オセロの中島が、自称・占い師と同居しはじめて、レギュラー番組を全部降りたというのは記憶に新しい。そして、当人は全くテレビにも出ることはないし、週刊誌や芸能レポータとの直接のインタビューに関しても全く報道されていない。そして、外出すらしていないという状態では、いったい自宅で何をしているんだろう?と誰もが気になるところだ。それだけだったら、単なる引きこもりになってしまった芸能人というだけで、ちょっと話題になっただけで後は忘れ去られるだけというオチになるのだが、ここへ来て家賃滞納問題というのが出てきて、訴訟されるという事件が出てきたのでは、もう芸能レポータも黙っていられない。それも家賃滞納した大家というのが、これまた芸能人の本木雅弘だということになったら、本木の後ろにいる内田裕也と樹木希林のおもしろ夫婦が出てきてしまうわけだから、話題に欠けることはないのである。
連日連夜、芸能取材陣たちが中島の住んでいるマンション前に張り込んで、いつ出てくるかわからない本人の顔・姿を激写しようと待ち構えているというのは、ある意味滑稽に思える。噂で入ってくる中島のデブ化した変体ぶりを期待して、芸能レポータたちは週刊誌の記者も含めて誰よりも早くスクープを撮ろうと必死になっており、24時間体制で寒い冬の空の下でも張り込んでいるというのは、ご苦労様としか言いようがない。ただ、芸能レポータとしては、中島の姿を撮るだけではなく、実は一緒に住んでいるこれまたデブの自称・占い師の姿も撮りたがっているようなのである。
占い師の目的は、中島と親しくなって、自分の思い通りに動かし、最終的には中島の資産を全部かっぱらって、そのあとポイ捨てするという宗教まがいの行為をしているのは誰の眼から見ても明らかである。そして、暗喩ながらも報道機関は、占い師の行動よりも、中島が囲われていて可愛そうというような、これまたいわゆる「お涙頂戴」要素のところを強く表に出し、占い師の悪行については眼をつぶっているような報道の仕方をしているのは、きっと多くの視聴者から見て「なんかおかしい」と思っているに違いない。だいたい、これだけ話題に成っているのにも関わらず、いまだにあの占い師のことを「占い師」としてしか紹介しておらず、占い師がこれまで数多く使ってきた自称の名前についての報道は表立っては報道していない。ネットでの「噂の真相」的なサイトでのみ、その名前と顔は出ているのだが、出版されている週刊誌には一切合財、名前も顔も掲載されていない。これはもしかしたら、意味不明な出版社同士の報道規制になっているのだろうか?それとも、これまた報道機関の自己責任回避をするために、わざと占い師の特定情報を公表せず、公表した途端に占い師のほうから「名誉毀損」で訴えられることを恐れて掲載をしないようにしているかのように見える。
芸能レポータたちの「中島をなんとかして救ってあげたい」というようなことばかり宣伝しているような報道の仕方、気持ち悪いと思わないのだろうか?なぜ、過去に同じような占い師に囲われて、こんな被害にあったというような被害者をたくさん例として出してきて、占い師を徹底追及しないのだろうか?ちょっとだけ占い師の実家の様子が報道されることはあった。実家が商売に失敗して、家が抵当に出されたというのはあったが、そんなの単に自分が商売の能力が無かっただけなのに、さも商売が上手くいかなかったのは世間が悪かったのだというような言いっぷりになって、占い師に同情しているような報道もあったのには驚かされた。
そして、もっと不思議なのは、毎日中島の部屋に大量の紙袋と一緒に食料を調達し、それを運搬している占い師の関係者のこと。占い師はどうみても悪者であり、その協力者も悪者であるにも関わらず、なぜか報道陣の前を無言で通ってマンションの中に入っていく姿は、顔はぼかしているし、ひどい所は全体像さえもぼかして報道している。この運搬屋は、おそらく最初のころは、報道陣の前を歩くことによって自分が全国的にさらしものになるのではないか?という不安があったに違いないのだが、ある程度日数が経ってくると、どこのメディアも顔写真を掲載することはないことがわかったために、そりゃぁ、もう堂々とマンションの中に、さも自分が住民ですというような顔をして歩いていくような姿に変化していくのを見て、報道陣がナメられているというのはよくわかった。
どうして、ここまで報道陣はどこもかしこも占い師とその取り巻きに対して、一般的名芸能レポータのようにマイクを突きつけて「どうしてなんですか?」とか「あなたは何者ですか?」というような逃げ道を失って観念したように白状するような追及をしないのだろうか?報道陣たちは、占い師になにか秘密でも握られているのだろうか?あれだけどこの報道陣も集まっているのであれば、占い師から個人名誉毀損で訴えてやると言われても、団結して「あぁ、かかってこんかい!」といわないところが不思議だ。政治の報道に関しては横並び報道をして協定を結び、記者クラブという団体に属していない報道者は報道陣ではないとのけ者にしているくらいなのに、宗教関係となるとどうしても報道機関が及び腰になっていること自体がおかしい。宗教だからこそ、弾圧してもいいと思う。確かに憲法では信条の自由は保障されているので、宗教が悪いと報道すると、憲法違反として逆に訴えられてもおかしくはないのだが、なんでもかんでも宗教だからといって許されるというわけではない。小規模な統一教会のマインドコントロールのようになってしまっているのではないだろうか?と思ってしまったのは言うまでもない。
ただ、オセロ中島は、たとえ軟禁から解放されたとしても、芸能界復帰は難しいだろうと思う。コンビの間の溝は埋まらないし、常に「変な占い師を囲っていた変なお笑い芸能人」というレッテルから逃れることは出来ないだろう。大整形をして、20歳代のひともビックリのようなプロポーションになるのであれば、再起もなくもないだろうが、もうすっかり過去の人になってしまっているのは言うまでもない。
それと、この中島問題ばかり報道することによって、他の芸能プロダクションは、なにか良い話題を出そうにも、全部世間の注目が中島に注がれているので、せっかくの企画も宣伝の無駄になるのではないだろうか?と思っているようなところもあるのだと思う。つまんないネタでお披露目されるよりは、宗教ネタでドロドロしているようなネタのほうが視聴者はもちろん喜ぶし、注目するに決まっている。各プロダクションとしても、早く中島問題を終わらせてほしいと思っているに違いないのだが、なぜかこのあたりも横のつながりで協力しないためか、全く進展が進まない。どうせ各プロダクションがタッグを組むのであれば、占い師をさらし者にしてしまって、表に出てきたら、二度と生きていけないような辱めにあうようなネタを出し合えば、それで中島問題は決着するものだと思う。それができない芸能プロダクションも情けないし、また後ろめたいものがあるのだろうとも思う。
基本的、人間は他人の不幸を見たり聞いたりするのがすきなのである。うらやましいネタより、泥仕合になっているようなものを見ているのは、自分に影響が無いから気楽に見られるのですきなのである。このバランスで不幸ネタのほうがインパクトがある間は、どこのプロダクションも新しいネタを出そうにも、視聴者は全く見向きもしないことだろう。どのように今後は動くのかは注目だ。
※(2012年3月14日追記)
オセロ中島問題は、中島邸から中島本人を連れ出したことで、ちょっとだけ進展した。しかしながら、家賃滞納問題はクリアしていないし、占い師の姿はいまだに見えてない。そして、中島を救出というドキュメンタリーにした途端に、マンション前に陣取っていた報道陣の数はあっさり少なくなった。もう占い師も逃げたことだろう。逃げたとしても、報道陣の前から逃げずに裏口から逃げたのだとおもうのだが、その裏口を押さえなかった報道陣はマヌケそのものである。救出したら最後、今度は占い師を徹底的にペンの力でボコボコにすればいいのだが、なんとなく全体的に報道陣たちのトーンは「中島問題終了」という雰囲気になっているのが気に食わない。物事の本質を追求しないで、当たり障りの無いところで勝手に騒いでいる今の芸能報道陣たちのやりかたに、おそらく多くの人たちがイライラしていることだろう。
2012/03/04
モルディブ(書籍)
旅行記・渡航記は書く人の個性によって、おなじものを見て感じたとしても全然違った作品として活字に現れるもので、文章による写生のようなものだと思っている。従って、文章能力が下手な人だったら、感性が良いとしても、残念ながら読み手によっては全然感動が伝わらないものになってしまうし、書き手の文章が上手くても、感じる能力がダメならば、文章にしたときには何の魅力もないものになってしまうものだ。
谷村志穂の著本「モルディブ」を読んだときに、久しぶりに駄作の旅行本にあってしまったとがっかりしてしまった。そう思ったのにはいくつか理由がある。
自分が男性だからということもあるのだが、概して女性が書く旅行記というのには、滞在中の視点がすごいピンポイントでしか物事を見ておらず、そのため見た・感じた・触ったというのを紹介するときには、同様な場所に読者が行ったとしても、決してそれを感じることができるとは限らないような書き方をしているのだ。しかし、文章を書いた本人は「感じた」というのだから、妄想的にも感じたんだろうが、他人に伝えてもその共感はかなり少ないものになってしまうものだろう。そして、ピンポイントの視点で得た情報や感想を、その土地の様子を第三者からみた視線で記載されているような文章にはまずお目にかかったことがない。一人称で見たものや感じたものとして表現しているのだ。これは悪いことではない。なぜなら自分がそう感じたのを素直に書いているだけなのだから。だから、個人日記としてあとでその人個人が楽しむのであればそれでいい。しかし、読み手にとってはたとえそれが著者そのものが感じたものであったとしても、文章化するときには第三者の目線で、著者はこう感じたのだという表現にしたほうがしっくりくる。だいたい読み手が読んでいるときの気分と、著者がその場にいるとき、そして文章化しているときでは、まったく気分が異なっているわけで、同一的に感性を感じることなんかできるわけがないのである。この本「モルディブ」も、まさしく第3人称目線ではなく、第1人称で記載されているので、読み続けると「あぁ、そうですかぁ。」と感情がない返答が出てきてしまうだけだった。
さらに、女性旅行記では、何かトラブルがあったときに、そのトラブルから逃避するために海外に出かけて自分探しや癒しを求めて、そして帰国したときにそのレポートを書くというスタイルのようなものが結構多い。こういうスタンスで書かれたものは、中身が無くて本当につまらないものなのだ。この本もまさしく同じように該当する本であり、谷村志穂自体、モルディブに行く前は、日本で相当男で苦労したような人のようである。それで逃げるようにして、青い海が広がっているモルディブまでやってきて、モルディブの男にチヤホヤされるのを期待して渡航したことがよく伝わってくるような内容である。モルディブの人はスリランカ系統と同じような人種であるため、肌が浅黒く掘りが深い顔をしている。そういう人たちから見ると、色白で年齢不詳のような若そうに見える日本人女性を見たら、そりゃぁ、姫様がやってきたみたいに思え、良ければ自分のものにしちゃえと虎視眈々と狙っているような人たちも居たことだろう。そういう人たちに囲まれてしまえば、日本で男に捨てられて、もう嫌気が差しているところだった人にとっては、海外にいってチヤホヤされたら、私って人気者かも!?と大きな勘違いをしてしまい、やっぱり日本の男は私を見る眼が無いんだと、勝手な結論に陥ることになるんだろう。それが文章を通してすごい伝わってきたので、何をこの女は本を通して訴えたいのだろうか!?と思ったのは言うまでもない。
もちろん、本の中には当人が現地で撮影したスナップ写真もカラーで結構たくさん紹介されている。風景写真だけではなく、現地でチヤホヤされているような自慢写真も掲載されている。そんなのは読者は見たくないのだ。現地の生活や風景や生の表情が知りたいのであって、現地で満足している30オーバーのババァのお気楽極楽滞在状態なんかは見たくないのである。黒柳徹子くらい超有名人になって、現地の人とどのように接触して、現地のひととのスナップ写真であれば、読者は見たいと思うようなひとも結構居るだろう。出版社に乗せられたのか、その辺の素人ババァに文章を書かせて出版したような本に登場してくるような本のばあいには、著者の表情まで見たいというニーズはもともとないと思われる。
どこかの本のレビューにも書かれていたような気がするが、この谷村志穂という人、いつの時代でもずっとバブル時代を引きずって生きているような人なんだと思う。バブルの時代はどんなブサイク女でも、それなりに男にチヤホヤされていて、それで女は満足し、男は女を満足するために存在する下僕であるというようなことしか思っていないような女性が多かった。これだけ日本経済が長い不況時代になったという状態でも、彼女の脳みその中では常によきバブル時代が当然のことだというところから抜け出せず、現在の経済状況、はたまた女性に対する男性の姿勢というのを許容できるような気持ちが全く持っていない人なのだと思う。だから、この文章がこの本では「モルディブ」ではあるのだが、実際にはタヒチでもジャマイカでもトラック諸島でも、場所はどこでも良かったんだと思うし、どこに行っても、同じような文章でしか彼女は書けないのだとおもし、現地へ行って何を期待するかという姿勢も全く変わらないのではないのだろうか?
男が読む本ではない。病んでいる女が読んで、「私もやってみよう」と妄想世界に一緒に浸りたいというような人は読めばいいと思う。健常女性が読むと、きっと「馬鹿じゃない?」としか思えない本として映ることだろう。この本を新刊で買った人はお気の毒さま。古本屋で100円で今回は買ったのだが、新刊でも100円で良いんじゃないのか?というような内容に個人的には感じた。
モルディブ
著者:谷村志穂
出版社:スターツ出版
発売日: 1999/10
谷村志穂の著本「モルディブ」を読んだときに、久しぶりに駄作の旅行本にあってしまったとがっかりしてしまった。そう思ったのにはいくつか理由がある。
自分が男性だからということもあるのだが、概して女性が書く旅行記というのには、滞在中の視点がすごいピンポイントでしか物事を見ておらず、そのため見た・感じた・触ったというのを紹介するときには、同様な場所に読者が行ったとしても、決してそれを感じることができるとは限らないような書き方をしているのだ。しかし、文章を書いた本人は「感じた」というのだから、妄想的にも感じたんだろうが、他人に伝えてもその共感はかなり少ないものになってしまうものだろう。そして、ピンポイントの視点で得た情報や感想を、その土地の様子を第三者からみた視線で記載されているような文章にはまずお目にかかったことがない。一人称で見たものや感じたものとして表現しているのだ。これは悪いことではない。なぜなら自分がそう感じたのを素直に書いているだけなのだから。だから、個人日記としてあとでその人個人が楽しむのであればそれでいい。しかし、読み手にとってはたとえそれが著者そのものが感じたものであったとしても、文章化するときには第三者の目線で、著者はこう感じたのだという表現にしたほうがしっくりくる。だいたい読み手が読んでいるときの気分と、著者がその場にいるとき、そして文章化しているときでは、まったく気分が異なっているわけで、同一的に感性を感じることなんかできるわけがないのである。この本「モルディブ」も、まさしく第3人称目線ではなく、第1人称で記載されているので、読み続けると「あぁ、そうですかぁ。」と感情がない返答が出てきてしまうだけだった。
さらに、女性旅行記では、何かトラブルがあったときに、そのトラブルから逃避するために海外に出かけて自分探しや癒しを求めて、そして帰国したときにそのレポートを書くというスタイルのようなものが結構多い。こういうスタンスで書かれたものは、中身が無くて本当につまらないものなのだ。この本もまさしく同じように該当する本であり、谷村志穂自体、モルディブに行く前は、日本で相当男で苦労したような人のようである。それで逃げるようにして、青い海が広がっているモルディブまでやってきて、モルディブの男にチヤホヤされるのを期待して渡航したことがよく伝わってくるような内容である。モルディブの人はスリランカ系統と同じような人種であるため、肌が浅黒く掘りが深い顔をしている。そういう人たちから見ると、色白で年齢不詳のような若そうに見える日本人女性を見たら、そりゃぁ、姫様がやってきたみたいに思え、良ければ自分のものにしちゃえと虎視眈々と狙っているような人たちも居たことだろう。そういう人たちに囲まれてしまえば、日本で男に捨てられて、もう嫌気が差しているところだった人にとっては、海外にいってチヤホヤされたら、私って人気者かも!?と大きな勘違いをしてしまい、やっぱり日本の男は私を見る眼が無いんだと、勝手な結論に陥ることになるんだろう。それが文章を通してすごい伝わってきたので、何をこの女は本を通して訴えたいのだろうか!?と思ったのは言うまでもない。
もちろん、本の中には当人が現地で撮影したスナップ写真もカラーで結構たくさん紹介されている。風景写真だけではなく、現地でチヤホヤされているような自慢写真も掲載されている。そんなのは読者は見たくないのだ。現地の生活や風景や生の表情が知りたいのであって、現地で満足している30オーバーのババァのお気楽極楽滞在状態なんかは見たくないのである。黒柳徹子くらい超有名人になって、現地の人とどのように接触して、現地のひととのスナップ写真であれば、読者は見たいと思うようなひとも結構居るだろう。出版社に乗せられたのか、その辺の素人ババァに文章を書かせて出版したような本に登場してくるような本のばあいには、著者の表情まで見たいというニーズはもともとないと思われる。
どこかの本のレビューにも書かれていたような気がするが、この谷村志穂という人、いつの時代でもずっとバブル時代を引きずって生きているような人なんだと思う。バブルの時代はどんなブサイク女でも、それなりに男にチヤホヤされていて、それで女は満足し、男は女を満足するために存在する下僕であるというようなことしか思っていないような女性が多かった。これだけ日本経済が長い不況時代になったという状態でも、彼女の脳みその中では常によきバブル時代が当然のことだというところから抜け出せず、現在の経済状況、はたまた女性に対する男性の姿勢というのを許容できるような気持ちが全く持っていない人なのだと思う。だから、この文章がこの本では「モルディブ」ではあるのだが、実際にはタヒチでもジャマイカでもトラック諸島でも、場所はどこでも良かったんだと思うし、どこに行っても、同じような文章でしか彼女は書けないのだとおもし、現地へ行って何を期待するかという姿勢も全く変わらないのではないのだろうか?
男が読む本ではない。病んでいる女が読んで、「私もやってみよう」と妄想世界に一緒に浸りたいというような人は読めばいいと思う。健常女性が読むと、きっと「馬鹿じゃない?」としか思えない本として映ることだろう。この本を新刊で買った人はお気の毒さま。古本屋で100円で今回は買ったのだが、新刊でも100円で良いんじゃないのか?というような内容に個人的には感じた。
モルディブ
著者:谷村志穂
出版社:スターツ出版
発売日: 1999/10
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