朝日新聞の2012年2月10日付けのコラムのところに、「稚内→鹿児島23時間57分」という見出しがあったので、なんだろう?とおもったら、北海道の最北端である稚内から、日本列島の南端の鹿児島中央まで、1日のうちに行けるという記事だった。そういえば、1日で行けるかどうかなんていうのは、あんまり考えたことがなかった。これまでたくさんの人、特に鉄っチャンを中心として、北海道から鹿児島まで電車で移動するというような旅行をしている人は結構いたとおもう。しかしそれは、あくまでも青春18切符のような各駅列車しか乗れないような切符で移動するというものだったとおもう。つまり、時間は気にしない、ただ、料金をケチって移動することを目的とするというもの。ところが、九州新幹線が出来たことでそれで大きく変わった。
青森から鹿児島まで、乗り継ぎがあったとしても、すべて新幹線で移動できるということ環境が整ったので、それまでは早く行くには飛行機でしかなかった移動が、飛行機嫌いのひとでも新幹線で大体どこでも行けるということが可能になった。それも、新幹線の車輌がだんだん改良されているため、新幹線のスピードもあがり、だんだん同じ距離間の移動も時間が短縮できるようになって来ている。これは旅行者にとっては時間を無駄にしなくてよく、便利な交通手段になったといえよう。
つまり、時間短縮でそれも全部電車で移動するというのを実現するには、できるだけ新幹線が使える区間を長くすればいいわけである。新幹線である理由は、なんといっても、専用路線であること。東北地方に走っている新幹線の場合には、一部、一般列車と同じ線路を使って運行する部分もあるのだが、それはあまり使わない。あくまでも新幹線しか走らない、それも踏切が無い路線だけを使うことが望まれる。踏み切りや、周辺住民が気軽に線路に入れるような路線があると、そこで事故が起こったときに、列車が次にいつ動くのかわからないという状態になるからである。
朝日新聞には、新聞記者が実際に自分の時計でみて確認した、各駅での到着・出発の時間が記載されていたのだが、これは当日、大雪の影響でダイヤどおりの列車運行ができなかったというのが理由のようだ。でも、鉄っちゃんからすると、そんな時間通りじゃない時間を乗り継ぎ案内の当然な情報として新聞掲載するほうが「おかしい」とおもうに違いない。もともと、時刻表で定義された時間の列車の情報を掲載するべきであり、その時間とはどこでどれだけずれてしまったのかというのを掲載するべきだと主張するだろう。そこは鉄道に対する思いがどれだけあるか、もしくはあんまり無いのかという違いなのかもしれない。
時刻表どおりで行こうとするとこういう感じになるのだろうか?時刻は2012年2月10日現在の列車としてであると参考にしていただきたい。
稚内発 16:51 → 札幌着 21:50 特急スーパー宗谷4号
札幌発 22:00 → 青森着 5:40 急行 はまなす
青森発 5:46 → 新青森着 5:51 特急つがる2号
新青森発 6:10 → 東京着 9:24 新幹線はやぐさ4号
東京発 9:30 → 博多着 14:43 新幹線のぞみ23号
博多発 15:09 → 鹿児島中央着 16:48 新幹線さくら419号
トータル時間は新聞と同じ23時間57分でいける。あくまでも上記は、料金を気にせず1日以内で行くことが目標とした場合のものである。だから、よくみると、青森から新青森までの1駅区間なのに、そんなのを特急を使っているような行きかたになっている。あんまり乗り換えを多くしないような行き方を記載してみたが、新幹線の利用方法や、出発時間を別の時間帯にしたら、もっと違う行き方もできるだろうし、もっと短縮していくこともできるのだろうが、こういうところは、もっと時刻表オタクまたは鉄っちゃんのお知恵を借りたいところだ。上記は、新聞記事に書かれた時間帯で出発した場合、本当ならこの列車に乗るんじゃなかったのかな?というようなことを想像して記載している。
それにしても、上記の値段で移動した場合、一体いくらかかるんだろうか?!それでも、飛行機で移動するよりは安いんだろうな。
この内容を記載していたときに、気づいたことがある。知らなかったんだが、いま新大阪始発で鹿児島中央まで直通で行っている新幹線が走っているというらしい。東京から一度新大阪まで行き、そこで鹿児島中央までの直通で行くということを考えるのもいいだろう。以前は新大阪から博多の間はすごい時間がかかる区間だと思っていたのだが、いまではすっかり時間短縮しているようなので、驚くほどのスピードになっているようだ。
また、個人的には仙台以北の東北新幹線に乗ったことが無いし、九州新幹線に至っては、全然乗ったことが無い。そのうち乗る機会があるかもしれないが、新幹線での列車の旅は結構好きだ。飛行機に比べて席が広いし、窓の景色もいいし、駅弁も売りに来るし、トイレもちゃんとあるし。今度東京から鹿児島中央まで、意味なく電車で移動してみようかなー。ちなみに東京から鹿児島中央までは途中新大阪か博多で1回乗り換えるだけでいけるが、トータルで片道7時間、約3万円でいける。これは飛行機より安いか?実は高い。JALの特割1の値段が最安でも27570円なので、2000円くらい飛行機のほうが得なのだ。
でも、列車のたびは面白い。金に余裕があったら、行きは新幹線で帰りは飛行機で日帰りするという馬鹿なこともやってみたいと思う。
2012/02/10
仏像の楽しみ方完全ガイド(書籍)
どこのお寺に行っても、似たような仏像が鎮座しているのであるが、毎回それがなんの仏像なのかというのがちっともわからない。仏像の顔を見れば即座になんの仏像かと理解できれば、すごい楽しいだろうなーと思うのだが、全然わからないので、説明書きを見ないと理解できないなんて、全く寺の仏像を見ても感動は得られないだろう。たぶん、それは仏像の基本的な知識が全く無いからなのであって、仏像の特徴を解っていたら、これはなんの仏像だというのを即時判断ができるんだろうなーとおもう。
別に日本のお寺だけじゃなく、仏教があるところ、それも日本と同じ仏教系統になっているところである、中国や台湾や韓国であれば、同じような仏像が存在するわけなので、おそれらの国にいったときに寺を訪問したら鎮座している仏像をみれば理解できるだろう。
前からなにか参考になる仏像に関する情報がまとまった本は無いのだろうか?と探していたのだが、どれもこれも小難しいことばかり書かれている仏教上級者のような本ばかりか、またはあまりにも簡単なものしかないものだったりして、いまいちこれといったものが存在しなかったので、何かいいものが無いのかなと探していたところ、素人でもわかりやすいものを発見した。その名もズバリ「仏像の楽しみ方完全ガイド」である。
この本の中では、「仏像鑑賞の20のツボ」と称して、各種の仏像を見る際にその仏像が存在する背景を知るところから始める。要は仏像の基礎知識から始めるのである。仏像がみんな拝めるようになるのには、それなりに理由があるわけで、仏像各種の1つ1つの理由をここでは述べているわけではない。それは別の章で紹介している。例えば「16 仏像の体の中に納められているもの」というところなんかは、これを読むまで全く気づかなかった。だいたい仏像は仏像であって、それ以外なにもないとおもっていたのに、実は仏像は単なる「外面」であって、本当に拝めるべきものは、仏像の内部にあるものなのであるということは、ほとんどの人が知っているのだろうか?!などだ。
別の章では、有名な仏像を紹介して、それぞれがどういう仏像なのかというのを説明している。しかし、それは有名だからというので紹介されているわけではなく、仏像の種類はたくさんあるのだが、それぞれの仏像の1種類の中でも特に有名なものを選んでいるというわけである。つまり、大日如来像だったら、大日如来の中で一番有名なものを紹介しているのであり、他にもこんな大日如来があるというようなことは紹介していない。そして、大日如来なら、どこの像をみても、こういう特徴があるものであるのだというのを説明しているわけである。だから、あんまりマイナーな種類の像であれば、ここでは割愛している。だいたいメジャーなものだけ抑えておけば、日本中、または仏教国の主の仏像は理解できるのではないだろうか?ただ、羅漢のような細かいものについては、もっと違う本で勉強したほうがいいと思う。そこまでは載せていない。
世の中が不景気で、なにをやってもうまくいかないような行き詰ったような世の中になったときには、概して宗教にすがりたいような人が出てくるものである。まさに今がそのときなのだろうと思うのだが、その証拠に、神社仏閣にいったり、意味不明にパワースポットに出くわそうとしているひとたちが結構いまは多く居る。そういう人たちは、訪れるのはいいのだが、その訪問先で、己の欲望だけを満たせてくれるための祈願しかしていないし、気晴らしでしか神社仏閣を訪問しているわけにしかないので、本当に迷惑だ。だか、神社仏閣側からすると興味を持ってくれる人がどんな目的であれ多く訪問してくれるのであれば、それだけお布施や拝観料を徴収できるからというようになっているので嬉しいのだろう。まさに宗教という名前を使ったビジネスになっている。なんだかそういうのを考えると寂しい限りだ。
そんな余計なことはどうでも良いとして、もうちょっと仏教の寺を訪問したときに見るべきものを見ることの重要さと、その見ている対象物がなんなのかくらいはおさえておくべきだと思うし、その際の参考書に使うのがいいだろう。
仏像の楽しみ方完全ガイド
筆者:副島弘道 (監修)
出版社: 池田書店
発売日: 2008/10/15
別に日本のお寺だけじゃなく、仏教があるところ、それも日本と同じ仏教系統になっているところである、中国や台湾や韓国であれば、同じような仏像が存在するわけなので、おそれらの国にいったときに寺を訪問したら鎮座している仏像をみれば理解できるだろう。
前からなにか参考になる仏像に関する情報がまとまった本は無いのだろうか?と探していたのだが、どれもこれも小難しいことばかり書かれている仏教上級者のような本ばかりか、またはあまりにも簡単なものしかないものだったりして、いまいちこれといったものが存在しなかったので、何かいいものが無いのかなと探していたところ、素人でもわかりやすいものを発見した。その名もズバリ「仏像の楽しみ方完全ガイド」である。
この本の中では、「仏像鑑賞の20のツボ」と称して、各種の仏像を見る際にその仏像が存在する背景を知るところから始める。要は仏像の基礎知識から始めるのである。仏像がみんな拝めるようになるのには、それなりに理由があるわけで、仏像各種の1つ1つの理由をここでは述べているわけではない。それは別の章で紹介している。例えば「16 仏像の体の中に納められているもの」というところなんかは、これを読むまで全く気づかなかった。だいたい仏像は仏像であって、それ以外なにもないとおもっていたのに、実は仏像は単なる「外面」であって、本当に拝めるべきものは、仏像の内部にあるものなのであるということは、ほとんどの人が知っているのだろうか?!などだ。
別の章では、有名な仏像を紹介して、それぞれがどういう仏像なのかというのを説明している。しかし、それは有名だからというので紹介されているわけではなく、仏像の種類はたくさんあるのだが、それぞれの仏像の1種類の中でも特に有名なものを選んでいるというわけである。つまり、大日如来像だったら、大日如来の中で一番有名なものを紹介しているのであり、他にもこんな大日如来があるというようなことは紹介していない。そして、大日如来なら、どこの像をみても、こういう特徴があるものであるのだというのを説明しているわけである。だから、あんまりマイナーな種類の像であれば、ここでは割愛している。だいたいメジャーなものだけ抑えておけば、日本中、または仏教国の主の仏像は理解できるのではないだろうか?ただ、羅漢のような細かいものについては、もっと違う本で勉強したほうがいいと思う。そこまでは載せていない。
世の中が不景気で、なにをやってもうまくいかないような行き詰ったような世の中になったときには、概して宗教にすがりたいような人が出てくるものである。まさに今がそのときなのだろうと思うのだが、その証拠に、神社仏閣にいったり、意味不明にパワースポットに出くわそうとしているひとたちが結構いまは多く居る。そういう人たちは、訪れるのはいいのだが、その訪問先で、己の欲望だけを満たせてくれるための祈願しかしていないし、気晴らしでしか神社仏閣を訪問しているわけにしかないので、本当に迷惑だ。だか、神社仏閣側からすると興味を持ってくれる人がどんな目的であれ多く訪問してくれるのであれば、それだけお布施や拝観料を徴収できるからというようになっているので嬉しいのだろう。まさに宗教という名前を使ったビジネスになっている。なんだかそういうのを考えると寂しい限りだ。
そんな余計なことはどうでも良いとして、もうちょっと仏教の寺を訪問したときに見るべきものを見ることの重要さと、その見ている対象物がなんなのかくらいはおさえておくべきだと思うし、その際の参考書に使うのがいいだろう。
仏像の楽しみ方完全ガイド
筆者:副島弘道 (監修)
出版社: 池田書店
発売日: 2008/10/15
姫路城に関する書籍
世界遺産にもなっている「姫路城」は日本人なら一度は行ったほうがいい素晴らしい城であることはいうまでも無い。通称「白鷺城」と呼ばれるように、あの堂々とした風格の建物は、新幹線の姫路城を降りて、そこから真っ直ぐに伸びた道を通して見られる白く輝く城は溜息が出るばかりである。何と言っても、それは戦中の空中にも被害がなく残っていたことだろう。
現地に行くと、地元の人が無料ガイドをやっていたり、団体のグループだと、引導するガイドが説明をしてくれたりする様子をみることができるが、個人で行く場合には、立て看板くらいしか実は説明書きが無いので、よほど事前に姫路城のことを知っていないとあまりよく楽しめないんじゃないのだろうかと思う。とは言いつつも、姫路城全体はとても複雑で、歩くたびに説明が必要なものばかりが集積している場所であるから、なにも説明が無い場合には、とても有名なものだったりするのにそれをスルーして見学してしまうことになりかねない。
ということで、個人的に姫路城にいく場合には、なんらかのガイドブックを持っていったほうが絶対いいだろう。もちろん事前勉強をしていったほうがより一掃楽しめることであるのは言うまでも無いが、説明があるのと無いのとでは、全然当地での知識と記憶の濃密さは全然違うことだろう。または、姫路に行ったら姫路城は当然だが、ちゃちゃっと見て、他のところに行こうと思う人は多いと思うのだが、そういう気分を止めさせることができるくらいじっくり腰を落ち着かせて見学できるものだと思う。あまりいろいろなところにいくと、帰ってきた時に記憶が薄れるという意味では、是非当地で濃厚な姫路城見学がをしたいものである。特に、日本を代表とする城であれば、なおさらだ。
そこで紹介したいのは、姫路城に関する書物2種だ。文章だけ載っているという解説のものも家に保管したい書籍としては有益ではあるのだが、どうせなら、現地に行ったときに、片手に持って歩きたい書籍という意味で選択してみた。どちらの本も、カラー写真満載の掲載になっていて、必要最低限度の各見所の説明はもちろんのこと、姫路城全体の歴史や各場所でなぜこういうものを作ったのかや、どう利用していたのかというのを説明している点では、とてもわかりやすい内容になっているという意味ではそこはお勧めできるところだろうと思う。
どちらの本も薄くて軽くて良い本なのだが、まずは小学館101ビジュア新書から出ている「名城をゆく」シリーズになっている「姫路城」である。こちらのシリーズ化している本は、他に名城と呼ばれている城も別冊として刊行しているのだが、その中の姫路城版である。こちらの本のほうは、姫路城の各箇所の説明はもちろん記載しているのだが、姫路城に纏わる周辺歴史についても丁寧に解説している。姫路城は誰が立て、なんのためにこの城を使い、城主と民衆はこの姫路城をどのように思っていたのかというのが解りやすい。派生して、姫路城だけではなく、姫路城の城主の変遷に繋がる事件等の紹介しているので、建物としての建築学的視点のほか歴史民俗的な視点からも探求したい人にはとても参考になる本だと思う。もちろん、どのページもカラー写真が掲載されているので、資料もわかりやすい。本物の資料については、現地に行って直接見ればいいのだが、書籍化したほうが見やすいという場合もあるので、重宝できるだろう。もう1冊は、神戸新聞の関係組織が企画し出版した書籍「世界遺産・姫路城遊歩ガイド」であろう。こちらは先ほどの書籍よりも一回り大きいサイズなのだが、これまた薄い。一回り大きいというが、るるぶみたいな大きさのものではないので、コンパクトで持ちやすい。この書籍のほうは、城の内部の様子が結構詳細に説明されているし、写真がとても豊富だ。もちろん、先の本も内部の説明や写真はある。が、簡潔な説明と写真で説明をしているという点では編集者の手腕に因るところだとは思うが、姫路城に実際に行かなくても,行った気にさせてくれる点では、十分に事前研究するには有効な書籍だ。
内容はどちらも過不足なく掲載されているので、どちらか1冊だけ持っていけばいいと思われる。贅沢言えば、どちらも持って行ったほうがいいんじゃないだろうか?現地では、本当に地図くらいしかもらえない。カバンが重くなるから1冊でいいやというひとがあるのであれば、それは1冊でもいいとおもう。
本を読むより、やっぱり姫路城を生で見て、実際に内部に入ったほうがいいに決まっている。
姫路城
URL : http://www.city.himeji.lg.jp/guide/castle/
名城をゆく2 姫路城
著者:小学館「名城をゆく」編集部
出版社:小学館101ビジュアル新書
発売日: 2009/12/1
世界遺産 姫路城遊歩ガイド
著者:寺林 峻 (編集), 北村 泰生(写真)
出版社:出版社: 神戸新聞総合出版センター
発売日:2009年4月20日
現地に行くと、地元の人が無料ガイドをやっていたり、団体のグループだと、引導するガイドが説明をしてくれたりする様子をみることができるが、個人で行く場合には、立て看板くらいしか実は説明書きが無いので、よほど事前に姫路城のことを知っていないとあまりよく楽しめないんじゃないのだろうかと思う。とは言いつつも、姫路城全体はとても複雑で、歩くたびに説明が必要なものばかりが集積している場所であるから、なにも説明が無い場合には、とても有名なものだったりするのにそれをスルーして見学してしまうことになりかねない。
ということで、個人的に姫路城にいく場合には、なんらかのガイドブックを持っていったほうが絶対いいだろう。もちろん事前勉強をしていったほうがより一掃楽しめることであるのは言うまでも無いが、説明があるのと無いのとでは、全然当地での知識と記憶の濃密さは全然違うことだろう。または、姫路に行ったら姫路城は当然だが、ちゃちゃっと見て、他のところに行こうと思う人は多いと思うのだが、そういう気分を止めさせることができるくらいじっくり腰を落ち着かせて見学できるものだと思う。あまりいろいろなところにいくと、帰ってきた時に記憶が薄れるという意味では、是非当地で濃厚な姫路城見学がをしたいものである。特に、日本を代表とする城であれば、なおさらだ。
そこで紹介したいのは、姫路城に関する書物2種だ。文章だけ載っているという解説のものも家に保管したい書籍としては有益ではあるのだが、どうせなら、現地に行ったときに、片手に持って歩きたい書籍という意味で選択してみた。どちらの本も、カラー写真満載の掲載になっていて、必要最低限度の各見所の説明はもちろんのこと、姫路城全体の歴史や各場所でなぜこういうものを作ったのかや、どう利用していたのかというのを説明している点では、とてもわかりやすい内容になっているという意味ではそこはお勧めできるところだろうと思う。
どちらの本も薄くて軽くて良い本なのだが、まずは小学館101ビジュア新書から出ている「名城をゆく」シリーズになっている「姫路城」である。こちらのシリーズ化している本は、他に名城と呼ばれている城も別冊として刊行しているのだが、その中の姫路城版である。こちらの本のほうは、姫路城の各箇所の説明はもちろん記載しているのだが、姫路城に纏わる周辺歴史についても丁寧に解説している。姫路城は誰が立て、なんのためにこの城を使い、城主と民衆はこの姫路城をどのように思っていたのかというのが解りやすい。派生して、姫路城だけではなく、姫路城の城主の変遷に繋がる事件等の紹介しているので、建物としての建築学的視点のほか歴史民俗的な視点からも探求したい人にはとても参考になる本だと思う。もちろん、どのページもカラー写真が掲載されているので、資料もわかりやすい。本物の資料については、現地に行って直接見ればいいのだが、書籍化したほうが見やすいという場合もあるので、重宝できるだろう。もう1冊は、神戸新聞の関係組織が企画し出版した書籍「世界遺産・姫路城遊歩ガイド」であろう。こちらは先ほどの書籍よりも一回り大きいサイズなのだが、これまた薄い。一回り大きいというが、るるぶみたいな大きさのものではないので、コンパクトで持ちやすい。この書籍のほうは、城の内部の様子が結構詳細に説明されているし、写真がとても豊富だ。もちろん、先の本も内部の説明や写真はある。が、簡潔な説明と写真で説明をしているという点では編集者の手腕に因るところだとは思うが、姫路城に実際に行かなくても,行った気にさせてくれる点では、十分に事前研究するには有効な書籍だ。
内容はどちらも過不足なく掲載されているので、どちらか1冊だけ持っていけばいいと思われる。贅沢言えば、どちらも持って行ったほうがいいんじゃないだろうか?現地では、本当に地図くらいしかもらえない。カバンが重くなるから1冊でいいやというひとがあるのであれば、それは1冊でもいいとおもう。
本を読むより、やっぱり姫路城を生で見て、実際に内部に入ったほうがいいに決まっている。
姫路城
URL : http://www.city.himeji.lg.jp/guide/castle/
名城をゆく2 姫路城
著者:小学館「名城をゆく」編集部
出版社:小学館101ビジュアル新書
発売日: 2009/12/1
世界遺産 姫路城遊歩ガイド
著者:寺林 峻 (編集), 北村 泰生(写真)
出版社:出版社: 神戸新聞総合出版センター
発売日:2009年4月20日
台湾に生きている「日本」(書籍)
現在も台湾にお住まいになり、台湾の地理・歴史・鉄道・原住民文化、グルメ等々、台湾に関して「なんだろう?」と思うようなことを幅広く解りやすい言葉で紹介している第一人者としては、片倉佳史さんを置いて他に居ないと思う。台湾に関する紹介なら、他に哈日京子やブサイクの青木由香みたいな人も居るのだが、彼女らは食べ物とグッヅのことにしか特化しないような情報しか記載しないので、台湾でもベトナムでもどこでもよかったんじゃないのか?というような内容になっている。たぶん女性目線でしか台湾を見ていないところが悲しい結果になっているんだろう。しかし、片倉佳史さんの内容は本当に幅が広く、内容が濃い。内容が濃すぎて、よくもまぁ文庫本や新書版の本で納まるなーということを毎回感心してしまうのである。
その中でも今回は「台湾に生きている『日本』」を紹介したい。
日本が台湾を統治していた時代は50年間。その50年間がいかに台湾に日本文化を根付かせ、そのあとに大陸からやってきた大中国の中華民国が、日本色を払拭しようとしていたかというのを、遺跡の面や精神面、そして言語や思想の面から、いまだに台湾に「日本的な」ものがどんだけ残っているのかというのを総合的に紹介しているのがこの本である。
台湾を旅行したことがあるひとなら本当によくわかることだと思うのだが、どこに行っても結構台湾では日本語が通じる。それも南部に行けば行くほど日本語が使える場合が多く、若い人は音楽やアニメを通して日本語を学ぼうとする人も多いのだが、統治時代に日本語を学習教育として徹底的に仕込まれたひとがまだまだ南部のほうには多くすんでいるし、そういう人たちは「統治されていた」という意識により日本語を使いたくないと思っているのかと思っていたら、そうではなく、むしろ、積極的に日本人が来た場合には日本語を使いたいと思っている人たちが多いというのに驚かされることが多いだろうと思う。それほど、日本文化というのは戦前の人たちには心深く残っており、そのあとの蒋介石政権がいかにめちゃくちゃなことをしたかで、「やっぱり日本が統治していたほうが良かった」と住民に思わせたのかということがわかるのだろう。
まぁ、そういう時代拝見は別にして、日本が統治していたときの名残を徹底的にぶっ壊そうと蒋介石政権のひとたちは思った。碑はぶっ壊すか、表文字を削ってなんのものだったかの証拠を消そうとしたら、神社仏閣は「帝国主義の悪の根源だ」と称して徹底的に破壊をした。そのあとに作ったグロテスクな建物がたくさんできているのは周知の通りだが、それでも残った建物はたくさんある。そういう残された素晴らしい戦前からの建物というのは本当に風格があって、是非ずっと残していきたいとおもうのは当然だろう。これは本省人だろうが、外省人だろうが、いいものは良いと思うのは当然だ。最近台湾に根付いている「台湾は台湾人のもの」という意識が高まったことは、古き時代から台湾にあるものを残そうとしている運動に繋がっているので、古いものはぶっ壊して新しいものを作っていこうという大陸の人たちとは全然違う動きである。
片倉さんの調査によると、駅舎や博物館として使われている建物だけではなく、その同じ敷地内に、実は誰の眼にもあまり触れないところに、すごい日本の名残が残っているのだと改めて認識してしまうものがたくさんある。また、かつての建物をぶっ壊してしまったのだが、その土台になっている部分だけは残っているというような、時間が経ったら風化してしまうようなものを結構たくさん紹介しているというのは、実は学術的な調査に匹敵するのではないだろうか?台湾人自体が積極的に台湾に残る日本文化を残そうとするならいいのだが、日本統治時代のひとたちもだんだん亡くなってくるわけで、忘れ去られた日本の遺跡も風化していくことだろうから、是非どんどん台湾人も積極的に日本の遺産を残していったほうがいいと思う。
また、日本の建物だったところを、中華文化と奇妙にミックスして建物化したものもたくさん実は台湾に存在していたりする。こういうところは、ちょっと見ただけでは実は観光客にはわかりにくい。事前に知っていたうえで、その建物をみるというと、また格別な違いが出てくるだろう。それも台北や高雄という大都市だけではなく、買い物や食べ物やマッサージをするために台湾に来るというのではなく、台湾全体に残っている日本文化を探索するために渡台するのもいいことだと思う。是非自分も時間があったら、片倉さんの本を片手にいろいろなものを見てみたいものだ。
道教信仰者が多い台湾でも、日本の神道文化として、実際の人物を死んだ後神格化して祀っているというところもあるというのは感心した。義愛公という名前で親しまれている神様は、実はもと日本の警官。地元の台湾人に教育と公安の面から真剣に支えていた人で、台湾政府(日本の植民地時代)が住民に高額の税を納めるように法令をだしたとき、貧しい場所だったところでその重税は無理だと、政府に警官なのにたてついた人である。本来なら政府のお達しに政府の番犬として住民から税を搾り取らなければならない立場のひとなのに、住民に成り代わって訴えたわけだ。結果は「おまえはアホか」と言われ懲戒処分を受ける。そして住民に税が課せられる。住民を守れなかったことでこの警官は自ら火縄銃で自殺するのだ。こういう話は一般的なガイドには記載されない。しかし、住民にとっては末代まで語り継がねばならない重要事項であることはよくわかる。そして神様として毎年拝んでいる人がいるというのも事実だ。こういう細かいところにも眼を配って調査されている片倉さんのフットワークの軽さというのは本当に素晴らしいと思う。
そのほかにもこの本にはいろいろな逸話も紹介されているので、台湾の現地の人と話す機会がなくても台湾のよさを知りたいひとは是非一読いただきたいものだ。また、巻末には台湾の地元の言葉になってしまった日本語の紹介が結構ある。これをみると、バカにする言葉もそのまま台湾語等に残っているので、あまり台湾では日本に居るときと同じような感覚で罵倒するような言葉を使ってはいけない。そうじゃないと、日台のハーフタレントであるmakiyoみたいに、「ばかやろー」という言葉を使ったことが報道されて、芸能界から干される可能性もあるからだ(笑)。
これからも片倉さんにはたくさんの台湾の素晴らしさを日本人に紹介していただきたいと思うし、幅広い知識と情報で楽しませていただきたいと思うところだ。決して食べ物や雑貨ばっかりのつまらない台湾情報ばかりを紹介するようなつまらない人にはならないでほしい。
台湾に生きている「日本」
著者:片倉 佳史
出版社: 祥伝社
発売日: 2009/2/27
その中でも今回は「台湾に生きている『日本』」を紹介したい。
日本が台湾を統治していた時代は50年間。その50年間がいかに台湾に日本文化を根付かせ、そのあとに大陸からやってきた大中国の中華民国が、日本色を払拭しようとしていたかというのを、遺跡の面や精神面、そして言語や思想の面から、いまだに台湾に「日本的な」ものがどんだけ残っているのかというのを総合的に紹介しているのがこの本である。
台湾を旅行したことがあるひとなら本当によくわかることだと思うのだが、どこに行っても結構台湾では日本語が通じる。それも南部に行けば行くほど日本語が使える場合が多く、若い人は音楽やアニメを通して日本語を学ぼうとする人も多いのだが、統治時代に日本語を学習教育として徹底的に仕込まれたひとがまだまだ南部のほうには多くすんでいるし、そういう人たちは「統治されていた」という意識により日本語を使いたくないと思っているのかと思っていたら、そうではなく、むしろ、積極的に日本人が来た場合には日本語を使いたいと思っている人たちが多いというのに驚かされることが多いだろうと思う。それほど、日本文化というのは戦前の人たちには心深く残っており、そのあとの蒋介石政権がいかにめちゃくちゃなことをしたかで、「やっぱり日本が統治していたほうが良かった」と住民に思わせたのかということがわかるのだろう。
まぁ、そういう時代拝見は別にして、日本が統治していたときの名残を徹底的にぶっ壊そうと蒋介石政権のひとたちは思った。碑はぶっ壊すか、表文字を削ってなんのものだったかの証拠を消そうとしたら、神社仏閣は「帝国主義の悪の根源だ」と称して徹底的に破壊をした。そのあとに作ったグロテスクな建物がたくさんできているのは周知の通りだが、それでも残った建物はたくさんある。そういう残された素晴らしい戦前からの建物というのは本当に風格があって、是非ずっと残していきたいとおもうのは当然だろう。これは本省人だろうが、外省人だろうが、いいものは良いと思うのは当然だ。最近台湾に根付いている「台湾は台湾人のもの」という意識が高まったことは、古き時代から台湾にあるものを残そうとしている運動に繋がっているので、古いものはぶっ壊して新しいものを作っていこうという大陸の人たちとは全然違う動きである。
片倉さんの調査によると、駅舎や博物館として使われている建物だけではなく、その同じ敷地内に、実は誰の眼にもあまり触れないところに、すごい日本の名残が残っているのだと改めて認識してしまうものがたくさんある。また、かつての建物をぶっ壊してしまったのだが、その土台になっている部分だけは残っているというような、時間が経ったら風化してしまうようなものを結構たくさん紹介しているというのは、実は学術的な調査に匹敵するのではないだろうか?台湾人自体が積極的に台湾に残る日本文化を残そうとするならいいのだが、日本統治時代のひとたちもだんだん亡くなってくるわけで、忘れ去られた日本の遺跡も風化していくことだろうから、是非どんどん台湾人も積極的に日本の遺産を残していったほうがいいと思う。
また、日本の建物だったところを、中華文化と奇妙にミックスして建物化したものもたくさん実は台湾に存在していたりする。こういうところは、ちょっと見ただけでは実は観光客にはわかりにくい。事前に知っていたうえで、その建物をみるというと、また格別な違いが出てくるだろう。それも台北や高雄という大都市だけではなく、買い物や食べ物やマッサージをするために台湾に来るというのではなく、台湾全体に残っている日本文化を探索するために渡台するのもいいことだと思う。是非自分も時間があったら、片倉さんの本を片手にいろいろなものを見てみたいものだ。
道教信仰者が多い台湾でも、日本の神道文化として、実際の人物を死んだ後神格化して祀っているというところもあるというのは感心した。義愛公という名前で親しまれている神様は、実はもと日本の警官。地元の台湾人に教育と公安の面から真剣に支えていた人で、台湾政府(日本の植民地時代)が住民に高額の税を納めるように法令をだしたとき、貧しい場所だったところでその重税は無理だと、政府に警官なのにたてついた人である。本来なら政府のお達しに政府の番犬として住民から税を搾り取らなければならない立場のひとなのに、住民に成り代わって訴えたわけだ。結果は「おまえはアホか」と言われ懲戒処分を受ける。そして住民に税が課せられる。住民を守れなかったことでこの警官は自ら火縄銃で自殺するのだ。こういう話は一般的なガイドには記載されない。しかし、住民にとっては末代まで語り継がねばならない重要事項であることはよくわかる。そして神様として毎年拝んでいる人がいるというのも事実だ。こういう細かいところにも眼を配って調査されている片倉さんのフットワークの軽さというのは本当に素晴らしいと思う。
そのほかにもこの本にはいろいろな逸話も紹介されているので、台湾の現地の人と話す機会がなくても台湾のよさを知りたいひとは是非一読いただきたいものだ。また、巻末には台湾の地元の言葉になってしまった日本語の紹介が結構ある。これをみると、バカにする言葉もそのまま台湾語等に残っているので、あまり台湾では日本に居るときと同じような感覚で罵倒するような言葉を使ってはいけない。そうじゃないと、日台のハーフタレントであるmakiyoみたいに、「ばかやろー」という言葉を使ったことが報道されて、芸能界から干される可能性もあるからだ(笑)。
これからも片倉さんにはたくさんの台湾の素晴らしさを日本人に紹介していただきたいと思うし、幅広い知識と情報で楽しませていただきたいと思うところだ。決して食べ物や雑貨ばっかりのつまらない台湾情報ばかりを紹介するようなつまらない人にはならないでほしい。
台湾に生きている「日本」
著者:片倉 佳史
出版社: 祥伝社
発売日: 2009/2/27
議員秘書という仮面(書籍)
上杉隆氏は、元国会議員秘書の経験を持っているので、国会議員および議員秘書のことは良く知っている。特に、IT技術とは全く違って、ほとんどアナログで泥臭いような世界というのは、いつの時代でもそれは変わらないものだから、上杉氏が秘書だった時代と今でもほとんどそれは変わらないだろう。そして、一般人から見ると、国会議員の秘書というのは、なにをやっているのか本当によくわからないし、時には議員の罪を被って逮捕されたり、ひどい場合には自殺したりするようなことの対象者として映っていることだろう。そんな国会議員秘書に特化して、一般人にもわかりやすいようにまとめてくれているのがこの本「議員秘書という仮面」である。
この本を読んで初めて知ったことがたくさんある。まずは、国会議員の秘書というのは、実は全部まとめて秘書といわれるわけだけど、その秘書にも実はいろいろな種類があって、公設秘書と私設秘書があり、国家公務員の役割をしているひともいれば、そうではないひともいるということである。そんなに種類がたくさんあるのかーというのを見たわけだが、大体の場合、秘書になる理由というのが、将来政治家になるための布石として、経験を積みたいが為に秘書になっているということのほうが正直ショックだった。もちろん、議員が議員として仕事をするための名前の通りの秘書をするひとに終始する人もいるのだが、実は野望に満ちた人がたくさん政治家予備軍として君臨していたことだ。国のためとか、地域の為にということをいの一番に考えているのではなく、己の野望の為に望んでいるという人が多いことが、この国の政治家の無能さの根源があるんだなというのがよくわかった。
そして、秘書といっても、政策秘書と身の回りを世話をする秘書と二種類あるというのもへーっと思ったのだが、秘書の全員が政策秘書の役割を演じているんだろうと想像していたので、こちらもある意味小規模の衝撃を得た。確かに身の回りの世話をする秘書には、要領の良さが必要だが、政策秘書に関しては、幅広い知識と政治的駆け引きが出来る人じゃないとそれは務まらないのでキャラクターが異なるのだろう。
あとは給料。辻本清美が秘書名義の給料を二重取りをしたりした事件があったが、そのからくりと背景が描かれていてとても解りやすい。これなら議員が秘書を犠牲にして金をふんだくっているというのがよくわかるというもの。だいたい秘書から給与を巻き上げて、それを別の秘書の活動資金に廻していたりするのが根本的な原因なのだが、そこまでしてたくさんの秘書を使わないと自分の政治活動ができないというような仕組みになってるのがおかしい。そこまでして議員が秘書をたくさん使う理由というのは、政策のために奔走するというのではなく、次の議員選挙でまた当選するためにだけ地元にも議員の代わりに地元地域を走り回る人が必要だからである。ここにも、国家や公的な成長のために議員をやっているのではなく、議員は議員であり続けるために議員活動をしているということが原因である。こんな政治家ばっかりが日本の政治家の本性であるということを知ってしまうと、国会中継でなんやかんやと議論しているおっさんたちの腹黒さばかりが目に付いてしまって、テレビ中継の場合だったら、画面を叩き割ってしまいたくなるような心境になるだろうと思う。「なにしとんじゃん、国会議員は!」と。
一般的な秘書の仕事と、議員との関係については、書物の前半部分でよく理解ができる。しかし、「首相秘書官」という特殊の秘書というところについては本当にわかりにくい。最近で一番有名な首相秘書官は、小泉純一郎元首相の秘書だった飯島勲秘書だろう。秘書というのは表に出てこないというイメージを一新した人であり、アメリカのようにメディアを上手に使った手法と、首相の行動を「劇場型」と呼ばせるくらい首相がパフォーマンス化したように見せた影の功労者である。小泉純一郎が首相だった時代について、賛否両論であるのはいまだに言われることだろうが、日本を元気にさせようとしていたことだけは賛否両論派のどちらにしても賛同できることだろうと思うし、なにをやっているのかわからない国会とその閣議の内容を全部表に出して国民の目に知らしめたという意味では大きな功績だったことだろう。秘書というのは、パフォーマである議員の脚本家であることは言うまでも無い。飯島秘書が行ったことは、それまでのお付きの議員記者が「こうなるだろう」ということを全部覆すことにしたことはいいことだ。だから、記者クラブの人たちにはとても嫌がられた。記者クラブの汚い組織団体っぷりについては、上杉隆氏の別の書でたくさん書かれているので、そちらをみたほうが詳しい。
影の功労者として有能な秘書についても紹介されている。田中角栄の秘書だった大間幸一、中川一郎の秘書だった鈴木宗男、あのムネオハウスの宗男である。同じ田中角栄の秘書だった人で、後に勘違い政治評論家になった早坂茂三は良い秘書ではなく、自分が権力者のしたで働いたことで、自分にも権力が入ってきたと勘違いした大バカ秘書の1人であると紹介している。それはテレビ画面を通してみても、早坂茂三が出るたびに、その醜態が十分に出てきているので感のいい人は良くわかっていることだろうと思う。ただ、大間幸一と鈴木宗男の2人は、本当にすごい秘書だったようだ。秘書の中でもお手本にするべき秘書だったというのは、いまだに語られることである。ムネオは最近捕まってしまったが、それは秘書のときにやっていた強引なやり方を踏襲してしまったために、他の議員の不評を買って仕組まれたのだろうというのは容易に想像できる。そこは政治家同士の世界なので、足の引っ張り合いをするのは当然なのだろう。
所詮、国会議員も大きな組織の中での競争に成り立っている人たちである。会社の出世競争と同じように足の引っ張り合いや、互いの欠点探しに付いて情報戦になっているのは確かだ。その権力闘争の中で常に秘書が議員に代わって走り回っている。その秘書も己の欲望の為に秘書になって、短期間ながらも丁稚奉公をしているのだというのを知ってしまうと、なんだか馬鹿馬鹿しくなる。選挙期間中のときだけ、街頭で「なんとか勝たせてください、お願いします」と政策主張よりも、お願いします、お願いしますとだけ連呼しているバカ候補を見ると、死んでしまえばいいのにと思うのだが、それに加担している秘書と応援者も一緒になって死んでしまえばいいのにと本当に思ってしまう。その感覚的に思っていたことが、この本ではすべて彼らが何をするために活動をしているのかというのが明確にしているのであるので、本当に議員および秘書になっている人たちを敵に廻しているなーと思った。
議員秘書という仮面―彼らは何でも知っている
著者:上杉 隆
出版社: 小学館
発売日: 2002/07/01
この本を読んで初めて知ったことがたくさんある。まずは、国会議員の秘書というのは、実は全部まとめて秘書といわれるわけだけど、その秘書にも実はいろいろな種類があって、公設秘書と私設秘書があり、国家公務員の役割をしているひともいれば、そうではないひともいるということである。そんなに種類がたくさんあるのかーというのを見たわけだが、大体の場合、秘書になる理由というのが、将来政治家になるための布石として、経験を積みたいが為に秘書になっているということのほうが正直ショックだった。もちろん、議員が議員として仕事をするための名前の通りの秘書をするひとに終始する人もいるのだが、実は野望に満ちた人がたくさん政治家予備軍として君臨していたことだ。国のためとか、地域の為にということをいの一番に考えているのではなく、己の野望の為に望んでいるという人が多いことが、この国の政治家の無能さの根源があるんだなというのがよくわかった。
そして、秘書といっても、政策秘書と身の回りを世話をする秘書と二種類あるというのもへーっと思ったのだが、秘書の全員が政策秘書の役割を演じているんだろうと想像していたので、こちらもある意味小規模の衝撃を得た。確かに身の回りの世話をする秘書には、要領の良さが必要だが、政策秘書に関しては、幅広い知識と政治的駆け引きが出来る人じゃないとそれは務まらないのでキャラクターが異なるのだろう。
あとは給料。辻本清美が秘書名義の給料を二重取りをしたりした事件があったが、そのからくりと背景が描かれていてとても解りやすい。これなら議員が秘書を犠牲にして金をふんだくっているというのがよくわかるというもの。だいたい秘書から給与を巻き上げて、それを別の秘書の活動資金に廻していたりするのが根本的な原因なのだが、そこまでしてたくさんの秘書を使わないと自分の政治活動ができないというような仕組みになってるのがおかしい。そこまでして議員が秘書をたくさん使う理由というのは、政策のために奔走するというのではなく、次の議員選挙でまた当選するためにだけ地元にも議員の代わりに地元地域を走り回る人が必要だからである。ここにも、国家や公的な成長のために議員をやっているのではなく、議員は議員であり続けるために議員活動をしているということが原因である。こんな政治家ばっかりが日本の政治家の本性であるということを知ってしまうと、国会中継でなんやかんやと議論しているおっさんたちの腹黒さばかりが目に付いてしまって、テレビ中継の場合だったら、画面を叩き割ってしまいたくなるような心境になるだろうと思う。「なにしとんじゃん、国会議員は!」と。
一般的な秘書の仕事と、議員との関係については、書物の前半部分でよく理解ができる。しかし、「首相秘書官」という特殊の秘書というところについては本当にわかりにくい。最近で一番有名な首相秘書官は、小泉純一郎元首相の秘書だった飯島勲秘書だろう。秘書というのは表に出てこないというイメージを一新した人であり、アメリカのようにメディアを上手に使った手法と、首相の行動を「劇場型」と呼ばせるくらい首相がパフォーマンス化したように見せた影の功労者である。小泉純一郎が首相だった時代について、賛否両論であるのはいまだに言われることだろうが、日本を元気にさせようとしていたことだけは賛否両論派のどちらにしても賛同できることだろうと思うし、なにをやっているのかわからない国会とその閣議の内容を全部表に出して国民の目に知らしめたという意味では大きな功績だったことだろう。秘書というのは、パフォーマである議員の脚本家であることは言うまでも無い。飯島秘書が行ったことは、それまでのお付きの議員記者が「こうなるだろう」ということを全部覆すことにしたことはいいことだ。だから、記者クラブの人たちにはとても嫌がられた。記者クラブの汚い組織団体っぷりについては、上杉隆氏の別の書でたくさん書かれているので、そちらをみたほうが詳しい。
影の功労者として有能な秘書についても紹介されている。田中角栄の秘書だった大間幸一、中川一郎の秘書だった鈴木宗男、あのムネオハウスの宗男である。同じ田中角栄の秘書だった人で、後に勘違い政治評論家になった早坂茂三は良い秘書ではなく、自分が権力者のしたで働いたことで、自分にも権力が入ってきたと勘違いした大バカ秘書の1人であると紹介している。それはテレビ画面を通してみても、早坂茂三が出るたびに、その醜態が十分に出てきているので感のいい人は良くわかっていることだろうと思う。ただ、大間幸一と鈴木宗男の2人は、本当にすごい秘書だったようだ。秘書の中でもお手本にするべき秘書だったというのは、いまだに語られることである。ムネオは最近捕まってしまったが、それは秘書のときにやっていた強引なやり方を踏襲してしまったために、他の議員の不評を買って仕組まれたのだろうというのは容易に想像できる。そこは政治家同士の世界なので、足の引っ張り合いをするのは当然なのだろう。
所詮、国会議員も大きな組織の中での競争に成り立っている人たちである。会社の出世競争と同じように足の引っ張り合いや、互いの欠点探しに付いて情報戦になっているのは確かだ。その権力闘争の中で常に秘書が議員に代わって走り回っている。その秘書も己の欲望の為に秘書になって、短期間ながらも丁稚奉公をしているのだというのを知ってしまうと、なんだか馬鹿馬鹿しくなる。選挙期間中のときだけ、街頭で「なんとか勝たせてください、お願いします」と政策主張よりも、お願いします、お願いしますとだけ連呼しているバカ候補を見ると、死んでしまえばいいのにと思うのだが、それに加担している秘書と応援者も一緒になって死んでしまえばいいのにと本当に思ってしまう。その感覚的に思っていたことが、この本ではすべて彼らが何をするために活動をしているのかというのが明確にしているのであるので、本当に議員および秘書になっている人たちを敵に廻しているなーと思った。
議員秘書という仮面―彼らは何でも知っている
著者:上杉 隆
出版社: 小学館
発売日: 2002/07/01
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