2009/06/20

北海公園(北京)

景山公園をあとにしたら、すぐ傍にある北京で一番古い公園である「北海公園」に行ってみるのもいいだろう。他の見所満載の史跡にくらべれば、個人的な乾燥としてだいぶ見劣りするのではないかと思うのだが、1つの通りを渡ってすぐ向こうに北海公園がある。ただ、景山公園と北海公園の間には結構たくさんのお土産屋が並んでいるので、そこで乾物モノやちょっとしたばら撒き土産か、または朝早く来たのであれば、朝ご飯の足しになるようなものを買うのも良いだろう。この公園は1000年以上の歴史を持つ公園で、元の時代ではなく、それよりも前の時代に北京を支配していた遼の時代から公園として作られたものだ。入口を入って一番目立つのは、真っ白な鐘をひっくり返したような形をした建物だろう。これは「白塔」と呼ばれるものだが、なんとこれがチベット仏教寺院の仏塔だったのだ。ただこの仏塔を東門のほうからいくと、緩やかだが結構な段数がある階段を上っていくとたどり着くことができる。仏塔の中には入ることができないので、「それで?」と言われかねないのだが、まぁ、小仔に上るのも北海公園全体が見通せるので上ってみるのがいいだろう。ただし、本当はその緩やかな階段を上ってくるものではなく、正門のほうから入っていくと、かなり急な階段を上っていかねばならないので、どちらを選ぶかは訪問者の自由だろう。急階段をのぼるほうが段数が少なくていいのだが、足腰には負担が来ることだろう。急階段の下には永安寺の建物があるので、そこでチベット仏教の数々の展示物を見るのもいいだろう。

景山公園(北京)

紫禁城の北に位置する場所に、観光客がかならず訪れるといわれている景山公園がある。ちょうど公園が紫禁城の真北に位置するため、景山公園から紫禁城を眺めるためにこの公園に来る人が多いのである。紫禁城を訪問したあとにそのまま北門から出て行くのもOKだが、きっと多くの人は紫禁城の巨大な敷地内を歩き回ったあとにこの公園に来ること自体「もうお腹一杯だから、休ませてくれ」と考え、別の機会にしてくることが多いのではないだろうか。自分達ももちろんご多望に漏れず、別の日に行ってみることにした。北京の公園はどこもかしこも同じような門構えになっていて、まるで画一的になにかを統一したいという欲望にとりつかれたのではないかと思った。多くの公園と同じようにここでも入園料を払って中に入る。入園料を払うから、そんなことで来る人は観光客だけだろうと思ったら大間違い。入口付近から、絶対地元民だろうというおばさんやおっさん、中には少し若い人まで、グループになって何かイベントをしている。大体の場合が、音楽に合わせて太極拳やラジオ体操もどきみたいなものをやっているのだが、それが何で楽しくてやっているのか意味がわからない。朝の涼しい時間帯であれば、集まって一汗でも掻こうかという気持ちもわからんでもないが、もう陽もだいぶ高くなった時間であるにもかかわらず、集まっているのが良く分からない。何かの抑圧から解放されたいという欲望から集まっているのか、それとも党・政府による強制的余暇実施を取らされているのか、それは本人達に聞いてみないとよくわからない。が、平日昼間から、リタイアした人ではない人たちが集まって何かしているのは確かだ。見晴らしが良いといわれる場所へは、歩いていけるのだが、結構急な階段をひたすら歩いていかねばならない。サルじゃないが、高いところに向かって歩いていけば、どこの階段を使っていっても上ることができる。階段を上ったあとに、これまた豪勢な見晴台の建物が見えたら、そこがゴールだ。やっぱりこの建物も中華独特というか、ありがちな建物になっているので目新しさはない。ここまで似たようなものばかり見たらだいたい飽きてくるものだ。
さて、期待に応えてくれるのか、噂どおりに紫禁城の全体風景が見えるのかどうか見晴台に立ってみる。

うーむ・・・・もっと高さがあるのかと思ったが、意外に景山公園の一番高いところにある見晴台は低かった。サンシャイン60や台北101からの眺めのように、もっと紫禁城全体の景色が分かるような高さを期待したのが馬鹿だったのか、昔はこれでも高いとおもって喚起乱舞したのだということを知らねばならないと思った。が、やっぱり譲れないのは北京の空模様。こんなに天気が良いのに、空の色が真っ青ではなく、なにか曇っている。曇っているのではなく、これは完全に黄砂と排ガスのせいによる不潔な空そのものである。だから、もっとくっきりと紫禁城が見えれば、「わしゃ、感動もんじゃ」と思えるのに、このお粗末な空模様のせいで感動が激減してしまっているのだというのが分かった。すぐ傍にある紫禁城自体が、黄色いガスのおかげでボヤっとしか見えないようになっているくらい、この黄砂と排ガスによるダメダメさがよくわかる。これでも北京の人たちは「綺麗な空だ」と言っていること自体が信じられなく、もしこの空の黄色さが「綺麗になった」というのであれば、以前はどんなにくすんだ色になっていて、どうしようもない空の色だったのではないかと思う。景山公園は紫禁城の真北にあるということは、紫禁城の主たる建物が一直線になって見えるのだけは圧倒される。そして、公園の見晴台自体がそれほど高くないので、一番奥の天安門が見えないくらいの遠さになって見える。紫禁城のほうではなく、逆側を見てみると、今度は鼓楼と鐘楼が見える。地図で見ると本当に分かりやすいのだが、紫禁城と景山公園、そして2つの楼が本当に一直線に並んでいて、皇帝の指示とはいえ、ここまで正確に作っている昔の人たちの建築・土木技術は大したものだと思った。

天津百餃園(北京)

なんとなく重い料理ではなく簡単な点心みたいなご飯を夕ご飯としてみたいとおもって探してみると、やっぱり北京には餃子専門店が存在した。その名は「天津百餃園」。今回言ったところは地下鉄「西単」駅から比較的近いところの場所だ。

どう見ても観光客らしいのが居ない地元密着的な店のようで、近所の家族やら、会社帰りのリーマン達が「ちょっとご飯でも食べていくか」のようなノリで店の中に吸い込まれていってた。ここで頼んだ料理は下記のとおり。

・青笋百合炒鮮蝦
・香菇鴨肉
・津味素
・牛肉白菜

おかずとして選んだのが、百合の根と蒸した海老が載っている料理だ。これはあっさりした味付で、他に頼んだ料理が餃子ばかりなので、味を変えるという意味では良い箸休めになった。餃子は基本的に2ザル分を頼む。ちなみに1ザル分は5個入っており、どの餃子を頼んでも同じ数だ。どれだけ食べるかは、注文する際に「~ザル分ね」と頼めば良い。

鴨肉と薬膳餃子と、普通の牛肉餃子を頼んでみたのだが、やっぱり味に慣れている牛肉餃子が一番食べやすかった。他にもこの店は、300種類以上の餃子があるので、あれやこれやと餃子を注文してみるのも面白いと思う。

天津百餃園
住所:新文化街12号
電話:010-6605-9375
営業時間:10:00~14:30, 18:30~21:30
休み:なし!

北京のデパート

瑠璃廠から西に移動して、宣武門外大街沿いまで来ると、なんと日本のデパートであるSOGOがある。土地が余っているのか、強制的に住民を排除して作ったのかわからないが、このSOGOの広さもかなり広い。紳士館と婦人館と2つに分かれているのは、最近のデパートのつくりとしては定番になっている。しかし、やっぱりここが中国なのだというのが良く分かった。

中国にとって「サービス」というのはまだまだ発展途上のところなのだと思う。日本のデパートだったら、まず考えられないようなことを店員が平気で客の前でやっているのだ。その1つが、個人携帯の使用。日本の店員は、個人携帯の利用はいかなる勤務中でもお客さんの目の前では使わないことになっている。これはお客さんから見て「不快に思わせない」という配慮なのだ。しかし、中国のデパートはこのSOGOに限らず、国営の総合百貨店でおいても同じなのだが、暇なのか携帯を片手にSMSやら何かかちゃかちゃ操作をしている。あれはみっともない。

続いて、北京はオリンピックのおかげで観光客がたくさんくるから、デパートの店員でさえも英語教育をしていると聞いていたのに、まったく英語ができる店員が居なかった。店内に何があるのかを案内するInformationカウンターの人でさえ、英語が理解できないというとんでもなさ。北京にいるんだったら中国語を使え。中国語を使えないなんて、とんでもない野蛮人だというような顔をして客を見ていた様子は腹立たしかった。

これはSOGOでの体験ではなく、万里の長城へ行く際のツアーでの経験の話。ツアーにありがちな、参加者には不必要ではあるが、バックマージンがもらえるという意味で連れて行く店での体験であるが、連れて行かれた店が茶葉を売っている店で兼用して喫茶が出来る場所での出来事。ツアーの中にも「茶店に寄ります」とは聞いていたが、こちらとしては喫茶のつもりで入店していたため、いろいろなお茶を「飲め、飲め」と勧めてくるのは、それはそれで色々と体験できるので楽しい。しかしながら、最終的に必要以上に「買いませんか?」と誘ってくる。台湾で毎回美味い茶葉を買ってきている身分としては、茶葉なんか取れない北京くんだりで茶葉なんか買うつもりなんか全く無いため、「いやぁ、今回は買う予定が無い」なんていうと、次に言ってきたのが「じゃぁ、いくらだった買うか?」という言葉。買うつもりが無いと言ったのにも関わらず、値段の問題だと考えたのか、小分けも出来るので、必要な値段分だけ言ってくれという風に理解したみたいで、少量だったら余計要らないから「要らないと言ったら、要らないのっ!」と返答してみた。そのあと、鬼の首でも掴んだみたいに態度が豹変。無言で「早く帰ってくれ」と表情に出ていたのには参った。帰るといっても、こちらはツアーで来たので、好き勝手な行動が出来ない。

もっと以前は、客が来ても客のことは無視し、品物があるのに品物を売る気が無いなんていう店がたくさんあったと聞く。共産主義の社会であると、たくさん働いても働かなくても同じ給料しかもらえないから、商売なんかやる気がもともと存在しないということなのだと思うが、鄧小平以降の経済下では、共産主義とは名ばかりで、全員が商売第一になって必死になって金儲けをしようとしているのが現在だ。しかし、サービスに対する教育を受けたことが無いし、まともなサービスを受けたことが無い人が商売をしているために、真性資本主義の社会に生きている人から見ると、とても違和感がある商売の仕方をしている。

日本や西洋のような商売の仕方になるためには、まだまだ時間が掛かるのだと思う。

瑠璃廠(北京)


中国は「文字の国」とも言われるくらい文章として歴史に残したり、漢字という単なる文字を芸術の分野にまで引き上げた変わった文化を持つ場所では有る。文字に対して、なぜか権力者も人民もとても重要に思っていたためか、特に筆記用具に関しても、芸術の域を越えたものがたくさんある。ヨーロッパでも文章は大切ではあるが、どちらかというと、文学としての芸術はあっても、それ以上の領域からなんとなく抜けることもなく、筆記道具もその文字を記すための単なる脇役でしかない。しかし、中国における筆記用具は、品質としてもピンからキリまで各種あるため、その種類を掲げるだけでも、故宮博物院での1テーマが出来るくらいのものなのだ。

北京は中国王朝において、特に中国の歴史では後期にあたる各王朝の首都として君臨していたため、宦官を始め、高級官僚も北京を勤務地の中心として過ごしていたところであるため、文字文化の中心地でもあった場所である。その名残として、紫禁城に比較的近い胡同に瑠璃廠というところがあり、その胡同は、筆記用具に関する店がずらーーーーっと並んでいる。書道をやっている人、または書道にかかわる筆記用具のオタクの人にとっては、ここはもう1日でも見て過ごせる場所であろう。また、筆記用具だけではなく、書道に関する書物やもちろん中国の歴史書に関わる専門店もたくさんあるので、道具に興味が無くても中国の歴史に興味があるひとは、掘り出し物を見つけることができるかもしれない。しかし、その広さは半端じゃないので、探すことができたらラッキーで、探せなかったら数日掛けて見つけちゃおうという気合が無いとダメだろう。

胡同にある店のいくつかは、日本人観光客を相手に商売をしているところもあるので、たまに日本語が通じる店がある。日本語なんて通じないだろうと、ほとんど気合を抜けてこの通りの店に入って買う・買わないを別にして、品物を眺めていたら、「なにかいいものを見つけましたか?」と、店の人から流暢な日本語で話し掛けられて、腰を抜かしそうになった。なぜそんなに流暢な日本語ができるのか不思議に思って聞いてみると、日本の大学に留学していた経験があるのだという。とても若い人なのに、とても優秀な人なのだということがこのときに分かった。でも、その店の名前を残念ながら忘れてしまった。が、胡同に入って、比較的入口に近く、他の店よりも規模が大きな書道具の店だった。店の名前と店員の名前を覚えておけばよかったーっと、残念。たぶん、「北京文房四宝堂」だとおもうが、記憶が曖昧だ。

雍和宮(北京)

清朝第5代皇帝の雍正帝が即位前に住んでいた住まいを、モンゴル・チベット政策によって次の皇帝・乾隆帝の時代にチベット仏教寺院にしたものである。道教とは異なり全面的にチベット仏教の寺なので、チベットのラサに行かずとも、ここでチベット仏教のことを垣間見ることができる。寺院の中にはチベット仏教を学んでいる小憎もいるので、彼らの勉強の邪魔をしないようにしなければならない。が、彼らは勉強をしながら、観光客が寺院の中のいろいろな展示物をカメラやビデオ撮影するのを禁止するように見張りとしての役割をしている。従って、ここの寺院の中では、絶対カメラに収めたいとおもうような各種展示物の写真が撮れないことが残念だ。しかしながら、それでもルールを破ろうとする西洋人は多い。「せっかく北京まで来たのだから」という彼らの主張はここでは通じない。なぜならここは神聖なるチベット仏教の寺院なのであるからだ。彼らだって、撮影禁止と言われているようなキリスト教の教会で同じことをされたら不快な思いをするのと同じだということを彼らは分かっていない。

チベット仏教寺院だからということもあるが、各種の説明書きには、中国語・英語・満州語のほかにチベット語で書かれているところがいかにもチベット仏教の寺だーという感じがする。看板も紫禁城では、漢字と満州文字でしか書かれていないのに、ここではチベット文字とモンゴル文字でも書かれているところに注目だ。チベット仏教の寺院であるために、いたるところに「マニ車」がある。一回まわすことでお経を1回読んだことと同じ意味とご利益があると言われているマニ車は、チベット仏教には無くてはならないものだし、チベット仏教の信者は、よくデンデン太鼓のように常に手で回して小さいマニ車を回している光景を見たことがあると思う。あの実写版(?)というべきものはここには、各建物の入口に備え付けられている。是非ここで見て欲しいのは、万福閣という建物のなかに立っている巨大な弥勒菩薩像だろう。ダイラ・ラマ7世から乾隆帝に献上したものと言われたもので、なんと高さ18メートル、地下8メートルの大きさがあり、ギネスブックにも登録されている。しかしながら、全体像を建物の中からでしか見られないという馬鹿馬鹿しい見せ方になっているのが納得いかない。そんなに巨大な像であるなら、2階とかに観光客を上がらせ、上位階から菩薩の顔を拝ませるというようなことをしてもいいのに、地上からだと、まったく顔がちゃんと見えないのだ。他の仏様らしい像は、エナメル質の「舐めているでしょう?」とような顔をした像が多いのだが、この像は全面的に木で出来ており、贈呈されたときのままなので、まともな顔をしている。中国や台湾でもそうなのだが、道教などの寺に掲げられている像はなんであんなふざけた顔をしているのか不思議だ。園内はとても広く、南北に長い形になっている。ただ、色々な建物があるために、園内が広くてもそんなに広いというイメージが湧かない。ダライ・ラマ7世が北京にやってきたときに、一緒に持ってきた宝物も園内に展示されているので、是非チベット仏教に興味があるひとはここを訪れて欲しいと思う。

国子監(北京)

孔廟の隣には「国子監」と呼ばれる建物が隣接している。この建物は、元・明・清の三代の王朝に渡って最高学府であり教育行政の管理機構であった。別称「国学」とか「太学」といわれる。国子監の広さは約28,000平方メートルの広大な敷地があり、中にある建物は他の遺跡とは異なる独特な雰囲気をもった建物が多い。この建物は全国から優秀な学生が集まり勉強をしたところであり、外国からの留学生もここで学んだところである。留学生や各民族から集まっていることもあり、ここは学生の間での交流の場としてとても重宝された場所である。学生はここで学ぶことといえば、科挙の試験に合格するものであり、科挙の試験も実際にここで行われていた。

儒家経典に関する13の書物(周易、尚書、詩経、周礼、儀礼、礼記、春秋左伝、春秋公羊伝、春秋穀梁伝、論語、孝経、孟子、爾雅)の全文がここには石に彫られている。それはそれだけでも圧巻だ。全部で628000あまりの文字がここには書かれているので、それだけでもすごいのだが、全部明朝体で書かれているので、現代人が見てもよく理解できる。彫られている文字を版画として持って帰りたいと思ったくらいであるが、そんなことをしたら公安警察に連れて行かれることは間違いないだろう。
国子監の真ん中に行くと「辟雍」という綺麗な赤い建物が見えてくる。この建物の周りには堀になっているのだが、その堀の欄干には、寺の絵馬のようなものが所狭しと並んでいる。みんな学問の神様みたいな建物に対して頭が良くなりたいーとか、良い学校に入りたいという希望で書いているひとたちが多い。
内部は、皇帝が学生に対して講義をするために用意された椅子が置かれている。皇帝が論語などの儒教の教えを学生に特別講義をするなんていうことを知ったのも吃驚したのだが、もっと吃驚したのは、その講義を学生はどうやって聞いたかということである。学生は皇帝による講義を、建物の外で聞くことになるのだが、建物の外といっても、堀があるので、それよりも外で聞くしかない。昔はマイクなんかあるわけがないので、堀の向こう側にある庭のところに並んでいた学生はどうやって聞いていたのか、聞こえていたのかというのが不思議だ。たぶん、形式上「皇帝が講義をした」という事実だけをイベントとして行うためだったのか、本当に講義をしたのかは不明である。皇帝が学生の前で立って講義するとはとてもじゃないが思えないので、部屋自体が反響してマイクのようになっていたのかもしれない。その様子を絵画として残っているのを見て、そう思ったのである。

孔廟(北京)

中国で二番目に大きい規模を誇っている孔子廟(孔廟)は、北京の町を常にスモッグでかすんで騒がしい通りから少し離れ、たくさんの樹木に覆われている場所だ。1302年に元の時代に創建されたこの廟は、フビライ・ハンが儒教に重きをおいたこともあるが、漢民族を統制するための懐柔策として建設したことから始まる。そのあと、明の時代と清の時代にだんだん拡張工事されて、いまの大きさになったということらしい。今でこそ物静かな雰囲気を残している園内だが、文化大革命の時には頭のおかしい狂った紅衛兵によって、作家で超売れっ子だった老舎がここに引きずり込まれて、京劇の衣装を焼いた炎の前で、反革命の罪を告白するように強制され、殴られている。そんな作家も翌日に湖で入水自殺したという歴史が残っているのだが、もちろんそんな汚点的歴史を中国共産党の統制されている現在の孔廟では一切説明記載はない。が、事実は事実である。門を入ると、目の前にまず広がるのは、巨大な石の碑の塊だろう。これは科挙の試験に合格したひとたちの名前が刻まれた石碑と、63万語からなる13の孔子の教えが掘られている石碑なのである。遠めでみると、石の塊なのだが、近寄ってよく見ると、すべてが明朝体で書かれた漢字の文字列になっているので、これは掘るのも大変だっただろうと思うと考え深い。最初の門(大成門)の前には孔子の像があり、なんか文句あるのか?と言わんばかりの威厳を持った姿で立っている。しかし、孔子の顔は本当のところどうだったのかは、今となっては分からないので、どこまで特徴を捉えているのかどうかは疑問だ。大成門のちょうど下には鐘と太鼓が置かれている。なぜ、この2つはいつも対になって置かれていたり、建物が建てられているのだろうか?たくさんの人に音として伝える道具であることは変わらないが、笛やドラじゃないところが不思議だ。敷地内のメインである大成殿に入ると、ここは孔子に関係しているのかな?と思われるようなものが展示されている。孔子には12人の弟子がいるのだが、それらの記念位牌が12個飾られている。それはそれで良いと思う。入口付近に12人の弟子についての簡単な説明文があるので、知らない人はそれを見れば良いと思うし、ネットでもすぐに内容はわかるだろう。分からないのは、ここに各種楽器があることだ。琴や太鼓のような見て分かるものもあるし、楽器の名前がわからないが、きっと叩いて音感の違いを出して演奏するのだろうと想像できるものもあるし、武器を楽器にしたのではないか?と思うようなものまであった。名前がわからないので知っている人は教えて欲しい。