マレーシアに住んでいる華人にとって、末代にまで忘れられない事件がある。それあ1969年5月13日に発生した、通称「5月13日事件 (May 13 Incident)」というものだ。この事件以前からも以後もマレーシアの華人は、常にマレーシア政府に対して不満を持っているのは、あまり知られていないと思われる。
マレーシアはマライ連邦としてイギリスから独立する前から、王様が存在するイスラム国家であったことは言うまでも無い。そして、独立後も当然イスラム国家であり、イスラム教を信仰しているマレー人は、独立後もそのまま政治の中心に君臨することが多かった。一方、広東や福建などからお玉と鍋だけを持ってやってきた華人たちは、元来の商売上手の手腕により、経済的には裕福になっていた。この立場の違いが大きな溝の原因として、事件が起こる前までは表面化しなかったのである。
建国の父であるラーマン(Tunku Abdul Rahman)はマレー人と華人の融合を目指していたのだが、1969年の総選挙でマレー優遇政策をしていたUMNOが大敗したことにより華人が大喜び。大喜びをしたら町中を練り歩くのは、どうやらどこの世界も同じようで、このときも華人たちがわんさか集まってきてパレードをした。逆にマレー人優遇を支持していたマレー人もUMNO支持のためにパレードを行う。そしてセランゴーン州で激突する。
激突したら最後、マレー人側は政府軍人を含めた人間が無差別に華人たちを殺し始める。これは、台湾の228事件と非常に良く似ていると思う。ただし、台湾の228事件と違うのは、そのあと戒厳令が敷かれなかった事だ。華人たちのこの記憶は、代々伝えられて、結局華人たちはいつまでもマレー政府に対して信頼を持っていない。
マレーシア政府がいやならマレーから出て行けば良いといわれるが、祖籍の福建からやってきて、やっと経済的に地位を得ることができたものを、みすみす捨てることはもうできないのは心情である。これが福建のままでいるのであれば、逃げ出して次の土地で頑張ろうとはおもうものだ。したがって、マレー優遇政策がいくら強く言われても、マレーシアの華人たちは、違う土地に移住するということはせず、政府にたてついてでも商売にいそしむことになる。マレー人側は、華人たちの経済的な能力を羨ましがっているだけではなく、それを権力という立場で強引に奪おうとする傾向でもある。王様からDatukの称号をもらって、ある地域を支配することの許可を貰い、それをいいことに美味い汁を吸おうとするマレー人も多い。また、そのやり方に対して、華人たちが不満を余計募っているのは言うまでも無い。
この一向に埋まらないマレー人と中国人との溝は、教育・住居から生活環境まですべてにおいて不満を中国人に残すような政策を今でも続いて行っていることにも現れている。UMNOのやることは素晴らしいと、圧倒的なマレー人人口をもつ支持組織をバックにいまでも君臨している。マレーシアの華人たちは、高度な英語教育も受ける人が多いために、大学はマレー人しかほぼ入れないことにより、金銭を使ってオーストラリアやシンガポール、アメリカの大学に入学せざるを得ない状況にもなっているため、マレー人との教育程度の差にも出てくる問題になっている。
日本にいると、自称「単一民族」になっていることにより、異民族であった琉球人やアイヌ人は日本人と同じ扱いになっているし、日本語以外のことを利用することに対して全く拒否を政府は行っている。最近は、ようやく雪解けとして、自己民族の尊重というよりはひとつの地方の文化を残そうというような動きになっているところが、なんとも不思議な気がする。
マレーシアの華人たちは決してマレー人との融合を望んでいないこともある。彼らに「何人か?」と聞くと、ほぼ100%「Chinese」と答える。決して「Malaysian」とは答えない。ただし、大陸の中国人とは一緒にして欲しくないというアイデンティティもあるため、単なるChineseというより、Malaysian Chineseという表現を使う。文法的には Chinese Malaysian なのであるが、そういう言い方をしないということは、世界のどこに行っても、住んでも、自分が Chinese であるということは絶対的な定義であると自負しているからなのだろうと思う。
話が発散してしまうが、この5月13日事件を契機に、それまでのマレー人およびマレー政府に対する不満というのは、継続的に華人は続いているということは、マレーシアを訪れる日本人は知っておくべきである。