとへんてこりんな場所を通るので、渋谷のような坂道を歩く必要がある場合には大変重宝しそうなバスだと思われる。ただし、乗るのであれば、ハチ公前のバス停から乗ることをお勧めしたい。なぜならこのバス停の始発がハチ公前なのだが、そこから乗らないとバスはまず座れないからである。
ワタリウム美術館では、チケットは開催期間中何度も見ることができるシステムである。最初にチケットを買うときに名前を書き、次回からの入場の際には、その名前を証明する身分証証明書と一緒に提示すれば入館できるのである。なかなか何度も出入りできる美術館というのは存在しないので、なんども同じアーティストの作品を見たいという人にとってはありがたいシステムだ。
ワタリウム美術館自体はそれほど大きな美術館ではない。地下2階、地上4階建てのスペースに作品が展示されている。吹き抜けの場所もあるため、巨大な作品はここに設置されたりするのだろう。配置の工夫は美術館のひとのセンスによるものだと思われる。
草間彌生展では、2階の作品展示から、草間彌生の生い立ちから始まる説明に出くわす。小さいころから絵を描くことに執着し、戦後の大混乱の時代にも関わらず、そんなときに松本からアメリカへ旅立ってしまうという勇気はどこから沸いてきたのだろうか?渡米した年齢が28歳ごろだったと思うが、そのころに渡米したいという気持ちを確固たるものにしたものはなんだったのだろうか?説明資料にはそのあたりのことは全く書かれていない。たぶん、精神的にイッちゃっている危ない子が絵を描くことで、本人の存在性をアピールできるものと認識したのは良いが、その行動があまりにも田舎の一般人には理解できなかったために、閉鎖的な環境から逸脱し、なんでも許容するアメリカへ逃げたほうが幸せなのかもしれないという思いがあったのだろうというのは推測される。
今回のワタリウム美術館で見た作品を通してわかったことが1つある。「草間彌生=水玉模様」というのは後から形成された代物であるということだ。元々は、草間彌生自体が世間一般からイッちゃっている子として認識されていたため、本人のコンプレックスとしては「自己の存在をこの世から消したい」という思いが小さいころからあったようだ。だから、作品の当初としては、自分を消せるのは何かしらの布という思いを発想する。ところが布を被せたのではまるっきり何を描いているのかわからない。そこで少し本人の姿が見える「網目模様」に変えた。なんでも網目にすることで、全体像の大枠は見えるが、すべてをさらけ出さなくても良いという環境を二次元の中で形成することに固執する。さらにこの網目の作品を派生したのがいまの水玉模様に発展するのだが、網目の空間部分だけを今度はフォーカスし、さらに網の目の形を単純化したものが「○」であることを発見する。そこからの草間彌生作品は水玉模様の作品に一気に花が開いていくというわけである。
しかし、水玉模様にたどり着くまでもかなり紆余曲折をしていた模様である。それは本人が写っている写真集およびビデオインスタレーションを見ればよくわかることなのだが、まず、キャンバスという枠を超えたところで、世界全てを水玉模様にしてしまえという発想を起こす。この生存しているすべての物象及び環境を水玉模様にしてしまい、どこまでがその物象なのか境をなくすことを模索する。水玉というフィルターを通してしまえば、全て眼に見えるものが水玉模様なのであり、その裏側にあるであろう対象物も境をなくすことで、水玉模様の中にいる草間彌生自体も隠れるのではないかと思ったようだ。だから、作品製作過程の映像が残っていたりするが、牧場の牛を水玉にしてそこに寄り添っている草間彌生や、池の蛙、蓮の葉、水面、すべてを水玉模様にしてしまい、そのなかに草間彌生が存在しても水と同化しているように見せるということをしている。まるで水玉によって自分を隠すかのようにだ。
かといって、アメリカ生活では時に意味不明な活動をし始める。たぶん、「水玉模様による個体の消滅」を演じるための延長活動だとおもうが、男女ヌードを公開写生したり、ヒッピー社会が流行してしまったことにも影響を受けたのだろうが、屋外乱交を企画したりしているのである。こんなことをしたら当然アメリカ当局に眼をつけられるのは当たり前である。さらに日本に帰国した際には、アメリカでの活動の過激さから、危ない女芸術家のレッテルを貼られてしまい、せっかく自分を認めてほしいためにアメリカに行っていたのに、日本では罵倒され続けることになるため、苦悩したことが良くわかった。最近まで、やっぱり「草間彌生=精神病的芸術家」と思われ、岡本太郎のように、常に麻薬でも打っているかのような感覚を持っている人と思われていたかもしれない。違うのだ。彼女は常に自分を何かで隠したいと思っているのである。この世から消滅したいと思っているのである。でも、本当に消滅するということは、生きている自分がいるのでしたくない。ならば、作品の中だけでも消滅したいという思いがあるのだ。
ただ、NHKのアーカイブで放映されていた草間彌生の映像の中で、見たくない部分も放映されていた。それは、草間彌生を全面的に売り出すことをサポートする人がいたのだが、そのサポートするひとがとても優秀であり、オークションに草間彌生作品を出すことでも、高値をつける結果になるきっかけを作った人がいた。その人のおかげで、草間彌生作品の多くを見ることができる機会を作ってくれたわけだが、草間彌生自体も、作品が高く売れるということにどうやら気づいたらしく、「どこか高く買ってくれるところはないかしら?」と映像の中で言っている。金儲けに芸術家が走ると、ろくなことは起こらない。芸術性が失われるのである。現に、ビデオの中で100枚の巨大キャンバスに水玉模様の作品を描くということを「体力的無謀な挑戦」と称して紹介していたが、1枚でも大きなキャンバスを描くことで、高く作品が売れるかもしれないから描いているというように見えて成らなかった。だから、作品自体が100枚並んだ映像もあったのだが、「んで、それで?」と思ったのは言うまでもない。なんの芸術的なメッセージ性を感じ得なかったからである。これは自分が鈍感だからなのか、それとも作品自体に本当に100枚全部を通して伝えたいことが何なのか特に無いというものなのか、よくわからない。
ワタリウム美術館を出るときに、地下に売られていたお土産屋の中に、草間彌生のニューヨーク滞在時代の書簡や作品作成途中の写真、それといろいろ事件を起こしたときに彼女が思った事柄などを紹介した本が売られていたので買ってみた。作品集ではない。ニューヨークで何を感じて、それを作品化したのかというのを知りたかっただけである。ただ、読んでみてわかったが、今より相当自由奔放に作品つくりを精力的に行っており、どんな縛りも気にしなかったという思いと、それと平行して、作品つくりには、法律ギリギリのラインを通らないと実は感動は得られないということを良く心得ていて、そのために個人弁護士を10人も抱えていたことを知ったことだ。用意周到の上で、奔放な作品つくりをしていたということが読み取れる。いまはどうだろうか?なにか、自分の中で大きな殻を作ってしまい、その殻のなかで動ける範囲を決めちゃっているように草間彌生は見える。年齢も年齢なので、いまから水玉以外の、自分を隠せる集合体を探しきれれば作品に奥味が出てくると思うが、もうその発想は無いのだろう。そこがなんとなく残念に思う。
よくわからないのは、草間彌生作詞・作曲という意味不明な歌を映像インスタレーションとして紹介しているのだが、これ、彼女がその歌の中で何を伝えたかったのだろうか不思議だ。映像だけ見ていると、本当にイッちゃっている人に見える。
ワタリウム美術館での開催は2011年11月27日(日)まで。そのあとはまたどこかで草間彌生作品を見る機会があるかもしれない。それまで待ってみたい。
そのあと、草間彌生作品として、香川県の直島に水玉模様のカボチャのオブジェを展示したり、携帯電話に水玉模様をあしらったデザインを発表したりと、やたら水玉模様を演出した作品を世の中にぶちかます。このあたりから、「草間彌生=水玉模様の作家」と勝手に自分の中で思うようになっていった。何かしらの水玉模様の作品が発表されたり、それが眼に衝撃的なデザインだったりすると、だいたいが草間彌生だろうという認識はあった。
しかし、これまで草間彌生の作品集として集合体では見たことが無く、この人は若いころからどういう作品を出していたんだろうと常に疑問になっていた。芸術家になったころから水玉模様をあしらったものを作品の基本とし始めたのだろうか?それともあるきっかけで水玉模様に異様にして固執したのか?というのが拭えなかったのである。だいたい、ちょっと前にNHKで放映されていた草間彌生に関する特集番組を見たときにも、一心不乱に巨大なキャンバスにキチガイじみた色使いで水玉ばっかり描いており、その気持ち悪い色の水玉には何か意味があるのか?そして100枚もの水玉ばかりの作品を作るということに固執していたことに何のメッセージ性があるのかということばかりを気にして放映された番組を視聴していた。
そこに青山のワタリウム美術館で草間彌生展が開催されるという話を聞いて、草間彌生のこれまでの作品を大量に展示するということから、ぜひ行ってみたいとおもっていくことにした。だいたい、草間彌生の作品集といっても、最近美術書籍で作品が載っている本も出ているのだが、それを見るよりは、実際に作品を見たり、解説を聞いたりするほうが楽しいだろうと思って乗り込んでみた。
渋谷駅からハチ公バスという渋谷・原宿界隈を走るミニバスに乗り込んで、ワタリウム美術館近くの停留所まで乗る。このバス、どこまで乗っても100円であるので重宝するが、ちょこまかとへんてこりんな場所を通るので、渋谷のような坂道を歩く必要がある場合には大変重宝しそうなバスだと思われる。ただし、乗るのであれば、ハチ公前のバス停から乗ることをお勧めしたい。なぜならこのバス停の始発がハチ公前なのだが、そこから乗らないとバスはまず座れないからである。
ワタリウム美術館では、チケットは開催期間中何度も見ることができるシステムである。最初にチケットを買うときに名前を書き、次回からの入場の際には、その名前を証明する身分証証明書と一緒に提示すれば入館できるのである。なかなか何度も出入りできる美術館というのは存在しないので、なんども同じアーティストの作品を見たいという人にとってはありがたいシステムだ。
ワタリウム美術館自体はそれほど大きな美術館ではない。地下2階、地上4階建てのスペースに作品が展示されている。吹き抜けの場所もあるため、巨大な作品はここに設置されたりするのだろう。配置の工夫は美術館のひとのセンスによるものだと思われる。
草間彌生展では、2階の作品展示から、草間彌生の生い立ちから始まる説明に出くわす。小さいころから絵を描くことに執着し、戦後の大混乱の時代にも関わらず、そんなときに松本からアメリカへ旅立ってしまうという勇気はどこから沸いてきたのだろうか?渡米した年齢が28歳ごろだったと思うが、そのころに渡米したいという気持ちを確固たるものにしたものはなんだったのだろうか?説明資料にはそのあたりのことは全く書かれていない。たぶん、精神的にイッちゃっている危ない子が絵を描くことで、本人の存在性をアピールできるものと認識したのは良いが、その行動があまりにも田舎の一般人には理解できなかったために、閉鎖的な環境から逸脱し、なんでも許容するアメリカへ逃げたほうが幸せなのかもしれないという思いがあったのだろうというのは推測される。
今回のワタリウム美術館で見た作品を通してわかったことが1つある。「草間彌生=水玉模様」というのは後から形成された代物であるということだ。元々は、草間彌生自体が世間一般からイッちゃっている子として認識されていたため、本人のコンプレックスとしては「自己の存在をこの世から消したい」という思いが小さいころからあったようだ。だから、作品の当初としては、自分を消せるのは何かしらの布という思いを発想する。ところが布を被せたのではまるっきり何を描いているのかわからない。そこで少し本人の姿が見える「網目模様」に変えた。なんでも網目にすることで、全体像の大枠は見えるが、すべてをさらけ出さなくても良いという環境を二次元の中で形成することに固執する。さらにこの網目の作品を派生したのがいまの水玉模様に発展するのだが、網目の空間部分だけを今度はフォーカスし、さらに網の目の形を単純化したものが「○」であることを発見する。そこからの草間彌生作品は水玉模様の作品に一気に花が開いていくというわけである。
しかし、水玉模様にたどり着くまでもかなり紆余曲折をしていた模様である。それは本人が写っている写真集およびビデオインスタレーションを見ればよくわかることなのだが、まず、キャンバスという枠を超えたところで、世界全てを水玉模様にしてしまえという発想を起こす。この生存しているすべての物象及び環境を水玉模様にしてしまい、どこまでがその物象なのか境をなくすことを模索する。水玉というフィルターを通してしまえば、全て眼に見えるものが水玉模様なのであり、その裏側にあるであろう対象物も境をなくすことで、水玉模様の中にいる草間彌生自体も隠れるのではないかと思ったようだ。だから、作品製作過程の映像が残っていたりするが、牧場の牛を水玉にしてそこに寄り添っている草間彌生や、池の蛙、蓮の葉、水面、すべてを水玉模様にしてしまい、そのなかに草間彌生が存在しても水と同化しているように見せるということをしている。まるで水玉によって自分を隠すかのようにだ。
かといって、アメリカ生活では時に意味不明な活動をし始める。たぶん、「水玉模様による個体の消滅」を演じるための延長活動だとおもうが、男女ヌードを公開写生したり、ヒッピー社会が流行してしまったことにも影響を受けたのだろうが、屋外乱交を企画したりしているのである。こんなことをしたら当然アメリカ当局に眼をつけられるのは当たり前である。さらに日本に帰国した際には、アメリカでの活動の過激さから、危ない女芸術家のレッテルを貼られてしまい、せっかく自分を認めてほしいためにアメリカに行っていたのに、日本では罵倒され続けることになるため、苦悩したことが良くわかった。最近まで、やっぱり「草間彌生=精神病的芸術家」と思われ、岡本太郎のように、常に麻薬でも打っているかのような感覚を持っている人と思われていたかもしれない。違うのだ。彼女は常に自分を何かで隠したいと思っているのである。この世から消滅したいと思っているのである。でも、本当に消滅するということは、生きている自分がいるのでしたくない。ならば、作品の中だけでも消滅したいという思いがあるのだ。
ただ、NHKのアーカイブで放映されていた草間彌生の映像の中で、見たくない部分も放映されていた。それは、草間彌生を全面的に売り出すことをサポートする人がいたのだが、そのサポートするひとがとても優秀であり、オークションに草間彌生作品を出すことでも、高値をつける結果になるきっかけを作った人がいた。その人のおかげで、草間彌生作品の多くを見ることができる機会を作ってくれたわけだが、草間彌生自体も、作品が高く売れるということにどうやら気づいたらしく、「どこか高く買ってくれるところはないかしら?」と映像の中で言っている。金儲けに芸術家が走ると、ろくなことは起こらない。芸術性が失われるのである。現に、ビデオの中で100枚の巨大キャンバスに水玉模様の作品を描くということを「体力的無謀な挑戦」と称して紹介していたが、1枚でも大きなキャンバスを描くことで、高く作品が売れるかもしれないから描いているというように見えて成らなかった。だから、作品自体が100枚並んだ映像もあったのだが、「んで、それで?」と思ったのは言うまでもない。なんの芸術的なメッセージ性を感じ得なかったからである。これは自分が鈍感だからなのか、それとも作品自体に本当に100枚全部を通して伝えたいことが何なのか特に無いというものなのか、よくわからない。
ワタリウム美術館を出るときに、地下に売られていたお土産屋の中に、草間彌生のニューヨーク滞在時代の書簡や作品作成途中の写真、それといろいろ事件を起こしたときに彼女が思った事柄などを紹介した本が売られていたので買ってみた。作品集ではない。ニューヨークで何を感じて、それを作品化したのかというのを知りたかっただけである。ただ、読んでみてわかったが、今より相当自由奔放に作品つくりを精力的に行っており、どんな縛りも気にしなかったという思いと、それと平行して、作品つくりには、法律ギリギリのラインを通らないと実は感動は得られないということを良く心得ていて、そのために個人弁護士を10人も抱えていたことを知ったことだ。用意周到の上で、奔放な作品つくりをしていたということが読み取れる。いまはどうだろうか?なにか、自分の中で大きな殻を作ってしまい、その殻のなかで動ける範囲を決めちゃっているように草間彌生は見える。年齢も年齢なので、いまから水玉以外の、自分を隠せる集合体を探しきれれば作品に奥味が出てくると思うが、もうその発想は無いのだろう。そこがなんとなく残念に思う。
よくわからないのは、草間彌生作詞・作曲という意味不明な歌を映像インスタレーションとして紹介しているのだが、これ、彼女がその歌の中で何を伝えたかったのだろうか不思議だ。映像だけ見ていると、本当にイッちゃっている人に見える。
ワタリウム美術館での開催は2011年11月27日(日)まで。そのあとはまたどこかで草間彌生作品を見る機会があるかもしれない。それまで待ってみたい。
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