2013/08/03

iPad miniをゲットしました

普段は旅行にいくときには、一時期流行っていたネットブックを持っていくことにしていたのだが、それでもPCなので、気軽にネットにつなげるということは実は面倒くさい。ただ、PCだといろいろなことができるので、それはそれで便利なのだが、起動もかかるし、電源の確保も必要となるとおきらくさはそんなによくない。といっても、重いノートPCを持っていくのはとても面倒くさいので、小さいPCだから手軽さから持ち歩いていた。

ところが、友達が持っていたiPadを見て、ちょっと心情が変わった。友達が持っていたのiPadは誕生日プレゼントで貰ったもののようだが、本人としてはどこでも持ち運べるし、起動は早いし、無料のWi-Fiが使えるところがあれば、便利だよーということ。それをいて、いいなーと思ったし、最近いろいろな観光地に行くと、iPadをそのままデジカメとして使っているようなひともいるのを見かけるので、それだと撮ったままの画像をみるし、送れるしというのは便利だとおもった。じゃぁ、iPhoneでもいいじゃんとおもうのだが、画面の大きさが断然違うし、画像のクリアが全く違う。となると、iPadって便利だわーとおもう。

しかし、自分にとってはiPadの重さにはどうしても納得が出来ない。ノートPCやネットブックに比べると持ち運びは便利になったかと思うのだが、それでも寝転がってiPadを片手で持つと言うのは、ほとんど筋肉バカが筋トレをしているのと同じくらいの負担が腕にかかるし、そんなもの長時間で持っていたら腕が痛くなると思った。とはいっても、画面がある程度より小さくなると、スマホと同じで画面上に出てくるキーボードを打つのはとても不便。iPadのいいところは、小さいながらもノートPCと同じようなキー配列になっていたとしても、キータッチを同じように使えるということだ。キーの感触は全くないのは問題だが、それでもスマホでタイピングするよりは断然早く打てる。だから小さい画面になるのも問題があるなーとは思っていた。

そのところにiPad miniが登場。iPadと同じ機能もしくは、ちょっとだけ画面周りの機能が劣化しているとはいえ、ほとんどやれることは同じだし、軽いし、ちょっとだけ画面が小さいというのでは持ち運びやすいものである。これを友達の様子をみていたときに、欲しいとおもったので、思い切って手に入れることにした。

操作した感触としては、なんでもっと早くこのiPad miniを手に入れなかったのだろうと思う。父親にAndroid端末ながらもソニーのタブレット端末を誕生日プレゼントとしてあげていたのだが、それをあげたときにタブレット端末の操作性や携帯性の素晴らしさになぜ気づかなかったのあろうとおもった。

実際にどこに持って行っても、起動が早いし、キータッチも自分の手がそんなに大きいわけじゃないから丁度良いし、Wi-Fiの接続も早いし、APの切り替えもかなり早いし、iOSのアプリも結構たくさんあるので便利この上ない。それに、これまで持っていたiPod touchも年季が入った年代モノくらいになってしまうくらい古くなっているし、最近ではiOSも6.0には上げられないことが判っていたし、iPod touchに入れているアプリもバージョンアップが出来なくなってきていたから、別の媒体にはなるが、iOSのアプリが使えるのは便利である。iPod touchのほうは、これまえiOSのアプリを使える端末兼Podcastの視聴端末として使っていたのだが、これからはPodcast視聴専用端末になりそうである。しかしながら、iPod touchにアホみたいに入れていたアプリをそのまま全部iPad miniに入れるようなことはするつもりはない。おもしろそうなものを片っ端から入れていたiPod touch時代とはちょっと一線を画してしまおうかと思っている。そして、あくまでもモバイル端末で、必要なネット系アプリしか使わないということにしようと思っている。だから、ゲーム中まずインストールするつもりがない。

ただ、秋には新しいiPad miniが発売されるという話も聞いているので、タイミングとしていま手に入れるのはどうなのかという不安はあったのだが、いまのバージョンのiPad miniでも十分その機能は得られていると思うので、決心して手に入れることにしたのだが、Retinaディスプレイの綺麗な映像というのも棄てがたいところではある。友達のiPadはまさしくRetinaディスプレイ採用のものなので、やっぱり綺麗である。個人的にはそれで映像の良さを堪能しようというものではなく、ネットブックの代わりとしてのモバイル端末として利用したいというもので考えていたので、購入時のバージョンでも良かったと思っている。

しばらく使ってみて、どこまでiPad miniの利便性について言えるのかというのを試してみたいと思う。やっぱり持ち運びが軽くて小さくて楽であるというのが一番の享受したメリットだろうとは思った。
ちなみにiPad mini本体だとやっぱりいろいろなところに置く場合には不便なので、カバーを付けてみた。調べてみると色々あるようで、カバーを閉じたらそのまま電源機能もスリープになるようなものもあるし、普通に浴槽の蓋みたいなものもあったりする。最初、他人が使っている浴槽の蓋みたいなのはなんなの?とおもっていたが、その波型になっているところの意味は、画面をそこに立ててしまえば、実はノートパソコンの画面をみているような状態になるからだということである。今回利用しているのは、これはもらい物になるのだが、なぜか年柄にもなく、ミッフィーの模様のものにした。それもカバーが革になっているので、見た目はそんなに変なものじゃないところがいい。Elecom社のTB-A12SPLFMF2

オランダ東インド会社(書籍)

最終的には鎖国時代の日本と唯一貿易をすることができたのはヨーロッパのオランダ。でも、オランダが国交として貿易していたというように習っている日本史では、オランダ政府が親書を持って日本の徳川将軍に貿易させてくれというように嘆願してきたわけじゃない。実際にはオランダ東インド会社が会社として契約してくれと頼んだようなものである。しかし、そのオランダから日本にもたらした各種の情報や技術と言うのは、当時の日本人には刺激的な要素がたくさんありすぎて、時代を先んじて知ろうとした知識人たちにとっては、憧れの人たち・団体だったことだろうというのは予想できる。

そんなオランダが日本に対して影響を及ぼしたのは江戸時代から徐々に入ってきた西洋技術を日本に取り込んできたことでかなりの広範囲に及ぶことができた。これはその前にやってきたポルトガル人とは大きく異なり、商売のためにオランダの会社は日本にやってきて、日本のものを購入し、日本に西洋のものを売ったということを純粋にやって、文化を押し付けたことではないところがポルトガルとは違うところだ。

そんな東インド会社について、知っていそうで知らないなあとおもったことと、何度かオランダに行った経験があるが、その至るところで日本文化の片鱗を見ることがあり、なぜオランダにはここまでと日本文化に傾倒しているのがあるんだろうと感じたことがあるのだが、それはなんといっても東インド会社の活躍のためだったんだろうとは容易に想像できるところ。しかし、出島に出入りして、そこに密かに忍び込んで西洋文化をしろうとした日本人がたくさんいたというくらいしか、実はあんまり東インド会社についてしらなかった。そこで今回講談社学術文庫から出ていた永積昭著の「オランダ東インド会社」というのを買って読んでみようと思った。学術文庫だと本当にアカデミアな本が多いので、研究者には必読の本が結構多いので、理解できるか不安だったが、かなり構成が面白かったので、ついつい一気に読みきってしまった。

まず読み始めて、ああ、なるほどーとおもったしょうげきの初歩的定義として、「東インド会社」というのは、これを読む前には「インド東部に本拠地を置いていた貿易会社」だとずっと本気で思っていた。ところが、インドとは全く、いや、ほとんど関係なく、それまでヨーロッパからみるとインドくらいまではよく知られていたのだが、それより東部アジアについては、日本も含めて十把一絡げで括られる地域でしかなく、その地域をヨーロッパ人は「東インド」と呼んでいたようだ。アジアに住んでいる自分たちにとっては、オランダが活躍した地域をみると、インドネシア、台湾、日本と東南アジア地域といえるところだとは言えるのだが、当時のオランダ人にとってはその概念がなく全部東インドといっていたのはびっくりだ。だから、彼らの言う「東インド」地域を貿易として商売をする会社が東インド会社であるということだ。のちに、オランダのあとを追ってイギリスも東インド会社を発足し、同じように貿易をしはじめるのだが、考え方は基本的に同じである。現在のインドネシアがなんでインドとは関係ないのに国名にインドなんていう名前がついているかというと、それはオランダ植民地時代に、それまでバラバラの王国で存在していたこの地域を全部ひっくるめて「オランダ領東インド(Nederlands-Oost-Indië)]とで呼んでいたことから現在に至っている。

もうこっから自分で勝手に理解していた東インド会社という定義について、ズバッと斬られた感じだ。

本書においては、東インド会社と日本に関係する流れで内容が書かれているわけではない。内容の大枠としては次の内容に分類することができ、それが上手に交わって解説されていると考えてよい。

① オランダ東インド会社の設立の背景
② オランダ東インド会社の現地での役割
③ オランダ東インド会社の歴代提督の紹介と、提督ごとの実績について
④ オランダ東インド会社が各地域間で貿易をした品物の輸送方向とその規模
⑤ オランダ国家と東インド会社の関係
⑥ オランダ東インド会社とインドネシア地域各王国との関係

こうやって書き出すと、台湾を日本に併合したあとの、日本政府と台湾総督府と台湾住民との関係がどうなっているのかというような論理と似ているような気がするが、台湾の場合は日本の国家にするために台湾をどのように換えていくかということが最大の命題であった。しかし、東インド会社が行った現インドネシア地域に対する行為というのは、あくまでも自分たちが商売をするために必要な材料・物資・販路・生産を確保するために、現地を搾取することと奴隷化することが命題であり、決して現地をオランダ化しようということは毛頭もなかったことが大きな違いである。これは西洋各国がアジアの列国を植民地化したときに何を現地に行ったかということと、日本が植民地にしてなにをしたかのちがいだ。ただ、よく勘違いするのが、太平洋戦争がはじまったあとの関東軍を中心とする南侵後、日本軍が現地で何をしたかということと、正式に植民地化した地域でおこなったことは大きく違う。南侵後の日本軍の行為は、まさしく東インド会社が行ったことと同じである。

①の背景は、もう結構有名なので高校の世界史を履修したことがあるひとなら誰でも知っていることだが、スペイン・ハプスブルグ家から独立して、自力で連合地域を生きていくためには、商売するしかほかに生き残りがないというために、海洋国家として生きていこうと決断したことによるものだ。連合地域と記載したのは正式に国家と呼ばれていたものがあったわけじゃなく、スペインから独立した地域が集まっていただけであり、それらの総称として「ネーデルランド」と呼ばれていたからでしかない。そのときに作られた会社なのだが、これが有名な、世界で初めて株式会社として設立されたものである。それまで国家がかかわる貿易については、国王へ利益を渡すことが条件であったのだが、それがなく、株主に利益を還元するというものを初めて採用したのがこの東インド会社である。もちろん、出資者はそれなりに金を持っていた人たち。貿易地での活動はすべて会社の判断によって行われるものであり、国家がからんでいたというわけじゃない。なにしろまともに王を立てて国家を形成しているひとたちではなかったからだ。やっていること、思想としては、殿様がいなかった堺や船場の商人と同じである。

③の歴代提督の話に付いては、なかなか面白かった。やっぱり何代も提督がかわると、優秀な人も居れば愚かな人も出てくるという典型的な人事の現れであることは、ここでも読み取れる。いくつか目立つひとの紹介をしているので、詳しくは本書のなかで見て欲しいと思う。あくまでも提督というすごい名前がついているのだが、会社組織の社員であり、考えようによっては、現地駐在員の組織長であるしか権限が無いのだ。どうするかは全部オランダ本国のほうに随時報告しなければならないし、本国にある会社の本部からの命令は絶対なので、それに従わざるを得ないことになる。だからどうしようもないような人が提督になった場合には解任される。今みたいに電子化されたような情報ネットワークが発達していない当時においては、正式な文書というもののみが唯一の情報連絡手段になる。従って、たまにやってくる本国からの指令文書が現地に到着するたびに、提督は一喜一憂していたことなのだろうというのは想像できる。

そして、本書における一番読んで理解するべき点というのは、インドネシア各地域をいかに自分たちの手下にしていったかということだ。インドネシアはたくさんの島からなる今でこそ1つの国家として存在しているが、オランダ(正確にいえば東インド会社)が支配する前も支配していた間も、実はたくさんの分裂王国国家として存在していたのである。国家間の微妙な紛争やいがみ合いをたくみに利用して、東インド会社がどちらかの地域に加担してその見返りに加担したところから利益を搾取するという方法を採っていった。最終的には、朝鮮の歴代国家が中国王朝に宗主国でもなんでもないにも関わらず、必ず新しい国王が就任するときには、中国の皇帝に形式上でも承認を貰わないといけない関係だったのと同じように、インドネシア地域の各王国も最終的には国王が変わるたびに東インド会社の承認を得ないといけない状態にまで成り下がっていたらしい。この結果、インドネシアの各国家が東インド会社の下僕となりたっているので、結果的にはオランダを宗主国としてみなすことになったという形が出来上がったわけである。しかし、その統治時代の現地東インド会社とそれを引き継いだオランダの国家としての植民地経営は酷すぎた。搾取するだけ搾取しただけで、現地の文化や産業向上には全く関与しようということは考えなかったからである。そういう状態のところに、日本が南侵してオランダを蹴散らしたというのは、どんなにインドネシアの住民にとって喜ばしいことだったかというのがよくわかる。

ただでさえ、よくわかっていないインドネシアあたりの歴史と言うのは、どこかでまとめてくれた本があればいいのになーとおもっていたところ、意外なつながりでインドネシアの歴史も知ることとなってしまった。もちろん、本書には記載されないのだが、マレー半島との関係はインドネシアは切っても切れない関係である。そこについては別の書物で知ったほうがいいだろう。

オランダ東インド会社
著者:永積 昭
文庫: 304ページ
出版社: 講談社学術文庫
出版日:2000/11/10

ヴィンテージ・アルマニャック

ヒップフラスコのほかに酒好きの友達にあげたものとしては、ヴィンテージ・アルマニャック。よく生まれ年のアルマニャックをあげると喜ばれるという話を聞いていたし、確かに一度は買ってみたいなと思っていたこともあるので、買ってみた。

アルマニャックはブランデーの種類の1つで、アルマニャック地方で作るからアルマニャックと言うのであり、アルマニャック地方以外で作られるフレンチ・ブランデーはアルマニャックとは言わない。そして、ブランデーなので、アルコール度数はワインなんかよりもずっと強く40度超えが当然。しかし、甘みと匂いが良いので、ついついぐいぐい行ってしまうひともおおいんではないだろうか?

ただ、誕生年を記念にしたアルマニャックになると、そんなに量が多くない瓶で提供されるのが一般的。デパートなんかでは、普通のワインサイズの瓶で売られているのもあるのだが、それだと数万円するものは当然というくらいだというのもある。やっぱり年数が経過すればそれだけ値段が高くなるし、量も入りにくくなるのは当然だろう。できれば、ワインボトル1本くらいをどーんと買ってあげたかったのだが、1本丸まるの値段をみたときに、ぶっとびそうになったのでやめた。それでも買ってあげよう思ったので、苦肉の策として楽天とアマゾンで見てみたら、量は200mlしかなくなるが手ごろの値段だったので、買うことにした。

今回購入したのはアルマニャックの中の西部地区であるバ・アルマニャック地区のノガロという場所で、1897年に創業された Armagnac Lafontan 社の製品で購入した。結果的にはアマゾンで買ったのだが、木箱に入ったアルマニャックで送られたきた。

実際に自分が飲んだわけじゃないので、あとで感想を聞きたいと思う。


Armagnac Lafontan社
URL : http://www.armagnac-lafontan.com/
Address : Armagnac Lafontan - 32110 - Nogaro - France
E-mail : info@armagnac-lafontan.com 

ヒップフラスコ

酒好きな友達に何かおもしろいプレゼントを贈ってみるのもいいかなとおもって考えたのが、よくアメリカ映画に出てくる飲兵衛が尻のポケットに忍び込ませているヒップフラスコ。アル中のおっさんが、我慢し切れなくて、ポケットに忍び込ませている酒をグビっとひっかけて、アルコール禁断症状を抑止しているというあの容器である。

しかし、最初はあの容器の名称さえ、何というのかまったくわからなかった。デパートあたりで、店員の人に説明するときに「尻に入れる容器を探しているんですけど」という言い方をすると、アナルプレーをする道具を探しているのかと勘違いされて、何度も店員に「え?!」と怪訝な顔をされたことはある。お店の人に教えてもらって「ヒップフラスコ」だというジャンルの容器だということを知る。しかし、一般的には「スキットル」というらしい。ここでは、ヒップフラスコで統一したいと思う。

ヒップフラスコの材質は、実は結構色々ある。安いのはステンレスのものなのだ。これはステンレスなので台所でも使われるくらいなので、軽くてじょうぶでさびにくいのがいい。ところが、ステンレスの場合、金属とアルコールが反応してステンレスのイオンが溶け出すために、酒の味が変わってしまうという難点がある。それじゃ、他の素材はどうかというと、次に多いのがピューター。マレーシアの特産である錫で出来たピューターもいいとおもうし、お手軽価格で手に入るのだが、こちらは素材が柔らかいので、お尻に入れて持ち歩いていると、簡単に形が変わってしまうという点がだめだ。じゃ、似たような色をしている銀だとどうかというと、こちらは銀なのでそれは高価である。また、銀製品はスプーンやフォークなんかもそうなのだが、常に銀のつやつやした色を保つためには、磨かないといけない。ちょっとほうっておくとすぐに黒くなるのが難点だ。それで選んだのがチタンである。チタンは丈夫なうえ、耐食性がよく、軽さもそこそこ軽いのでいい。しかし、銀製品に比べると安いのだが、ステンレスや錫に比べると断然高価である。一長一短ではあるのだが、長い目で使ってもらうためにはチタンがいいかなとおもって選んでみた。

ところが、チタン製品のヒップフラスコを探してみると、これがまぁ数が少ないこと、少ないこと。種類が多いのはステンレスか錫であり、ただでさえヒップフラスコの売れが少ないということもあるのだろうが、チタンがそんなに安いものではないからということもあるのだろう。探してみたところ、山登りのひとたちにとっては、丈夫で軽くて変形しないという容器が好まれて使われており、山登りのひとが全員酒を飲まないかというとそんなわけがない。となると、結果的には酒飲みの登山家がいるわけで、そういうひとが持ち歩くために開発された製品はあるということだ。

アウトドアスポーツ製品の製造の老舗であるエバニュー社に、ヒップフラスコ製品があることを発見。内容量190mlはそこそこ酒を持ち運びする量としては適量だとおもうし、それ以上の量を飲むのであれば、家や宿泊地で飲めばいいわけで、歩きながらや旅先でのちょっと飲むという程度ではいい量だ。そして本体の重さとしても68gだから、液体200ml程度を入れても300g以下ということは、持ち運びでも重さを感じないということだろう。

製品としてはショットグラスやロート、そして持ち運び用の袋があるのだが、こんなもの使う人がいるのかどうかは疑問。そして、ふたの部分は捻って開けるタイプのものだが、そのふたの部分が少し頼りなさそうな気がするのが気になる。

チタンスキットル190
製造社:エバーニュー社
品番:     EBY701
価格:     13,650円(税込)