2006/10/12

大丸やき

神保町は意外にも和菓子の店も多いところでもある。その中でも今回紹介したいのは、「大丸やき」といういわゆる大判焼きを売っている店だ。ここはすずらん通りと、白山通りを挟んで反対側にあるさくら通り沿いにある。つい2週間くらい前に、某大手新聞紙に掲載されたらしく、そのために、自分達が訪れたときにも、朝からひっきりなしにここのお菓子を買って買える人たちが多かった。

店内の様子だが、数個のテーブルがあるが、いちおう店内でも食べることができる。しかし、長居をするような場所ではないことは一目瞭然だ。

さて、問題の「大丸やき」なのだが、どういうものかというと、見た目は大判焼きのようなものであるが、なんだか味が異なる。中に、餡子が入っており、それは大判焼きと似ているのだが、食感が全然違うのだ。なんというか、まわりにあるパン生地のところが、本当にパンのような感覚で、中華料理の饅頭や肉まんみたいな感覚とは異なる。とても不思議な味である。そして、1個1個が真空パックになっているため、比較的日持ちがするところが嬉しい。

表面に「大」の字が書いてあるところもおもしろい。1個160円で売られている。持ち帰りの場合は、5個から5個単位で販売されている。この日もいろいろやってくるお客さんは、やはり5個ずつ買っていったようだ。店のおじさんが言っていたが、最近、早い時間にネタがなくなっちゃうので、早めにこないと売り切れになるとのこと。やはり新聞の宣伝力はとても凄いようだ。電話で「場所はどこですか?」と聞いている問い合わせ電話も何軒もかかってきていたようだ。店にいるおばさんが、「さくら通りにあるのですけどねー」と説明をしていた。







NTTの動画プラットフォーム

◆ 最大手のYouTubeと競合しない道を歩むNTTの動画共有サイトhttp://itpro.nikkeibp.co.jp/article/NEWS/20061006/250119/

不正なコンテンツがないという安心感や,作品の再利用や改変の許可などの使用条件を投稿者が設定できる「クリエイティブコモンズ」という枠組みを採用したことなどから,セミプロの映像作家などが自身の作品を公表する場として活用する動きが広がっているようだ。
(ソース:IT Pro)

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このニュースを知って、またフレッツ限定動画配信の延長?と思ったのは自分だけだろうか?

ネット上の動画を見たいというユーザのニーズというのは、基本的に自分たちが欲しい情報であるかどうかに係っていると思われる。見たくも無いような内容の動画が大量にたとえ存在したとしても、そんなものにアクセスしたい人がどこにいようか。例を挙げれば分かりやすい。例えば、過去のテレビ映像で、文字情報では昔から話題になっているのに、その映像を一度も見たことが無い場合には、どうしても見てみたいという欲求がユーザに起こり、必至になってネット上を探しまくることだろう。そして、誰かがその映像を発見した途端、連鎖反応的に横に情報連携がされて、その映像源へのアクセスが起こることは容易に予想される。ところが、ネット上に、素人が撮影した近所の子供の普段の遊んでいる映像が大量に転がっていたとしても、そんなコンテンツへのアクセスは、一部のロリータ趣味の人間以外は興味の対象外の何者でもない。つまり、上記の動画共有サイトというのは、プラットフォーム提供者がそのプラットフォーム上で繰り広げられるコンテンツのアップデートおよびコンテンツへのアクセスについては、あとから「これは著作権に移封しているのではないか?」と関係各社から自分たちが訴えられるのを事前に防ぐためのものであって、全く利用者側に側面から考えられたプラットフォームではない。「セミプロの映像作家などが自身の作品を公表する場」なんていっているが、そんなつまらない者に誰がアクセスするのだろうか?デジタルコンテンツになった途端に、コピーされることは当然であると考えるべきはずなのに、「コピーされないようにする」ことに一生懸命になっているのは、世の中の動きを認めているわけではないことの証明だ。

Youtube が流行ったのは、素人のビデオ撮影をみんなで見ようというのが流行ったのではなく、世の中に埋もれてしまった映像を世界中で見ようということから広まったものであることを知る必要が有る。さらに国ごとに放映権と放送する範囲が決まっているために、ある国で見られたものが外国では見られない映像コンテンツを、Youtube を使ってどの国からでも見られることを可能にしたのは画期的だと思う。例えば、韓国で反日的な映像が流れたというのが分かれば、それをアップした人の努力によって、日本人の誰もがその映像源にアクセスでき、そして、文字でしか知ることができなかった情報以上のことを映像で知ることができるようになる。

当然、ここでは既存のメディアで考えられていた「枠」の問題と衝突するのは必然的である。既存のメディアでのみしか考えられていなかった「枠」だったので、ネットになった瞬間、国境・時間という概念が全く無くなるから「枠」が通用しなくなるのだ。そして、一度ネットワーク上にアップデートされたソースは誰が何度消そうとしても、永久にネット上から消えるわけではない。アップされたら、そのデータを消す。消されたら、また誰かがアップロードする。そしてまたそれを見つけたら消す。このいたちごっこが永久循環するだけなのだ。つまり、一度デジタルコンテンツ化されたものは、ネット上でいくら規制を掛けても無駄なのである。コピーしちゃいけないと言っても、これは「人を殺してはいけない」とモラルの範囲で言っているだけのことで、実際には無駄な説教にしか聞こえない。利用者全員が善者なんだと思っている馬鹿がたくさんおり、その考えの上で規制の概念を設けているから、話がおかしくなる。

デジタルコンテンツはコピーされてしまうものという考えでなければいけない。コピーはされても再生されなければいいのだ。そのほうを考えたほうが楽だと思う。NTTが考えたプラットフォームは、アクセスするユーザの考えとは全く異なることなので、本当に意味が無い。

2006/10/11

MRI検査

昨日のブログにも書いたとおりに、今日は予約していたMRIの検査を受けに会社を早退して出かけることにした。内臓を検査するわけでもないので、昨日の段階でも「普通に昼ご飯を食べてきていいです。ただし、喰いすぎはダメですよ」と言われたので、普通に昼ご飯を食べて早退することにした。といっても、会社の近くの蕎麦屋でまた気持ち悪くなるのは嫌だったので、別のところでご飯を食べることにした。

MRIの検査は16時からではあったが、午後半休を取って家に帰るのだが、なんだか、この時間に帰路につくのは、ダメ社員か病人しかいないことがよくわかる。朝の通勤時間帯の電車の混雑とは全然違って、電車の中はすかすか。毎日の行き来がこのくらいの空いている状態だったら嬉しいな-と思う。そうは思っても、やはりまだ頭痛と気持ち悪さは全然治らないので、不定期にやってくる頭痛と気持ち悪さに、都度我慢しながら帰る事にした。帰りがけに、頼んでおいた「ねこぢる」の本を、コンビニで受け渡しをして貰って帰る。ちょっとわくわく。この「ねこぢる」の本は、また別の機会にブログに書くことにしよう。

さて、病院だが、家の傍からバスで病院前まで直通でいけることが前回の病院訪問でわかっていたので、今日はバスで病院にいくことにした。「10分くらい前までに来てくださいね」と昨日言われたので、時間を逆算してバスにのろうと思ったが、なぜか夕方の時間帯になるとうちの近所は渋滞になるため、バスの到着時間から予定して5分ほど遅れてきた。遅れてくるなら良いが、道沿いに真っ直ぐバスは行くものかと思っていたところ、なんとバスは遠回りしていくことが、乗ってはじめて分かる。もしかして16時に間に合わないのかもしれないと少しバスの中で焦る。こんな精神状態だと、もしかしてMRIで変な結果がでてくるかもしれないなーと、要らない心配をしてしまうのは、病人のサガだろうか?焦っても仕方ないので、バスに「なんとかしろ」と心の中で祈りつつ、目的地まで乗る。この時間帯にバスに乗ってくるひとたちも、ほとんどが爺と婆しか居ないのも笑える。

なんとか16時5分前に病院に到着して、受付を済ませる。MRIの検査は時間が指定だったので、病院で待つことは無く、そのまま検査のある場所へ移動。金属類はすべて外してくださいーといわれたのだが、特になにも身につけているわけでもない。脳みその検査ではあったが、ベルトも外さないといけないらしい。さらに、クレジットカード類についても検査場には持ち込むことは出来ないらしい。強力な磁気を発するために、クレジットカードやキャッシュカードがだめになるのだそうだ。だから、特別の金庫に持ち物を全部保管して貰う。検査場に入ってみると、テレビでみたことがあるような、白い筒状の機械とベッドがあった。どうやらここに寝転ぶらしい。しかし、気になるのは、さっきから鳴り響いているカン・カン・カンという音。なんだこれ?!医者が注意事項として「検査中はめちゃくちゃうるさいですけど、我慢してくださいね。あと、動かないように。それと、うるさい音はいろいろあるのですが、別に壊れたわけじゃないので、気にしないように」と意味不明なことが言っていた。うるさい音って、このカン・カン・カンっていう音のことか?と勝手に思っていたが、実際には全然違った。腹部の検査のように、なにか頭に塗り薬でも塗られるのかなと思ったのだが、それは全然無い。頭を固定するようなベルトみたいなのをつけられただけ。意外に簡単である。あとは、顔の上を覆うような擬似マスクみたいなのを被せられて、そのまま穴の中にぶちこまれる。

穴の中にベッドが吸い込まれていくときには、なんだか宇宙物の漫画にでてくるような冷凍睡眠の蚕の中に入っていくような気分だった。あと、同時に思ったのは、「デブはこの穴の中にはいることができるのだろうか?」ということ。デブは何かと不便だろうと思う。自分自身は全然デブでもないので、早く終わんないかなとおもう。医者から「だいたい20分くらいかかります」と聞いていたので、結構長く我慢しなくちゃいけないのかーと、検査前にうんざりしていたが、意外にそうでもない。というのも、さっきから響いているカン・カン・カンという音が、♪=240の速度のメトロノームに聴こえていたからだ。ちょうど、それがクラブで流れる音楽のように聞こえて、検査前から、少しだけ気分は意識的にトランス状態に入れる。そして、医者から言われた「うるさいですよ」と言われるのは、MRIの撮影のための何かしらの駆動の音だとおもうのだが、それがカン・カン・カンという音と妙にシンクロして、本当にアシッドクラブのなかのイベントにいるような気分になる。そして、途中にうるさい音は、いろいろな駆動を使っているために音が変わったりするところが、またクラブ音楽のように思えて、検査をしているというときにもリラックスすることができた。ただ、一部、うるさい雑音が、カン・カン・カンという音と、全くシンクロしなくて、壊れたターンテーブルを使っている下手糞なDJの音楽を聴いているように思えたのは、ほとんどクラブ病かもしれない。

20分の検査も、勝手にクラブイベントと思い込んだために、結構短いものに感じた。特に直接的に体に何かを触れられるわけでもなく、じっとベッドの上で寝ているだけなので、イヤフォンをして大音量でクラブ音楽を聴いているのと同じ感じに思えたのが良かったかもしれない。検査後、放射線科の医者に「なんだか、クラブにいるような感覚でしたよー」と言うと、「若い人はみんなそういうんですよねー。できれば、ドラムやサンプリングをもっと増やしてほしいなんていわれるんですよ」とのこと。同じことを考えていた人は居たのだなとおもう。さらに医者は「年よりは、あのカン・カン・カンという音が”馬鹿、馬鹿、馬鹿”と聴こえるらしく、MRIの検査中不快になるひとは多いですね」ということ。ははぁーん、なるほどー、そういう風に聴こえる場合もあるんだーと改めておもしろいと感じた。

MRIの検査は人間ドックの特別オプションで昔値段をみたことがあったのだが、すごい値段が高いというのを見たことがある。それを想像していたので、今回の検査も絶対万単位の請求があるだろうと想像していたのだが、実際に精算したときに、5000円程度だったのは嬉しい。やはり、病気でMRIを受けたときと、病気じゃない状態でMRIを受けたときには、保険が利くかきかないかの違いのために大きいのだと思った。

なお、検査結果は今週の土曜日に医者から伝えられる。

そういえば、昨日ネットで自分の症状から、想定される病名を調べてみたのだが、どうやら頭痛と吐き気から考えると、髄膜炎か脳腫瘍の可能性が高いことが分かった。どちらも大変な病気だと思うが、後者の場合、生存率はあまり高くないし、ゴッドハンドの手術をしてくれる脳外科の医者の力を借りないと生存できないだろうと思う。前者の時には、静養が必要なのだそうだが、いずれにしても土曜日にならないと勝手な想像の範囲は越えることはできない。一体、どんな病気なのかなー。わくわく。

2006/10/10

頭痛と吐き気

最近、頭痛と吐き気がおさまらない。先週の水曜日からこの状態が続いていたために、ファンがいるのかどうか知らないが、しばらくブログの更新ができない状態でいた。もともと、左右の視力がガチャ目の状態だったため、目の酷使とか眼精疲労のせいで、目が疲れて、その影響で頭が痛いという状態はたまにあったのだが、だいたい、こういうとき、1晩寝れば治ることができる。しかし、今回に限って言えば、1晩寝てもこの頭痛は止まらなかった。さらに悪いことに、頭痛が更に悪くなって、吐き気が止まらないから、もうまともに生活ができない状態だ。その吐き気も、最初は、吐き気が始まった水曜日の昼ご飯に食べたのが、以前、ブログにも書いた「満留賀」の蕎麦屋で食べた「かきあげそば」の「かきあげ」の油が原因だとしばらく思っていたから馬鹿だと思う。そのときには、絶対に「もうあの蕎麦屋なんか二度と行くもんか」とおもったが、吐き気はまったく掻き揚げとは関係なく、今でも続いているので、今になって「満留賀を悪くいって、ごめんねー」と心で思うようになった。

今年の10月三連休中に病院に行こうと思ったのだが、残念ながら三連休中に病院がやっていなかったために、早く連休が明けないかと心待ちしたことは、これまでに無かった。だいたい三連休があると、「あぁ、もっと休みがあれば良いのに」とおもうのが普通だが、今回は全く違う。三連休中もあまりにも頭痛と吐き気が止まらない状態が続いていたので、連休明けには病院に行くことにした。眼の奥のほうが痛いし、それに影響して頭痛と吐き気が止まらないので、まずは眼科にいくことにした。

前にも行ったことがある近所の眼科に、会社に行く前にいくことにした。眼科で、眼圧検査、視力検査、視野検査等々を受けたのだが、以前この眼科にきたときとは全く結果は変わらない。がちゃ眼の影響がここに来て、とうとう我慢の限界を超えたのかなとおもったのだが、眼科の言葉としては「眼科としては、眼球には特に以前と変わった様子は無い」とのこと。さらに嫌な意見として、「もしかしたら、脳神経が何かしらの影響を受けて、それで眼が痛いという状態になったかもしれませんね」だと。なに!?脳神経?脳みそがとうとうやられたか!?しかし、眼科ではこれ以上調べようが無いので、眼科の診断は是でお終い。眼科ではこれ以上やりようがないから、他の医者にいってくれーというのは分かるが、それでは患者任せで面白くない。だから、「どこで詳細な検査を受けたら良いですかね?」と質問をしてみると、「総合病院にいくのもいいが、それだとどこの科に回されるかわからないので、まずは開業医のところに行くのが良いでしょう。そういえば、近くにMRIの設備を持っている開業医があるので、そこにいってみたらどうですか?」と言われた。駆け込みで行くのもいいのだが、ここは医者同士の連携があったほうが、患者の扱い方は断然違うのは良く知っていたので、「招待状を書いてくれますか?」と頼んだら、「喜んで書きますよ」とのこと。こういうときの医者の招待状は本当に心強いと思う。なぜなら、違う科での診察の場合、招待状を書いた病院で、どのようなことを診察し、どういう状態だと判断したのかということまで招待状には書かれる。従って、招待状を受けた病院側は、違う目線で患者の症状を確認しようとすることができるからだと説明を受けた。

招待状を持って違う日にいくのもいいが、早くこの痛みから開放されたいと思ったので、その足で招待状を書いてくれた病院に行くことにした。招待状で書いてくれた病院は、線路向こうの病院で歩いていける範囲である。その辺の町医者でしょう?みたいな感覚で行ったのだが、意外にこの病院が大きかった。主に産婦人科としては有名の病院だったらしく、患者の多くは、妊婦やそれ系統の人が多い。そこへ会社の行き掛けで病院によった人間が変な封筒を持ってやってきたので、最初、病院側は「薬の押し売りか?」と思ったらしい。「なにか用ですか!?」と病院で言われたのは初めてだ。「いやいや、そうじゃなくて、招待状を持ってこの病院にきました」ということと、自分の病気の症状を説明して、ようやく普通の患者であることを納得された。この病院は、町医者なのになぜか放射線科を別に持っている特殊な病院だったので、町医者なのにMRIの装置があるようだ。当然最初は問診を受けて、どういう症状なのかを調べて貰う。しかし、招待状を書いてもらっているので、ある程度は医者側も何があったのかは分かっているらしい。詳しいことはまずはMRIで調べてみてからにしましょうと問診は終わった。総合病院の場合、たいていMRIの検査を受けるときには、1週間以上先の予約になってしまったりするのだが、そこはやっぱり町医者。医者側から「サラリーマンであれば、土曜日のほうが良いですかね?」といちおう聞かれたので、「まぁ、そうですね」とこの時には答えたのだが、出来れば早い時期に検査はして貰いたかった。だめは承知で「できれば、明日でも良いんですけど、可能ですか?」と聞いてみたら、「あっ、明日でもいいの?それならちょっとスケジュールを見てみますよ」と病院側。結果、検査は明日の夕方行われることになった。どのような結果になるのかは、たぶん、検査後じゃないと分からない。

今日のところは、まずはこういうことがあったというブログの報告でしかないのだが、詳しい結果はおそらく今週の土曜日になるのだとおもう。医療関係のかたで、これを読んでいる方が居るのであれば、この頭痛と吐き気と目の痛さは、どのようにしたら収まるのか教えて欲しいと思う。

ねこぢる(その2)

以前、「ねこぢる」のことについて記事を書いたが、実際に手元にある本をここで列挙したいと思う。 最近ねこぢる関係で仕入れた本をここで記載することにする。

まずは「ねこぢるだんご」だが、他のシリーズにも出てくる「にゃー子」と「にゃん太」の家族が中心の漫画である。比較的長編の「半魚人」と「かちく」が最初にあるのだが、どのねこぢるの漫画同様、少し暴力的であり、内容としては「うーん・・・」と頭を抱えてしまうような内容ではあるが、なんとなく、そこにあの目の玉がでかいネコキャラが振舞っているのを見ると、少し笑える。やっていることがめちゃくちゃなんだもん。「おまえはー!」とツッコミをいれたくなる。特に「父ネコ」のキャラクタはインパクトがある。無言でいつも酔っ払っているおっさんだが、子ども達にとっては常に「強い」存在である。父にかかれば、怖いものなしというのが前編通して知ることができる。

「ねこぢるだんご」の最後に長編漫画として、ネコが登場しない漫画で少し哲学的な内容が載っている。たま出版から出版したら、泣いて喜びそうな内容だと言っておこう。詳細は読んでみて欲しい。



続いて「ねこぢるせんぺい」なのだが、題名に特に意味が無い。キャラクタも「ねこぢるだんご」に出てくるような家族ネコたちが主人公である。まぁ、その中でも、表紙に載っている「にゃ-子」と「にゃん太」の2匹がメインだというのも変わらない。 人間世界に猫たちが入り込んで、普通に生活している中で巻き起こすへんてこりんな行動がかなりシュールで笑える。猫だけじゃなく、豚とか猿とかモグラとかも普通に出てくるところは、「Dr.スランプ」のようで面白い。しかし、猫に苛められて木に縛り付けられた豚が警官を見つけて、「おまわりさん、助けて」と言っている場面で、警官が「なんだ、ブタか・・・」と見逃すところなど、一種人種差別的なところがあってとても面白い。作家ねこぢるが、普段の生活で感じたりする漫画「ぢるぢる日記」に通じるものがあると感じた。


「ぢるぢる日記」は上述したように、「ねこぢる」が普段の生活で感じたり、見たり、体験したりした内容を、夏休みの子どもの絵日記のように書いている本である。絵日記風に書いているので、シンプルな文章なのだが、なぜ、ねこぢるはこんなに普通に生活しているのに、変な体験をたくさんするのだろうと不思議に思う。「類は朋を呼ぶ」とはよくいわれるが、まさしくすべての変な出来事は「ねこぢる」が呼んでしまったのでは?と思う内容だ。ここの中で体験するような人たちがまわりに頻繁に出くわしたら、「世の中、変なことばっかりだ」と素直に言えると思う。または、「絶対、なにかに取り付かれたかも」と感じてしまうかもしれない。ねこぢるのインパクトがある漫画をみるときに、最初に見るのはこの漫画が良いと思う。一番「まとも」な漫画だと思えるからだ。

「ねこぢる食堂」は「ねこぢるごはん」「ぢるぢるご近所日記」「ぢるぢる昔話」「ぢるぢる見聞録」と4コマ漫画からなる。「ねこぢるごはん」は、定番「にゃー子」と「にゃん太」姉弟が暴走ぎみにひっちゃかめっちゃかしてくれる漫画で、とても面白い。猫の凶暴さがまた一段と笑える。まともな人が見ると、「脳みその構造が理解できない」と思うはずだ。「ぢるぢるご近所日記」は、ねこぢると旦那の山野氏の生活が少し垣間見れるが、それでも「ぢるぢる日記」と少し内容がカブるところがあり、この夫婦の周りで見つけられる変なやつらをまとめて紹介しているようなもの。夫婦揃って、「呼んでしまった」のだろうと思う。「ぢるぢる昔話」は有名な日本・西洋の昔話をねこぢる風にアレンジした内容。物語のなかでは、ご多望に洩れず、「猫」が活躍する。あまりにもブラックなので、元の昔話の本当の内容がわからなくなってしまいそうなものだ。「ぢるぢる見聞録」は、ねこぢるが「漫画家」として活躍し、その担当マネージャと一緒にいろいろなところへいく話なのだが、ねこぢる自体があんまり企画に乗る気がなく、ねこぢるが本来ならその性格上、ぶっとんでほしいところだが、マネージャのほうがもっと個性的だったというオチをおかしく書いた内容だ。マネージャもやっぱり「呼ばれて」しまったのだろう。紹介帯にもかかれているが、「ねこぢる食堂のメニュはめちゃ豊富です。おいしさは保証しますが、少々毒もございますので、食べ過ぎ、食中りにはくれぐれもご注意ください」という内容は「まさしく、そう!」と言いたくなる。

「ねこ神さま」は、神様として存在することになった「猫たち」が人間の住む地上でいろいろ意味の不明な行動を振りまく物語である。神様なので、「お願い」と言われたら、それを実現したりするところ、意味を取り違えたり、「確かにそうは言ったが、違う違う」とツッコミをいれたくなるところが満載だ。だいたい、人間の目にみえるところで、人間のように神様が暮らしているという設定が「ありえない」と言いたいし、「あっ、神様だ。こんにちわー」と、ドリフの神様なみにあまりありがたく思われていないところが笑える。「にゃぁー!!!」と叫ぶと、いろいろな事件が始まるところが、みものだ。
「ぢるぢる旅行記・イン編」は初めて「ねこぢる」の漫画に触れた思い出の本である。この本をなぜか本屋の「旅行関係」の棚で見つけて「超笑える!」と思ったのが最初だ。ずいぶん前に読んだきり、すっかり内容は忘れてしまったが、本当にインドってこんなにいい加減で、中国人と異なり金儲けに勤しむこととは縁の遠いひとたちなのだろうか?と考えてしまうような内容だったことを覚えている。改めて読んでみると、記憶していた内容はまったくデフォルメされていなかった。ただ、きっと1930年代の上海にたくさんあったアヘン窟のようなものが、公式に宗教的に存在するところがインドの懐の広さなのだろうというのを改めて知る。以前、アムステルダムで初めて「ガンジャ」を吸ってみたが、あまりラリることができなかった。しかし、普段からタバコを吸っているひとのほうが、ガンジャでラリってしまうらしいことを証明してくれるのがこの漫画である。ねこぢる夫婦がインドの聖地を旅行したときの体験談を元に漫画を書いているのだが、欠かせないのは、ガンジャとガンジャを利用した飲み物の存在だ。これを吸引しているときに、「もう、どうにでもなれー」とトランス状態に入っている挿絵がいっぱいでてくるのだが、できれば、こういう恍惚とした状態に自分もなってみたいなと、この漫画を見たときに思った。インドを旅行する日本人たちのあやしげな行動や、インドを旅行する西洋人は、ヒッピーまがいのろくなやつがいなかったとねこぢるは述べている。こういう観察力は、日頃から「イッちゃっているひとを良く見ている」から、周りを観察できているのだと思う。とにかく、インドに行ってみようと思うか、やめておこうと思うかは別にして、ねこぢるが何故、インドに行ってみたのかというのがわかる気がする漫画だ。決してねこぢるは、「何のためにインドにきたか」は文章として残していない。
いくつかの「ねこぢる」の漫画を紹介したが、まだ手に入れていない漫画がたくさんある。「ねこぢるうどん」の全3巻シリーズも手に入れていない漫画だ。どなたか持っている人がいたら、譲ってほしいものだ。