2012/03/12

大震災から1年経過

2012年3月11日でとうとう東日本大震災から1年経過した。この1年はあっという間に1年が来たと思うし、いまだに震災のことはあちこちで話題には上ることになっている。東京に住んでいると、もう地震のことは忘れてもいいかとおもうのだが、追い討ちをかけるように、そのあとすぐに福島第一原発の大事故が発生したため、地震+放射能汚染というダブルパンチを東日本全体が襲われたことで、いっきにてんやわんや度が2倍に膨れたことになった。どちらか片方の災害だけならば、もっと早く災害のことについては記憶から消えることになることなのだろうが、まったく収まる様子が無い地震も放射能汚染のせいで、いまだに東京に住んでいながらも話題に尽きることは無い。

さて、1年経過して日本全体が地震や放射能をきっかけに何かが変わったかというと、かなり大きく変わったことと、全く変わらないことと両極端に見えてきたのではないかと思うようになった。備忘録的に1年経過した現在、自分なりに全体を見回したときの事項を記載してみたいと思う。

すごい長文になってしまったので、イヤになったら途中で読むのはやめてくださいw

■この1年で変わったこと

一番顕著に変わったことというと、ネットを利用した情報発信と情報収集ということだろう。特に、震災が起こった直後は、一体どこがどうなっているのか?という情報がテレビやラジオではほとんど身近な情報として入ってこなかったために、Twitter による個々の情報発信とそれを受け取る情報収集先として大きく活躍したのは記憶に新しい。電車が動いているのか?どこで地割れができているのか?どこにいけば救援を受けられるのか?というのは、情報を早急な発表をするのは本来は自治体なのだが、普段からちんたらとやっていることと、すべてが業者任せになっている自治体が自ら動くことは無く、さらに自治体は地域住民よりも情報収集能力が欠如しているために、自ら発信するべき情報を整理することも、何を発信すればいいのかという方向指示もできない状態であったことに住民は諦め、自ら情報を取りに行き、ほぼ全員がボランティア的に持っている情報、知りえた情報をTwitter等で発信したというのは、情報過多になったことはなったが、情報が無いよりは断然マシだということを一般市民は感じたはずだ。そして、Twitterだけではなく、Ustreamの役割もこの1年で大きく飛躍したことだろうと思う。きっかけは東京電力による記者会見だ。東京電力の記者会見は最初のころは毎日テレビでちょっとだけ放映されていたが、あるときから全く放映されなくなった。しかし、放射能は相変わらずずっと拡散し続けている。拡散し続けているが、もう収束したというような報道をしないと、東京電力に大きな責任問題が関わるから、どうしても東京電力はテレビ局と結託して事実報道をあまり放送電波で載せないように画策をする。それに業を煮やした、フリーランスのメディアのかたたちが、Ustreamを使って、ほぼずっと東京電力の記者会見中継をネットで垂れ流ししたのである。これは大きく変わった。記者会見のときにマスコミが東京電力にツッコミを入れるのが、これが記者クラブがやるとツッコミがすごい弱い。ところが、フリーランスがツッコミを入れると、隠してはいけない情報を隠しきれずに暴露してしまうというのがたくさん出てきた。記者クラブの追及よりもフリーランスのツッコミを目の当たりにして、東京電力が常にウソを付いているということを国民が知ってしまったことも大きい。もう1つUstreamの果たした役割として大きなことは、放射能測定器のライブ情報発信だろう。放射能拡散が始まったときに、ガイガーカウンターをはじめとする各種測定器を持っている人はあまり居なかったと思う。そして、自分のところの放射能量がどの程度があるのかというのは、自分たちでは知りようがなく、自治体に言っても重い腰のためにぜんぜん動かない。でも情報は知りたい。というときに、有志が、自分たちで持っている測定器の前にカメラをセットして、それをUstreamに数値データをライブ映像として配信し始めたのだ。多少の誤差はあるとしても、これでカメラ配信しているひとの周りは、福島からの放射能量がどの程度来ているのかというのを知りうることができたというのは、安心に繋がるいい結果だったと思う。そこから派生して、いまではクソガキあたりでも、スマホをつかって自分たちのつまんない「自称DJ」をネットに配信し、「ボクを見てよ」と自己アピールするような馬鹿が増えてきたのは言うまでも無い。

地震については、自分たちでも地面を通じて規模の大小は感じることができるので、報道がある/無しや、その報道の正確性については大いに指摘をすることができる。しかし、放射能拡散の事故については、色も付いていない、臭いもしない、ただ、知らない間に皮膚から、口から放射能を摂取して、必然的に白血病等の病に冒されて死んでしまうという恐怖がつきまとわってしまった。これが見えない敵に対して、すぐに殺されるというのであれば、地震と同じように恐怖度は即効で理解できることと思うのだが、放射能拡散による侵食は、時間が経過しないとわからないし、経過したあとにびっくりするような結果が出てきて、結果がでるときには、関係者および責任者は全部天国に行ってしまっているという状態になってしまうものだから、当の事故関係者は「いまだけ」黙って、事が沈静化するのを待っていたいという気持ちで一杯だったのだろう。それが東京電力によるウソ情報の発表や政府による情報規制、そして、一番悪いのはマスコミが東京電力と政府に協力したことにより全く情報が出てこなくなったということだろう。国民は他の手段で既に情報を収集してしまっていたので、政府・東京電力・マスコミが事実を隠蔽し、誤魔化しているというのを解ってしまったし、それは、政府と東京電力間では、学術系も含めて「原子力ムラ」という巨大な連携組織が存在していることにより、互いに悪い情報や不利になるような情報はあくまでも組織内だけにとどめて、外部、つまり国民には全く見せないようにしようという方針を徹底して貫こうとしたことが解ってしまったことである。そして、マスコミは、東京電力から年間数千億円単位で広告料を貰っているため、東京電力を追い詰めるような情報をテレビ・ラジオ・新聞で報道すると、原子力発電の問題が沈静化したときに、東京電力から広告料が入らなくなるかもしれないという危機感から敢えて情報を国民に提供しないようにしようと結託したことが国民にバレてしまったことは、とても大きな事件だ。そして、決定的なのは、政府・東京電力・マスコミが情報隠蔽に必死になっていたとしても、海外から正確な情報を発信しているところまでは規制をかけることができなかったことだ。アメリカやロシアでは衛星を使って放射能測定をしている。これは正確な情報であり、早い段階から原発から50km以内の人間は逃避せよという情報をアメリカは流していたが、日本政府は10km以内以外は大丈夫というこれまた馬鹿情報を早い段階で流していたことが露呈したからだ。しかし、幸いにも事故最初の頃は、英語の情報を敢えて収集しない国民性のために、情報はあまり広まらなかったが、翻訳してTwitterを通して別の人が情報を開示したことにより、いっきに日本語しか解する事ができない国民でも知ってしまうような状態になったことは政府不信間を決定的にしてしまったのは大きい。なにしろ、日本のマスコミからは「問題なし」とばかりしか連発しなかったことだ。

事実といつまで経っても変わらない政府や東京電力の正しい方向へ示す姿勢を出さないことに嫌気がさした国民が取った行動は、このおとなしいといわれていた日本人の行動を大きく変えることになった。「原子力発電は安全なんだから事故が起こるわけが無い」というスタンスで政府と東京電力が事態を収拾しようとしていたことに国民が嫌気をさしたことによって、東京電力になんとかしろーというデモをやり始めたことだ。最初のころのデモは、どっかのオーガナイザーが売名行為のために東京電力に抗議をするためのデモを始めたことだったが、これが一般市民に広がり、結果的には東京でも当日にあちこちの場所でデモが始まった。経済があんまりよくない状態だから、どこかに行って遊ぶということにも金が掛かるのでつまんない人生を送っていた若者にとっても、このデモというイベントには大きく関わりが入ってきたことと思う。というのも、金を使わずして、イベントに参加でき、自分が世の中をよくするために行動を起こしているという、自己陶酔的な満足感に浸ることができるというのがデモ参加だったからである。だから、デモ行進の様子を見ていると、真剣にプラカードを振りかざして、大声を張り上げて「東京電力死んでしまえ!」と罵倒しているひとが多いかというとそうではなく、ただ黙々と行進しているだけとか、あとは談笑しながら歩いているというような真剣味にかけるような参加者が半分以上いることはよく見かけた。しかし、デモなんていうのは、社会主義社会のもの、発展途上国のものと思われていた行為が、一般認知されたのは大きいと思う。デモにもいろいろ言いたいことがあるが、これは「変わらない」ほうで記載したいと思う。

自分たち個々出てみたときに、これまで地震が起こったら、震度2程度でも「結構揺れたねー」と話題にしていたことだったのだが、いまでは震度3程度までなら「また地震があったんだ?」という程度に慣れっこになってしまったのは、良い事なのか悪いことなのかよくわからない。それほど、地震はいまだに大小含めて毎日起こっている。そして、電車の運行でいえば、震度1程度でも、必ず電車は途中で停車して、安全性を確認した上で、運行再開するということになっていたのだが、震度3程度までであれば、電車は全く止らず、通常運行し続けていることは、東京のように電車が止ってしまうと、血液の流れが止ってしまうような状態になってしまうのでとても有り難いことであった。おそらくJRと私鉄が、協力して、地震が発生したときの安全性確認方法や復旧再開の手際のよさを訓練と研究を重ねて、大混乱になら内容に努力してくれた成果だと思う。交通遮断が、大震災発生時に大混乱を起こした原因の1つにもなっていたので、血の巡りをよくすることに注力を傾けてくれたことは本当にありがたい。感謝しても仕切れないところだ。

地震に対して鈍感になったといっても、スマホやモバイル端末に、緊急地震速報のアプリをインストールしている人は増えたために、ある程度の地震が発生したときに、いっせいに電車の中で「ふいーん、ふいーん」とか「てろんてろーん」という音が鳴り出すという気持ちの悪い事態に遭遇したことは無いだろうか?それだけ地震に対しては警戒心を世の中が持つようになったということは良い事だろう。ただ、スマホのアプリで地震が教えてくれるのはいいのだが、確かに緊急性のために発している音だからあの音なのは仕方ないのはわかっている。もっと優しい音にしてもらいたいと思うのは自分だけではないはずだ。いずれにしろ、自分で地震に対して予知の段階を事前に知っておきたいという、これも冒頭に関わってくるが、自ら情報を収集するという点に尽きてくることに源流があるのだろう。

そして、なんと言っても、災害時の対応のために備蓄することが増えてきたことだろうか。東京電力が原子力発電所の必要性を広めるために故意に行った部分的停電のために、まずは懐中電灯用の電池を備蓄することが増えるようになったとおもう。電池よりも、充電タイプのエネループのほうが人気だった。それから、食料と飲料水の確保だろう。それから派生して、いまでは簡易トイレや防災頭巾、そして携帯ラジオというようなものまで備蓄製品としてそろえ始めてきたことだろう。東京だって直下型地震が近年やってくることが言われている。全く来ないということはない。絶対そのうち来るのだ。その日のために備蓄することだけはしておこうという人は多くなった。さらに、モノとして保存するだけではなく、情報管理をするための訓練も叫ばれるようになった。システム化されても誰も使われなく、実際災害時にもほとんど使われなかった「災害時連絡171」というのを活用したり、スマホアプリもたくさん出てきたことは嬉しいことだ。つまり、地震が発生したときに家族が全員揃っている場合ならいいが、あちこちに分散している場合、安否を確認したいというのが一番大切だと思う。それを確認できるための手段をいろいろ用意しておくことは重要だ。うちの父親みたいに、災害時に「電池がもったいないから携帯の電源を切っていた」という馬鹿親もいるのだが、こういう人は死んでも仕方ないんだろう。

■なにが起きても全く変わらないこと

政府を中心に「むやみな情報発信はパニックを起こす」という馬鹿な方針を出していたために、本来は出すべき情報源の組織がまったく機能しなかったというのは、大いに国民を怒らせた。そして、パニックを起こさないためには情報をできるだけたくさん出すことだということを国民に覚えさせてしまった。情報をなくして国民の思考能力をゼロにしてしまうというのは、戦時中の情報統制のときと全く同じだし、北朝鮮や中国のような政治形態と全く同じであることを政府は1年経ってもまだわかっていない。隠すことで、後で事実が発覚したとしても、その事実の責任は後世に責任者になったひとへ擦り付けるような仕組みになっている。役人と経営者にとって一番イヤなのは、自分が責任を取ること。これを回避するためには、あらゆる手段を取る。たとえ倫理的に人道的に間違っていようとも、回避できればそのひとは英雄。できなければ残念な人だったということになる。山一證券が経営破たんをしたときに、社員のために最後まで会社存続を奔放し、最後の社員まで再就職を世話したあの社長は、一般的には英雄なのだが、経営者層や役人たちからみると「馬鹿」というレッテルが付けられていることは有名だ。責任回避をしたいひとたちの集まりばかりになっているので、事なかれ主義が横行し、中には「寝る子を起こすな」という方針を貫いている経営者層および官僚が横行している。フリーランスあたりが、その責任追及をしようとするのだが、責任者が本人が出てくることは無く、責任者を庇おうとする下っ端が出てきて、なんとかして責任者を逃がそうと画策する。丁稚奉公の世界がまだ残っている経営者層と官僚の世界は、守ることで自己保身になっているのである。

政府はいまだに原発は不要だということを主張していない。あれだけ原発が爆発して、安全性の神話はあっというまに崩れ去ったというのに、原発必要論を唱えている。これは2つの面から主張し続けている事なのだろう。1つは、海外への原発技術を輸出するということの方針を採っているために、いまさら原発をやめましたということを海外には宣言できないということなのだ。海外からすると「自分たちのところで使っていない原発をなぜ売るのだ?」と言われても仕方なくなる。これも事なかれ主義の延長なのだが、批判されたくないのであれば、これまでどおりの主張を変えないことで回避したいということなのだろう。でも、これは政府が言っていることだけじゃない。実は政府は言わされているといわざるを得ない。

原発必要論を唱えているもう1つの理由は、東京電力のような電力会社と、東芝や日立のような原発プラント会社からの付け上がりだからだ。東京電力などの電力会社は、国家戦略とはいえ、安定的に安心に安全に電気供給ができるという意味で原子力発電所を日本のあらゆるところに建設した。安心・安全というのであれば、東京電力なら東京の真ん中や晴海地区あたりに原子力発電所を作ればいいのに、実は人間があまり住んでいないような場所にわざわざ作って、そこから作られた電力を送電して販売してきたという歴史がある。そして、いまさら原子力発電所がダメでしたということを主張するということは、原子力発電所の必要性を根本的に崩してしまうことになるため、東京電力がこれまで注力を掛けていた努力と金銭が無駄になってしまうということになるからだ。だから、総電力量として原子力発電所がなくても火力発電所があれば問題ないのに、「原子力発電による発電量が少なくなっているので、利用者は節電に協力を」ということと、電力量をたくさん使う都心部は全く行わず、郊外ばかりで計画停電を起こして、無理やり「原発はやっぱり必要」というアピールが必要だったのである。都心部で停電しなかった理由は、これまた「パニックになるから」という意味不明な回避理由を述べているが、あとからこれが大嘘だとバレる。都心部のほうで停電をしてもよかったのだが、パニックになる方向性が「東京電力に文句を言われるのを回避したかったから」というのが原因だったのである。なにも情報が無い状態で言われるがままになっていた国民にとって、東京電力が「電力が足らないから部分停電します」ということを本気で信じていたのに、結果的には大嘘だったことがばれたことによって、電力量をもっとたくさん使う夏場はまったく停電が無かった。もちろん、各企業による節電の努力もあったことなのだろうが、根本的に電力は余っていたのだから、節電なんかする必要は無かったのである。それでも原発の必要性のためには、多少熱射病で人間が死んでしまっても、自分たちの商売のためには犠牲は必要という思いがあるからだ。東京電力だけじゃなく、東芝や日立も責任はある。なぜなら原発が作られなくなると、自分たちのオマンマが食えなくなってしまうからなのだ。もっと言うと、原子力安全委員会や保安院という、いまでは素人でも知ってしまった闇の悪行組織が、自分たちの天下り先確保のためと、東京大学などの原子力学術分野へのポスト確保のために、原子力発電とその技術は絶対に必要である、だからなんとしても事故はたいしたことではなく、すぐにでも事故じゃないところの原発は運転再開するべきであるというとんでもないような報告書を平気な顔を出している事実は、誰もが怒り心頭だと思う。

記者クラブのような報道機関は、本当なら報道を通して事実を監視するために存在することなのだが、いつのまにか政府の広報担当、東京電力の広報担当者に成り下がっている。そして、出し抜けの取材というのを報道管制なのか、横のつながりで報道規制をしているのかわからないのだが、いつまで経っても福島原発の現状について詳しい報道をせず、東京電力や政府に対してするどいツッコミを使って事実を報告させようともしない。上杉隆氏のようなフリーランスの記者が政府を震え上がらせるような質問をした場合、本来ならば上杉氏のサポートとして追い討ち掛けるようにツッコミを入れるべきのところを、何を考えているのか政府の肩を持って、上杉氏に「おまえはなんと言う質問をするんだ!ばか者!」と記者が記者批判をしているのだ。それがUstreamに流れいたのを見たときに、はっきりいってマスコミはすべて腐っていると思った。上杉氏の著書でも記載しているのだが、マスコミはテレビと新聞が一番最高の報道手段と思っているので、それ以外の手段で報道されても全然屁でも無いと思っている思い上がりが、日本のマスコミが世界で腐っていると言われている根本的な原因とまで指摘している。だから、Ustreamで自分たちの映像が全世界に流れていることに付いても「所詮、Ustreamだろう?マスコミじゃないだろう、やつらは」というような態度を取っていることが大問題であるし、たぶん大手マスコミの記者連中は考えが変わらないだろう。だいたいあぁいう記者会見に出席している記者というのは、原発の理論もしらなければ、医療の技術もしらなければ、最低でも科学技術のことを知らないやつらが記者になっている。どこかの省の記者になったら、上のポストになるために単なる通る登竜門としてしか思っていないからなのだ。これが海外のマスコミだったら、まずは専門家を記者として派遣して、専門家同士でのインタビューということであれば内容の濃い話し合いができるはずなのだが、それを業と避けたいと思っているのか、マスコミ側もあえて専門家を出さない。専門家を出してこないから、東京電力や保安院のようなところから、意味不明な物質や量といういかにも問題ないような数値を出されても、それが良いのか悪いのか聞いているほうが判断が付かないので、その場でするどいツッコミができないで「現場でこんなことを言っていました」というのをそのままデスクに報告することになるのである。内容を理解しているのであれば、その場で「なぜその量で良いといえるのか?」とか「なぜその物質が出てくることで安全なのか?」という基本情報を質問することができる。1拍置いて、あとでツッコミを入れるような時間を作るということは、相手側(東京電力等)に考えさせる時間を作らせることと同じなのだ。それでは本音は出てくるわけが無い。

政府は「がんばろう」と精神的なことばかり主張して内容が伴っていない。震災の被災地の復興状況はどうなのか?というと、テレビ報道があまりされないこともあり、なかなか思うようには進んでいないのが現状だ。さすがに、すこしは瓦礫のままだったことが整理はされているのだが、それでも被災地以外のところですんでいる人間から観ると、たまにテレビやネットを通して見る姿は想像以上に進んでいないことがわかった。さらに解ったことだが、震災直後のときには、被災地へのボランティアがたくさん居たのに、1年経過したあとのボランティア数は、驚くほど少なくなっていた。ボランティアへ参加する人間の心意気がおそらく悪かったのだろうと思う。というのは、ボランティアをすることで、自分がいい事をしているというのを世間に認めてもらおうと思っている人が実はかなり多いということだ。本当に親身になって被災している人を、ちょっとでも助けてやろうというような人は、実は志が高いので復興が進まなくても積極的に現場に足を運ぶ。ところが、前者のような人は、こんだけ自分が絡んでいるのに、どこにも報道されないし、その後全然進んでいないんだから、もうやる必要がないよねという簡単な諦めが出てくるのであろう。これでは、受け入れ側としても、自分たちが使われていると思われても仕方ないと思うので、また一元さんがやってきたと思われてもしかたない。それでも現場は助けが欲しいのだ。物質的なはそうかもしれないが、精神的にもそうだし、働く場所というのも必要だと思われている。それでも最後まで生まれ育ったところから移動して暮らしていこうというところまでは、さすがに田舎の人になればなるほど、壁が高いと思う。その壁をぶち壊したりするのボランティアの役割だとは思うのだが、ボランティアを自分のキャリアのために使っている人が多すぎることが、復興に対する協力者が少なくなっている原因の1つなのかとも思う。

被災者側からすると、今回の震災は、きっかけは地震だったかもしれないが、一番は津波による被害だろう。目の前で身内や知人が流されて、行方不明になっていく姿を観てしまった場合、その悲しみや辛さやトラウマは、時間が経過しても絶対に消えることは無い。特に親を亡くした子供にとっては、震災直後は涙が枯れるくらい泣いたことだろう。泣きまくったことで悲しみが消えるかというと全くウソである。表向きは強がっていたり、笑顔を出していたりするのだが、内面は隠し切れない悲しみで充満されている。それを知らないで笑顔だから楽しんでいると思ってはいけない。接するときの言葉遣いも難しい。ちょっとした言葉で、閉まっていた過去のトラウマをまた引き起こしてしまう可能性があるからだ。子供は笑顔であるのがいい。悲しみを忘れさせるような出来事が毎日続けばいい。それはなかなか難しい。

いまだにぶっ壊すのか、復活させるのか方向性が決まっていない福島第一原発の周辺地域は、立ち入り禁止地域になっている。これはチェルノブイリの場合も同じで、チェルノブイリのほうは事故30年経過しても、いまだに20km圏内は立ち入り禁止になっている。しかし日本の場合はどうなのか?中途半端な規制にしているのだ。「自己責任で入ることも許す」という手段を最初は取った。この無責任極まりない態度は一体なんなのだ?それと、もう20km圏内くらいの地域は放射能汚染で使い物にならないのだから、そこは捨て地にするべきなのに、あらゆるところかの圧力があるのか政府は捨て地決定への発表ができていない。本来ならもう住める場所ではないのだから、早く捨て地宣言をして、瓦礫の処理で問題になっていることも、その捨て地をゴミ集積場にしてしまえばよかったのだが、捨て地予定地をどこにするべきかというツマンない議論に持ち込まれて、決断が鈍っているのである。風向きだろうが、被害が少ないだろうが、もうそんなのは無視して、一律20kmは禁止にすればいいのだ。文句を言うひとがいるのであれば、決定事項で押し通せば良いお。もちろん、土地所有者には東京電力から補償を出させればいい。東京電力が渋っているのであれば、強制的に執行すればいいのだ。1年経過しても中途半端にしている政府の態度が、議論をわかりにくくするような状態に陥っているのだ。

さらにびっくりしたのが、政府がガイガーカウンターの海外からの輸入を成田空港で足止めさせていたという事実が発覚したことだろう。そりゃ、政府や東京電力から見ると、フランスから万単位で寄付されたガイガーカウンターが日本全国に入りこんでしまうと、自分たちが「大丈夫だ」と報道していたことが全部ウソであることが早々にバレてしまうからである。でも、海外から放射能量の情報と、一般市民による情報漏えいより、事実はこれも早々にバレてしまった。隠し切れればなんとかなるとおもった政府と東京電力は、ウソ情報をずっと流し続けた。とうとう、市民は政府と東京電力の情報は全部ウソだと思ってしまったことにより、自衛策として自らガイガーカウンタを輸入して購入することになって今に至っている。スーパーにガイガーカウンターを持ち込んで、放射能量を測っているひとも実は結構居る。それをさせないようにした政府と東京電力の罪は大きい。無知に対してはいつまでも無知でいろという、国民を馬鹿にしている証拠だからだ。

マスコミもマスコミだ。20km圏内への立ち入りは禁止になっているとはいえ、現状を知りたいのは誰もがそうだ。本当のマスコミだったら、禁止になっているところでも、報道管制網を掻い潜って、現場に潜り込んで、原子力発電所の一行に進まない現状についてスクープ連発というのが出てきてもおかしくない。ところが大手マスコミからは全く入ってこない。「20km以内には入ってはいけないということになっているから」だそうだ。アホすぎる。フランスやドイツのマスコミは、この規制を片っ端から無視して、現場の様子を早々にいまでも報道している。なぜ日本のマスコミはしないのか?それは先述の通りで、東京電力や他の電力会社からの広告料欲しさのために、電力会社に不利になるような報道は積極的にはしないというスタンスがあるからである。これが無名の会社が、汚染物質を垂れ流しをしていた場合には、マスコミが集団で糾弾することだろうが、広告料優先で、マスコミの本質とは一体なんなのか?というのをすっかり忘れている日本のマスコミは、いまでは東京電力や電力会社のモルモットになっているのだ。そして、さらに悪いことに、被災現場の報道をすることがたまにあったとしても、被災者のヒドイ生活状況ばかりを報道するだけで、お涙頂戴報道、われわれは被災者の味方と擬似的に主張しているような報道のしかたを観て、歯がゆいと思うしかない。根本的な復興の障害や原発の状況については全然報道しないのである。これではあきられる。おそらく各方面からの強い抵抗があるのだろう。それを全部バラしてしまえばいいのにとおもう。どこどこの組織からこういう脅しがありましたとか。脅しをしているほうからすると、それがバレるほうが嫌なのだ。
政治の世界に付いてもひどいことがずっと続いている。まずは、天皇家を京都へ移動させなかったこと。本来ならば、天皇陛下をはじめとする皇族を、いち早く京都御所へ移動させるべきだったのだが、これをすると、それほどひどい状況なのか?ということが国民がわかってしまうために、パニックになるからやらなかったということを政府は今頃になってバラした。つまり、天皇陛下でさえも東京電力の道具に使われたということであり、東京にずっといたために少量の被曝にあったということが結果的になってしまったのだ。政府が言う「安全です」というのは完全に誤魔化すものであることがこれで解った。これから政府が何も証拠を示さず「大丈夫です」というものは全部信用できないということになるのである。福島近海が震源地になっている地震が発生することがいまでも結構多いのだが、そのたびに「福島原発は大丈夫です」と即効で報道する。だいたい即効で良いのか悪いのかなんて解るわけが無いのに、なんでそんなに即効で「問題なし」というのがわかるのだろうか?いまだに政府と東京電力とマスコミが、国民に対して事実を隠蔽し続けているという証拠である。これからこの3社が発表する情報はすべてウソであると判断すればいいから、こんなに簡単な判断は無いだろうと思う。そして、原発の問題が発生しているときに、国会議員が勢ぞろいして現場の状況を観にいかなかったり、復興庁なんていうのを作ったのであれば、それは福島か宮城に本拠地を作ればいいはずなのに、なぜかいまだに東京に本拠地をおいて、遠いところからわかりもしないような状況判断をしていたりする。こんなことで復興なんか進むわけが無い。本当に復興を率先してやるんだったら、国会を1ヶ月、福島原発の近くのところでやればいいのだ。国会議員の1人や2人が被曝して死んでしまっても誰も困らない。なぜなら、国会議員になりたいやつらはごまんと居るからだ。政治家秘書になっているようなひとの大半は、自分が議員になって議員という職業に着きたいと思っている人たちが多いからなのだ。現在の議員も、1年生議員なら2年生議員に、2年生議員なら3年生議員になるために議員をやっているだけであって、決して国家をどうしたいとかっていう、明治維新のときのような考えの人なんか居るわけが無い。そんなやつらの集まりの国会であるから、誰がやっても変わらないのだ。だったら、パフォーマンスとして福島原発の廻りで国会を開いて「いかにも原発や被災者のためになにか考えています」というのをアピールすれば良いのにそれもしなかった。これでは国会議員に対する不信は増すばかりである。

それから最後に、東京でデモを行っている人たちのことも「変わらない」という分野に入れておきたい。日本ではデモをするようになったのは、主張を態度に表わすためとはいえ、いい手段だと思う。ネットでぐちゃぐちゃ議論したところで、それは仮装環境における喧嘩でしかなく、責任者にとっては痛くも痒くもないことである。そして、日本のデモはまだまだおとなしすぎる。火炎瓶が飛び交ったり、石が飛び交ったり、放水車がデモ行進者に向けて放たれたりというような事件に発展するということも無い。この点はまだまだデモ後進国だと思う。もっと怒りに溢れているような人たちがたくさんいるのであれば、東京電力の前に機動隊が防御をしていたとしても、デモが万人単位になったのあれば、機動隊では守りきれずに、東京電力も降参することだろう。だが、そこまでデモは凶暴化しなかった。理性的だといわれればそうだが、暴力行為が無いデモは単なる煩いだけのハエと同じで、なんの害も発生しないものだ。統治者にとっても厄介な組織とは映らず、「不満発散のために言わせるだけ言わせておけばいい。そのうち収まる。放っておけ」ということになるだけなのだ。事実、東京電力幹部と政府はこのとおりの姿勢をいまだに貫いている。暴力が伴わないデモは数を重ねれば、デモ参加者にとっても「デモをしても何も変わらない」と厭きられ、そのうちデモ参加人数は減ることだろう。アラブ各国で起こった革命は最初のきっかけはFacebookだった。しかしそれをトリガにデモが始まり、最終的には政府を転覆させるための破壊・暴力に発展した。そうなれば収拾するために血が流れるのは当然だが、国民の勢力が強ければ、結果的に政府は転覆できるのである。喧嘩が下手な日本人にとっては、破壊工作を行ったり、火炎瓶を投げあったりするようなことは当分は無いだろう。しかし、東京があまりにも放射能汚染になったときには、どうなるのかわからない。所詮、人間は被害者本人にならない限り、喉元が過ぎれば他人事としてしか思わないからだ。だから、東京の人間も被害者になればいいのである。それもわかりやすい形での被害。わからない形でジワジワと被害者になっているから、こぶしも上がらないのだ。このじわじわ戦略をしていれば、東京電力と政府は時間が解決してくれるだろうと思われているのが杓に触る。

長々とこの1年に関わることを記載したのだが、次の1年も重要だと思う。どのような1年になるのだろうか?たぶん、多くの人たちにとっては、震災は遠い昔の出来事のように思われることだろう。阪神・淡路大震災ときも、震災後しばらくは「大変なことが起こった」と哀れみる声はあったが、震災があった1月17日に報道関係者が発表する「今日は震災日」というのがあって「あぁ、そうだ、あったんだっけ?」というような思いになる。いまは誰もが3月11日を特別の日として思っているのだろうが、たぶんこの1年で「いつだっけ?」と思われるくらい忘れ去られてしまうことなのは目に見えている。どれだけ忘れられずにいられるかが疑問だが、これもすべてマスコミがいかに報道しないかによってというのが大きいだろう。定期的に「いまの福島は?」とか「いまの陸前高田は?」という報道があればいいが、たぶん今後は少なくなる。

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