2006/08/26

刀削麺・鐘楼

 会社の近くにはたくさん旨い店があるため、昼ご飯のたびに「今日はどこにしようか?」と迷ってしまう。店が少ないところだと、何も考えずにその店にいくしかないと判断できるが、あれもこれもと、いろいろなジャンルがある場合だと困ってしまう。神田神保町はまさしくそういう場所である。カレー競争のメッカになっている神保町だが、麺類を含めた中華料理の激戦区にでもなっているのは、あまり知られていない。昔からの名店も各種あるのだが、今回は紹介しないで、頻繁に行っている場所を紹介したいと思う。

 今回紹介するのは、刀削麺の店「鐘楼」だ。白山通りから1本西側に入った場所にある店である。店の風格は、どこか中国の民家を思い出させるような建物である。(実際には中国の田舎に行ったことが無いので、どういう建物かはよくしらないが、こんな感じかなという想像はできる。看板料理になっている刀削麺は、外からでもその素晴らしい技を見せつけるように、麺を削っている様子をみることができる。本場の四川省の成都から呼んで来たという女性が毎日麺を作っている。その技を見ると、すごいなぁーとおもう。うどんのメッカで一時期住んでいたことがある自分としては、麺文化には大変愛着があるのだが、うどんと違う麺の製法を見て最初は驚いた。かまぼこを大きくしたような、麺の大元になるような塊から、中華包丁の変形版を使って、さくったさくっと削っている姿は、すごい。どう凄いかというと、ほとんど同じように削っている麺のつくりかたもすごいのだが、麺の塊であるかまぼこのでかい塊を、肩と片手でバランスを使って麺を作っているのがすごい。1日に客が何人くるのかしらないが、その人たち用に、毎日毎日麺を作っているのは大変な重労働だ。

 刀削麺は、本場の四川の味をそのまま忠実にしている味付けになっている。よく言われるのが、日本に料理を持ってくると、日本人の好きな味に変化されて、本場の人が食べると「ちょっと違う」と思うというのは聞いたことがある。しかし、この鐘楼に限って言えば、それには該当しない。まず、辛さが半端じゃない。辛いといっても、耐えられる辛さで作るのが大抵、自称「辛い」を称している料理屋だとおもうが、ここは、唐辛子の辛さ+花山椒を使った、「しびれる」辛さを忠実に再現している。最近、味付が変わった気がするのだが、初めてこの店で食べたときには、初めて体験した味だということもあるが、その辛さに関して一瞬食べただけだが「負けた」と思った。しかし、もうその辛さにはすっかり慣れてしまい、「少し刺激が欲しいな」と思うときには、鐘楼に行くことにしている。でも、最近は、その辛さにはすこし刺激が足らなくなった気がするので、物足らない。だけど、注文するときに、「従来のとおなじで」というと、ちゃんと調合してくれるので問題なし。普通サイズの大きさは700円だが、大盛りサイズも当然可能。100円プラスで食べられる。器が大きくなるのではなく、麺が1.5倍増えるので、これを食べると本当に満腹に成る。刀削麺のスープは、油こってりになっているため、麺を食べるときにはそのスープの飛び散りに気をつけたい。スープが飛び散ると、油の塊みたいなものだから、服につくと大変である。それを保護するために、髪のエプロンも用意されているので、麺を食べるときにはこれをつけて食べて欲しい。

 鐘楼には、麺だけでなく四川料理の定番も用意されている。実際には昼ご飯の時間しかいったことが無いので、夜のメニュを体験したことが無い。従って、夜メニュはここではご紹介できないところが心苦しい。辛い料理の定番としては、やっぱり麻婆豆腐が上げられる。いろいろなところで麻婆豆腐を食べたことがあるが、ここ鐘楼の麻婆豆腐は、気合を入れないと食べられない。薄長い皿に盛られた麻婆豆腐を見た感じでは、たいしたことが無いかなと思っていると、あとで火を吹くことになる。ご飯がいい辛さに対する緩衝材になってくれるため、異様にご飯の量を多く採りたくなる。一口食べるたびに火を噴きそうになるので、最後まで食べるときには汗だくだくになる。

 この店は、やってくる客に意外にも中国人が多い。他にも中華料理が腐るほどたくさんあるのに何故多いのだろう?理由は簡単で、本場の味に近いから、それに気に入っているためなんだそうな。もちろん日本人もたくさんいる。学生の町でもある神保町は、学生がたくさん食べに来るのは当然だが、企業に勤めているいる中国人もたくさんいるわけで、そういうひとたちが昼ご飯に集まってくる場所でも有る。フロアを仕切っているひとは、日本人の男だが、それ以外の店員が厨房を含めて、全員中国人であるということも、その親しみやすさとして中国人客が多い理由なのだろうと思う。我々日本人から見ると、中国大陸のどこのひとなのか、香港人なのか、台湾人なのか、シンガポール人なのか全然区別がつかない。中国語らしい(広東語かもしれないが、日本人には区別がつかない)言葉を喋っているひとたちは全員中国人だと思っている。そういう中国人が集まる店ということは、それだけ旨いということを意味している。

 住所 : 東京都千代田区西神田2-1-8
 電話 : 03-3263-2288
 Web  : http://www.service-5.com/restaurant/

フェルマーの最終定理

 最近日本では数学に対する考え方が変わってきたようで、それは社会人が暇になってきたことから、時間に余裕が出てきたので、学校を卒業後おろそかにしていた勉強をもう一度勉強しなおしてみようという動きから起こってきたのだと思う。日本語自体の見直しというのは、テレビ番組でクイズとして出題されるくらいまでメジャーになってきたことだが、残念ながら数学に関してはそこまでの動きがない。自称「芸術家」になってしまったビート武が、少し「俺は数学のよさを再認識した」とテレビで言うようになっただけだと思う。数学のよさは、答えに曖昧さがなく、明白であり、解き方も鮮やかな方法が存在するところに魅力を感じるのだろう。数学といえば、多くの人にとって学生時代には苦手の学問だったと思われる。公式が多く、問題は難しく、勉強という意味では本当に勉強をしないといけない分野の代表的なものだったからであろう。

 2,002年に数学の学問上、難解難題とされてきたフェルマーの公式定理が「証明された」という発表があった。これは数学に仕事を携わっているひとのみならず、少なくとも、その定理を知っている人全員が称敵的な出来事として知ったことだろうと思う。テレビディレクタのサイモン・シンが書いたこの「フェルマーの最終定理」は、数学の知識が無くても読める本である。本の題名を見ただけでは、絶対に「脳みそが割れる」とおもわれるかもしれない。しかし、心配ご無用。「できれば数学の基礎知識が有ったほうが良い」という程度であるが、全く無くても大丈夫である。文中に出てくる公式に関する数学的知識は、巻末に説明がされているので、それを読めばいいのだ。すっかり忘れている人は、それを見れば、学生のときに習ったことを思い出すに違いない。インド人であり、本人も数学のドクターコースを修めている一方、TVディレクタとして科学的なドキュメントを製作するとその才能を異観なく発揮していたイギリスBBCのサイモンシンが、数学のおもしろさと、この難題に取り組んでいった過去の数学者、それとその隠されてきた歴史について、綿密に調べた上で分かりやすく説明しているので、数学の本というよりも、この定理を解明する人たちのドキュメンタリとして読むといいかもしれない。この本は本来、ハードカバーとして売られていたのだが、最近になって文庫本として発売しはじめた。値段が手ごろなので、数学に興味を持ち始めた人、または数学の魅力に取り付かれておかしくなっているひとを横から見たい人、数学の数が持つすばらしい能力について魅了された人は、ぜひ読んで欲しいと思う。数学者は該して「変人」と言われていたりするが、この本のなかでも数学にのめりこんで「逝ってしまった」人も数多く出てくる。そういうひとは、頭の中が毎日数学のことしか考えられなく、人間としての生活を不意にしてしまっている人が多い。また、数学とは綺麗に説明できるもののみが有効で、間違ったそして曖昧になっていることはすべてダメなことであるという学問であるため、数学者が話すときには、言葉に対してとても厳密に喋ろうとする。それは論文を書くときに身についてしまう必然的な行動なのだが、これが一般人にとっては、「かれは何を言っているのか理解できない」と言われる根本的な原因になっていることは間違いない。人間の付き合いよりも数学との付き合いのほうが、結果がはっきりしているだけわかりやすいということから、まともに他の人間と話ができなかったというエピソードも出てくるから面白い。身近にこの人は何を考えているのだろう?という人がいると、もしかしたら、何か厳密に喋ろうとしていて、それを表現できない人なのかもしれないと思うといいだろう。また、頭の良い人は途中の考えを他人に分かるようには説明せず、新幹線並みのスピードで素っ飛ばして、結論を導くという場合がある。数学者も概してそういう人種のようだ。この本の名前にもなっているフェルマーもまさしくそういう人間で、ノートの端にちょこちょこっと書いただけで「見切った」と宣言したのだから、他の数学者にとっては、「それはなぜ??」と思ったに違いない。彼はそう思わせたまま死んでしまったので、最終定理が証明されるまで実に400年もかかってしまうという歴史が生まれてきたのである。数学と歴史をこの1冊で知ることができるので、是非堪能して欲しい。
 もう1冊数学に関してお勧めしたい本がある。それが右にある「オイラーの贈物」である。こちらの本は先述の「フェルマーの定理」に比べると、もっと数学的な本である。歴史というより、純粋数学を書いているため、数学の予備知識がない人にとっては、最初の5ページで放り出してしまうと思う。高校数学程度の知識があれば、この本は読めることが可能だ。また、数学に興味を持っていた人、また、数学を専門でやっていたひとにとっては、この本は昔受験数学の問題集として良く使われていた「大学への数学」と同じように百科事典の1つとしてライブラリーに儲けておくのがいいと思う。こちらは数式と問題がふんだんに盛り込んでいるため、高校数学および大学数学の予習・復習に使うと良いだろう。リゾート地に持っていってこれを読んでいると、あたまがおかしくなりそうな気がする。通勤途中の電車の中で読んでいると、日経新聞を読んでいる人を見て「すごいな」と学生が思うように、周りに乗っている人は驚くと思う。いろいろな角度からオイラーが単純明快に表現した例の公式を導くのは凄いと思う。さらに、全然関係ないと思われていた数学の中の各分野が、この本を通してすべて通じるものであることが分かった。大学の時にこの本に出会っていたら、もっと数学に対して数学者的にのめりこんでいたことだと思う。


VW Golf Wagon

東京に住んでいると車がなくても生活ができる環境であるのは良く分かっている。東京は他の地方都市と異なって、電車網が地上および地下を含めて、縦横無尽に整備されているため、東京都内で移動するには車は必要ない。むしろ電車のほうが時間が正確だし、早いし、楽だ。車で都内を移動すると、何処に行っても渋滞にはまるし、まず駐車場を探すのが大変。どこにも車でいけるというメリットはあるが、時間がかかるので面倒くさいと思う。しかし、東京に住んでいる人たちの多くは車を保有している。その理由は各人でまちまちだろうが、一番多くの理由は、地方へ行くときには車のほうが便利だからであろう。行動範囲が東京都内でしかないひとには全く必要ないという意味も表す。地方出身の人で、家族を持っている人が、電車で夏と正月の帰省を考えた場合、時間はかかっても車のほうが高速代金とガソリン代を考えた場合、断然安い。さらに、地方にいったときに移動する手段が車しかないため、現地でも利用可能というメリットがあるからだ。それほど、東京は地方出身者の溜まり場でもあるという意味でもある。しかし、家族連れの人の帰省のために車を保有しているのが唯一の理由ではない。遊びに以降とした場合でも同じだ。個人的な理由で車を持っているのは、後者の理由である。

 大学生になると、日本では、だいたい車の免許を取得し、それで最初は親の車を乗り回し、それになれてくると、自分で中古でも買って乗るというのが定番になっている。特にサークル活動が盛んだった頃は、それでクラブに行って楽しんで、帰りにクラブ内で付き合い始めた人が居れば、そのままデートにしけこむというものだった。車は移動手段だけではなく、人間関係を密接にしてくれる居室空間に変化したのである。別に車がなくてもクラブ活動は出来る。しかし、他の人が乗っていて便利だなと思うと、だいたい欲しくなるようなものだ。いまではmp3プレイヤとカーナビを積んでいるのが当然の車の備品だが、当時は、まだカーナビはそれほど主流ではなかったし、MDかCDが音楽を再生するための主流装置だった。車に積むCDやMDの曲を選ぶというのも結構楽しかったりする。誰と一緒に車に乗っているときには、この音楽をかけようとかを妄想の世界で考えているだけで、もう興奮して居たようなものだ。CDもMDも1枚で1歌手・1アルバムしか入らなかったのだから、そのアルバムが終了した途端に別のアルバムが入った音源に切り替えるとき、隣にひとが乗っている場合には、なぜかどきどきしたものである。

 話は遠回りになったが、話題は車のことに戻す。

 最初に乗った車が親の車であるVolks Wagen の Golf だったこともあった。そこからなぜか乗る車はすべてVolks Wagenシリーズに乗り始めることになる。ところが、乗り始めて分かったのだが、実は回りの友達もVolk Wagenに乗っていたことが分かる。似たもの同士が集まるというのも変な話だが、あいつもこいつもみんなワーゲンだったのには一時期笑った。誰か1人でも日本車かまたは別の車にでも乗ればいいと思ったのに、仲良し6人組の大半がワーゲンだったときには、頭が悪いなーみんな、と自分を含めた思った。最初のGolf はセダンタイプの4ドア。室内空間が今思っても広いと思った。運転座席や助手席のほうは如何様にでも広さを変更できるが、後部座席はそうはいかない。ゴルフのどの車もそうだが、後部座席が結構広いのが驚く。ステアリングは、Volkwagen 社の独特の通称「オモステ」であるため、運転しているほうがいかにも運転してますという幹事が楽しめて良い。日本車の場合は、だいたいパワステになっているため、簡単に片手でもハンドルを切ることができるのだが、これって、個人的な考えとして危険じゃないの?とおもったりする。でも、実際には事故が起こっているわけじゃないのだから、気のせいといえば気のせいだろう。それとgolfの魅力としては、そのエンジン音だろうとおもう。独特に、低温から響くzoom zoom という音は、遠くからでもGolfが来たというのがわかるから不思議だ。友達の車を待っていたり、親が運転する車を駅で待っていたりするとき、その音で自分の車がきたとわかるのは不思議である。別に、族車(暴走族の車)と違って、エンジンを変更したり、改造したりしているわけじゃないのに、この音の響きを感じられるのがGolfの魅力だろう。加速に関しても、パワーが本来からあるため、背中を押し付けられるような突発的な加速も感じられる。しかし、これは、あまり使うことは無い。一番分かりやすいのは、山道に行ったときの上り車線において、そのパワーを顕著に感じられる。軽自動車やパワーがない車の場合、アクセルをめい一杯踏んでも、ほどんど登らなかったりするのだが、Golfは多少の坂道でも、平坦な道と同様登っていくのが嬉しい。下り車線の場合は、ブレーキを踏みっぱなしにしないと止まってくれない車が多いが、エンジンブレーキをがんがんに利かせられるし、そのパワーが強いので、新車を上手く育てられれば、エンジンパワーだけでブレーキをあまり使わず下りも良いと思う。マニュアル車の場合のシフトレバーも、握りやすく、回しやすいシフトになっているので嬉しい。バックに入れるときに、押しまわし形式なので、日本車になれていると、一瞬どのようにしていいのか戸惑う。

 最初はセダンタイプに乗っていた後は、しばらくはVolkswagen Polo に乗っていた時期も有る。Golfよりも一回り小さいこの車は、小回りがいいし、Golfの弟分として売られたこともあり、Golfのパワーをそのまま継承していて運転していて楽しかった。居住スペースはお世辞でも広いとは言えないため、後ろに人を乗せた場合は、運転がし難い。ダッシュボードもそんなに広いわけではないので、AV機器類をごてごてに装飾することはできなかった。車を運転するのが好きとか、駐車スペースをきにしなくてもいいという場合には、Polo は大変お勧めできる車だといえる。しかし、Poloをもう乗らないからといって売るときには、意外に人気が無いためかあまり価格がつけられなかったというデメリットがあった。Polo の出荷直後にはじめての自分の車として乗ったこともあり、愛着がとてもあったのだが、古くなったこともあるし、もう少しスペースが欲しいなということを考えて、後ほど売り飛ばした。Poloのなかではカーセックスもできないし(笑)。そのあとに乗ったのが今でも乗っている Golf Wagon である。荷物スペースが大変広いため、大変重宝している。一時期、ワゴン系の車がはやり、それと同時に4WDの車がはやったが、それに釣られて買ったようなものである。ところが、スキーに行くときに分かったのだが、これほど便利なものを何故もっと早く乗らなかったのだろうと思った。パワーがあるし、荷物が一杯つめるので、スキー板を車内に積み込んでも全然余裕である。だから、車のキャリアを買わなくてもスキー板を詰めることで、余分な出費が減ったと思う。これを買った理由はもう1つあって、仕事の都合でサンフランシスコに転勤になった先輩のところに遊びに言ったときに、その人がこの車を乗っていて、とっても便利だという話を聴いたからである。確かに乗ってみて、Golfの感覚と、Golf では満たされなかった感覚をWagonにしたおかげで全部満足にしてくれる魅力は大きい。Volks Wagen の車なので、10年くらい乗っていてもぜんぜんメンテナンスさえしっかりしておけば、いくらでも乗っていけるので、しばらくはこのままWagonを乗りつづけると思う。

2006/08/25

FFP Card

 もうすっかりおなじみになってしまったFFP(Fly Frequently Program)のカード。飛行機に乗る人は大抵1枚は持っているのではないだろうか?乗った分だけマイルが溜まり、それをのちほど旅行に還元できるというもの。出張や旅行の多い人は持っているほうがとても便利である。どこのカードを持てばいいのかはとても難しいのであるが、今回、自分が持っているカードについて記載したいと思う。

 まずはJALカード。日本航空のカードではあるが、一番最初に持ったカードである。国内の航空会社では定番であり、ナショナルフラッグと一時期はいわれた日本航空は、いまは低迷し、彷徨う航空会社と揶揄されてしまった航空会社だ。そうは言っても、なぜかいまでも出張時にはこの航空会社を使っているし、この会社の株主にもなっているため、株主優待券を使って、出来るだけ遠く高い地域にいくとき(ただし、国内のみ)には旅行をしている。カードの役割は、その日本航空に乗るたびにポイントを貯めるために使っているのだが、それ以外に、クレジットカード機能もこれにつけているため、クレジットカードとして利用したときにもポイントが溜まっていく。実際の飛行距離で貯めるというよりも、買い物をするときのポイントのほうが断然個人的には多い。旅行に行くときの支払いは全部カードに極力している。そのぶんポイントが溜まる。しかし、ポイントの保持可能期間が3年間ということなので、そんなに多くのポイントを稼ぐことはできない。しかし、それでもカード保有期間は長いために、その溜まったポイントを使って旅行や親を連れて行ったことは何度か有る。現在、ICカードになっているため、国内チェックインの場合は、カウンターに行く必要も無いし、航空券を発券して貰う必要も無い。すべてICカードを使えば、チケットレスで搭乗することが可能だ。しかし、海外にいくときには、JALは何故か他の航空会社に比べると、高いので選択しない。無料航空券でのみしか海外にいくときには利用していない。また、今度はOne World の系列に参加することが表明されているが、他の航空会社に乗った場合のポイント換算は、いまのように厳しいのか疑問である。15000マイルで国内はどこにいくこともできる。北アジア各国であれば20000マイル。東南アジアは35000マイルだ。忘れていたが、クレジットカード機能を持っている人の中でClub-Aカード以上の会員の人は、Agoraという雑誌を毎月送ってくるし、年に1度カレンダーを送ってくる。

 通常、海外に行くときにはスターアライアンス系の航空会社を利用している。そのときには、なぜかスカンジナビア航空Euro Bonusで貯めている。このカードを持つようになったのは、初めて北欧にいったときに参加したツアーが、スカンジナビア航空で行くツアーで、そのツアーに参加すると、必然的にプラス5000マイルが溜まるということが最初で持つようになったと思う。それまでは別にそれほど海外旅行にいくということは無かったのだが、これをもつようになってから異様に増えた気がする。なんと言っても、スターアライアンスの成立時からある航空会社であるため、スターアライアンス系の航空会社すべての航空会社に乗れば溜まる。特に、ヨーロッパにいくときには、今ではすっかりシンガポール航空で行くことで定着してしまったが、そういう違う会社でもちゃんと溜まるのが嬉しい。実行飛行距離ではなく、実行飛行距離を100マイル単位で切り上げて換算してくれるので、実際にはすこし多く溜まるところが嬉しい。東京=シンガポール缶は3344マイルだが、Euro Bonus の場合は3400マイルで計算してくれる。これが一番のメリットである。2002年からシルバー会員になるためのポイントが35000マイルから20000マイルにきり下がったことで、シルバー会員になるのが用意になったのは嬉しいが、いまいちシルバー会員のメリットが個人的には分からない。しかし、たまに、シルバー会員だからという理由で、資格はないのにラウンジの券をチェックイン時にくれたりするときがあるし、上位エコノミー席が空いている場合は、その航空券を買っているわけじゃないのに勝手に選択されたりするときもある。ゴールド会員になるためには70000マイルが必要なため、少し貯めるにはあまり良いカードではないだろう。しかし、会員数が少ないようで、たまに日本国内で展開されているキャンペーンに応募すると、必ず当選することができるから不思議だ。といっても、たいしたプレゼントはもらえない。クレジットカード機能は北欧諸国に住んでいないと資格が無いため、純粋に飛行距離で貯めている。ポイント保有期間は5年間。スターアライアンス系の航空会社に乗る人は、多くの場合、ANAユナイテッド航空のカードを持っていると思う。アジア各国へは35000マイル。ヨーロッパへは90000マイルである。ただし、スカンジナビア航空を使ってヨーロッパに行く場合には80000マイル。

 最近台湾に行くときに使っている航空会社がキャセイパシフィック航空。この会社はOne Worldというグループの中心会社である。それまでキャセイに乗る際には、アメリカン航空のAmerican Advantageにしていたのだが、格安航空券のキャセイパシフィック航空の券ではたまらないことが分かった。そこで台湾行きの飛行機の場合には、キャセイがやっているAsia Milesのカードに今後は統一することにした。American Advantage のほうは、5年間のうち1回でも溜まれば、必然的にポイントは半永久的に有効になる。だから、そのうちAmerican でもまたポイントを加算して、ある程度溜まったら、それを使っちゃえと思い始めた。その間は、できるだけ有効期限のある Asia Miles で対応することにする。まだ使い始めてあまり溜まっていないのだが、中国の会社との提携が強いため、今後中国旅行にいくときに、もし不評な中国なんちゃら航空類を使う場合には、全部このカードで対応できる。台湾に行くときにキャセイを使う理由は値段が安いことと、出発する時間が結構楽な時間帯だからである。多分、今後も台湾に行く場合にはキャセイを使うことになると思う。

 世界的なグループのもう1つには、Sky Teamというのがある。このグループは最近巨大化してきているが、そのなかの航空会社としてNorthwest 航空のカードをもつようにしている。あまりこのグループの会社を乗ることは無いが、Northwest のカードは先ほどのアメリカン航空と同様、3年間の内に1度でもマイルを貯めれば、半永久的にポイントは有効になる。現在、国内の航空会社に乗った場合でも、半券を送ればポイント加算してくるキャンペーンをやっており、なぜかこれが3年間くらい行われている。1枚の国内航空券で500マイル溜まるが、年間8枚まで。3年間やっているから、これだけで12000マイルが勝手に溜まってしまっていた。今後も何かにつけて貯めるかもしれない。特にヨーロッパの航空会社との連携は多く、Air FranceAlitaliaKLMとヨーロッパ国内の移動で、良く行く国の国内移動には貯めるようにしている。韓国すきな人は大韓航空とも連携しているので、これをもっているのが便利だろうと思う。競合としてDelta航空も同じ仲間だが、こちらも5年間でマイルを1度でも貯めれば半永久ポイントになるので、どちらがいいのかは提携会社を参考にして欲しい。Northwest はMalaysia航空Garuda Indonesia 航空やマイナーだが定評があるMalevハンガリー航空とも提携している。アジア国内なら20000マイルから還元。

 いまではグループ化してどこの会社でも溜まるようになっていったが、これまで加入は無料なので、片っ端からFFPプログラムを発行しているところの航空会社のカードを作ったことが有る。加入して1年間は、どこの会社も頻繁にレギュラーニュースを郵送してきたので、それを見ているだけでも面白かった。特に充実していたのは、Alitalia の Club Millemiglia だったとおもう。イタリア好きの人なら、見ているだけで嬉しそうな内容が記載されている。さすが、ファッションの国の航空会社だと思う。珍しいところでは、アエロフロート航空のカード。全部ロシア語なので、なにが書いているのかちっともわからない。

毛沢東の私生活

 家の近くには古本屋のチェーン店Book Off があるため、会社の帰りや出かけたあとには、ちょっと立ち寄ることが多い。新刊だと高いが、古本屋で買うと激安だったりする場合があり、特に新刊では絶版になってしまったものも、たまに古本屋で見つけられる場合もあるから重宝している。本書に関してもまさしくそんな本の1冊で、新刊ではもう手に入らない。家の近くのBook Off ではなんと1冊100円で売られていたので、思わず手にとって買ってしまった。噂では聞いていたこの本。実際に読んでみると、これを書いた著者が殺された理由もわかるというものだ。「英雄」とか「神様」と信じていた人の悪口や、神格化してしまった人間を再度人間化してしまったのであれば、虚像のように崇めていたことをすべて崩壊させてしまうために、こういう暴露本が出てくると言う事は、その信者にとっては悪書そのものである。従って、当時の中国共産党政権の密令により、アメリカのニューヨークに逃亡していた著書が殺されてしまうのは当然の成り行きだろうと思う。著作が発表された後、「本の内容は事実無根である」とお決まりの「全否定」を徹していた共産党も、さすがに嘘をつきつづけることは困難だと判断したのだろう。中国の歴史は毎回だいたい同じで、嘘が隠せなくなった場合は、それをさらに拡大しないようにすることに次は努める。第2段の暴露本を出される前に、「嘘」と言わざるを得ないことを生成する根源を抹殺することが重要いうことになる。この本と著者の関係は、中国の政治的なやりかたと惨殺さについてを、出版後に全世界にも分からせることになった。

 1949年の中華人民共和国設立以降、図体がでかい割りに、中身がからっぽの国ができたのは、すべて共産党政権の無能さと内部の政治的闘争のせいだといわれるが、そうではなく、単に「毛沢東王朝」であっただけで、単なる1人のデブオヤジの妄想のもとに10億人の無能がついていっただけのことである。実は無能だということがバレル前に、いわゆる知識層を一番最初に抹殺したことが上げられる。そこから始まった政治闘争は、その後に残った馬鹿たちが神様毛沢東に「どうしましょう?」と頻繁に伺い、顔色を伺いながら政治を行っていたことになる。その現場のすぐ傍で医者として活躍していた著者は、英語の教師として最初毛沢東の身近に接することになるが、その後、西側諸国で教育を受けた著者から西側の情報と当時の中国の知的レベルの違いさを歴然と反省し、どうすれば中国人が優秀になれるかを模索していた毛沢東の相談役になっていったことから、毛沢東の信頼性を掴んでいった。毛沢東の信頼を受けていた政治に関係ない医者になってしまったおかげで、政治闘争の枠に必然的に引き込まれてしまう。つまり、毛沢東の顔色を窺っていた馬鹿政治家たちが、この医者を巻き込むことで、自分を優位にたたせたかったという腹積もりがどの政治家にも存在していたからだろうと思う。一番顕著なのは、毛沢東の妻にして無能だったためしばらく政治の世界に入ることが許されなかった江青だろう。江青と著者の間の陰湿なやりとりについては興味につきることはない場面だと思う。現在、「マダムマオ」という本が出ているが、それを読む前にこの本を読んで欲しいと思う。
 毛沢東の自己の権威を保持するために発動された文化大革命。これまでは社会的不満の爆発の結果だと思っていたのだが、実際には違ったことがこの本を見て分かった。旧ソ連との関係がわるくなったのも、スターリン後政権によるスターリン批判が中国に伝播し、そのまま毛沢東批判を身内からでないために、あえて中国とソ連とは共産党のイデオロギーが違うのだと述べているところが、単なるわがままなガキの身勝手さで国の運命を左右させていったことがよくわかって面白い。さらに毛沢東の影のサポータとして活躍した周恩來との関係についても、この本を見るとよく分かる。数多く周恩來に関する単独の本は存在するが、あまり人間臭い部分を覗かせた毛沢東と周恩来の関係を述べている本は無いと思う。そういう普段の人間では知ることが出来ない政治の舞台裏を、医者という立場ですべてを知ってしまった著者は、有る意味かわいそうだと思われる。肉体的には、いつ何時毛沢東から呼ばれるかもしれないということから、十分な睡眠は取れないし、旅好きだった毛沢東のわがままで予定未定の長距離旅行(表向きは視察)に付き合わされたり、女好きでセックス好きな毛沢東の性病を治すために数々のアドバイスをするが、言うことを聴かないわがままな患者につきあわされなければならないし。手術をする必要があるような病気に毛沢東が掛った場合も、毛沢東がもしいま死んだら、誰が今後の政権を握らねばいけないか、または握ることができるかという政治闘争が始まるから、側近から手術だけは許さない!と意味不明な抵抗に有ったりと、22年間の主治医としての生活はハード極まりなかったと思われる。
 中国共産党の歴史を知るためには、中国共産党が自ら出版した本を見るのは危険である。なぜなら嘘ばかりしか掛れていないからである。全世界が既に知っていることであっても、それはすべて嘘であると平気で言うし、党の指示はすべて正しいといわねばならないという脅迫観念で13億の人間を動かしている「人治国家」(通常の国家は法治国家)を続けるためには、内部的にはすべて正しいということにしておかないと矛盾が出てきてしまう。従って、外部の目で、むしろ、元々内部の人間だったが、現在は外部にでて好きなことが言える環境になったひとからの情報が一番重要である。本書はそういう意味では、内部の内部に入りこんでいて、その随時変化していく内容を正確に記載していることは驚きである。毛沢東の政治はすべて正しかったということにしたい中国共産党にとっては、悪書以外何者でもないと思いたいはずである。40年も経過した後にようやく文革は間違っていたと表明しているとんでもない国である。まだまだ毛沢東を批判できるほどの土壌は出来ないのだろう。毛沢東を批判すると言う事は、中国共産党の存在自体を否定することになるからである。一党独裁の基盤を今後も続けていきたいと思っている共産党政権には、まず出来ないことだろう。神格化して、やってきたことはすべて伝説ということにしておいたほうが、後世に毛沢東を宣伝させるためには良い材料だと思う。最近の中国の紙幣は、すべて毛沢東の顔写真になってしまっている。それまでは中国にいる50の民族の顔を載せていたりしていたのだが、毛沢東批判に繋がらないようにするための意思表示だろうと思う。
 
 1989年に有名な天安門事件が発生するが、これが「第2次」となぜ言われるのか、実はこの本を読むまで知らなかった。周恩来の死亡時にも、やはり天安門に民衆が集まり、軍の力で蹴散らした事件があったことがこの本で分かった。歴史は繰り返すとは言うが、1989年は民主化要求のデモであり、第1回目は4人組に対する反対デモであった。また、何度も政治的に失脚しているのにもかかわらず、後に党総書記に就任する鄧小平のこともここでは何度も出てくる。毛沢東は決して鄧小平を嫌っているわけではなく、政治的な闘争のために鄧小平を単に犠牲し、復活させるときには、周りのド肝を抜くようなポジションに持ってきて、本人のやる気を十二分に実力を発揮させたという、人の使い方に関しては卓越した能力を持っていたこともわかった。表向きの歴史は歴史としてしているべきであるが、その歴史が生んできた背景を知ることはなかなか中国の場合は難しい。難しいが決して知ることが出来ないというのではなく、こういう貴重な書類を通して実際に知ることが出来る。この本が嘘ではないという証拠は、すべてにおいて、事象・時間・心情の変化について矛盾点が存在しないことだろう。だいたいの嘘本は、矛盾する点が出てくるものだ。それがこの本には無い。無いと言う事は、すべて事実だからである。著者は毎日禁止されている日記を密かにつけていたことが、のちにこの本を出筆する際に大いに役立っているようだ。妄想ではここまで克明に書くことは出来ないだろう。

 是非、中国を研究している人、中国が好きだと思っている人、自称進歩的思想家とおもっている馬鹿、中国が嫌いだと思っている、誰もが全員この本をまずは読むべきだと思う。

実録越山会

 日本の戦後の歴史を語る上では、この男をはずして語ることは出来ないだろう。そう、誰もがしっている田中角栄元首相である。日本の高度経済成長にあわせた政治の有り方と、政治と民衆の関係を上手く作り上げてきた張本人であり、現在の首相である小泉純一郎首相が「改革」と称して行ってきたことは、簡単に言うと、この田中角栄が作り上げてきた基盤をすべてぶち壊すということを意味している。田中角栄が作り上げてきたものは、利権を作り上げることであったため、結果的に、小泉純一郎が行おうとしたことは、その利権にしがみ付いて多大な恩恵を受けていたひとたちからの、激しい抵抗であった。実に分かりやすいものである。利権をぶち壊すことで、その利権を多くの人に還元し、無駄を無くしていくという政治哲学が小泉純一郎にはあった。いまでは各種の抵抗勢力ができてしまっている基盤を、この本の中では適格に書かれている。

 「新潟県は田中角栄の「王国」である。いや、少なくともこれまでは王国であった。」で始まる本書の解説は実に端的に述べていると思う。田中が戦後第二回の総選挙でこの地に代議士として名乗り出て以来、新潟あっての田中角栄、田中角栄あっての新潟県の関係を保持してきた。田中角栄はこれまでの貧乏県であった新潟に飽く無き公共事業をこれでもかと国庫金の分捕り導入を図り、その選挙民はまた絶大な雹の上積みをもって田中角栄を中央政界に押し立ててきた。その王国の中枢を占めてきたのが、この本の題名にもなっている田中角栄の応援母体「越山会」である。

 話は脱線するが、現在の新潟県に注目すると、新潟と首都圏を結ぶ公共事業と称して作られたものは、すべて田中角栄が作ったものであることが改めて分かる。上越新幹線、関越自動車道、関越トンネル、国道17号線の整備、奥只見ダム開発、信濃川干拓工事などなど。他の地方にもやはり整備された道路はあるのだが、新潟県に向かう道路に関しては他の県に比べると雲泥の金をかけたあとがはっきりする。関越道路沿いの道路でさえ、そんなに車が多いわけでもないのに、どんな田舎でも片側に車線の道路が綺麗に整備されている。これも全部田中角栄のおかげである。しかし、同じ新潟県でも彼の選挙区ではない地域にいくと、他の地方と同様、道路もどうしよもないくらい整備もされていない。

 田中角栄はロッキード事件という賄賂で逮捕されるのであるが、あまり「田中角栄は悪い政治家だ」と言う人がいないのは不思議である。はっきり言えば、彼はみんなの相談役であり、アニキであり、指南役であり、実権行動派であった。田中角栄は政治的力量卓抜にして人間的魅力にたけ、戦後日本人の持つ体質をたっぷりと染み込ませた豊かなこのドラマチックな人間に、政治母体の越山会ならず、他の政治家も慕ってきたし、対決するひとたちも愛情を込めて批難していたように思う。外面は決して男前とはいえないのだが、見た目から「このひとはなにかやってくる」というような雰囲気は、彼がまだ現役ばりばりで活躍していた時にテレビで見ただけでも思った。

 民衆のやってほしいとおもっていることを全部聴き、それを実現してあげることで、1票を獲得する。「あの人に任せたらすべてよし」というこころを掴んでおけば、あとは田舎の人たちの性格上、親子・兄弟・親戚・知り合い等々の横のつながりが広がって、会員同士の鉄の結束ができあがる。民衆の心を掴むために、どんなに早く起きても、目白の大邸宅にやってくる陳情はすすべて聞き入れ、即座に関係省庁に電話一本で指示し、実現してしまうので、選挙区民にとっては、神様に思えたのは当然だろう。なんでもかんでも聞き入れるのではなく、すべての指示を覚えている記憶力により、陳情よりも逆に提案をもちかけていたことも驚きだ。そこまで「自分のためにしてくれている」という気持ちがわかれば、当然民衆も「次の選挙も田中角栄に入れる」という気持ちになるわけだ。だから、特に選挙運動をしなくても、いつも圧倒的ダントツで当選確実になっていたのである。娘の田中真紀子は、父親の基盤をそのまま受け継いで政治化になったのだが、民衆を重んじるわけではなく、単に政治利用にしていたので、すぐに飽きられてしまった。政治的手腕の未熟さが露呈にしたこともさることながら、選挙基盤の民衆を大事にしなかったことが選挙民の指示離れに繋がる。真紀子の場合、父親が特に有名で、すべての人が父親のところにやってきて、神様のように持ち上げてきたことを押さないときから見せられてきた。自分もそれを当然継承されるべき立場であるという考えがあるのだろうが、神様と思わせるようにするための努力を惜しんでいるため、周りは決して神様と崇めることはない。結果的に、真紀子の時代になり越山会は解散してしまった。

 政治の裏舞台や新潟県の発展の歴史を知るということでも重要な書物ではあるが、別の面として、いかに部下や周りの人や関係者を自分のなかに取り込んでいくかという手腕を書いている指南書ではないかと思う。田中角栄のようなブルドーザー性格であれば、周りはそれに応えるように対応してくれるだろうし、応えてくれるよう、日頃から細かいところに手が届くような見守りが必要であろう。一番見習わなければならないのは、すべて「おれの責任でやる」と、腹を括っているところだろう。何かあったら俺が責任を被るという意識は尋常の人間ではなかなかできない。大体の人は、困ったことが有った場合、そこから逃げたくなるものだ。これは真似したい。あとは、記憶力だろう。特にお金に関する記憶は人一倍だったらしい。是非、参考にしたい書物だ。

2006/08/23

音楽と記憶

 ある音楽を久しぶりに聴くと、その音楽が全盛期だったときに聴いていた状況を思い出すということはないだろうか?曲によっては、その曲を聴くと、その当時誰と何をしていたのかとか、そのときに何かをしようとしていたときの自分の心情がフィードバックしてきたりする。普段では、頭の隅にも覚えていない事象も、音楽を聴くことでremindされてしまうのと、音楽の種類や曲によっては、1年から数年も遡ることができるから不思議だ。例えば、一般的に、山下達郎の「クリスマスイブ」の曲を聴くと、曲名のとおりクリスマスの時期の自分の出来事を思い出すというひとは多いだろう。しかし、「クリスマス・イブ」は、数年テレビのCMで使われていたこともあり、「どの時期のクリスマスイブかを断定」することは個々人によっては違うと思う。さらに例をあげると、Tubeの曲を聴くと「夏を思い出す」という人は多いと思うが、夏は思い出しても、夏の何を思い出すのかはあまり具体化しないだろう。冬バージョンでいうと、広瀬香美を聴くとスキーの季節を思い出すというひともいるだろう。

 個人的に印象深い曲は数え切れないほどある。例をあげてみたい。ただし、乱筆で記載しているので、時代の新旧は全然気にしないでほしい。

TRF 「Ez Do Dance」 : カラオケ大ブームの時期にはよく歌われたこともあり、友達とカラオケに行くと絶対にみんなで歌っていた。これを聴くと、カラオケで馬鹿騒ぎしていた様子を思い出す。

globe 「Sweet Pain」 : これもコムコム大盛況の時代だから、カラオケが大ブームだった頃のこと。今では小室哲哉なんてどこにいったの?と思われているかもしれないが、当時は出す曲出す曲すべてヒットをしていた。この曲を聴くと、この曲をとても上手に歌った友達の女の子を思い出す。globeのボーカルkeikoよりも上手に歌っていたから。彼女もすでに結婚して子どもがいるという話だが、最近会っていないので、どうなっているのか知らない。

Dead or Alive 「You spin me round」 : 初めて組んだときのバンドが、いわゆるロックバンドではなく、いま流行りのテクノバンドの走り的なことを中学生のときに行っていたが、そのときにお手本としていたのが Dead or alive。他にもEraser や Pet Shop Boys やDepeche Mode 等とというユーロハウス系の音楽もあったのだが、なぜか自分達はDead or aliveを崇拝していた。決して売れたバンドではないが、その単純さが自分達に受けていたのだろうと思う。曲も簡単だったし、歌詞も簡単だったし、声を張り上げなくても良かったし。この曲を聴くと、当時バンドの練習をしていたときのことを思い出す。バンドの構成がほとんどキーボードとサンプリングミキサーしかなかったというのが、今となっては笑える。

Kraftwerk 「We are the robots」 : 今でこそKraftwerk命!といえるが、それまではBGMで使われるドイツのテクノバンドという程度しか興味が無かった。我が師匠のKraftwerk ML 管理者である方よりKraftwerk のアルバム「The Mix」を聴き、そのなかの曲がすべて知っている曲ばかりだったことから、改めて「いい!」とおもうようになった。Kraftwerk の数多い曲のなかで、何故この曲かというと、この曲には個人的には2面性の記憶がある。1つめは、なぜか会社のPCで「The Mix」を聴いていたときの様子を思い出す。なぜそんな状況で聴いていたのかは思い出せない。もう1つの記憶は、随分遡って、小学生の頃だったとおもう。おそらく We are the robots が発売された頃だと思うが、そのときに確か学習塾のBGMに使われていたのだとおもうが、そのBGMが流れているTVを見ている自分の光景を思い出すのである。

Madonna 「Hang up」 : 最近の曲だが、この曲を聴くと、1人の台湾人を思い出す。今年の6月に台湾に行ったときに、この曲を飛行機の中で聴いていたし、台湾で会った台湾人に会うまでの時間でも聞いていたのだが、そのときに、その台湾人を待つウキウキした心情や、台湾に行くまでの道中の楽しみという様子が思い出される。

蕭亞軒 「地下鉄」 : この曲は台湾人より教えて貰った曲で、それから蕭亞軒のベストアルバムを後に買うことになる。歌を聴いたときに、上手いなーという感想があったのだが、それより今ではすっかり音信不通になってしまった台南出身の日本語が話せた台湾人のことを思い出す。決してカッコいいわけでもない。実際に台南に遊びに行ったときにあった事があるが、その様子を思い出すのではなく、メールやチャットでのやりとりの様子を思い出す。

Yoji Biomehanika 「Anasthasia」 : これは新宿にかつて有った Club Liquid Room のクラブイベント「VIVA」でメインDJとして活躍していた Yoji Biomehanika の代表曲。この曲はそのVIVAでは絶対かかっていて、それがちょうど夜中の3時半頃、一番クラブとして皆がノリノリになってきた時間帯にかかっていたものだから、会場は全員テンション上がりまくり。23時ごろに入店してから朝一番の電車が動くころまで、Liquid Room で踊り狂っていたあのときの様子が思い出される。Yoji がまわすDJブースの先頭を陣取って、Yoji のデブった体を見ながら「なんじゃ、この変態オヤジは?」と思いながら踊っていた。

Gouryella 「Ligaya」 : 上述のYoji Biomehanika も Yoji version を出している原曲。オランダのDJである System F が別名を称しておねえちゃんを引っさげて組んだバンドGouryellaの代表曲。この曲のプロモーションビデオはとてもよく出来ていて、Kraftwerk の「We are the robots」に哀愁を感じさせるような映像になっている。この曲だが、なぜか聴くと、上海に始めていったときのことを思い出す。初めての大陸への旅行だったこともあったのだが、そのときに知り合った中国人 Alex (と称することにする)がとてもいい人で、滞在中彼がいなければ、きっと上海では路頭に迷っていたことだろうと思う。その上海で一緒に遊んでいたときの様子がよみがえる。いまAlexはオーストラリアのSydneyに留学している。中国人らしくない中国人だが、根がしっかりしていて、人の話をとてもよく聴いてくれるナイスガイだった。Sydneyでも頑張って欲しいものである。

戸川純 「好き好き大好き」 : こんな歌手はもう二度と日本には出てこないだろうと思う。元祖天然系歌手といわれていた彼女。歌のバラエティさは、天下一品だし、パンクともテクノともロックとも分類できないジャンルを確立し、アイドルとは一線を引いた歌手だった。普段からクスリでもやっていたんじゃないの?と疑われていたくらい、目の焦点が合ってないような動きをしていたのが印象的。曲との関係だが、この曲を聴くと、音楽好きの友達を思い出す。人間としてはまともな人間ではないのだが、「猫人間」と称すれば納得がいくような人。好きなことだしかせず、他のことには興味が無い。困ったときには悩まず、他人に任せる。誰かサポータが居ないと、死んでしまうような人間。そういうひとだ。その「猫人間」と一緒に旅行に行って、なぜか部屋のなかでボーっとしているときの様子を思い出す。

The Shamen 「Eberneezer Goode」 : これは高校だったとおもうが、高校でのクラブイベントの際に、DJに頼んで会場に流して貰った曲。そのクラブイベントの曲調とは基本的に異なっていたのだが、この曲を流すための雰囲気作りとして、数曲を流してこの曲に辿り着くようなDJのレコード選びをしてくれたことに感謝。この曲が流れたときに、会場が超盛り上がったのは言うまでも無い。そのときの盛り上がりの様子を思い出す。

「律動体操」 : 北朝鮮って、馬鹿馬鹿しい国だというようなことを紹介していた番組「ブラックワイドショー」というのがあったが、そのなかで紹介していた曲。日本の「ラジオ体操」に相当する体力増進用のテレビ放映用の曲だったのだが、その体操の動きが笑えたので、一躍日本では有名になってしまった。曲調も、古めかしい北朝鮮っぽい、社会主義的な匂いのする(いいかえれば、人間的ではない)曲だったことも有名にした要素かもしれない。この「律動体操」を聞くと、テレビを思い出すのではなく、この曲を聴きながら飛行機に乗っていた状況を思い出すのだ。いつの旅行だったか忘れたが、機内の音楽番組があまりにもつまらなくて、しかたなく自分で持っていたmp3プレイヤーで聴いていたときの中途半端な光景が思い出される。

他にもいろいろあるのだが、きりが無いので、これでやめる。

橫濱同志情趣賓館

 普通的情趣賓館呢,特別是在郊外,有著一般賭場和夜總會令人注目且奇特的設計,所以不難讓人了解一看就知道是情趣賓館,而且他們大都座落在交流道附近。但是有一點,目前的情趣賓館並不是不讓同性情侶入店消費,而是每一間店家有著他們不同的管理地方,比如說會把房間搞得一團亂之類...的問題。且G片的內容與一般性愛之間的差異以及誤解這樣性愛的方式的白癡也似乎變多了,所以他們搞肛交,看著錄影帶的內容有樣學樣才是把房間搞髒的主因。算了,這樣的情侶只是一小小部份而已。

 大致上來說,喜歡上賓館的GAY情侶日本各地都有,只是多數都是在東京或近郊地區。以最為有名GAY天堂,新宿二丁目好了,當中就有好幾間都是GAY在去的賓館,問哪個GAY哪一個都嘛會知道。但是這次不提到東京,這次要介紹的是位於横浜的旅社,在横浜的旅館街上,劈頭全都是像之前說的情趣賓館一樣,GAY基本上是不會在那邊消費,但野毛地區也是充斥著大大小小的旅館,如果以車站來舉例的話,就像是JR線的櫻木町車站或是京急線的日出町車站。但是在這樣不足為GAY所樂道的地方,事實上當中的PUB或是酒店卻依舊有名,從之前開始,你可以在這邊見到所謂紅線地區的一部份,或是之前所遺留下來的名勝。紅線地區簡單來說就是之前的紅燈區,你也可以講是買春街,顧名思義也就是買妹妹來玩的地方,跟所謂藍線地區,買哥哥來陪的地方不一樣喔!像這樣比較不為一般人聽得懂的“雙關語”在日文當中還蠻多的,那我來介紹別的好了。像新宿的二丁目一樣的地方,在野毛地區也是有蠻多GAY BAR,不過兩者不同點為在新宿的時候,大大小小幾乎都是GAYBAR或者是酒吧,但是在野毛地區的話,要挑門有掛上“會員制”三個字的店家才是所謂的GAYBAR。

 在GAY會去消費的旅館當中ING為翹楚,這裡你可以挑選休息三至五個小時的方式,基本上五個小時5300日幣,都還是合理範圍內的價錢。入口有兩層,進去之前要先付錢,房間的樣式就看你付多少錢來決定樣式,你可以就你的價錢來選擇你喜歡哪一間房間,此外,房間也比一般你所知道的套房有著寬廣的設計,全部都是古式的設計,沒有任何累贅或多餘的裝飾。浴室相較之下,對於想要有寬闊做愛空間的人是不錯的選擇,而且根據房間的不同,浴室會放置有墊子或情趣椅,床舖當然是雙人床,床的邊邊都會有保險套。最近還會有潤滑劑放著備用,電視方面會播放一般地方電視或是第四台,也會播放A片不過不是G片就是了!當地節目的播放受到當局的管制,所以有看跟沒看一樣。你要在房間裡怎麼玩那是你家的事,沒有限制。不過以前在旅館的前面都有放著一堆漫畫書,但是現在好像怎麼都不見了。

住所 : 神奈川県横浜市中区福富町西通46

 接下來要介紹的旅館是エスター,跟先前介紹的ING比較起來,比商務旅館的層次還要再平價一點,牆壁不厚,也稱不上是華麗,不過到了週末假期,價錢卻是便宜到爆,十六個小時,看你要怎麼用,只要3900日幣。如果是有價錢上的考量,這會是個不錯的選擇。但這間旅館不知怎麼搞的,一到星期天,全部都是要看賽馬轉播又不想花大錢開房間的老伯伯。年齡層變化超大,在旅館的邊邊也有馬票的販售台,通常喜歡看馬賽的人,會在購票處的旁邊觀看賽事,但是由於人擠到一個不行,結果就是看不太到。這時候情趣旅館的房間裡也是漸漸充斥著這樣的人。從飯店業者來看,處理為了看賽馬跟為了做愛的顧客倒也是樂事一樁。旅館的前方也是很多東西很好吃的餐廳,但是因為出入跟來往的人太多了,你想要進去旅館消費,搞不好你要心臟夠有力才能如願以償。

住所 : 神奈川県横浜市中区野毛町2-71-12

======================================

日本語で上述の文章を書きます。


普通のラブホテルは、特に郊外にいけば、キャバレーやカジノのような目立った装飾の看板と奇抜なデザインのホテルが目に付くので、すぐにそれがラブホテルだとわかる。だいたい、高速道路のインターチェンジ付近には多い。しかし、ラブホテルが全部ゲイカップルの入店を許しているとは限らない。大半は許していない。理由は各店によって異なるが、多くは、部屋を汚く使ったということが理由として多いようである。ゲイビデオを現実のプレイと勘違いしている馬鹿が多いようで、ビデオのプレイ方法を真似て、部屋のなかでスカトロプレイをしたりする知能指数が低い奴らが、部屋を汚した原因のようだ。まぁ、こういう馬鹿カップルは一部だと考えたい。

一概にゲイ御用達のホテルは日本各地に存在するものだが、やはり東京およびその近郊は多い。ゲイタウンである新宿2丁目の中にも数軒あるし、ゲイなら誰もが知っているホテルというのも存在する。今回は東京ではなく、横浜のホテルを紹介したいと思う。横浜のホテル街は、冒頭のように郊外に通常のラブホテルが多いが、ゲイにも利用できるホテルはそんなところには無い。野毛と呼ばれる地区にそれは集中されている。駅で言うと、JR線なら桜木町。京急線なら日出町である。この野毛地区は、実は飲み屋街とするほうが今では有名だ。従来は、いわゆる「赤線」地区のひとつだったところで、いまでもその名残が色々な箇所で見ることができる。「赤線」とは簡単に言うと売春街である。売春街でも「女性を買う」エリアである。「男性を買う」エリアを日本語では「青線」と言う。こういう隠語は結構日本語にはあるので、別に紹介したいと思う。新宿に「2丁目」という巨大ゲイタウンがあるように、野毛もゲイバーが多く点在している。二丁目の場合、ほとんどすべてのバーがゲイバーであるが、野毛の場合、必ずしもゲイバーとは限らない。店の入り口に「会員制」と書いてあれば、それがゲイバーである。

ゲイでも入れるホテルの代表は「ING」だろう。このホテルは、休憩利用の場合、3時間/4時間/5時間の3種類のコースが選べられる。値段は5時間利用で5300円。かなり値段はお手ごろだ。ホテルの入り口は2階にあり、入店の際に先に支払いをする。部屋のタイプは支払いの前に、自分が好きなタイプの部屋を選べるようになっている。さて、部屋だが、比較的広い部屋の作りになっているが、全体的には部屋が古いので、贅沢な落ち着きを得ることは出来ない。お風呂場は、お風呂場でプレイができるような配慮から、比較的広い。部屋によってはお風呂場にプレイ用のマットやエッチ椅子もあったりする。ベッドは当然ダブルベッド。ベッド脇にはコンドームも用意されている。最近は、ローションも用意されていたりする。部屋のテレビは通常の地上波は受信できるし、衛星放送も受信ができる。エロチャンネルのケーブルテレビも受信できるのだが、ゲイビデオが流れるわけじゃない。テレビ放送なので、当然局所部分には暈しが入っているため、見るに値しない。そこでどのようなプレイをするかは、ご自由に。ホテルのフロントには、以前は漫画が大量にあったのだが、最近は無くなったみたいだ。

住所 : 神奈川県横浜市中区福富町西通46


続いてのホテルは「エスター」。こちらは先ほどのINGに比べると、ビジネスホテル以下のホテルだ。壁は薄いし、部屋はお世辞にも綺麗とはいえない。ただ、週末価格だと、16時までのフリータイム利用で3900円の格安料金だから、値段を考えると丁度良いと思う。このホテル、なぜか、日曜日になると、競馬中継をじっくり部屋の中で見たいというおっさんたちが普通にホテルに入ってきたりするので、すこし客層が変だ。ホテルの傍に、馬券購入所があり、通常競馬好きな人は、その購入所の傍で競馬中継を観戦するのだが、混んでいるので落ち着いて見られない。そこでこういうラブホテルでゆったり競馬のテレビ中継を観戦するという人が多いようである。セックスを目的としてホテルに来る人と、競馬中継を見るためにホテルに来る人の混在は、ホテル経営者から見ると笑えると思う。ホテルの前には、結構美味い料理屋があり、そこの店は繁盛しているから、このホテルに入るときには、少し勇気が必要かもしれない。

神奈川県横浜市中区野毛町2-71-12

2006/08/22

中国語のチャット

 語学を勉強するためには、テキストによる語学の勉強もひとつの方法だが、その言語を母国語としているひとと仲良くなることも1つの習得方法だと思う。中には、「恋人を外人にしたほうが、絶対に上達は早い」と言われているのも有名な話だ。仕事で利用しなければならないという、切羽詰った状況である場合も、語学は大変上達が早いと思われる。別に仕事でも使うわけでもないし、人生が掛っている状態ではない人の場合には、なかなか後押しされる出来事がないと上達は難しいが、気軽に上達できる方法として、最近はネットを使ったものがあげられるだろう。

 そもそも、昔は全然中国語には興味が無かった。漢字ばっかりだし、発音はわけがわからないし、テレビに出てくる中国人はうるさいし、粗悪だし、ルールは無視するし、こんな人たちとは絶対に仲良く慣れるわけがないと思ったので、海外旅行に行くにも対象から全く離れていた。しかし、2001年5月に初めて台湾に行ったときに、この印象は全く変わる。台湾を中国の1部だということは個人的には考えていない。地理と歴史を知っている人は当然分かっていることだが、政治的に関わっている人は是に関しては難しい立場になると思うので、「中華は1つである」というアメリカのニクソン大統領の言葉を引用して、台湾を中国の一部と見なしている人も多いのは事実。その台湾に行ったときの印象が、「ここは日本か!?」と思うくらい文化的だし、台湾人は日本人なみに礼儀正しいし、治安がとても良いし、なんと行っても食い物に困らず、すべてが美味い。そして、最初に訪問したときに、普通に歩いている人たちがとっても親切だったので、本当に日本の田舎にきたような感覚になってしまった。それから台湾にのめりこんでしまうわけだが、まさか今となってはこんなに台湾に対するリピーターになっているとは思っても居なかった。

 何度か台湾にいく機会が増え、書物で台湾のことを知るようになると、台湾人と仲良くなりたいと思うのは当然の欲求であろう。手っ取り早いのは、台湾人のチャットに出入りすること、台湾人がよく出入りしている掲示板でwantedを出すことなどなどが考えられる。今考えると、当時、どうやって台湾人といろいろコンタクトを取ろうとしたのか忘れてしまったが、いまでもたくさんの人たちとの交流は、これまでのやりとりで増えてきた結果だと思われる。大概の台湾人は、哈日族と呼ばれる日本大好き人間と言われる人たちなので、大変好意的だ。しかし、必ずしも、彼らが全員日本語ができるわけではない。だから、ネットでのやり鳥をする場合、日本語が出来る人とは、日本語で行うが、多くは英語でやりとりをする。しかし、日本人と同様、台湾人でも英語が苦手な人は居るわけで、そういう人は、自分の意思を表現するとなると、やはり母国語である中国語で表現しようとしてくる。中国語の基礎さえも習ったことがないこちらとしては、漢字の羅列をいきなり目の前に出されると、「どういう意味!?」と最初は戸惑う。幸いにも、台湾の漢字は繁体字であるため、日本で言う旧漢字と同じだから、文法や語彙の表現は別にして、漢字単体を見たときには、見慣れているものであるから、なんとなくどういう意味なのかは想像ができる。これが大陸の漢字の簡体字の場合は、漢字そのものが全く見たこともないものだったりするので、まず「この漢字は、日本のどの漢字に相当するものか?」ということから翻訳しなければならない面倒くささはある。その点、台湾の場合は、この「漢字の変換」が必要ないので、単純に言葉の意味を検索すればいいだけだから、楽である。最初は難しいなとおもったが、何人もの台湾人と中国語の表現で書いてきた場合、だいたい意味がわかるようになってきた。こちらはまだ中国語での表現ができないので、英語で返答する。日本人と同様、通常の教養があるひとであれば、「英語を読むのは可能」というひとは大半なので、意思の疎通は可能である。

 同じような漢字だし、漢字文化圏のなかにいるわけなので、ある程度は意味が理解でき、日本人としてはその意味を想像するのは簡単であるが、やはり違う言語であるため、同じ漢字でも全く意味が違う場合も往々にして存在する。それは台湾人から「こういう意味だ」と教えて貰うことでこちらは勉強できる。こんなやりとりを時間をかけたことで、いまではすっかり80%くらい、中国語で書かれた文章は読めるようになった。まだまだ口語や社会的な語彙などについては難しいところがある。特に、日本語で言うカタカナ表現をする場合も、中国語圏ではすべて漢字にするので、訳がわからない場合も多い。そういうのを除けば、だいたいいまではすっかり文字による台湾人とのやりとりは可能になった。ところがやっぱり中国語で意思表示をすることはまだまだ苦手である。反復表現や簡単な表現の場合は、答えられるが、日本語のような自由度が無いので、中国語での表現は難しい。また、台湾人も含めて中国語圏の人たちは、自言語に対する間違いは厳しく指摘する傾向があるようだ。日本語を話そうとする外国人に対して、日本人はあまり「それは間違っている。こういうべきだから、直せ」という人はほとんど居ないだろう。ところが台湾人・香港人・シンガポール人・大陸人と、地域に関係なく、中国語を母国語にする人は、少しでも違うと「違う」と指摘するのが嫌である。何でもかんでも「違う違う」と指摘されると、相当のどMでない限り、金輪際中国語を使うのをやめようとおもうはずだ。言い換えれば、それだけ自国語に対して自信がある、言い換えれば、自分に対して相当の自信を持っている人たちの自己表現の1つであるから仕方ない。

 チャットの場合、日本語でも同じだが、大体は相手に口語を使ってしまうことが多い。口語はなかなか授業でも書物でも出てこない領域なのではあるが、生の言語を知ることが出来るので、知っていることは重要だと思う。ところがあまりにも口語表現が多いと、frankに会話はできるが、教養や知性の無さを露呈してしまうことになるため、あまり使いたくない。言語学習者にとっては、正しい表現も満足にまだできないときに口語を知ることはいけないことだと思う。だから、できるだけ、今でも中国語を母国語とする人には「口語は使わないで」とお願いしている。それと、もうひとつ、漢字文化圏特有のチャットとして、「同音発音の異漢字使用」があげられる。日本語でも漢字を間違って使っているときが多いが、これが中国語を母国語にするひとにも存在する間違い行為であることがわかるようになった。中国語では同じ発音だが、漢字が全く漢字を使われると、日本人には全く訳がわからないという場合がある。なぜなら、同じ漢字に対する中国語の発音と日本語の発音が全く異なることが起因なのだが、間違った漢字を書かれた場合、元の漢字を想像することが日本人には発音の違いから出来ないということがあげられる。発音に精通している人なら、「これは、もともとこの漢字を書こうとして間違っているんだな」と想像できるが、あまり発音を知らないので、間違った漢字を書いてきた場合、そこで一瞬会話が止まってしまう事が結構ある。発音を勉強できるという前向きの考え方もあるが、基礎知識がない状態だと、混乱するだけだ。

 それでも言葉は生ものであるため、自主勉強のためにもこれからも中国語をどんどん勉強していきたいとおもう。ただ・・・日本にも中国語を教えてくれる人が身近にいればいいのだが、残念ながら「金を払う人」以外に、そういう優しいひとに出会うことがいまのところないのは寂しい。漢字に付いて言えば、まずは繁体字から漢字を知り、そのあとに簡体字を知りたいと思う。

海南鶏飯

 別のサイトには記載したことがあるが、ここではもう少し長く記載したかったので、改めてこの店を紹介したいと思う。勤務地がある神田神保町界隈は、書店の街、特に古本屋の街として世界的には有名なところではあるが、だいたい大きな出版社はこの界隈に存在する。神保町は書籍類だけでなく、スポーツ店がメインどおりの靖国通り沿いに至る所で乱立してもおり、有名大学がたくさん密集しているため、学生がたくさん見かけるところでもあるし、 楽器屋もたくさん軒を連ねているので、ミュージシャンまがいのひとたちもたくさん歩いているのを見かける。そんな遊びに関しては尽きることがない最高の場所である神田神保町は、グルメの町でも有名なところだ。最近有名なのは通称「カレー激戦区」と呼ばれるようになったように、カレー屋がめちゃくちゃたくさんある。同じようにどこを見ても多いのは、中華料理屋である。中華料理屋が多い理由は実はあるが、ここでは今回言及しない。

 さて、その何でもかんでも激戦区の神田神保町でお勧めしたいのは、表題のとおりの「海南鶏飯」であろう。最近出来たのだが、シンガポールで有名な海南鶏飯がまさか神田神保町で食べられるとは思っても見なかったので、発見したときには感激したのと同時に驚愕した。店の名前の読み方は中国語読みと同じように「ハンナンチーファン」となっている。中華料理の店はたくさんあるが、少し中華に似ているシンガポールの料理を日本でも食べれることはないと思っていたが、シンガポールに行ったことがある人は「これ、これ!これこそ、シンガポールの味」とわかると思う。

 そもそも店の名前として使われている海南鶏飯は料理名の1つなのだが、それは、海南省出身者の人たちが故郷海南島の味を元に、移民先のシンガポールを中心とした領域で発展させた料理である。台湾には鶏料理で有名なものとして、鶏肉飯があるが、それとは全然違う。鶏肉飯の場合は、日本の牛丼と似ていて、丼の中にご飯を敷いて、その上に鶏肉を載せたものという単純明快な料理であるが、海南鶏飯はもう少し奥深い。もちろん、鶏肉の蒸し方については鶏肉飯と似ている作り方をしているので、これはとても美味しい。違う点はご飯に対する作り方である。鶏肉飯は日本の米と同じようにインディカ米を使っていて、ご飯のモチモチした感触を鶏肉と一緒に楽しむというつくりになっているが、海南鶏飯はタイ米を使っているので、インディカ米のようなモチモチ感は全然無い。その代わりに、ご飯を炊くときに、レモングラス、ごま油、ガーリックオイルを混ぜて、それを鶏がらスープで炊くため、ご飯は独特の風味を持ったものになる。これが鶏肉と一緒に食べると、口の中が鶏味で満足になるので癖になる食べもののひとつだ。

 この店は店の名前の海南鶏飯のほか、シンガポールでは代表的な料理である、 骨付きのブタのバラ肉とニンニクを煮込んだスープのバクテー(肉骨茶)もあるし, 米粉から作った白い麺(ビーフンよりも太く、小麦粉の麺より腰がない)で、ココナツミルク入りの甘めのカレースープベースのラクサも当然ここでは食べられるし、シンガポールで売られている味を忠実に再現しているので、是非試して欲しい。見た目よりもすべての料理があっさりしているので、日本人の味にあうとおもう。ただ、香草が嫌いな人は少し抵抗感があるかもしれないが、タイ料理が以前ブームになっている日本人にとっては、その香草もあまり今では抵抗感がないのではないだろうか。

 この店、なんだか怪しいなーという点が1つある。店の雰囲気とか味とか店員とかではない。シンガポールの観光パンフレットが、入り口、壁、会計する場所、そして店が二階にあるのだが、二階へあがる階段の下にも置いてあるのだ。「ここはシンガポール政府の回し者か!?」と思ってしまうくらい宣伝宣伝ばかりである。確かに、シンガポールは1度行けば二度行くような場所ではないとよく言われる。つまりリピーターが少ない場所として有名なところである。もともと何にも無いところに強引に何かを作ったので、見所は1度行けば十分だというのが本来の結論であるが、シンガポール人に言わせると、「シンガポールは国が小さいから」と思っているらしい。だから、シンガポール政府は、狭い領土内に、これでもかと人工建築物・人工観光スポットを作っているが、そんなものを見るためにわざわざ何度もシンガポールに行こうという人はない。やはり昔からシンガポールは単なる中継地点でしかない場所なのを早く見切って欲しいと思う。政府としてはそんなことから脱却したいと思って、シンガポールに行けば、他の何処の国にいくこともなくすべてのことが体験できるということを触れ込みに、あれやこれやと宣伝しているのだが、目が肥えている日本人には無駄な努力だと思う。シンガポール政府観光局へパンフレットを取りに行くより、この店にきたほうが実は頻繁にパンフレットを変えているので、結構楽しめると思う。

盂蘭盆假期結束了

盂蘭盆會的假期終於結束了,從這星期開始通常是回到日本的時候.

但是,上週還在假期的時候呢,東京人不知道是不是整個大遷移似的,人整個都變少了,不過卻多了 好多白目到不行的年輕人。

跟不知道從哪個鳥地方來的人,特別是在新宿地區,來東京的土包子多到爆點,走路的速度一看就知道不是本地人。

二丁目也是一樣,被視為gay夢想中的地方,去那邊的也都是有這樣芭樂想法的人。

雖然我認為跟不知道從鄉下地方來的gay,是還蠻爽的,不過想起來真的還蠻噁的!

2006/08/21

幻の珈琲

 インドネシアのスラウェシ島(Sulawesi)のカロン地域で作られた珈琲豆のことを指す。熟した豆を1粒1粒丹念に摘み取り、丹精こめた精製工程を経て、大粒で味、香り、コクの3拍子揃って上質の豆だけをセレクトしたものが、グルメ珈琲として名だたるものになった「カロシ(Kalosi)」。有名なブルーマウンテンが西インド諸島の王様ならKalosiは東インドの女王と言える。6月から8月は豊な雨に促され、ジャスミンのような香りを漂わせた白い花が咲くようだ。緑深い肥沃な大地と澄み切った青空から降り注ぐ太陽が白い花を赤く熟した実に変え、12月にその収穫期を迎える。

 オランダの植民地時代の1696年に初めてインドネシアに珈琲が植えられ、スラウェシ島には1900年に農園が開かれ栽培が始まった。スラウェシ島はインドネシアの中で2番目に大きな島で、アルファベットの「K」の字に似ている形をしている。面積の割りには山岳地帯が多く、他に大きな島であるスマトラ島やジャワ島に比べて平地が少ないし、そのため農耕面積が少ない。熱帯地方に位置しながら、海抜1000mから1500mの山岳地なので、年間通じて温帯気候に近いところであるところが珈琲の栽培に適切だったことで、生産初めから生産量は少なかったにも関わらず、ヨーロッパと地元スラウェシで飲まれていたに過ぎなかったが、その濃厚な味わいはヨーロッパで大好評だった。しかし、第二次世界大戦で統治国オランダが本国の存亡危機になり、それに伴ってプランテーションの農園も放棄されるようになり荒れるがままの状態になった。そこで戦後しばらくの間「幻の珈琲」と言われるようになった。戦後独立したインドネシア政府は、民間の会社に委託して農園を復旧させ、かつての名品をここでよみがえらせたのである。

大相撲台湾巡業


  大相撲台湾巡業が8月19、20の両日、台北ドーム(台北小巨蛋球場)で行われた。力士42人が優勝賞金1000万円を懸けたトーナメント戦を行われた。今回の巡業は、第二次世界大戦後初の台湾巡業で、1993年6月の米国サンノゼ、ハワイ場所以来、13年ぶりの海外巡業。しかし、戦前の日本統治時代には、たびたび台湾巡業が行われていたようで、今回の台湾巡業は1936年以来のなんと70年ぶりだそうだ。さすがにその時代の巡業を覚えている人は数が少ないようではあるが、最近の大相撲は日本人だけではなく、朝青龍を初めとする外国人力士も多くなり、海外にもテレビ中継がされているものだから、台湾でも当然人気があると当初から予想されていた。ふたを開けてみたら、案の定、大人気で大好評で、2日間のチケットがあっという間に売切れてしまう大盛況だったようだ。NHKの国際衛星放送が台湾では普通の家庭でも見られるため、大相撲は元来より台湾では人気があったようである。ところが、今回の台湾巡業は、本来は「台湾公演」として行われる予定ではあったが、「公演」とした場合、台湾政府による招待という意味になるため、これでは中国を刺激してしまうという配慮から、台湾の民間企業が日本相撲協会と興行契約することで実現したという裏話だ。しかし、実際には、陳水扁台湾総統と公式表敬訪問をしているし、台湾国内では国賓扱いとして、あちこちに招待されていたようである。台北101の展望台に登ったり(意味不明)。台湾としては世界一の建物を自慢したいというところだったのだろうが、力士がたくさんあの屋上にいる様子を想像すると、さすがの台北101も倒れるんじゃないの?と心配になってくる。余計なお世話だと思うが。そんな力士達は、台湾滞在中、パパラッチの取材攻撃にヘキヘキしたらしい。台湾にはテレビ局がたくさんあるため、どの局も「特ダネ」を狙って、終日力士の一部始終を追い掛け回しているようだ。興行が終わったあとの「お疲れ様飲み会」にも密かに侵入して、どの力士がどんだけ飲んでいるとか、ある力士が女性の腰に手を回してお持ち帰りした(実際には、奥さん)とか、それを連日報道しているらしい。それほど、大相撲が注目されていたという結果では有る。台湾の報道機関のあまりにも酷いパパラッチを対応するために、力士達は同行した家族とは別のフロアで、全員軟禁状態で監視されていたらしい。今回利用されたのは、台北のシェラトンホテル(台北喜來登大飯店)のようで、台北では5梅(台湾では星のかわりに梅がランク表記に使われる)ホテルに相当するホテル。
ちなみに、優勝はやっぱり朝青龍で、優勝金のほか、優勝商品としてマンゴー100kgが贈呈されたらしい。マンゴー100kgって、日本に持って帰ると、すごい値段で売れるが、一気に貰っても食べられないと思う(汗)

2006/08/20

高校野球


夏の全国高校野球選手権が連日熱戦が行われているが、今日決勝戦が行われた。しかし、投手戦になってしまったために、1対1のまま延長15回を終了しても勝負がつかず、結果は明日再試合なった。今回決勝に進んだのは、世界の王貞治を輩出した西東京地区代表の早稲田実業高校と、南北海道代表の駒澤大学付属苫小牧高校。早稲田実業(通称・早実)は高校野球選手権が始まったときから参加している伝統高校。野球はとても強くて、過去甲子園に春夏あわせて45回も出場している。ここ数年は低迷していが、過去に甲子園で活躍した人たちは、有名人ばかりというから凄い。高校野球選手だけでなく、この高校出身者の人たちは結構多く、意外なところでは、音楽プロデューサの小室哲哉やお菓子のロッテグループ総帥である重光武雄がこの高校の出身者である。名前に「早稲田」と書いているとおり、当初は違ったのだが、現在では日本の私立大学の雄である早稲田大学の付属高校である。ゆえに、応援歌も早稲田大学の応援歌と同じである。「都の西北~♪」ではなく、「覇者・覇者・早稲田♪」で有名なメロディは、早稲田のトレードマークになっている。早稲田大学出身者のひとたちは、高校野球の試合中、なんどもスタンドからの応援で聞こえてきたこのメロディに、一緒になって聞いていたに違いない。かたや、駒大苫小牧高校の場合、暑さに弱い北海道といわれながらも、ここ数年は野球がとても強い高校というイメージがすっかり定着し、夏の高校野球選手権については、2年連続で優勝しているからすごい。競合同士の試合なので見ているほうもおもわず力が入る。
 高校野球といえば、昨年の春の高校野球選手権で、はじめて甲子園に応援に行った。このときの様子を記載したいと思う。戦前は強かったという噂しか聞いていなく、戦後になっては甲子園からは無縁の学校だといわれていたところが母校なのだが、昨年から始まった「21世紀枠」という特別なルールで、戦後初めて甲子園に出場した高校である。名前は高松高校。ニュースで「高松高校の甲子園出場が決まりました」というニュースを見たとき、「うそでしょう?」と思った記憶がある。甲子園は野球が強いチームが出場するところで、とてもお世辞では野球が強いという状態からは離れていた学校だけに、高松高校出身者の誰もが冗談だとニュースをみたときに思ったに違いない。春の甲子園の試合は3月中旬からと決まっているため、話題になっていたのは確か年末頃の話だと思う。その頃から、応援に行くべきかどうかということを高校の友達とも話をしていたし、同窓会事務局のほうからも「母校が出場しますので、寄付をよろしくお願いします」という通知も届き始めた頃だと思う。2月頃になって、本格的に応援にかけつけるための動きが始まり、仕事も年度末近づくと忙しくなるのだが、そんなことは放っておいて、応援行きについてが重要課題に個人的にはなっていた。応援にかけるけるためにチケットを配り始めたという話を聞き、さっそく事務局に連絡。早い者勝ちだったので、とりあえず家族分を予約しておく。どうしようかと迷っていると、きっと、おうえんにいきたいひとはいるだろうから、チケットもなくなるだろうという早めの判断だった。しかし、この判断は後になったら適正な判断だったことが分かる。試合が土曜日だったから、なおさら応援に駆けつけたいという人たちが多かったことだろう。試合に先だち、前日に甲子園近くのホテルに泊まることにした。試合当日、朝一番の新幹線で東京へ向かうことも考えたのだが、試合会場では絶対に指定席ではないので、遅めで行った場合、いい席が確保できない可能性があるからだ。父と東京から新幹線で前日に乗り込む。母は体調が悪かったので見に行かなかった。弟は名古屋に住んでいたのだが、試合を見るためにチケットの確保をしていなかったらしく、こちらで用意したことを電話連絡したら、「絶対行く」と言ってきた。当日、朝一番の新幹線で甲子園球場まで行くといっていたので、改札口で待ち合わせをすることにしたのである。第一試合であったため、朝早い時間から乗り込んでいる人がすごいたくさんいた。前日、バスで高松からやってきたという現役の高校生500人も到着していた。バスの台数で120台らしい。すごい。よくもチャーターができたものだとおもった。それもそのはず、高松高校は、香川県の中枢で働いている人たちがほとんど母校としているところで、香川県の会社の社長のほとんどもこの学校の出身。母校のためならなんでも協力すると協力を惜しまなかった、地元バス会社数社の社長の鶴の一声で、観光バス全部がこのとき、甲子園に向けて出発したのだそうだ。バスもそうだが、スタンドの応援として集まってきた人たちの人数も凄い。なにしろ、1891年に創立して依頼、大量に卒業生をだしている高校であるから、集まってくるのも大量である。一生に一度のイベントだからと思っている人たちも思っていたことだろうから、集まり具合がとてもすごかった。甲子園常連校とは異なり、応援の仕方がわからないとか、まとまりが無いという心配はあったが、その年の甲子園応援賞というのをもらったくらい、スタンドでは一丸となったのは嬉しいことだ。肝心な試合は、相手との強さの差を見せ付けられて、さっさと負けたのだが、応援していたひとたちは、祭りとして楽しんだと思う。
 野球の人気が低迷だと言われているが、それでも高校野球についてはまだまだ人気がある。それは高校生が純粋に勝負に対して一生懸命になっていることも考えられるが、地元の県を代表として戦っているというのが、地元密着型として、出身校とは関係ないのにその県の代表を応援してしまうというのが考えられる。今日負けたら明日の勝負はもう無いという、切羽詰った状態で勝負をしているところに感激があるのだろう。プロ野球の場合、スピード・技は断然素晴らしいのだが、選手自体に緊迫感がないのが人気低迷の原因なのかもしれない。

台湾国立博物館


 JALカードの会員誌「Agola」には、JALグループの航空会社である日本アジア航空(JAA)が台湾に就航している関係上、毎月の誌面上に台湾のことが紹介されている。最新号の2006年8月号には、国立台湾博物館の記事が掲載されていた。
 人口260万人を数える台北市の中心部。二二八和平公園と名づけられた公園には、亜熱帯特有の濃い緑の樹木が生い茂る。そんな中でどっしりとした構えを誇る大型建築が国立台湾博物館だ。
 この建物の竣工は1915年3月。翌月には開館式典が挙行されている。竣工以来、台湾における近代建築の白眉とされ、注目を集めてきた。現在は国家が指定する文化財になっている。
 館内は3階構造となっており、メインとなるのは1階と2階。現在は企画店が中心となっており、常設展示は少ないが、展示内容は幅広く、自然生態から地質鉱物、生物、歴史と多岐にわたっている。いずれも台湾本島とその周辺地域のものが集められ、日本との関わりが感じられるものもあって興味が尽きない。特に古地図や蝶類に関する特別展は人気が高い。遠足や社会科見学などで訪れる子どもたちはもちろん、外国人旅行者でも十分楽しめる内容となっている。
 博物館周辺には、台湾で最初に走った蒸気機関車や戦前の銀行建築、オフィスビルなどの歴史遺産として保存されている。将来的にはこういったものを複合させ、博物館を中心とする知的空間として整備していく予定だという。博物館の三階には将来像を紹介している特別展示質が設置されている。
 また、建築そのものとしても見所が多い。この建築は台湾では珍しいギリシャ風建築様式で、上部のペディメントと列柱が目を引く。まるで神殿のような迫力だ。そして、玄関を入ると、吹き抜けとなった正面ホールに圧倒される。天井には大きなステンドグラスがあり、美しく輝いている。用材にはすべてイタリアから運び込まれた大理石を使っているという贅沢さだ。
 台湾駅に近く、交通も便利な定番の観光スポット。しない散策の際にはぜひ足を運んで貰いたい。
 
 ついでに言うと、Agolaの台湾に関する記事を見るたびに、JR東海のCMではないが、「そうだ、台湾に行こう・・・」と思うのは何故だろう?自分がもしかしたら、祖先が台湾人だったのではないか?と勘違いするくらい、台湾には愛着がある。台湾に関することは、適宜blog上にも記載していこうと思う。

Louis Vuitton Wallet

Monogram全盛であるのは今に始まったばかりではなく、昔から定番として人気があったデザインではあるが、猫も杓子もモノグラムの財布という日本人の感覚も笑えるが、それに追随して中国人・韓国人・台湾人・香港人を初めとするアジアの新興経済国出身者も同じようにLouis Vuittonの財布をデフォルトのアイテムとして持っているのはもっと笑えることだ。ところがヨーロッパに行くと、ブランド物のアイテムを持つものは、貴族社会の人間か、人間的・社会的に適格人格者じゃないと、その権利は無いという考え方が今でもあるために、アジアの小僧やお嬢ちゃんたちが、店でLouis Vuittonの財布から金を出す姿を見て、「何様?」という思いと、きっと超超超超貴族の人たちなのだろうと思っている人が結構実は多い。

ブランド物全般の話をするために今回はblogを書いたわけではない。今回はVuitton の財布のことだ。確かにVuitton製品は丈夫な革を使っており、丹念に職人が作っているため、長年使っていても本当に丈夫にできていると感心する。 初めて海外に行ったときに自分に対する土産として買ったものも、やっぱりLouis Vuittonの財布だった。ただ、このときには、Monogramではなく、別のデザインにしたいと思って探していたところ、Vuittonらしくないデザインをこの時初めて発見したのが、いまはあまり見かけなくなったTaigaシリーズの財布。紳士物のデザインとして発売されて依頼、Taigaはすっかり定着したが、その深い緑色の色彩と、Monogramにもある従来からのVuitton独特の革の肌触りは継承しつつ、MonogramのようないかにもVuittonですっという主張がここにはないところに、Taiga シリーズの魅力を感じた。財布を買ったときには、母から「せっかくParisにいくなら、Vuittonの店にでも行って財布でも買ってきなさい」と言われたことを思い出す。当時、持っていた財布といえば、だらしない財布だけしかなく、お世辞にも「かっこいい」財布ではなかった。でも、不便さを感じたことが無かったので、あまり財布の有益性をかんがえていたなかったこともある。まぁ、それまでブランド物とは縁もゆかりもない考え方だったので、1つくらいは持っていてもいいかな-と思っていたときだったので、思い切って買ったことを覚えている。当時はまだフランスフランが健在だったときなのではあるが、2000フランくらいだった気がする。ドキドキしながらVuittonの店員と話をして、購入したことはまだ鮮明に覚えているが、そんな思いをして買ったにも関わらず、実は大切な財布を使い始めてすぐに無くしてしまった。正確に言うと、「取られた」といったほうが正しい。電車の中でスリに遇ったのである。当時としては、珍しいTaigaデザインの財布だったので、盗んだほうも「なんだろう、これ?」と思ったに違いにない。恥ずかしい話だが、その財布には現金で3000円しか入ってなく、財布の値段より、現金のほうが断然少なかったことは、盗んだほうとしては「がっかり」だったことだろうとおもうが、財布をそのまま質屋に持っていけば、それなりの値段になったに違いない。それからというもの、ブランドものの小物を持っていると、絶対に無くなるという勝手な考えが出来てしまい、なかなか小物のブランド物を買う気になれなかった。バッグや靴など、多少大きいものについては、身体から離れることが少ないので、これらは必要があると買うことは続いていた。

なくした財布のあとに使い始めたのが、そのあとに行ったバンコクで買った象革の財布。現在では狩猟禁止になってしまったので、象皮の財布は手に入ることは絶対に出来ない。ところがこの財布、バンコクに行ったときには、どこのDFSでも普通に売られていて、「政府公認印」の国有生産工場で作られたという代物として売られており、値段も日本円で3000円くらいだったので、激安!とおもって試しに買ってみたのである。ところが、この象革の財布は、使い始めると、その革の柔らかさにとても重宝してしまい、結局10年間くらい使っていたのだ。長年使っていると、だんだん革が痛んでくるのは仕方ないが、その痛み具合がきちんとした作りだったためか、いたみ方が思ったほど酷くない。しかし、その財布も、もうこれ以上はさすがに使っているのはみっともないだろうと思い始めてきた。

先日誕生日だったのだが、友達に「プレゼントは何がいい?」と聞かれ、思わず「Louis Vuitton のTaigaシリーズの財布」と冗談半分に言っていたら、なんと、それをプレゼントされてしまった。現在、いくらで売られているのかを調査してもよかっただろうが、きっと高かったに違いない。それよりも、あまり最近みかけなかったTaigaシリーズを良く見つけたものだと感心してしまった。やはり日本でも在庫がほとんどなく、東京中を捜しにさがしてくれたらしい。とてもありがたい。10年ぶりに再度ご対面したTaigaの財布に「又、無くすかな・・・」と不安になる一方、今度は大切に使おうという心機一転の気持ちをこめて、いま使い始めた。おばさん財布のように、小銭兼用の財布ではない。小銭兼用にすると、小銭の部分から絶対財布は早く痛んでくる。だから、現在でも財布として、小銭入れと札入れは別々に持ち運んでいるのだが、今回も札だけが入るタイプの財布なので、これからもこのスタイルは変えないだろうと思う。

今回プレゼントされたのは、Louis Vuitton Taiga Porte-Billets 6 Cartes Credit である。已然は 3 Cartes Cretit のタイプを使っていたが、さすがにカードの数が多くなってきたので、おかしくない範囲のデザインである 6 Cartes Credit のタイプにした。

パリパリ伝説

またも漫画かっと言われそうだが、何と言われようと、ここは自分のblogなので、勝手に書かせて貰う。そう、また漫画である。別に漫画オタクというわけじゃないのだが、最近見た漫画の中で、こういう漫画を見るとどういう評価をしていいのか頭を悩ませてしまうという意味で書いてみることにした。

今回紹介するのは、かわかみじゅんこの「パリパリ伝説」である。作者のかわかみじゅんこが、実体験をそのまま4コマ漫画にしており、内容は日本からパリへ移住することを決意し、現地で結婚をし、子どもを産み、その生活様子を作者の目で書いているので、旅行記や旅行雑誌でかかれているような上っ面の良い面のパリだけではなく、悪い面のフランス全体/パリ全体をも書かれているのが良い。さらにいうと、いわゆる「脱力系」の漫画のジャンルに属するものだと思われるが、絵のタッチが「これじゃ、小学生のがきんちょでも書けるのでは?」というような絵であるのも笑える。自分自身が漫画の中に出てくる場合、だいたいは「実質より綺麗に書く」というのが鉄則である漫画界に、彼女は、「こんな女性は居るわけが無い」というくらいブサイクに書いているのが、また良い。実際のかわかみじゅんこは、もっと美人であるが、漫画の中の彼女は、漫画「サザエさん」の波平なみに、髪の毛が三本しかなく、さらにその三本がだらしなく天パーになっているのが笑える。子供か!というような顔がいい。旦那として登場するフランス人も、朴訥とした田舎の日本人みたいな顔で漫画が書かれているが、実際には典型的なフランス人の顔ーという顔をしている。身内のことを美化して書くわけでもなく、ありのまま笑えるような形で表現しているので、彼女の友達は、「もしかしたら、今度自分がネタにされるかもしれない」とびくびくしているかもしれない。実際に、漫画の中に「友達がパリに遊びにきました」という内容も多い。

現在は2巻まで発売されているが、内容は読み応えがあり、フランスの生活感がここではみることができるため、これを見ると「あーっ、またパリに行こう」という気になる。

地球へ


すっかり記憶から消えていた事象が、いきなり目の前に現れた物的証拠によって、当時の記憶や感情の様子を思い出したことってないだろうか?実は友達と会って、その人から漫画を借りた。いまどき漫画なんか読むのか!?というツッコミはしないで欲しい。今回借りたのが、表題のとおり「地球(テラ)へ・・・」という漫画。1977年から1980年に竹宮惠子が「月刊マンガ少年」(朝日ソノラマ)に連載していた少女漫画。実はこの漫画、本としてはいまだかつて読んだことが無い。1980年にこの漫画を原作とした映画が公開され、その映画を生で観たわけじゃないのだが、映画公開後1,2年後にテレビ放映されたものを見たのが、「地球へ・・・」の初めての接点である。この時に見た内容は、あらすじも含めて全部忘れていたし、どんな映画でしたか?と質問されても答えられない。ただ、覚えているのは、主人公の人とサブキャラに出てきた女の子のキスシーンがあるところ。幼心でそのシーンだけは強烈に覚えていて、なぜかそのシーンが出たときにはドキドキしたものだった。漫画を借り、題名を見たときに、このドキドキ感が深層心理の記憶の中からよみがえったことをご報告したい。
さて、肝心のストーリーだが、幼なながらに覚えていた内容とは、漫画を読み始めて全然違った。なぜなら、内容は哲学的なのである。手塚治虫の漫画に相通じるものがあるのではないかとおもった。こんな漫画を1980年当時、よくもまぁ映画にしたものだとおもう。映画にしても、子どもは一体なんのことだかさっぱりわからなかったのではないだろうか?今でも日本では人気の「ドラえもん」のほうが、漫画にしても映画にしても分かりやすい。大人用のアニメ映画として上映した最初の映画なのではないか?と個人的には思っている。その後は、ジブリ・スタジオによる数々のアニメ映画が日本では誕生しており、それはあくまでも見る対象者が子どもではなく、大人でも楽しめる映画になっているのはご承知のとおり。この「地球へ・・・」もまさしくそのジャンルにはいるのではないだろうか?
映画公開当時およびテレビ放映されたときには、全然気に求めなかったのだが(子どもなので、あたりまえか)、調べてみると、この映画の声優に抜擢した人たちは、今をときめく俳優・女優で固められていることを知って、二度仰天してしまった。主人公の子は、かつてジャニーズ事務所に属していた歌手で、その後俳優として活躍する傍ら、女優の戸田恵子と結婚した井上純一。この名前を見たときに、「うそでしょ?」とおもったが、真実はこのとおりのようだ。ライバルとなるキャストが、なんと俳優の沖雅也。沖雅也については素晴らしい演技をしていた俳優だったが、京王プラザの屋上からのダイブにより自殺という衝撃的な死と、所属事務所社長が義父であった日景忠男に対して「おやじ、涅槃で待つ」の遺言を残したのはあまりにも有名。さらに、いつまでたっても20代のような若々しさであることがとても怪しい俳優の志垣太郎。志垣のキャストの相手役になっていたのが、いま沖縄で訳のわからん外人と結婚して過ごしている女優の秋吉久美子。他には一時期日本中の男性が夢中になってしまった女優の薬師丸ひろ子や、助演女優としてはこの人のほかに存在感が有る人は居ないだろうといわれている岸田今日子が声優人として活躍していたらしい。すごすぎる。もう一度この映画をレンタルでもいいから見てみたいものだ。
漫画に話を戻すと、この漫画の原本はすでに廃刊になっている。いまは中央公書から出ている4巻ものの単行本しか手に入ることが出来ないが、是非、全体を読破してみて、それからまた感想をここに載せたいと思う。