2011/11/23

草間弥生

初めて草間彌生の作品を見たときは、確か2001年に開催された横浜トリエンナーレだったと思う。そのときに展示されていたのは、銀色の少し大きめな球体が広いスペースにこれでもかぁというくらい敷き詰められていて、これが芸術か?とよく理解ができないという印象があった。それまでも前衛的な芸術を掲げるアーティストの作品はたまに見ていたいのだが、それでもこんな単純でしかもそのときには、その球体に対してなんのメッセージ性も感じ得ないという自分の未熟さは棚において、この芸術家はいったい何が言いたかったのだろうか?と常に疑問に思っていた。

そのあと、草間彌生作品として、香川県の直島に水玉模様のカボチャのオブジェを展示したり、携帯電話に水玉模様をあしらったデザインを発表したりと、やたら水玉模様を演出した作品を世の中にぶちかます。このあたりから、「草間彌生=水玉模様の作家」と勝手に自分の中で思うようになっていった。何かしらの水玉模様の作品が発表されたり、それが眼に衝撃的なデザインだったりすると、だいたいが草間彌生だろうという認識はあった。

しかし、これまで草間彌生の作品集として集合体では見たことが無く、この人は若いころからどういう作品を出していたんだろうと常に疑問になっていた。芸術家になったころから水玉模様をあしらったものを作品の基本とし始めたのだろうか?それともあるきっかけで水玉模様に異様にして固執したのか?というのが拭えなかったのである。だいたい、ちょっと前にNHKで放映されていた草間彌生に関する特集番組を見たときにも、一心不乱に巨大なキャンバスにキチガイじみた色使いで水玉ばっかり描いており、その気持ち悪い色の水玉には何か意味があるのか?そして100枚もの水玉ばかりの作品を作るということに固執していたことに何のメッセージ性があるのかということばかりを気にして放映された番組を視聴していた。

そこに青山のワタリウム美術館で草間彌生展が開催されるという話を聞いて、草間彌生のこれまでの作品を大量に展示するということから、ぜひ行ってみたいとおもっていくことにした。だいたい、草間彌生の作品集といっても、最近美術書籍で作品が載っている本も出ているのだが、それを見るよりは、実際に作品を見たり、解説を聞いたりするほうが楽しいだろうと思って乗り込んでみた。

渋谷駅からハチ公バスという渋谷・原宿界隈を走るミニバスに乗り込んで、ワタリウム美術館近くの停留所まで乗る。このバス、どこまで乗っても100円であるので重宝するが、ちょこまかとへんてこりんな場所を通るので、渋谷のような坂道を歩く必要がある場合には大変重宝しそうなバスだと思われる。ただし、乗るのであれば、ハチ公前のバス停から乗ることをお勧めしたい。なぜならこのバス停の始発がハチ公前なのだが、そこから乗らないとバスはまず座れないからである。

ワタリウム美術館では、チケットは開催期間中何度も見ることができるシステムである。最初にチケットを買うときに名前を書き、次回からの入場の際には、その名前を証明する身分証証明書と一緒に提示すれば入館できるのである。なかなか何度も出入りできる美術館というのは存在しないので、なんども同じアーティストの作品を見たいという人にとってはありがたいシステムだ。

ワタリウム美術館自体はそれほど大きな美術館ではない。地下2階、地上4階建てのスペースに作品が展示されている。吹き抜けの場所もあるため、巨大な作品はここに設置されたりするのだろう。配置の工夫は美術館のひとのセンスによるものだと思われる。

草間彌生展では、2階の作品展示から、草間彌生の生い立ちから始まる説明に出くわす。小さいころから絵を描くことに執着し、戦後の大混乱の時代にも関わらず、そんなときに松本からアメリカへ旅立ってしまうという勇気はどこから沸いてきたのだろうか?渡米した年齢が28歳ごろだったと思うが、そのころに渡米したいという気持ちを確固たるものにしたものはなんだったのだろうか?説明資料にはそのあたりのことは全く書かれていない。たぶん、精神的にイッちゃっている危ない子が絵を描くことで、本人の存在性をアピールできるものと認識したのは良いが、その行動があまりにも田舎の一般人には理解できなかったために、閉鎖的な環境から逸脱し、なんでも許容するアメリカへ逃げたほうが幸せなのかもしれないという思いがあったのだろうというのは推測される。

今回のワタリウム美術館で見た作品を通してわかったことが1つある。「草間彌生=水玉模様」というのは後から形成された代物であるということだ。元々は、草間彌生自体が世間一般からイッちゃっている子として認識されていたため、本人のコンプレックスとしては「自己の存在をこの世から消したい」という思いが小さいころからあったようだ。だから、作品の当初としては、自分を消せるのは何かしらの布という思いを発想する。ところが布を被せたのではまるっきり何を描いているのかわからない。そこで少し本人の姿が見える「網目模様」に変えた。なんでも網目にすることで、全体像の大枠は見えるが、すべてをさらけ出さなくても良いという環境を二次元の中で形成することに固執する。さらにこの網目の作品を派生したのがいまの水玉模様に発展するのだが、網目の空間部分だけを今度はフォーカスし、さらに網の目の形を単純化したものが「○」であることを発見する。そこからの草間彌生作品は水玉模様の作品に一気に花が開いていくというわけである。

しかし、水玉模様にたどり着くまでもかなり紆余曲折をしていた模様である。それは本人が写っている写真集およびビデオインスタレーションを見ればよくわかることなのだが、まず、キャンバスという枠を超えたところで、世界全てを水玉模様にしてしまえという発想を起こす。この生存しているすべての物象及び環境を水玉模様にしてしまい、どこまでがその物象なのか境をなくすことを模索する。水玉というフィルターを通してしまえば、全て眼に見えるものが水玉模様なのであり、その裏側にあるであろう対象物も境をなくすことで、水玉模様の中にいる草間彌生自体も隠れるのではないかと思ったようだ。だから、作品製作過程の映像が残っていたりするが、牧場の牛を水玉にしてそこに寄り添っている草間彌生や、池の蛙、蓮の葉、水面、すべてを水玉模様にしてしまい、そのなかに草間彌生が存在しても水と同化しているように見せるということをしている。まるで水玉によって自分を隠すかのようにだ。

かといって、アメリカ生活では時に意味不明な活動をし始める。たぶん、「水玉模様による個体の消滅」を演じるための延長活動だとおもうが、男女ヌードを公開写生したり、ヒッピー社会が流行してしまったことにも影響を受けたのだろうが、屋外乱交を企画したりしているのである。こんなことをしたら当然アメリカ当局に眼をつけられるのは当たり前である。さらに日本に帰国した際には、アメリカでの活動の過激さから、危ない女芸術家のレッテルを貼られてしまい、せっかく自分を認めてほしいためにアメリカに行っていたのに、日本では罵倒され続けることになるため、苦悩したことが良くわかった。最近まで、やっぱり「草間彌生=精神病的芸術家」と思われ、岡本太郎のように、常に麻薬でも打っているかのような感覚を持っている人と思われていたかもしれない。違うのだ。彼女は常に自分を何かで隠したいと思っているのである。この世から消滅したいと思っているのである。でも、本当に消滅するということは、生きている自分がいるのでしたくない。ならば、作品の中だけでも消滅したいという思いがあるのだ。

ただ、NHKのアーカイブで放映されていた草間彌生の映像の中で、見たくない部分も放映されていた。それは、草間彌生を全面的に売り出すことをサポートする人がいたのだが、そのサポートするひとがとても優秀であり、オークションに草間彌生作品を出すことでも、高値をつける結果になるきっかけを作った人がいた。その人のおかげで、草間彌生作品の多くを見ることができる機会を作ってくれたわけだが、草間彌生自体も、作品が高く売れるということにどうやら気づいたらしく、「どこか高く買ってくれるところはないかしら?」と映像の中で言っている。金儲けに芸術家が走ると、ろくなことは起こらない。芸術性が失われるのである。現に、ビデオの中で100枚の巨大キャンバスに水玉模様の作品を描くということを「体力的無謀な挑戦」と称して紹介していたが、1枚でも大きなキャンバスを描くことで、高く作品が売れるかもしれないから描いているというように見えて成らなかった。だから、作品自体が100枚並んだ映像もあったのだが、「んで、それで?」と思ったのは言うまでもない。なんの芸術的なメッセージ性を感じ得なかったからである。これは自分が鈍感だからなのか、それとも作品自体に本当に100枚全部を通して伝えたいことが何なのか特に無いというものなのか、よくわからない。

ワタリウム美術館を出るときに、地下に売られていたお土産屋の中に、草間彌生のニューヨーク滞在時代の書簡や作品作成途中の写真、それといろいろ事件を起こしたときに彼女が思った事柄などを紹介した本が売られていたので買ってみた。作品集ではない。ニューヨークで何を感じて、それを作品化したのかというのを知りたかっただけである。ただ、読んでみてわかったが、今より相当自由奔放に作品つくりを精力的に行っており、どんな縛りも気にしなかったという思いと、それと平行して、作品つくりには、法律ギリギリのラインを通らないと実は感動は得られないということを良く心得ていて、そのために個人弁護士を10人も抱えていたことを知ったことだ。用意周到の上で、奔放な作品つくりをしていたということが読み取れる。いまはどうだろうか?なにか、自分の中で大きな殻を作ってしまい、その殻のなかで動ける範囲を決めちゃっているように草間彌生は見える。年齢も年齢なので、いまから水玉以外の、自分を隠せる集合体を探しきれれば作品に奥味が出てくると思うが、もうその発想は無いのだろう。そこがなんとなく残念に思う。

よくわからないのは、草間彌生作詞・作曲という意味不明な歌を映像インスタレーションとして紹介しているのだが、これ、彼女がその歌の中で何を伝えたかったのだろうか不思議だ。映像だけ見ていると、本当にイッちゃっている人に見える。

ワタリウム美術館での開催は2011年11月27日(日)まで。そのあとはまたどこかで草間彌生作品を見る機会があるかもしれない。それまで待ってみたい。

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