2012/03/13

タイストリートを行こう!(Podcast)

バックパッカーを中心に日本人には大人気のアジアの町といえば、なんといってもバンコク。バンコクに限らず、タイ全体の人気はずっと長い間日本ではある。ちょっと刺激が欲しいと思っている人たちには、身近な刺激体験国家となるのがタイなので、タイへのリピーターはたぶんハワイについで多いのではないのだろうか?

個人的には初めてタイに行った1997年ごろ(?)に、到着した初日から食べ物か水に当たったようで、終日ホテルのトイレと友達になってしまったことから、タイなんて二度と行くかボケーとおもったところである。それからタイへの渡航は、数多く海外に行ったとしても、経由地にもしたことが無い。タイへの出張が仕事であったときも、思いっきり拒否をしてしまったところである。それだけ、もう二度と下痢になって悲惨な目に遭うのはこコリゴリだと思っていたところではあるのだが、自分が渡航したあと、タイも経済的に発展して行ったので、今ではそんなに汚く、衛生状態が悪いというようなところではないと聞く。なにせ、自分がタイにいったときには、コンビニで売られているミネラルウォーターは外国産のものを除くと、その辺の水道水を汲んできたようなものが多かったので、ほとんど蛇口に口をつけて飲んでいるのと同じものだといわれていた。タイ旅行中にケチって、そういうミネラルウォーターを飲んだからお腹にあたったのかなという気もするが、現在のタイだったら、ちょっとはマシになっていることだろう。

しかし、タイに行かず嫌いになっている状態だとはいえ、いろいろな人が「タイっておもしろいよねー」という話を股聞きするようなことが多くなると、ちょっとタイにも興味を持ち始めるようになる。熱心な仏教国家であり、戦時中も日本とあわせて、アジアでは西洋諸国に植民地化されなかった唯一の国家であり、男も女も可愛らしい顔をしたひとたちが結構いるところで、西洋人もそうだが、アジアの金持ちが現地に愛人を作ったり、セックスフレンドを作るためにごっそり渡航する先として名を馳せるところになったところでもあり、宗教的縛りがなければ、オランダと同じくらいなんでもありのような場所なのだというところになったとおもう。

あまりタイについて何から情報を仕入れようかなと迷っていたときに、世界一周たびたびニュースのやすやすさんが、ゲスト出演したのが「タイストリートを行こう!」という番組で、やすやすさんが出演したのをきっかけでこの番組の存在を知った。月に1度の更新ではあるのだが、約1時間のメインパーソナリティのおふたりによる弾丸トークが面白く、あっという間に1時間くらいが経過してしまうというものだ。

内容はタイに関する最新情報、ニュース、店の紹介や、タイに関するあらゆることを話題にしてしまおうというものが主旨なのだが、実はこのメインのパーソナリティの方たちが、めちゃくちゃなおしゃべりのため、タイの情報を伝えることは、番組のなかではすごーく少なく、無駄話炸裂という印象は確かにある。しかし、無駄話からタイへの話にいきなり切り替わるところなんか見事というしかないときもあるのだが、2人が無駄話からなんとかしてタイの話しにもって行きたがっているのは会話を聞きながらよく感じることがある。大爆笑トークというわけではないのだが、楽しそうにトークをしているところは聞いている側も感じることができるので、場の雰囲気と今回はタイについてどういう内容を話してくれるんだろうというのを期待しながら聞くのがいいと思う。

2人のパーソナリティの方々は、タイストリートというポータルサイトを運営していて、日本で楽しめるタイ料理、タイマッサージ等々のタイに関するお店に総合的に紹介していたりする。現地タイの情報はどうかというと、このサイトには少し少ないような気がした。まだサイト内をいろいろ徘徊していないからかもしれない。

ポッドキャストのほうは、これからタイ好きのいろいろなメンバーがゲスト出演してくるのではないだろうかと思う。たぶん、ゲスト毎に、タイへの思いやタイ旅行・滞在時の思い出などを違った面で紹介してくれるのだろうが、各人がタイに対して何を目的に行ったのかというのをその番組を通して知ることができるきっかけかもしれない。

タイストリートを行こう!
URL : http://thai-street.jp/radio/
更新:月1回

関係サイト
・タイのポータルサイト「タイストリート

学校行かずにフランス語!(Podcast)

フランス語を使うような職業でもないし、フランス語が公用語のようなところに頻繁にいくわけじゃないので、フランス語を習っても、使わないとだんだん言葉を忘れてくるのは仕方ない。たまに耳にフランス語を入れておかないと、いざというときには、全く言葉が口から出てこないのだが、基本的に旅行のときにしかフランス語なんて使う機会がないので、真剣にどこまで覚えておくかというのは個々の使用頻度によるのではないだろうか?別に学生時代にフランス語を履修していたわけじゃないのだが、なんとなくフランス語の流れるような言葉が、音楽のメロディを聴いているようなものだったし、学生の時には結構ねっとりとしたフランス映画が好きだったこともあったので、自分でフランス語を勉強してみようというのがフランス語と接する機会ではあった。

以前、フランスのニースに行ったときに、バスに乗って目的地に行こうと思ってバスに乗ったのはいいが、どこでバスを降りたら良いのかわからなかったので、目の前のおばさんに「どこで降りたらいいですか?」という単純なフランス語が出てこなくて「もっと普段から使っておけばよかった」とすごい後悔した事が有る。なにしろ、フランスのリゾート地で英語を使うなんて「こんなところ来るなよ、乞食!」と思われているのと同義だからである。たぶん、ちゃんとした文章じゃなく、思い出せる限りの単語を並べておばさんと会話をしていたんだろうとおもうのだが、その心意気を買ってくれたようで、おばさんも快く教えてくれた。もちろん、返答もフランス語。

帰国後、ちょっとは趣味でもフランス語をちょっとずつ覚えておこうと思ったことがある。どうせ、ベルギーあたりのところならまた行くだろうと思っていたし、ヨーロッパではドイツ語かフランス語が使えれば、どこにいっても問題ない。英語よりも通じる言語なのだ。

一言表現をたくさん知っていれば、それのどれかを応用すればなんとか使う場に出くわすことが可能だ。そういう表現ばかりを紹介しているポッドキャストがある。「学校に行かずにフランス語!」である。

最近は更新が全くなくなってしまっているのだが、それでも表現されている文例はかなり多い。NHKのラジオ語学講座のように、全体の会話があって、そのあとに1フレーズずつの表現を紹介しているというタイプなのだが、決して途中で解説が入るということはない。あくまでも、会話主導であり、文法表現やほかに言い方としてこういう風に言いますという例は全くない。登場人物2人の会話をそのまま表現しているだけなのだ。詳細の解説に付いてはサイト内のところに文章で書かれているので、そちらを参考にするのもいいのだが、ポッドキャストのほうも、iPod touch のようなものを使っていれば、touchにいま流れている表現を文章化してくれているので、それを見ながら表現を勉強するということができるというのも便利である。

そもそもこのポッドキャストは、赤ちゃんが言葉を覚えるようにフランス語を覚えていこうという趣向のもとに始めたようなサイトで、さらにいうとポッドキャストは派生的に生まれてきたもののようだ。最初はサイト主催者のひとがフランス語を学びたい一心でいろいろとフランス語とフランス文化についてを作っていたところ、じゃ、会話も音源でやればいいんじゃないのか?というところか始まったみたいである。まったく有り難いことだ。だから、音声としてポッドキャストを、そして文章でサイトを見れば、フランスの世界に浸ることができるというものである。こういうサイトを作る人たちは本当に素晴らしいと思うのだが、ほぼボランティア的な精神がないと長く続かないのだろうと思う。スポンサーがつくと、内容がつまらなくなるのがオチなのだが、まだそこまではないようだ。

学校行かずにフランス語!
URL : http://ecole.kikounette.biz/

ジャッパーベー / 台湾語ポッドキャスト

台湾の人気がうなぎのぼりになっていることは個人的にはとても嬉しい。しかし、あまりにも人気が増えると、自分が台湾に行きたいなというときに、飛行機が取れなくなる可能性があるということも考えられるので、経済的には台湾との交流が増えることはとても嬉しいことだが、個人的にはあんまり人気にならないでーという、矛盾したような思いをもっているのが台湾である。

台湾は親日派の多いところなので、台湾に行ったことがあるひとであればわかるが、どこに行っても、日本語だけで事が済んでしまう。もちろん、公式なアナウンスには、日本語のアナウンスは全くない。電車に乗っても、中国語・英語・台湾語・客家語の4ヶ国語はあっても日本語はない。ただ、日本語の表記はどこでも見ることができるし、台湾人はあんまり日本語が話せなくても日本語で積極的に話をしてこようとするのがすごいバイタリティだといつも思うし、日本人が台湾にいっても、中国語も英語もできないようなひとでも十分楽しめる外国の場所なのだと思う。

公式には北京語が公用語になっているので、中国語をかじったことがあるひとなら、現地のひとと中国語で会話をすればいいだろう。北京のほうの中国語と違って、個人的には可愛らしい発音をして、喉の奥のほうでしゃべるようなシャカシャカしたような喋り方ではないので、台湾の中国語の発音は好きである。でも、この中国語は若い人から中年くらいまでは実は教育で徹底的に使われているので喋れる言語であるのだが、ずっと年配の人や南部のほうに行くと、中国語よりも日本語のほうが通じたりする場合があるから不思議なものだ。さすが、もと日本の植民地。そして、日本語じゃなく、もっと南部のほうでは使われているのが台湾語である。

中国語分類の中では、中国語といえるのかそれともマレー・タイ系統にはいるのか、言語学的にはどうなのか詳しいことは解らない。ただ、中国大陸の福建省に元々居た人たちが台湾に渡ってきてそのまま使われている言葉であったのが、いまの台湾語だ。台湾語というよりも、閩南語というのが正しい言語名である。閩というのは福建省の別称である。ちなみに、北京のことは燕、上海のことは滬である。

しかし、この閩南語はやっかいな言葉で、文字を持たない言語なのである。喋り言葉としては存在するが、漢字やアルファベットのようなことでは表記しない。便宜上、台湾では漢字が当て字のように使われていたりするのだが、これは正式ではない。だから、台湾語を習いたいなと思っても、正式な教科書として存在するのがなかなか難しいというものだったし、台湾に行って台湾語(閩南語)の辞書を買いたいなとおもっても、その言語の引き方がわからなくて、買うのを断念したことがある。

結構台湾語を使う台湾人は多い。なにしろ、本省人が80%も住んでいるところだ。台湾語が話せないというひと=外省人と思ってもいいくらいなのだが、最近は外省人でも台湾語は聞けば理解できるという人が増えてきた。つまり、それだけ台湾語は台湾の言葉であるという、台湾のアイデンティティに繋がるようなものとして認められてきたというわけである。中国大陸とは経済的にはつながりが強くても、やっぱり中国大陸とは一線を画したいものだというのを再認識したのだと思う。

前置きが長くなったのだが、それくらい台湾語は台湾のものであり、台湾に行った人はできれば台湾語で現地の人に話をしてあげたら、台湾人も「おっ!この人すごい!」と思ってくれること間違いなしなのである。ありがとうや、さようならのような簡単な言葉だけでもいい。台湾語で台湾人に話をしてあげるということは、それだけ台湾人にとって、自分たちを仲間だと思ってくれているんだーという嬉しい思いをしてくれるのである。しかし、台湾語は難しい。台湾語を台湾人から習うのはもっと難しい。日本でもたまに台湾語を教えますというのを見ることがあるのだが、それは特殊な例であり、料金がめちゃくちゃ高かったりする。そんな金を払ってまで台湾語をマスターしようとするひとは奇特な人か、台湾語しか通じないようなエリア(どこだよ!)で仕事をしなければならない人ということにしかない。一般的な人にとっては、台湾語を何もなく習うのは難しいとことなのである。

ところが、そのハードルを下げてくれるものが、やっぱりポッドキャストにあった。それが「日本人による日本人のための台湾語学習ポットキャスト・ジャッパーベー」である。まだ始まったばかりなので、これからどういう内容が膨らんでいくのかどうかは不明なのだが、解説やら言語の裏側などを紹介しながら進めていくという意味では、台湾語の基礎かじゃぱら勉強しているという感じが楽しくやっていける。ただ、本当にその発音なのかというのは全然判断できない。なにしろ、パーソナリティの方が一人で行っているポッドキャストであり、ご本人も勉強中だからということをおっしゃっていたのだが、台湾人ネイティブからみたときに、この発音が正しいものかどうかはどこかで聞いてみたいところである。

そもそも、ポッドキャストの題名になっている「ジャッパーベー」という言葉は、中国語でいうところの「吃飯了嗎?」と一緒で、人に会ったときに使う挨拶のようなもの。文字通りだと「ご飯食べましたか?」になっちゃうのだが、あんまり本質的な意味で挨拶として使われるのではなく、単純に「こんにちは」程度の意味で使われる一般的な言葉である。

福建省のひとつの方言が台湾語に変化しただけなので、マレーシアやシンガポールなどにいる福建系統の人とは、実は台湾語と福建語で会話ができる。語法も表現もほとんど同じだからだ。だから、シンガポールの福建系のひとが台湾に旅行をしたときに、もちろん中国語で会話をすれば誰でも通じるけど、福建語で会話をすれば、それは現地の本省人と会話ができるということになるのである。

今後は台湾語ネイティブの人との会話のスキットみたいなのも登場させながら、NHKのラジオ語学講座みたいなのをどんどん発展してくれると楽しいポッドキャストになるんじゃないのかな?と思うので期待したい。


ジャッパーベー 台湾語Podcast
URL: http://takab176.seesaa.net/
更新:不定期

GrindrとJack'd

最近はテレビでゲイの芸能人がたくさん出てきたので、一般人にもゲイの認知度が増してきたことはいいことだとは思うが、それでも芸能界は特殊なところだからという暗黙の認識があるのかどうかは定かじゃないが、一般社会でのゲイの受容度はまだまだ低いと思う。ゲイだからということがわかると、友達をやめるひとや、会社での差別があったり、または精神異常者のようなレッテルを貼られてしまうというのはまだまだ残っている。ゲイであることを隠して偽装結婚をしていてたり、子供をわざわざ作ってノンケぶっているようなひとも結構いるのは、それは会社では結婚しないと一人前だというような古い慣習をまだ信じている人が多いから、自己の出世のためにやっているというゲイも多いのが事実である。そういう状況だから、ゲイは昔から相手を探すのにノンケの世界よりも影で行われていた。

最初は青線地区からの延長である新宿二丁目のような同性愛者が集まる町で、似たもの同士が交流する方法。それからゲイ雑誌のようなところで文通から始まるというのが大昔の手段だった。ところがネット社会になってくると、Saturn や Mensnet のようなゲイのためのウェブサイトが出てきて、そこで掲示版やチャットで相手を探すという手段で、二丁目のようなところに行きたくない人でも、少しは気軽にゲイの世界に入り込めるような手段ができたことは、ゲイ人口を増やした要因でもあろう。しかし、これでは、一般ノンケも参加してきて、顔を出した途端に知っている人からゲイであるということがバレるという可能性もあった。それから、mixiの変形版である閉鎖的SNSのmensmixのようなゲイ専用の紹介制が出てきたことにより、他のゲイからじゃないと入れないから、ノンケが入ってこれる余地がなく、それでゲイであることがばれずにネットで相手探しができるというような世界の基盤ができたことは記憶に新しい。さらに、最近では、GIS(地図情報システム:geographic information system)と連携したスマホ用のアプリが出てきたことにより、自分の近所にどんなゲイがいるのかというのを把握できたりするような仕組みがでてきたし、最近ではこれが流行りつつある。

代表的なスマホ用のゲイGISアプリとしては、GrindrJack'dだろう。他にも続々と新しいアプリが出てくるのであるが、他のアプリがどの程度浸透しているのかどうかは不明だ。

最初のGISを使ったアプリとして登場したのはGrindrだと思う。これによって、自分がいまいる場所の周りに、同じアプリを立ち上げているひとがどれだけいるのか、それも全員がゲイであるということを考えたときに、お仲間がどれだけいるのかというのを一気に解放させたというのは、有る意味革命的だったといえよう。なぜなら、特定の場所にいかなければゲイなんていないんじゃないのだろうか?というような素朴な疑問を持っていた人たちが、意外なひとが身近に居たとか、学校や会社や街中でふらふらしているときに、この人もそうだったのねー?というような新しい発見をみつけることができるということの刺激があったからである。アプリが発表されてから、世界中で爆発的に浸透したのだが、この感激を共感したかったからなのだろうと思う。しかし、Grindrにもデメリットはある。顔写真を基本的には登録をするので、それで相手を判断すればいいのだが、登録する写真が基本的には1枚しかない。顔じゃなく、体だけとか、全然関係ない景色なんかを掲載するようなバカも結構いるのだが、それではどういう人なのかは全然わからない。もちろん、自己紹介の部分も少しはあるのだが、これがあまり長文だと表示しないということもある。なんといっても、自分のいる場所の廻りのみしか表示しないので、位置情報をゲットできなければ、情報が取れないのだ。

その点、Jack'dのほうが改良されていると思う。同時に表示登録できる写真の量は3枚。よって、顔だけでもいいし、顔+体でもいいし、体だけなんていうふざけた写真の掲載のひとも結構いる。それだけじゃない。GISの機能として、特定の場所に移動した場合は、その場所の廻りだとどういうひとがいるのかという、自分がその場所にいなくても検索できるような機能がついているのは大きい。日本国内だけじゃなく、海外の特定場所を検索できるのもすごいと思う。それから、写真をみて「お気に入り」と思った場合、GrindrもJack'dもどちらもブックマーク化して登録はできるのだが、Jack'dのほうがもっと機能を有している。それは、お気に入りに登録すると、その登録したという情報が相手側に伝わるのである。お気に入りに入れられて「いやだ」と思うような人は、まずこういうアプリを使っていることはないだろう。更に言うと、誰が自分のプロフィールを見たのかという、mixiではおなじみの「足跡機能」というのが付いているので、誰がいつアクセスしてきたのかが一目瞭然だ。もちろん、相手をお気に入りにした場合、Fridaeのようにハートを送ることができ、ドネーションをJack'dのサイトに送っていない場合には、1日10人までにしか送ることができない。それでも毎日やっていれば、いろいろな人に送ることができるというものだ。送りたくなければ「拒否」というのもありだ。

Jack'dのほうはだんだん海外でも使われつつあるようだ。こういうツールは、登録者数が多ければ多いほど楽しくなる。そこで相手を見つける/見つけないは個人次第のことなのだが、まぁ、こういうアプリを使って、いろいろなタイプの人間模様をみているのは楽しいものだ。

感じる科学(書籍)

さくら通信」を主宰している旅作家のさくら剛さんが、科学に関する書物を出版されたという話を聞いて、どういう内容なのかと早速手にとってみた。ご本人がポッドキャストの中で、旅に関することでは全くなく、趣向を変えた作品になっていると聞いてしまったら読みたくなってしまう。事前に他のさくらさんの著作物を読んでいれば良かったのだが、実は読んだことが無い。なので文章にしたときの表現趣向がどういう人なのかは全然想像ができなかったのだが、ポッドキャストの喋り方や思考を考えると、この人が科学なんていうものに対してどういう考えを持って説明をするのだろうか?というのはすごく期待してしまった。

最初は立ち読みから入ってみた。いろいろな人が「図解なんちゃら」とか「わかる!なんちゃら」とかというような科学系の書物を書いているのだが、どれもこれも専門的なことばかりを散りばめて、結果的には読んでいる人の脳みそが途中から付いていけず、結果的に何冊読んでもわからないというようなことに陥るのが科学系の書物の定番だったのだが、さくらさんの今回の書物をパラパラと読んで見た時に「これは汚いやり方だ!」と思った。「汚い」と表現したのは、誰もが本当はわかりやすい内容で書きたいときに、素人でもわかるような内容にする場合には、どうしても解りやすい例を持ってきて説明することになるが、その例がまたわかりにくいものになってしまって、本質がわかりにくい内容になってしまうのが定番だったところ、下品な例を持ってくることで、脳みそに自然なバリアを作ってしまう分野にも「これは楽しいものだ」というのを読者に植えつけさせることができたことが汚いと表現したまでである。たぶんいろいろな科学者が似たようなことをしようとおもったに違いない。ところが、そういう科学者たちは、自身の見栄や所属している業界からの圧力やバッシングを払いのける勇気がないために、下劣な例を内容にして表現するということはできない。ところが、どこにも科学的な分野に属していないさくらさんにとっては、「下品でなにが悪い?」と主張するような内容に仕上げられている。身近な、下品な話題を科学の例にすることで、実は事象や理論の本質を間違いなく突いているという点では「よくぞ、やってくれた!」と絶賛したい。

実は自分もいちおうは理系の人間だったし、学生のときには履修していたのに、全然頭に入らなかったのが相対性理論。3次元の関数で表現されている世界であれば、脳みその中ではチャカチャカと自分なりには想像できる能力はあると思っていたのだが、相対性理論について書かれているどの本を読んでもわけのわかんない公式やら言葉が出てきて、そこに時間要素がついてくることによって、なにがどう関係してくるのかというのが、ぼんやりとしてしか理解できず、確たる理解というのが全くできないでいた。いわゆる科学系の書物では「ブルーバックス」と呼ばれるシリーズなんか結構読んだはずなのに、内容が間違っていたり、表現が不足していることにより全然理解できない状態だったので、長年、「相対性理論っていうのは言葉だけでいいや」と内心諦めていた。ところが、この本を読んだことで、あっさり長年のモヤモヤとしたものが払拭されてしまったのには驚いた。やっぱり例がわかりやすい。時間要素という一番わかりにくいものをどのように扱えば良いのかがキーポイントになるのが相対性理論なのだが、ここを個人的にはポイントを押さえてくれているので、すんなり頭に入った。

そこでか!とツッコミを入れられても仕方ないのだが、最初の方に書かれている特殊相対性理論の章のところで「欲しい」と思ってしまったので、思わずそのままレジに行って購入。そのあとに述べられている一般相対性理論のことやその他の現象・理論についても熟読してしまう。どれもこれも、下品な例を使って説明しているのだが、別に無駄な例で亜もないし、雑談でもないし、理論を説明するための補足情報として使われているので、考え抜かれているなーと読みながら感心してしまった。よく日能研の広告で「□い頭を○くする」と宣伝されているのをみて、頭を柔らかくしないとダメだという宣伝にもなっているのだが、この本はまさしく柔らかい頭のままで難しいことが理解できるという有り難い本だとおもう。量子力学のところの章は、眼に見えないものをうまく表現できているもので圧巻だ。

大学生で実際に理論を勉強している人たちにはもちろんお勧めなのだが、できれば中学生や高校生のようなひとたちに読んで貰ったほうがいいと思う。小学生でもいいのだが、ちょっと早いかもしれない。でも、小学生のころだと、まだ科学も文学もあまり区別なくすんなり頭に入るような時期なのだから、本当は小学生のほうがいいかもしれないが、たとえとして出てくる例が、恋愛や下ネタのようなものが出てくるので、あまりこの例が理解できないために、全体がわからないというオチになりそうだとおもう。中学生・高校生なら多かれ少なかれ同感できるところが多々あるとおもうので、科学が嫌いになってくる時期でもあるのだが、読んでもらいたいところだろう。

京都大学の准教授のかたが内容を監修しているので間違ったことは記載されていない。しかし、いくら科学とはいえ、どこまでさくらさんの自己知識で書いているのかわからないのだが、ここまで砕けた内容にしたとしても、わかりやすくそして本質を押さえた書き方にしているのはある意味科学書物の革命だとは思う。

「感じる科学」
著者:さくら剛
出版社: サンクチュアリ出版
発売日: 2011/12/10
URL : 公式サイトはこちら

自分なりのTwitterとFacebookの利用違い

ツイッター、フェイスブック、ブログ、Ustreamと、いまでは情報発信手段というものはいろいろ増えてきた。それぞれの使い方もまた発信者によって全然違うのだろうが、全部同じネタで発信しているというツマンナイ使いかたをしている人・企業も結構あるのはご存知の通り。反対にすべてのメディアに対して全く異なる方法で情報発信しているところもあるのだが、これを実践している企業や団体や個人というのは、プラニング、マーケティング、プロバイディングと各方面ですごい念入りに案を練っていることなのだろうと感心するのだ。じゃ、自分個人としてこれらのツールをどのように使い分けしているかというのをちょっと考えてみた。

Ustreamはこれは他の3つのツールの文字ツールと違って動画配信なので、ここでは言及しないことにする。Podcastと並んで情報発信するための情報量は文字に比べて断然多いのだが、自分がPodcastもUstreamも配信行為をしていないので、その良し悪しについて言及できる立場じゃないからだ。ただ、個人でもテレビやラジオのような情報配信が気軽にできるようになったことは大きな進歩だとは思う。

じゃ、他の3つのツールについての違いなのだが、自分なりには次のように考えている。

ツイッターは即効性のある情報配信・情報収集ツールだと考えている。ほぼタイムリーに大量の人たちがその場で思ったことや普段から考えていることが140文字という文字制限ながらも次から次へと新しい情報を提供してくる。新しい情報がほぼタイムリーに出てくるので、「いま」という瞬間を知りたいときや、自分から「いま」を配信したいときには有効だ。問題は情報取得側の問題。次から次へとやってくる情報洪水に対して何を必要とするのかということの取捨選択がここでは求められる。ツイッターでの情報配信は個人的にはあまりしない。別に情報配信するものがないからというのもあるのだが、積極的に「ボクがここにいるよ」というのを世間一般にアピールするつもりもないからということもある。ただ、その瞬間の生の情報を配信できるという意味では、自分がその瞬間で何を考えたか、何を見てどう感じていたかということを記録するためにはいいツールだと思っている。公開型のEvernoteのようなものである。Evernoteとは違うのは、他からの反応があること。発信した瞬間に誰か別の人からそのコメントに関して反応があることだろう。チャットの場合は、その場に居た人たちがおしゃべりをするというものであるが、ツイッターはチャットほど即効性があるツールではない。コメント・リコメントする側に考えさせる時間を与えている点も異なる。別にコメントが欲しいわけでもないので、ツイッターを通しての反応は、それもまたその瞬間の反応でもあり、受け止める必要がある。

似たようなものでFacebookもあるが、こちらのほうも即効性といえば即効性はある。ただし、表示の仕方が即効性というよりも、半記録的な情報配信であるかと思っている。それは、Facebookの場合、反応があった場合、そのコメントが最新情報としてまた表示の中でトップに来るので、コメントがあればあるだけずっと上に表示されるということなのだ。ツイッターもFacebookもどちらも動画と画像が添付できるのだが、ツイッターの場合、使うツールによって保存されるサイトが毎回異なる。しかし、Facebookの場合はFacebook内の特定のディスクのところに保存されるので情報の一元化ができるという点はある。言い換えれば、Twitterは配信者の情報はどうでもよく、プラットフォームだけ提供しているのだが、Facebookのほうは誰が誰と繋がって、どういう情報を配信し、どういう画像を所有しているのかというのを全部管理したいという点なのだ。そういうところでの情報配信となると、どこまで公開するべきなのかというのが難しいところだ。個人的には情報の内容についてはあまり気にしていない。ツイッターは日本語でしか記載していないのであるが、Facebookのほうは各種言語で配信することにしている。つまり言い換えると、ツイッターは自分が日本人であり日本語で情報収集しているということもあるので、日本語の配信専用サイトにし、FacebookはFacebookから世界各地の事情を収集しているから、配信も世界向けにしているという点の違いだ。内容はツイッターよりもFacebookのほうが断然少ない。なぜならあまり即効性というのを重要視していないからである。

じゃ、ブログのほうはどうなのかというと、これもまた情報の扱い方が違う。どこからの反応が欲しいという意味でこれもやっているわけじゃない。これも備忘録的に記載しているだけのものである。最近では旅行記ばかりが目立ってしまうことになってしまっているのだが、その旅行記を誰かに読んで貰いたいというのではなく、あの時こういうことがあったなーというのは写真を観ればわかるところもあるのだが、記事にしていたほうが自分が思いだすときにいいトリガなれるなと思ったからである。ブログだと情報量を気にせずに1つのトピックに対して好きなだけダラダラと書き綴ることができる。のこしたいだけの情報をブログは残すことができるという点では良い。もちろん、他の人にとってはブログは「日記」でしかない場合が多いとおもうのだが、個人的には日記のつもりは全く無い。あくまでも記憶を残しておくためのサイトなのである。だから、たまに他人から「ブログを観たんだけど、あんまりブログらしくないね」といわれることがあるのだが、だいたいブログらしいブログってなんなの?ということが言いたい。ブログ=日記だと思っている人が多いので、そう考えている人たちに自分がブログで記載している内容のことを説明してもほとんど理解されない。

自分のような使い方の区別をしている人がどの程度いるのかわからないのだが、どれもこれも同じような内容にしている人を見ていると、何がしたいのかが個人的にはわからない。単にアピール君だということにしか見えないのだ。そんなにアピールして、自分が有名人になりたいのか?という疑問はわく。もちろん、何かの目的のために同じ情報を提供している組織や個人もある。

Twitterクライアントの違い

ツイッターを使っているクライアントは、なにを使うのが多いのだろうか?ツイッターを使う理由にもたぶん関わってくるので、その用途によって使いやすいクライアントというのがあるのだろうと思う。そして、使っている環境にもよることが多いのではないだろうか?

たぶんツイッターを使っている環境で一番多いのが、スマホ環境からのアクセスだろう。自分の状態報告やどこにいるとか何かをしているというのを、本来ならば個別に知らせれば良いのに、それを無関係多数に知らしめるために使いたいと思っているひとたちが多いからだろうということと、移動途中における本を読んだり寝たりする代わりに、スマホで情報を収集したりするために使っているというような状況もあるだろう。

自分はどうしてるかと思っていると、いろいろなツイッタークライアントを使ってみての感想だが、携帯電話やスマホの場合は「ついっぷる」を、PCからだと「Tweetdeck」を使っているのがだんだん一般的になってきた。それぞれの理由はある。

どちらの環境でも、最初はツイッターの公式サイトからアクセス見ていたのだが、ブックマーク化したとしても、これが全然最新情報の更新をしなかったので、イライラしていたのだ。時は、東日本大震災が起こったあとの直後で、現在の状況がどうなっているのかわかりにくかったことに事態は戻る。このときには情報収集する手段が携帯電話しかなくて、それでも情報はジャンジャン入ってくるはずなのに、いちいちリロードしないとダメだし、黙っていたら情報がすぐに陳腐化してしまうことが、情報の見落としに繋がったからである。そこで常にリロードをしてくれるアプリか何かがないのかと探していたところに、上記の2つにぶち当たったということなのだ。
携帯とスマホをついっぷるにしている理由は、なんといってもその動作の軽さだ。必要な情報以外は表示しないために、表示が軽いから動きも軽いのである。必要な機能は全部備えており、特に不自由に思ったことが無い。携帯電話のような手段でのアクセスの場合、その非力機能のために、動作が軽いというのが一番重要な要因になる。そういう意味ではついっぷるは申し分ない。そして、Tweetdeck のほうをPCで重宝しているのは、「All friends」と呼ばれる登録しているフォロワー全体のツイート表示と同時に、「mention」と「@」あてに送られてくる個別のツイート内容や、「Direct Messages」と呼ばれる、非公開個別メッセージの全部を一度に見せることができるからである。携帯電話のような画面が小さいところではこれらが全部見えるのはなかなか難しい。スマホでも Tweetdeck はあるのだが、同時に表示させるというより機能としては動かすことができるが、やっぱり見せるのは「All Friends」か「Mentions」か「Direct Messages」のどれかしか見せることができない。やっぱり画面が大きいほうが全部が一度に見えて、どこに発言が出てくるかわからないので、反応しやすいというものだ。別に積極的に発言をするというわけじゃないので、即反応を求めているというわけじゃないのだが、なにか事件があったときの反応は、すべてのメディア手段を駆使できていたほうが便利だというもの。さらに、Tweetdeck は Facebook との連携もできるので、Facebook での記載もあった場合にも、それを1つのカラムとして登録しておけば、最新版を観ることができるという便利な使いかたがある。

いずれにしろ、Twitterをなんのために使っているかによるものだとおもう。情報公開用、自己アピール用、情報収集用などなど、それぞれによるものだが、ツイート数が多い少ない、フォロー数が多い少ない、フォロワー数が多い少ないというのは、まるっきりなんの関係も無い。内容重視だとおもう。どこで飯を食ったとか、誰と会ったとか、個人的なメッセージを公開でやりとりして、「ボクって友達が多いんだよね」アピールをしている人も結構いるのだが、まぁ、こういうくだらないのは無視するとして、中には飛び切りの情報を発信しているのもいるので、こういうのを捕まえたいところだ。

ただ、ツイートに関しても、どういう内容を発信するかがあるとおもう。Foursquareと連携して場所情報を提示したり、なにを聞いているのかというのを知らせたいためのツールと連携したり、今後もツイッターという中心手段を使って、派生ツールが一杯出てくると思う。

腸弱人の世界

トイレに近い人の中でも、「小」ではなく「大」のほうが頻繁に行きたくなる人のことを、ネットの世界では「腸弱人」というニックネームで呼ばれるようになって久しい。google先生を使って「腸弱人」のキーワードで調べてみると、たくさんのサイトが出てくる、出てくる。世の中にはそれだけ腸弱人の状態の人がたくさんいるということであり、それぞれのサイトでは、自分の苦しみや、苦しみを解決するための予防手段とか、内容はいろいろあるので、他人のサイトを見ていると結構有益な情報があったり、同情したりするような余地があったりするところも出てくる。

なにを隠そう、自分も「腸弱人」の分類に入るもので、毎朝の通勤時間帯が一番ひどい。通勤時間帯を過ぎると、一般的な人間になることができるのだが、一度、通勤時間でトイレに駆け込みでひどいことを経験してしまうと、また同じようにひどい目に遭うのではないだろうか?という、今度は不安要素として、微妙なストレスがお腹にきて、また余計にトイレ駆け込みになってしまうというような悪循環に陥ってしまう。

ちなみに自分の場合は、「今日はめちゃくちゃダメそう」というのは朝からなんとなく分かる。朝食を摂って、出かける準備をしている間に、一度トイレに行くのだが、そのときの排便でわかるのだ。残糞ならぬ、なんだかまだ出し切っていないような気がするというような感覚が残っているので、しばらく便座に座っているのだが、それでもその瞬間は出てこない。それで、一度トイレを出て、また出かける準備をしていると、すぐにトイレに再度駆け込みたくなってしまうのである。こうなると、もう定期的に「トイレに行かないと爆発するぞ」ボタンを押したように、家から出るきっかけがなかなかでなくなってしまうのだ。じゃ、この腸弱人になる条件というのは何か?と尋ねられると、これが答えられない。前日に食べたご飯にあたったとか、寝冷えをしたとかならわかるのだが、そんな確定的な答えに合致するようなことは無い。ダメなときはダメなのである。会社に行くときに、その日は何か特別なストレスがたまっているからとか、そういうのもない。最近では、冬は寒いので、外の温度に対応できないからお腹を壊すのだろうといわれたこともあるのだが、それも該当しない。なにしろ、冬だけじゃなく、夏もなるのだから。もちろん、冬の場合は、お腹と腰のあたりに、1枚ずつ懐炉もつけているのだから、お腹が冷えたという状態になっているわけでもないのだ。

だから、医者に行って、状況を説明するのだが、これといって有益なスーパー薬というのがあるかというと、どれもこれも飲んでもたいした効果はないのだ。最近テレビでやっていたことのなのだが、もしかしたら、小腸に虫が沸いて、そいつが腸内で発酵物質を出しているということも考えられるが、腸内を洗浄し、同時に足らなくなった水分も吸収できる飲料水をドラッグストアで買っても全然効果はない。

ちなみに通勤時に、一番酷いときには、自宅で出かける前に2回、最寄り駅で1回、2つ隣の駅で1回、さらに2つ隣の駅で1回、またさらに2つ先の駅で1回、ターミナル駅で1回、勤務地の最寄の駅で1回と、合計7回も行ったことがある。通勤時間は普段でも確かに90分位掛かっているのだが、このときには、トイレ待ちにも遭遇しているので、150分も掛かってしまった。このくらい頻繁に行くような緊迫感がある場合には、駅のトイレに駆け込んだときに、待ち行列が出来ていた場合のショックはかなり大きい。個室の数が多くて、それでも並んでいるひとがいるというのだれば、5分も待てば、どこかの個室が絶対開くので、待っていようという気にはなるのだが、個室数が2個しかなく、それで待ち行列が4人とかになっている場合には、2周入れ替えがない限りには自分の番は廻ってこないということなる。それを頭の中で考えた場合には、余計お腹・・・というより、腸のほうの緊張感が抜けてしまって、いまにでも「こんにちはー」と便が出てきそうになってしまうのだ。そのとき待っている自分の立ち姿といったら、ソワソワしているのが丸分かりだろうと思う。たまに、自分にはまだ余裕があるのだが、同じように並んでいる人の中で、「10秒後には限界が来ちゃう」というような表情をして、腰をくねくねしながら待っているひとがいるのだが、その心情も分からないでもない。

普段から腸弱人の状態に成っているので、上記のように比較的個室トイレの数が多い場所は事前に自分なりに押さえている。おそらく同じような腸弱人たちも、自分なりにトイレマップを作成して、情報を持っているんじゃないのだろうか?いざとなったときには、あのトイレを使えばいいという情報を持っているのと持っていないのとでは、どこまで我慢すればいいのかということに関わってくるので、踏ん張りの我慢度にも影響してくる。駅のトイレだけじゃなく、最寄り駅からオフィスや家の間で、トイレが借りれそうなコンビにやファミレスというのを押さえておくというのも、また情報としては必要なことだろう。そして、企業のBCPじゃないが、あるトイレがもしかして使用不可になっていた場合に、代わりに使える場所を事前に押さえておくという、コンティンジェンシープランも考えておくのは重要なことだ。個人的には駅のトイレが使えないときには、駅傍のファーストフードの店に飛び込むことにしている。

以前、埼玉のある駅でトイレに行こうと思ったら、そこのトイレは、なんと個室が1個しかなく、既に誰かが使っている状態だった。ちょっと待っていたのだが、いつまで経っても中から人が出てこないで、ドア越しでどうなっているんだろう?と聞き耳を立てていたら、なんと中で寝ている馬鹿がいたことが判明した。ドアを蹴ったりして「はよ、出んかいっ、われー」と思っていたのだが、それでも出てこなかったので、あわてて改札を出て、ちかくのミスタードーナツに駆け込んだという経験がある。菊の門からちょっと顔を出している状態だったので、もうちょっと遅かったら、駅で脱糞するという史上最悪の辱めに遭うことになったので、それを回避できたときには本当に安堵した。

腸弱人にとって、列車自体も実は乗るのを間違えると大変な目にあってしまう可能性に遭遇するという危険がはらんでいることは、一般健常者には全く分からないだろう。たとえば、東海道線のように長距離電車では、たいてい、数箇所にトイレが設置されているので、その付近に乗っていれば、いざ車内でトイレに行きたくなった場合にでも駆け込むことが出来る。なにしろ、東海道線のような電車は、一駅の間隔が長いので、次の駅まで10分止まらないということもままあるのである。しかし、そんな同じ長距離路線でも、たまにトイレが設置されていない電車が走っている場合もある。そのときには、駆け込むこともできないし、ましてや、駅間で電車が故障してしまったり、前の電車が動いていないので、しばらく停車するというような状況になったときには、逃げ場がない。緊急非常ドア開閉ボタンを押して、外に出て、車内のひとたちが「迷惑なやつだ」と罵りの目で見ながら脱糞するという勇気があるならやればいいが、そんな肝っ玉の据わったような人は腸弱人には存在しないと思う。これもコンティンジェンシープランの中の1つではあるのだが、トイレが設置されていないような長距離列車には乗らないように普段から気をつけるということも手段の1つなのである。とはいいつつも、山手線や京浜東北線のように、もともとトイレが設置されていないような車両は存在するが、その場合、駅間がそんなに長くないので、次の駅までは我慢できるという気合は必要である。

以前は、ちょっとした地震でもすぐに電車は安全確認という名目で立ち往生をすることが常だった。ところが、東日本大震災後、頻繁に地震が東京では起こっているが、地震が起こったとしても、そう簡単に電車が緊急停止をするようなことはなくなったことはうれしい。それでも、何度かは停止を余儀なくすることには遭遇したのだが、それは安全上仕方ないことだ。だが、腸弱人にとっては、こういういつ動くのか分からない状態のときが一番不安になる。いまは安心だけど、すぐにまたヤバい状態になるかもしれないという不安は常に頭にあるからだ。案の定、先日、比較的大きな地震が東京で起こったとき、ちょうど乗っていた電車が大きな川を渡っている最中だった。そのときに緊急停止信号を列車が受信したことで、橋の真ん中で立ち往生するという自体に巻き込まれた。幸いには、その日は腸弱人の状態ではなかったので、不安はなかったのだが、これが普段からの腸弱人状態だった場合には、脂汗だらだら掻いていることになったのだろうと思うと、末恐ろしい。

腸弱人同志たちよ、一緒に終わりなき戦いに臨もうではないか。

サイボーズ Live!

オフィスのネットワークはセキュリティ対策として情報漏えいにシビアになってきたために、あらゆるプロトコルといろいろなサイトへのアクセスが禁止になっている。アクセスしようものなら「社内ポリシーに引っかかるために接続できません」というメッセージが来てアクセスできない。もちろん、この中にはフリーメールやSNSといったサイトへのアクセスも出来ないようになっている。前は、もう少し緩かったと思うのだが、ここ最近のネットワーク管理者によるサイト接続規制は、中国のGreat Firewallなみに厳しくなってきた。最近はもっとひどく、個人携帯電話のオフィス内への持ち込みは禁止にしてしまい、別途設けた個人ロッカーへ電話類などを格納してからじゃないと居室に入ることが出来ないようになってしまった。

それだけ厳しく管理されているにも関わらず、メールだけは放置プレーのようになっていたのだが、これにもとうとうメスが入ってしまい、外部組織へメールをするためには、まず最初に「送信先アドレスはあってますか?あっていたら、アドレスごとに確認のうえチェックしろ」というような主旨のメッセージが出てくるようになっている。このような機能は、各端末に強制的にインストールさせられたソフトによって対応されられている。さらに、これに添付ファイルがついている場合には、もう1つ確認ステップが入り、「一時的に送信をやめています。添付ファイルが正しいものかどうか、上長による許可により送信されます」という主旨のメールが返ってきて、メール内に記載されているテンポラリのURLを上長からアクセスしてもらい、内容の確認の上に送信許可が出るというような面倒くさいことになっているのだ。正直、ここまで面倒くさい仕組みが作られるのは、なにか漏洩があったときに、誰もが責任回避をするために仕組まれたことであって、トップが悪うございましたと、頭を下げるのがイヤだからというのがシステム化導入の根拠となっているのは否めない。

おまけにメールでの添付ファイルのサイズは、1通につき1MBまでとなっており、ファイル容量が大きくて分割して送ろうものなら「SPAMメールなのではないか?送信を切断します」というような主旨が今度はメールサーバから送られてくる。先にも述べたが、怪しそうなサイトには接続できないようになっており、その中にはファイルシェアのサイトも含まれる。100MBくらいのストレージサイトがあれば、そこを使ってファイルの授受ができればと思うのだが、システム管理者のほうがいたちごっこで日々怪しいサイトを検閲しており、そこに引っかかってしまえば、ストレージサイトにアクセスができないということになってしまっている。

そんな状況でも各種業者やユーザとのファイルでのやりとりは必要だ。それも場合によっては10MBくらいのファイルは必要になってくる場合もある。もちろん、圧縮しての話だが。このような社内ネットワーク環境で、唯一使えそうなところを発見した。それがサイボウズ Live!である。

ブラウザアクセスで、社内コラボレーションツールとして使えるサイボウズのインターネット版であり、ちょっとした連絡のやりとりやファイルのやり取りであれば、これで十分にいけることがわかったのである。おまけに、なぜかわが社のネットワーク管理者はこのサイトへの規制をかけていないのだ。ためしに、同じ担当業務のメンバに登録してもらって、同一案件に限って、そのなかでメッセージのやり取りをしていたのだが、これが非常に便利である。メールでのやり取りも実は不都合は感じないのだが、サイボウズ Liveを使うと、メーラーがクラッシュしたときにもバックアップとして使えることが出来るし、なんといっても、ネット経由でやりとりするから、家からでも関連業務の確認は出来るということなのである。ファイルのサイズは1ファイルあたり20MBまでならサイボウズ Live に格納することができるので、ちょっとした複数ファイルにおよぶ膨大な資料関係ファイルについてのやりとりも簡単だ。

お客様への対応については、自社の社内ネットワークがどこまで監視しないで放置してくれるかという見極めたいところではあるが、このまま放置のままだったとした場合、サイボウズ Live でお客様も含めて、通常メールでやりとりするようなことは、伝言板に記載してもらい、必要ファイルについても、同じようにストレージへ格納してもらうということにすればいいということが言えるだろう。

自分でグループも作れるし、他人が作ったグループへの参加も出来るし、他人からは自分がどこのグループに属しているのかというのは見えないようになっている。

社内ネットワークからじゃなくてもアクセスできると述べたが、それはサイトがインターネットになっているからだということもあるが、なんといっても、iPhoneアプリAndroidアプリも無料で存在するので、それ経由でメッセージのやりとり、ファイルの閲覧ということができるからなのである。だから、いつでもどこでもメンバであれば誰とでも業務に関してサイボウズLiveを経由してやり取りするのは、何不自由することなく対応することができるというものだ。それも、全部無料で使える。無料でここまで使えるというのは本当に便利である。

サイボウズLive!
URL : https://live.cybozu.co.jp/

2012/03/12

大震災から1年経過

2012年3月11日でとうとう東日本大震災から1年経過した。この1年はあっという間に1年が来たと思うし、いまだに震災のことはあちこちで話題には上ることになっている。東京に住んでいると、もう地震のことは忘れてもいいかとおもうのだが、追い討ちをかけるように、そのあとすぐに福島第一原発の大事故が発生したため、地震+放射能汚染というダブルパンチを東日本全体が襲われたことで、いっきにてんやわんや度が2倍に膨れたことになった。どちらか片方の災害だけならば、もっと早く災害のことについては記憶から消えることになることなのだろうが、まったく収まる様子が無い地震も放射能汚染のせいで、いまだに東京に住んでいながらも話題に尽きることは無い。

さて、1年経過して日本全体が地震や放射能をきっかけに何かが変わったかというと、かなり大きく変わったことと、全く変わらないことと両極端に見えてきたのではないかと思うようになった。備忘録的に1年経過した現在、自分なりに全体を見回したときの事項を記載してみたいと思う。

すごい長文になってしまったので、イヤになったら途中で読むのはやめてくださいw

■この1年で変わったこと

一番顕著に変わったことというと、ネットを利用した情報発信と情報収集ということだろう。特に、震災が起こった直後は、一体どこがどうなっているのか?という情報がテレビやラジオではほとんど身近な情報として入ってこなかったために、Twitter による個々の情報発信とそれを受け取る情報収集先として大きく活躍したのは記憶に新しい。電車が動いているのか?どこで地割れができているのか?どこにいけば救援を受けられるのか?というのは、情報を早急な発表をするのは本来は自治体なのだが、普段からちんたらとやっていることと、すべてが業者任せになっている自治体が自ら動くことは無く、さらに自治体は地域住民よりも情報収集能力が欠如しているために、自ら発信するべき情報を整理することも、何を発信すればいいのかという方向指示もできない状態であったことに住民は諦め、自ら情報を取りに行き、ほぼ全員がボランティア的に持っている情報、知りえた情報をTwitter等で発信したというのは、情報過多になったことはなったが、情報が無いよりは断然マシだということを一般市民は感じたはずだ。そして、Twitterだけではなく、Ustreamの役割もこの1年で大きく飛躍したことだろうと思う。きっかけは東京電力による記者会見だ。東京電力の記者会見は最初のころは毎日テレビでちょっとだけ放映されていたが、あるときから全く放映されなくなった。しかし、放射能は相変わらずずっと拡散し続けている。拡散し続けているが、もう収束したというような報道をしないと、東京電力に大きな責任問題が関わるから、どうしても東京電力はテレビ局と結託して事実報道をあまり放送電波で載せないように画策をする。それに業を煮やした、フリーランスのメディアのかたたちが、Ustreamを使って、ほぼずっと東京電力の記者会見中継をネットで垂れ流ししたのである。これは大きく変わった。記者会見のときにマスコミが東京電力にツッコミを入れるのが、これが記者クラブがやるとツッコミがすごい弱い。ところが、フリーランスがツッコミを入れると、隠してはいけない情報を隠しきれずに暴露してしまうというのがたくさん出てきた。記者クラブの追及よりもフリーランスのツッコミを目の当たりにして、東京電力が常にウソを付いているということを国民が知ってしまったことも大きい。もう1つUstreamの果たした役割として大きなことは、放射能測定器のライブ情報発信だろう。放射能拡散が始まったときに、ガイガーカウンターをはじめとする各種測定器を持っている人はあまり居なかったと思う。そして、自分のところの放射能量がどの程度があるのかというのは、自分たちでは知りようがなく、自治体に言っても重い腰のためにぜんぜん動かない。でも情報は知りたい。というときに、有志が、自分たちで持っている測定器の前にカメラをセットして、それをUstreamに数値データをライブ映像として配信し始めたのだ。多少の誤差はあるとしても、これでカメラ配信しているひとの周りは、福島からの放射能量がどの程度来ているのかというのを知りうることができたというのは、安心に繋がるいい結果だったと思う。そこから派生して、いまではクソガキあたりでも、スマホをつかって自分たちのつまんない「自称DJ」をネットに配信し、「ボクを見てよ」と自己アピールするような馬鹿が増えてきたのは言うまでも無い。

地震については、自分たちでも地面を通じて規模の大小は感じることができるので、報道がある/無しや、その報道の正確性については大いに指摘をすることができる。しかし、放射能拡散の事故については、色も付いていない、臭いもしない、ただ、知らない間に皮膚から、口から放射能を摂取して、必然的に白血病等の病に冒されて死んでしまうという恐怖がつきまとわってしまった。これが見えない敵に対して、すぐに殺されるというのであれば、地震と同じように恐怖度は即効で理解できることと思うのだが、放射能拡散による侵食は、時間が経過しないとわからないし、経過したあとにびっくりするような結果が出てきて、結果がでるときには、関係者および責任者は全部天国に行ってしまっているという状態になってしまうものだから、当の事故関係者は「いまだけ」黙って、事が沈静化するのを待っていたいという気持ちで一杯だったのだろう。それが東京電力によるウソ情報の発表や政府による情報規制、そして、一番悪いのはマスコミが東京電力と政府に協力したことにより全く情報が出てこなくなったということだろう。国民は他の手段で既に情報を収集してしまっていたので、政府・東京電力・マスコミが事実を隠蔽し、誤魔化しているというのを解ってしまったし、それは、政府と東京電力間では、学術系も含めて「原子力ムラ」という巨大な連携組織が存在していることにより、互いに悪い情報や不利になるような情報はあくまでも組織内だけにとどめて、外部、つまり国民には全く見せないようにしようという方針を徹底して貫こうとしたことが解ってしまったことである。そして、マスコミは、東京電力から年間数千億円単位で広告料を貰っているため、東京電力を追い詰めるような情報をテレビ・ラジオ・新聞で報道すると、原子力発電の問題が沈静化したときに、東京電力から広告料が入らなくなるかもしれないという危機感から敢えて情報を国民に提供しないようにしようと結託したことが国民にバレてしまったことは、とても大きな事件だ。そして、決定的なのは、政府・東京電力・マスコミが情報隠蔽に必死になっていたとしても、海外から正確な情報を発信しているところまでは規制をかけることができなかったことだ。アメリカやロシアでは衛星を使って放射能測定をしている。これは正確な情報であり、早い段階から原発から50km以内の人間は逃避せよという情報をアメリカは流していたが、日本政府は10km以内以外は大丈夫というこれまた馬鹿情報を早い段階で流していたことが露呈したからだ。しかし、幸いにも事故最初の頃は、英語の情報を敢えて収集しない国民性のために、情報はあまり広まらなかったが、翻訳してTwitterを通して別の人が情報を開示したことにより、いっきに日本語しか解する事ができない国民でも知ってしまうような状態になったことは政府不信間を決定的にしてしまったのは大きい。なにしろ、日本のマスコミからは「問題なし」とばかりしか連発しなかったことだ。

事実といつまで経っても変わらない政府や東京電力の正しい方向へ示す姿勢を出さないことに嫌気がさした国民が取った行動は、このおとなしいといわれていた日本人の行動を大きく変えることになった。「原子力発電は安全なんだから事故が起こるわけが無い」というスタンスで政府と東京電力が事態を収拾しようとしていたことに国民が嫌気をさしたことによって、東京電力になんとかしろーというデモをやり始めたことだ。最初のころのデモは、どっかのオーガナイザーが売名行為のために東京電力に抗議をするためのデモを始めたことだったが、これが一般市民に広がり、結果的には東京でも当日にあちこちの場所でデモが始まった。経済があんまりよくない状態だから、どこかに行って遊ぶということにも金が掛かるのでつまんない人生を送っていた若者にとっても、このデモというイベントには大きく関わりが入ってきたことと思う。というのも、金を使わずして、イベントに参加でき、自分が世の中をよくするために行動を起こしているという、自己陶酔的な満足感に浸ることができるというのがデモ参加だったからである。だから、デモ行進の様子を見ていると、真剣にプラカードを振りかざして、大声を張り上げて「東京電力死んでしまえ!」と罵倒しているひとが多いかというとそうではなく、ただ黙々と行進しているだけとか、あとは談笑しながら歩いているというような真剣味にかけるような参加者が半分以上いることはよく見かけた。しかし、デモなんていうのは、社会主義社会のもの、発展途上国のものと思われていた行為が、一般認知されたのは大きいと思う。デモにもいろいろ言いたいことがあるが、これは「変わらない」ほうで記載したいと思う。

自分たち個々出てみたときに、これまで地震が起こったら、震度2程度でも「結構揺れたねー」と話題にしていたことだったのだが、いまでは震度3程度までなら「また地震があったんだ?」という程度に慣れっこになってしまったのは、良い事なのか悪いことなのかよくわからない。それほど、地震はいまだに大小含めて毎日起こっている。そして、電車の運行でいえば、震度1程度でも、必ず電車は途中で停車して、安全性を確認した上で、運行再開するということになっていたのだが、震度3程度までであれば、電車は全く止らず、通常運行し続けていることは、東京のように電車が止ってしまうと、血液の流れが止ってしまうような状態になってしまうのでとても有り難いことであった。おそらくJRと私鉄が、協力して、地震が発生したときの安全性確認方法や復旧再開の手際のよさを訓練と研究を重ねて、大混乱になら内容に努力してくれた成果だと思う。交通遮断が、大震災発生時に大混乱を起こした原因の1つにもなっていたので、血の巡りをよくすることに注力を傾けてくれたことは本当にありがたい。感謝しても仕切れないところだ。

地震に対して鈍感になったといっても、スマホやモバイル端末に、緊急地震速報のアプリをインストールしている人は増えたために、ある程度の地震が発生したときに、いっせいに電車の中で「ふいーん、ふいーん」とか「てろんてろーん」という音が鳴り出すという気持ちの悪い事態に遭遇したことは無いだろうか?それだけ地震に対しては警戒心を世の中が持つようになったということは良い事だろう。ただ、スマホのアプリで地震が教えてくれるのはいいのだが、確かに緊急性のために発している音だからあの音なのは仕方ないのはわかっている。もっと優しい音にしてもらいたいと思うのは自分だけではないはずだ。いずれにしろ、自分で地震に対して予知の段階を事前に知っておきたいという、これも冒頭に関わってくるが、自ら情報を収集するという点に尽きてくることに源流があるのだろう。

そして、なんと言っても、災害時の対応のために備蓄することが増えてきたことだろうか。東京電力が原子力発電所の必要性を広めるために故意に行った部分的停電のために、まずは懐中電灯用の電池を備蓄することが増えるようになったとおもう。電池よりも、充電タイプのエネループのほうが人気だった。それから、食料と飲料水の確保だろう。それから派生して、いまでは簡易トイレや防災頭巾、そして携帯ラジオというようなものまで備蓄製品としてそろえ始めてきたことだろう。東京だって直下型地震が近年やってくることが言われている。全く来ないということはない。絶対そのうち来るのだ。その日のために備蓄することだけはしておこうという人は多くなった。さらに、モノとして保存するだけではなく、情報管理をするための訓練も叫ばれるようになった。システム化されても誰も使われなく、実際災害時にもほとんど使われなかった「災害時連絡171」というのを活用したり、スマホアプリもたくさん出てきたことは嬉しいことだ。つまり、地震が発生したときに家族が全員揃っている場合ならいいが、あちこちに分散している場合、安否を確認したいというのが一番大切だと思う。それを確認できるための手段をいろいろ用意しておくことは重要だ。うちの父親みたいに、災害時に「電池がもったいないから携帯の電源を切っていた」という馬鹿親もいるのだが、こういう人は死んでも仕方ないんだろう。

■なにが起きても全く変わらないこと

政府を中心に「むやみな情報発信はパニックを起こす」という馬鹿な方針を出していたために、本来は出すべき情報源の組織がまったく機能しなかったというのは、大いに国民を怒らせた。そして、パニックを起こさないためには情報をできるだけたくさん出すことだということを国民に覚えさせてしまった。情報をなくして国民の思考能力をゼロにしてしまうというのは、戦時中の情報統制のときと全く同じだし、北朝鮮や中国のような政治形態と全く同じであることを政府は1年経ってもまだわかっていない。隠すことで、後で事実が発覚したとしても、その事実の責任は後世に責任者になったひとへ擦り付けるような仕組みになっている。役人と経営者にとって一番イヤなのは、自分が責任を取ること。これを回避するためには、あらゆる手段を取る。たとえ倫理的に人道的に間違っていようとも、回避できればそのひとは英雄。できなければ残念な人だったということになる。山一證券が経営破たんをしたときに、社員のために最後まで会社存続を奔放し、最後の社員まで再就職を世話したあの社長は、一般的には英雄なのだが、経営者層や役人たちからみると「馬鹿」というレッテルが付けられていることは有名だ。責任回避をしたいひとたちの集まりばかりになっているので、事なかれ主義が横行し、中には「寝る子を起こすな」という方針を貫いている経営者層および官僚が横行している。フリーランスあたりが、その責任追及をしようとするのだが、責任者が本人が出てくることは無く、責任者を庇おうとする下っ端が出てきて、なんとかして責任者を逃がそうと画策する。丁稚奉公の世界がまだ残っている経営者層と官僚の世界は、守ることで自己保身になっているのである。

政府はいまだに原発は不要だということを主張していない。あれだけ原発が爆発して、安全性の神話はあっというまに崩れ去ったというのに、原発必要論を唱えている。これは2つの面から主張し続けている事なのだろう。1つは、海外への原発技術を輸出するということの方針を採っているために、いまさら原発をやめましたということを海外には宣言できないということなのだ。海外からすると「自分たちのところで使っていない原発をなぜ売るのだ?」と言われても仕方なくなる。これも事なかれ主義の延長なのだが、批判されたくないのであれば、これまでどおりの主張を変えないことで回避したいということなのだろう。でも、これは政府が言っていることだけじゃない。実は政府は言わされているといわざるを得ない。

原発必要論を唱えているもう1つの理由は、東京電力のような電力会社と、東芝や日立のような原発プラント会社からの付け上がりだからだ。東京電力などの電力会社は、国家戦略とはいえ、安定的に安心に安全に電気供給ができるという意味で原子力発電所を日本のあらゆるところに建設した。安心・安全というのであれば、東京電力なら東京の真ん中や晴海地区あたりに原子力発電所を作ればいいのに、実は人間があまり住んでいないような場所にわざわざ作って、そこから作られた電力を送電して販売してきたという歴史がある。そして、いまさら原子力発電所がダメでしたということを主張するということは、原子力発電所の必要性を根本的に崩してしまうことになるため、東京電力がこれまで注力を掛けていた努力と金銭が無駄になってしまうということになるからだ。だから、総電力量として原子力発電所がなくても火力発電所があれば問題ないのに、「原子力発電による発電量が少なくなっているので、利用者は節電に協力を」ということと、電力量をたくさん使う都心部は全く行わず、郊外ばかりで計画停電を起こして、無理やり「原発はやっぱり必要」というアピールが必要だったのである。都心部で停電しなかった理由は、これまた「パニックになるから」という意味不明な回避理由を述べているが、あとからこれが大嘘だとバレる。都心部のほうで停電をしてもよかったのだが、パニックになる方向性が「東京電力に文句を言われるのを回避したかったから」というのが原因だったのである。なにも情報が無い状態で言われるがままになっていた国民にとって、東京電力が「電力が足らないから部分停電します」ということを本気で信じていたのに、結果的には大嘘だったことがばれたことによって、電力量をもっとたくさん使う夏場はまったく停電が無かった。もちろん、各企業による節電の努力もあったことなのだろうが、根本的に電力は余っていたのだから、節電なんかする必要は無かったのである。それでも原発の必要性のためには、多少熱射病で人間が死んでしまっても、自分たちの商売のためには犠牲は必要という思いがあるからだ。東京電力だけじゃなく、東芝や日立も責任はある。なぜなら原発が作られなくなると、自分たちのオマンマが食えなくなってしまうからなのだ。もっと言うと、原子力安全委員会や保安院という、いまでは素人でも知ってしまった闇の悪行組織が、自分たちの天下り先確保のためと、東京大学などの原子力学術分野へのポスト確保のために、原子力発電とその技術は絶対に必要である、だからなんとしても事故はたいしたことではなく、すぐにでも事故じゃないところの原発は運転再開するべきであるというとんでもないような報告書を平気な顔を出している事実は、誰もが怒り心頭だと思う。

記者クラブのような報道機関は、本当なら報道を通して事実を監視するために存在することなのだが、いつのまにか政府の広報担当、東京電力の広報担当者に成り下がっている。そして、出し抜けの取材というのを報道管制なのか、横のつながりで報道規制をしているのかわからないのだが、いつまで経っても福島原発の現状について詳しい報道をせず、東京電力や政府に対してするどいツッコミを使って事実を報告させようともしない。上杉隆氏のようなフリーランスの記者が政府を震え上がらせるような質問をした場合、本来ならば上杉氏のサポートとして追い討ち掛けるようにツッコミを入れるべきのところを、何を考えているのか政府の肩を持って、上杉氏に「おまえはなんと言う質問をするんだ!ばか者!」と記者が記者批判をしているのだ。それがUstreamに流れいたのを見たときに、はっきりいってマスコミはすべて腐っていると思った。上杉氏の著書でも記載しているのだが、マスコミはテレビと新聞が一番最高の報道手段と思っているので、それ以外の手段で報道されても全然屁でも無いと思っている思い上がりが、日本のマスコミが世界で腐っていると言われている根本的な原因とまで指摘している。だから、Ustreamで自分たちの映像が全世界に流れていることに付いても「所詮、Ustreamだろう?マスコミじゃないだろう、やつらは」というような態度を取っていることが大問題であるし、たぶん大手マスコミの記者連中は考えが変わらないだろう。だいたいあぁいう記者会見に出席している記者というのは、原発の理論もしらなければ、医療の技術もしらなければ、最低でも科学技術のことを知らないやつらが記者になっている。どこかの省の記者になったら、上のポストになるために単なる通る登竜門としてしか思っていないからなのだ。これが海外のマスコミだったら、まずは専門家を記者として派遣して、専門家同士でのインタビューということであれば内容の濃い話し合いができるはずなのだが、それを業と避けたいと思っているのか、マスコミ側もあえて専門家を出さない。専門家を出してこないから、東京電力や保安院のようなところから、意味不明な物質や量といういかにも問題ないような数値を出されても、それが良いのか悪いのか聞いているほうが判断が付かないので、その場でするどいツッコミができないで「現場でこんなことを言っていました」というのをそのままデスクに報告することになるのである。内容を理解しているのであれば、その場で「なぜその量で良いといえるのか?」とか「なぜその物質が出てくることで安全なのか?」という基本情報を質問することができる。1拍置いて、あとでツッコミを入れるような時間を作るということは、相手側(東京電力等)に考えさせる時間を作らせることと同じなのだ。それでは本音は出てくるわけが無い。

政府は「がんばろう」と精神的なことばかり主張して内容が伴っていない。震災の被災地の復興状況はどうなのか?というと、テレビ報道があまりされないこともあり、なかなか思うようには進んでいないのが現状だ。さすがに、すこしは瓦礫のままだったことが整理はされているのだが、それでも被災地以外のところですんでいる人間から観ると、たまにテレビやネットを通して見る姿は想像以上に進んでいないことがわかった。さらに解ったことだが、震災直後のときには、被災地へのボランティアがたくさん居たのに、1年経過したあとのボランティア数は、驚くほど少なくなっていた。ボランティアへ参加する人間の心意気がおそらく悪かったのだろうと思う。というのは、ボランティアをすることで、自分がいい事をしているというのを世間に認めてもらおうと思っている人が実はかなり多いということだ。本当に親身になって被災している人を、ちょっとでも助けてやろうというような人は、実は志が高いので復興が進まなくても積極的に現場に足を運ぶ。ところが、前者のような人は、こんだけ自分が絡んでいるのに、どこにも報道されないし、その後全然進んでいないんだから、もうやる必要がないよねという簡単な諦めが出てくるのであろう。これでは、受け入れ側としても、自分たちが使われていると思われても仕方ないと思うので、また一元さんがやってきたと思われてもしかたない。それでも現場は助けが欲しいのだ。物質的なはそうかもしれないが、精神的にもそうだし、働く場所というのも必要だと思われている。それでも最後まで生まれ育ったところから移動して暮らしていこうというところまでは、さすがに田舎の人になればなるほど、壁が高いと思う。その壁をぶち壊したりするのボランティアの役割だとは思うのだが、ボランティアを自分のキャリアのために使っている人が多すぎることが、復興に対する協力者が少なくなっている原因の1つなのかとも思う。

被災者側からすると、今回の震災は、きっかけは地震だったかもしれないが、一番は津波による被害だろう。目の前で身内や知人が流されて、行方不明になっていく姿を観てしまった場合、その悲しみや辛さやトラウマは、時間が経過しても絶対に消えることは無い。特に親を亡くした子供にとっては、震災直後は涙が枯れるくらい泣いたことだろう。泣きまくったことで悲しみが消えるかというと全くウソである。表向きは強がっていたり、笑顔を出していたりするのだが、内面は隠し切れない悲しみで充満されている。それを知らないで笑顔だから楽しんでいると思ってはいけない。接するときの言葉遣いも難しい。ちょっとした言葉で、閉まっていた過去のトラウマをまた引き起こしてしまう可能性があるからだ。子供は笑顔であるのがいい。悲しみを忘れさせるような出来事が毎日続けばいい。それはなかなか難しい。

いまだにぶっ壊すのか、復活させるのか方向性が決まっていない福島第一原発の周辺地域は、立ち入り禁止地域になっている。これはチェルノブイリの場合も同じで、チェルノブイリのほうは事故30年経過しても、いまだに20km圏内は立ち入り禁止になっている。しかし日本の場合はどうなのか?中途半端な規制にしているのだ。「自己責任で入ることも許す」という手段を最初は取った。この無責任極まりない態度は一体なんなのだ?それと、もう20km圏内くらいの地域は放射能汚染で使い物にならないのだから、そこは捨て地にするべきなのに、あらゆるところかの圧力があるのか政府は捨て地決定への発表ができていない。本来ならもう住める場所ではないのだから、早く捨て地宣言をして、瓦礫の処理で問題になっていることも、その捨て地をゴミ集積場にしてしまえばよかったのだが、捨て地予定地をどこにするべきかというツマンない議論に持ち込まれて、決断が鈍っているのである。風向きだろうが、被害が少ないだろうが、もうそんなのは無視して、一律20kmは禁止にすればいいのだ。文句を言うひとがいるのであれば、決定事項で押し通せば良いお。もちろん、土地所有者には東京電力から補償を出させればいい。東京電力が渋っているのであれば、強制的に執行すればいいのだ。1年経過しても中途半端にしている政府の態度が、議論をわかりにくくするような状態に陥っているのだ。

さらにびっくりしたのが、政府がガイガーカウンターの海外からの輸入を成田空港で足止めさせていたという事実が発覚したことだろう。そりゃ、政府や東京電力から見ると、フランスから万単位で寄付されたガイガーカウンターが日本全国に入りこんでしまうと、自分たちが「大丈夫だ」と報道していたことが全部ウソであることが早々にバレてしまうからである。でも、海外から放射能量の情報と、一般市民による情報漏えいより、事実はこれも早々にバレてしまった。隠し切れればなんとかなるとおもった政府と東京電力は、ウソ情報をずっと流し続けた。とうとう、市民は政府と東京電力の情報は全部ウソだと思ってしまったことにより、自衛策として自らガイガーカウンタを輸入して購入することになって今に至っている。スーパーにガイガーカウンターを持ち込んで、放射能量を測っているひとも実は結構居る。それをさせないようにした政府と東京電力の罪は大きい。無知に対してはいつまでも無知でいろという、国民を馬鹿にしている証拠だからだ。

マスコミもマスコミだ。20km圏内への立ち入りは禁止になっているとはいえ、現状を知りたいのは誰もがそうだ。本当のマスコミだったら、禁止になっているところでも、報道管制網を掻い潜って、現場に潜り込んで、原子力発電所の一行に進まない現状についてスクープ連発というのが出てきてもおかしくない。ところが大手マスコミからは全く入ってこない。「20km以内には入ってはいけないということになっているから」だそうだ。アホすぎる。フランスやドイツのマスコミは、この規制を片っ端から無視して、現場の様子を早々にいまでも報道している。なぜ日本のマスコミはしないのか?それは先述の通りで、東京電力や他の電力会社からの広告料欲しさのために、電力会社に不利になるような報道は積極的にはしないというスタンスがあるからである。これが無名の会社が、汚染物質を垂れ流しをしていた場合には、マスコミが集団で糾弾することだろうが、広告料優先で、マスコミの本質とは一体なんなのか?というのをすっかり忘れている日本のマスコミは、いまでは東京電力や電力会社のモルモットになっているのだ。そして、さらに悪いことに、被災現場の報道をすることがたまにあったとしても、被災者のヒドイ生活状況ばかりを報道するだけで、お涙頂戴報道、われわれは被災者の味方と擬似的に主張しているような報道のしかたを観て、歯がゆいと思うしかない。根本的な復興の障害や原発の状況については全然報道しないのである。これではあきられる。おそらく各方面からの強い抵抗があるのだろう。それを全部バラしてしまえばいいのにとおもう。どこどこの組織からこういう脅しがありましたとか。脅しをしているほうからすると、それがバレるほうが嫌なのだ。
政治の世界に付いてもひどいことがずっと続いている。まずは、天皇家を京都へ移動させなかったこと。本来ならば、天皇陛下をはじめとする皇族を、いち早く京都御所へ移動させるべきだったのだが、これをすると、それほどひどい状況なのか?ということが国民がわかってしまうために、パニックになるからやらなかったということを政府は今頃になってバラした。つまり、天皇陛下でさえも東京電力の道具に使われたということであり、東京にずっといたために少量の被曝にあったということが結果的になってしまったのだ。政府が言う「安全です」というのは完全に誤魔化すものであることがこれで解った。これから政府が何も証拠を示さず「大丈夫です」というものは全部信用できないということになるのである。福島近海が震源地になっている地震が発生することがいまでも結構多いのだが、そのたびに「福島原発は大丈夫です」と即効で報道する。だいたい即効で良いのか悪いのかなんて解るわけが無いのに、なんでそんなに即効で「問題なし」というのがわかるのだろうか?いまだに政府と東京電力とマスコミが、国民に対して事実を隠蔽し続けているという証拠である。これからこの3社が発表する情報はすべてウソであると判断すればいいから、こんなに簡単な判断は無いだろうと思う。そして、原発の問題が発生しているときに、国会議員が勢ぞろいして現場の状況を観にいかなかったり、復興庁なんていうのを作ったのであれば、それは福島か宮城に本拠地を作ればいいはずなのに、なぜかいまだに東京に本拠地をおいて、遠いところからわかりもしないような状況判断をしていたりする。こんなことで復興なんか進むわけが無い。本当に復興を率先してやるんだったら、国会を1ヶ月、福島原発の近くのところでやればいいのだ。国会議員の1人や2人が被曝して死んでしまっても誰も困らない。なぜなら、国会議員になりたいやつらはごまんと居るからだ。政治家秘書になっているようなひとの大半は、自分が議員になって議員という職業に着きたいと思っている人たちが多いからなのだ。現在の議員も、1年生議員なら2年生議員に、2年生議員なら3年生議員になるために議員をやっているだけであって、決して国家をどうしたいとかっていう、明治維新のときのような考えの人なんか居るわけが無い。そんなやつらの集まりの国会であるから、誰がやっても変わらないのだ。だったら、パフォーマンスとして福島原発の廻りで国会を開いて「いかにも原発や被災者のためになにか考えています」というのをアピールすれば良いのにそれもしなかった。これでは国会議員に対する不信は増すばかりである。

それから最後に、東京でデモを行っている人たちのことも「変わらない」という分野に入れておきたい。日本ではデモをするようになったのは、主張を態度に表わすためとはいえ、いい手段だと思う。ネットでぐちゃぐちゃ議論したところで、それは仮装環境における喧嘩でしかなく、責任者にとっては痛くも痒くもないことである。そして、日本のデモはまだまだおとなしすぎる。火炎瓶が飛び交ったり、石が飛び交ったり、放水車がデモ行進者に向けて放たれたりというような事件に発展するということも無い。この点はまだまだデモ後進国だと思う。もっと怒りに溢れているような人たちがたくさんいるのであれば、東京電力の前に機動隊が防御をしていたとしても、デモが万人単位になったのあれば、機動隊では守りきれずに、東京電力も降参することだろう。だが、そこまでデモは凶暴化しなかった。理性的だといわれればそうだが、暴力行為が無いデモは単なる煩いだけのハエと同じで、なんの害も発生しないものだ。統治者にとっても厄介な組織とは映らず、「不満発散のために言わせるだけ言わせておけばいい。そのうち収まる。放っておけ」ということになるだけなのだ。事実、東京電力幹部と政府はこのとおりの姿勢をいまだに貫いている。暴力が伴わないデモは数を重ねれば、デモ参加者にとっても「デモをしても何も変わらない」と厭きられ、そのうちデモ参加人数は減ることだろう。アラブ各国で起こった革命は最初のきっかけはFacebookだった。しかしそれをトリガにデモが始まり、最終的には政府を転覆させるための破壊・暴力に発展した。そうなれば収拾するために血が流れるのは当然だが、国民の勢力が強ければ、結果的に政府は転覆できるのである。喧嘩が下手な日本人にとっては、破壊工作を行ったり、火炎瓶を投げあったりするようなことは当分は無いだろう。しかし、東京があまりにも放射能汚染になったときには、どうなるのかわからない。所詮、人間は被害者本人にならない限り、喉元が過ぎれば他人事としてしか思わないからだ。だから、東京の人間も被害者になればいいのである。それもわかりやすい形での被害。わからない形でジワジワと被害者になっているから、こぶしも上がらないのだ。このじわじわ戦略をしていれば、東京電力と政府は時間が解決してくれるだろうと思われているのが杓に触る。

長々とこの1年に関わることを記載したのだが、次の1年も重要だと思う。どのような1年になるのだろうか?たぶん、多くの人たちにとっては、震災は遠い昔の出来事のように思われることだろう。阪神・淡路大震災ときも、震災後しばらくは「大変なことが起こった」と哀れみる声はあったが、震災があった1月17日に報道関係者が発表する「今日は震災日」というのがあって「あぁ、そうだ、あったんだっけ?」というような思いになる。いまは誰もが3月11日を特別の日として思っているのだろうが、たぶんこの1年で「いつだっけ?」と思われるくらい忘れ去られてしまうことなのは目に見えている。どれだけ忘れられずにいられるかが疑問だが、これもすべてマスコミがいかに報道しないかによってというのが大きいだろう。定期的に「いまの福島は?」とか「いまの陸前高田は?」という報道があればいいが、たぶん今後は少なくなる。