2007/02/23

台湾映画「盛夏光年」

台湾の友達から教えてもらった映画を早速観てみることにした。あまり大きな声ではいえないが、torrent ファイルを使って探してみたので、劇場とは違うから迫力感がないが、今回紹介しようとする映画は、特に劇場じゃなくてもいいと思う。

台湾映画の「盛夏光年/Eternal Summer」という映画だ。1981年生まれのレスト・チェン(陳正道)監督で、主役はジョセフ・チャン(張孝全)とブライアン・チャン(張睿家)。そして女性のケイト・ヨンだ。東京国際映画祭に出展していた映画のため、この映画祭に行った人は観たことがあるだろう。

内容はというと、簡潔に言えば「ゲイ的要素が強い映画」と言えば良いだろう。そういう映画はここ数年多く出てきている。有名な「ブエノスアイレス」はもちろんだが、ハリウッド映画では「Brokeback Mountain」なんていうのが該当する。この映画も、その種類に属するため、毛嫌いするジャンルだと思う人は多いかもしれない。しかし、内容はとても切なく考えさせられるような内容になっている。

初等学校(小学校)時代から始まるストーリーなのだが、そこで優等生と劣等性がペアになって友達になっていくことを学校の遊びで先生が強制的に始めるところから映画が始まる。優等生役のジョナサン(ブライアン・チャン)は活発なシェーン(ジョセフ・チャン)に年齢が経つごとに思いを寄せるようになる。しかし、同性なので「好きだとは言えない」。小学校からの付き合いが、高校になっても朝は一緒に登校し、帰りも一緒に帰るし、バスケをしているシェーンを見守っていたりする。そういう2人の同性の中に1人の女性ケリー(ケイト・ヨン)が入り込んでくるから面白い。そのケリーはジョナサンが好きになり、一緒に田舎から台北に遊びに行く。田舎者が都会にくるとはしゃぎたくなるのはあたりまえ。横丁でピアスをあけている様子なんか、悪乗りして開けたというような感じがしていじらしい。その勢いは、やっぱりホテルに直行して、さぁベッドイン。ところがジョナサンは「いざ」となったときに、ケリーをセックスの対象には見られることが出来ず、そのままホテルを出て行く。馬鹿にされたと思ったケリーだが、その真相を求めて追求。それがいつも2人で帰っている相手シェーンだと知る。田舎の田んぼ道をチャリで爆走競争している様子は、「田舎っぽい」シーンでとても良い。そのあと、話の流れは、シェーンとケリーが付き合ってしまうから、ジョナサンの思いは更に深く落ち込む。高校から大学へ上がる受験に失敗し、浪人生活に入るのだが、大の親友であるシェーンは頻繁にジョナサンの家に遊びにやってくる。勉強しているときでも、上半身裸で部屋の中をうろうろされたりしたら、もうムラムラして、勉強どころではなかったことだろう。そんな思いを知ってか知らないでか、シェーンの挑発は続くのだ。シェーンとケリーが付き合っているのになかなか自分の思いを伝えられない。勢いに任せてクラブで踊っている間に「自分とケリーとどちらが好きなのか?」とシェーンに質問。しかし、シェーンは答えない。シェーンの腕を振り切ってバスに1人で乗って帰るシーンは、とても切ない。自暴的になってその辺のおっさんとONSをするところも、現代の現実の世界を反映している様子が見えて納得。その後、事故を起したシェーンを迎えにジョナサンは行き、二人でシェーンの家に行く。いつものようにベッドに2人で寝転がっているのだが、なぜか上半身裸のシェーン。待ってましたとばかりに、その後「ヤオイ」の世界は開始なのだ。しかし、どうしてこういう映画の場合、バックからのセックスシーンしかないのだろうか?絶対正常位や騎乗位のシーンが出てこないのが不思議だ。絵にならないからだろうか?

ちなみに、監督は、映画初出演のブライアン・チャンに台湾のアカデミー賞にあたる「金馬奨賞」を絶対取らせるためという意味で、このシーンを取ったらしい。背中と尻が見えるセックスシーンは別に汚いものには見えず、本当のゲイビデオみたいに、おらおらーというような嫌らしく汚らしいシーンは無いから許せる。しかし、演技をしたブライアン・チャンは、このシーンはとても最初演じるのに躊躇ったようだ。友達に「本当にホモだって言われたらどうしよう」というのが原因。もちろん、彼はずばりストレート。一度ホモ系の映画に出たから、その後ずーっと「あの人は絶対ホモだ」と言われている台湾映画「十七歳的天空」に出演していたトニー・ヤン(楊祐寧)みたいになるのも嫌だったのだろう。彼の場合は、その後、シンガポールの華人歌手である周華健の「傷心的歌」のプロモーションビデオでも、ゲイカップルの演技をしていたので、ますます「彼はゲイだ」という印象を残してしまったのが原因だろうと思われる。ブライアン・チャンの場合は、いわゆる「ネコ」系の顔たちなので、絶対に層だといわれてもおかしくない。

さて、ざっと内容は書いたのだが、いまでは日本の月9にも出演するようにまでなってしまった陳柏霖が初めての映画として出演した「藍色大門(日本題名「藍色夏恋」)」風の台湾の高校生の様子が伺えて、ほのぼのした映画だと感じた。

「盛夏光年」の関係サイト : http://www.wretch.cc/blog/summermovie

ディズニーランドホテル戦争勃発

東京ディスニーランドの周辺ホテルが、今もそうだが、今度も集客競争が一段と激しくなりそうだ。

3月3日に「東京ベイ舞浜ホテル」(東京ベイホテルズ・グループ)が営業開始する。円形の外観が特徴で、ホテル内は1階から11階まで中心部が吹きぬけているつくりにしている。東南アジアの見た目豪華そうなホテルに良くありがちな建て方になっている。天井の一部が太陽の光を取り込めるようガラス張りになっているため、さらに開放感がある空間を見た目として供給する。ディスニーリゾートにあるホテルには珍しく、ホテル内にチャペルも併設するつくりであり、現在想定している料金は2人1室利用で3万7000―12万円。「アンバサダーホテル」に比べると少し低めの料金設定であるため、ファミリー層を中心とした客を狙った集客を目指すようだ。ここのホテルに宿泊している客の一番のメリットとしては、ホテル内でキャラクターグッズや入園チケットが購入でき、TDRが混雑で入場制限している場合でも入園できる特典がある。夏休みの時期に地方からやってきたお客さんの場合、毎日超満員で入園も出来ないという「泣き」はなくなるようだ。そういえば、ディズニーランドと提携した「公式ホテル」としては、このホテルは6番目になるらしく、それもなんと17年ぶりに新規に登録されるホテルだそうだ。17年とは長い年月で、それまでも入場者数は多かったと思うのに、よくもまぁ新しいホテルがこれまで建たなかったと不思議だ。

他にも、ディズニーリゾート内では無いが、新浦安の地域に三井不動産が「三井ガーデンホテルプラナ東京ベイ」を6月にオープンの予定。コンセプトは次のとおり。
  1. 白を基調とした外観、四季の花々を配した植栽計画、インテリア等でリゾート感を演出# 東京ディズニーリゾートのレジャー客をターゲットに、広さ30m2・36m2、2ベッド~4ベッドを中心に構成、全室バス・トイレ独立
  2. ファミリーやグループ旅行などに対応する、60m2超の大人数客室(1階・屋外テラス付)やコネクティングルーム、修学旅行生や各種団体にも対応可能な約150名収容可能な多目的ルームを用意
  3. 小さなお子様連れでも安心なコルク床を採用したキッズ対応客室フロア
  4. 奥行き2m超のテラスを設けた開放感ある海を望む海側客室
  5. 客室フロア最上階7階に宿泊者専用の展望大浴場、1階にブッフェスタイルレストランとコンビニエンスストア、スーベニアショップを配置

地上8階建ての客室数550は比較的大きいと思う。新浦安の駅からバスで10分くらいはなれたところで、海岸にとても近いところに建設中であるが、将来は、このホテルからディズニーランドへの直行バスが運行するはずだ。

さらにもう1つのホテルがただいま建設中である。東京駅から京葉線にのって、舞浜に到着寸前になると、通常はディズニーランドの駐車場が見えるのだが、いまはかつての駐車場地域が全部工事現場になっているのが分かるだろう。そう。なんとディズニーランドの入り口の目の前にホテルを建設中なのだ。こんなのことができるのは、ディズニーランドの母体であるオリエンタルランドが「東京ディズニーランドホテル」というのを建設中。名前がとにかく凄い。どのホテルも絶対つけたいと思っていたホテル名を、堂々と特権を使って名づけたのは、素人目でも分かる。地上9階建て、700室を用意し、開業は来年2008年度に行われる予定。

ホテルだけではなく、東京ディズニーランド自体も、ここ数年、入場者の減少傾向が見えているようで、何か起爆剤的なものを導入することにより、さらに入場者を求めようというのが狙っている。2008年度にディズニーランド開業25周年のイベントや「シルク・ド・ソレイユ」の常設劇場の開設を計画している(約2000席)。また、2009年度にもディスニーランド内のトモローランドに新アトラクションを導入して来場者拡大を狙う。映画「モンスターインク」の体験ができるアトラクションだ。このアトラクションは、ゆかいなモンスターたちが働く、モンスターズインク社を舞台に、人間の女の子ブーや、マイク、サリーなどたくさんのモンスターたちが“かくれんぼ”をしている様子を、ライドに乗りながらお楽しみいただくものらしい。

いずれにしても、まだまだディスニーランドは人気が高いアミューズメントパークであることは間違いないし、アジアの外国人にはとても人気がある観光地であることは言うまでも無い。ディズニーランドの経営に関する著書もたくさん売られているように、いつまでもディズニーランドは「遊びを追求するテーマパーク」であることを求めているようだ。

中欧行きチャーター直行便

JALとJTBが夏のヨーロッパツアーとしてチャーター便で運航するツアーを計画していると発表があった。日本からは直行便の飛行機が成田と関空からかなりたくさん飛んでいるのであるが、ヨーロッパのすべての国に直行便が飛んでいるわけでもない。直行便が飛んでいるというのは、その都市に行くニーズが多いからフライトルートが存在するのであって、普段あまり利用が無いのであれば常時路線が開設することは無い。今回のチャーター便というのは、ヨーロッパのなかでパリやローマばかりだと飽きてきた日本人が多くなったことの証明でもあると感じた。

具体的には、7月~10月にかけて成田/名古屋/関西/福岡=中欧(クロアチア、ハンガリー、チェコ)間のチャーター便の開設が一番大きい目玉だろう。さらに、日本の地方都市からヨーロッパに行く場合、一度成田か関空に出ないといけなかったところを、札幌、函館、仙台、新潟、広島、北九州、福岡、長崎、大分、熊本、鹿児島の各都市発着からスイスのチューリッヒとイタリアのローマを直行便のチャーター便を臨時で開設するということだ。

チェコやハンガリーは歴史的な文化がとても深く、そして見所満載の場所ではあるが、どうしても西欧のほうが目立ってしまっているので、西欧に飽きた人が行く場所という感じが否めない。確かに華やかさは無いのだが、あの建築群と歴史の深さを知れば知るほど面白くなる場所であるのはいってみれば分かるところだ。ちなみに、韓国のソウルからチェコのプラハには、なぜか直行便が存在する。だから、チェコに行くと、現地の人は東洋人を見ると「韓国人か?」と聞いてくるし、韓国人が現地で何をしているのか詳しいことは知らないが、あまり韓国人は歓迎されない。しかし、日本人だというと、手のひらを返したようにフレンドリーに成るのは不思議だ。

クロアチアは、ワールドカップで対決した相手国であることで、一躍日本では知名度が上がった。現地に応援に行った人たちも多いことだろうが、あのアドリア海の綺麗な土地を写真でみたら、どうしてもいきたくなる場所であるのは当然だろうと思う。金と時間が余っているリタイア組みのひとたちにとって、せかせかしていない、クロアチアやスロベニアやハンガリーのような中欧諸国は、のんびりしていて良い所だと思う。

ただし、あくまでもこのチャーター便は「ツアー」で利用されるため、航空券だけ買っていく場合には適用されないらしい。貧乏旅行という参加者には不適なものだ。ただ、日本から直行便で現地にいけるというのはかなりのメリットだ。ヨーロッパのほかのハブ空港を経由せずにいけることは、5時間くらいの時間短縮ができる場合もある。

日本の地方都市からローマとチューリッヒへの直行便については、地方都市にすんでいないので、どれだけメリットがあるかということもわからないし、地方の人がどれだけ海外旅行に金を使う体質があるのかということは全く分からないので、調べようが無い。富山県の人たちみたいに、遊びに金を掛けるより、家に金を使う人種もいるわけなので、どこまで地方都市からの利用者がいるのかは想像ができない。どなたか教えて欲しいところだ。

2007/02/20

旧暦正月


今年の旧暦正月の季節がやってきた。今年は2月18日が旧暦の元日に当たる。これにあわせて、世界中の華人たちが一斉にお正月休みに入る。旧暦を捨てた日本の場合には、旧暦正月を祝う習慣をもうなくしてしまったのだが、彼ら華人にとっては西暦の正月より旧暦正月のほうが断然大事なのである。ビジネス上では西暦を使っているのに、生活習慣はやはり旧暦を使う。彼らの言葉で言うと「農暦」なのだそうだ。

中国本土や台湾のように華人中心の国家の場合には、旧暦正月のためにビジネスが全面的にストップするという現象があるのはよく理解できる。ところが、やはり華人が多いシンガポールもこの時期はビジネスは正月休のために1週間は開かれない。お隣のイスラム国家であるマレーシアはどうかというと、実はマレーシアも中国系の人はいるため、国家としても「休日」になるのだそうだ。しかし、1週間の休みを取るのは中国人だけで、他のに民族(マレー人やインド人)は数日間だけ休みを取るということらしい。ただ、概して華人が企業のオーナーとなっている場合が多いため、社長やオーナーの人種にあわせて会社が休みになったり、稼動中になったりするというから面白い。

毎年旧暦正月前のニュースとしては、特に中国大陸の場合、日本の年末年始休暇と同じように民族大移動が北京や上海などの大都市から移動する住民でわんさかになるというのは聞く。最近変わってきたところでは、海側の金持ちエリアの華人たちが、挙ってお正月休みを海外で過ごそうとしていることだ。台湾人や香港人に至っては、今に始まったことが無い現象であるが、ここに近年の超高速成長を行っている中国人が加わっているため、旧暦正月の日本は中国語を話す大量の観光客で埋め尽くされる。中国人は日本が嫌いだと噂されているが、これは大きな間違いで、中国人ほど日本が好きな民族は居ないんじゃないか?と勘違いするほどだ。現在の中国で、日本のアニメ・電化製品・雑誌を見ない場所は全く無い。言い換えれば、これらのメディアやコンテンツは中国で一番人気のもので、中国政府も自国文化を育てようとしている建前があるため、これだけ日本製の製品が中国国内を席捲してしまうのに脅威を抱いているくらいである。昨今の金持ち中国人が海外旅行として選ぶところとしてやっぱり人気になっているのは、日本であるというのを知らないのは日本人なのだと最近知った。

さて、そんな中国人・香港人・台湾人が、現在正月休みで日本に大量入国している。多くは、東京・温泉・富士山・北海道(雪を見るため)と相場が決まっているようである。なお、観光地の「東京」には、ディズニーランドとお台場が入っているのは必須だ。意外な人気なのは歌舞伎町のネオン街。かの「新宿歌舞伎町アンダーワールドガイド」の著者李小牧氏も、初めて日本にやってきたときに、そのネオンの輝きに驚いたといったほどなのだが、あれだけ経済的に発展してきた中国沿岸部の人たちも、娯楽についてはまだまだ発展できていないらしく、歌舞伎町へ出かけるツアーというのも大人気のようである。かつて1930年代の上海は、世界の遊び人が一斉に集まってきたところであるほど、歓楽街としてはかなり発達していたのだが、それも「租界」という外国人が発展させたために、アングラな面と娯楽の面が発達したのだろう。中国人独自の発達で娯楽を発展することはどうやら苦手なのだそうだ。

日本は物価が高いのを分かっているのに日本にやってくるということは、それだけ日本文化を知りたいとか感じたいからやってきているなんて思っていると大間違いである。単に買い物をしたいと思っている華人観光客が多いのが一般的である。何度か日本にやってきたことがあるひとが、買い物ではない別の興味に心が向くのであって、大概の華人は日本に行ったことを本国に帰って自慢したいための「ネタ」を買い込むことに躍起になっているのだ。だからネタを仕込むためには、どんなに高価な物でも金を出すが、どうでもいいところでは金をケチるというのが露骨だ。金を持っているくせに、なぜかファミレスやファーストフードに屯って居るのを見ると、なんだか気持ち悪いなと思う。金持っているのであれば、日本料理屋や高い寿司屋でも行って、本格的な日本の食事文化でも触れればいいのに、文化的なところの要求を元来求めていないので、食事に対する金の使い方は彼らは疎いようだ。

東京にやってくるのはいい事だが、東京の人間は住んでいる人だと分かるように、とても忙しく動き回る。田舎のように時間が止まったみたいな感覚にならないところが都会の特徴である。そういうところに、華人の団体客がやってきた場合には、彼らの動きがあまりにも遅く、それも集団で動いているので、東京のビジネスマンにとっては邪魔な異物としか思えない。それも大声で喋っているし。台湾人や香港人は、マナー的に大声で喋ることは野蛮人に見えるということを感覚的に身につけたらしく、意外にスマートに振舞っているが、ダメなのは、最近金持ちになった道徳が無い中国人である。この人たちは本国に居るときより開放的になるためか、自分の庭に居るような感覚でぎゃーすか騒ぐので、ウザ過ぎる。もう早く帰ってくれと頼みたくなるくらいウザイ存在だ。

21世紀の大学図書館

現代のわれわれは、高速通信技術の発達により、インターネットという地球規模の情報リ ソースを日々の生活の中で利用するようになっている。相互に連接しあい、容易に検索可能であって、しかも成長して止むことのない偉大な百科事典、古代のア レキサンドリア図書館以来、人間が夢見て止まなかった地上最大のデータ貯蔵庫を、現実のものとして我々は掌中にいれたのである。

周知のとおり、インターネットによる情報検索は文字を介して行われる。検索事項に関わり が深いと思われるキーワードを入力し、これを繰り返すことで、間連行もl苦を次第に絞り込んでいき、最終的に必要なデータへたどりつく。まさしく「網」を 手繰り寄せるようにして、ねらったデータを獲るのである。この、大きな枠から小さな枠へ検索項目を絞り込んでいく方法は、広大無辺な情報の海のなかから必 要な事項にたどりつくまでの筋道として、一見、理に適ったようなものにみえる。しかし、問題は、その水先を案内する「ことば」である。先端的なテクノロ ジーを駆使した検索システムで用いられる「キーワード」はいまだ書記言語であり、これは人がこれまでに築き上げてきた「ことば」のくびきから自由でありえ ない。極論すれば、インターネットで検索行動を取る我々は、中世スコラ文学の遺産を舵としてデータの海を航海しているようなも等しい。

18世紀の半ば、植物分類学者のリンネは、どのような未知種が見出されようと、常に、一 定の規則性をもって位置づけることのできる分類体系を編み出し、以来、このシステマティックスは、万物を認識し、整序する有力な方法のひとつとして、今日 に至るまで、その規定的な有効性を揺るがされずにきた。「キーワード」を入力しながら情報を精細に絞り込んでいく検索手法もまた、樹形図の太い幹から細い 幹を経て、枝の先端へたどりつくというプロセスを踏み直すという意味では、実際のとkろお、古くからある序階的な分節法を一歩もこえでるものではない。そ うした検索行動が日常生活のなかであたりまえのものとなったいま、われわれがかんがえねばならないのは、とめどなく量的に拡大しつつある情報財のなかか ら、どのようにして質的に有位なデータを取り出すか、その方法についでである。

「量」から「質」へ、情報基盤整備事業の発展的な転換をはかるためのヒントは、検索可能 なデータではなしに、むしろ検索可能な事柄のほうにある。従来の認識システムにおいて隣接しがたいものを、ある特定のニーズに従ってシステマティックに接 合させていく手段-それは、例えば、夢にみたおぼろげなイメージに類する画像を検索しようとするときの、あの、もどかしさを解消するにはどうしたらいいの か、という問いに対する答えでもある。そのイメージを構成する何か具体的な要素を、それの呼び名をキーワードとして検索する。すると、その名称を媒介して 画像が山のように抽出されはしよう。しかし、それは、夢にみた心象とどうにも連関の見出しがたい、単なるデータの集積にしかすぎない。場合によると、夢に 現われたさまざまな心象を紙の上で自由に構成して見せるシュールレアリスム的自動記述法のほうが、情報伝達の確度という点では、むしろ高いといえるかもし れない。「キーワード」を与えるわれわれの思考形態が古典的な言語体系に縛られている限り、「ネット」にぶら下がっている情報もまた、そのようなかたちで しか整除されないからである。

しかし、今日のデジタル画像は「手術台の上のミシンとこうもり傘の出会い」を容易に実現 しうるところにその最大の技術的特性がある。時間的・空間的に隔てられた画像情報を自由に収集し、蓄積し、加工し、照合し、そこからさまざまな情報を引き 出すことができる、その非=序階性にこそデジタル画像の利用価値があるのである。それが十分に勝つようできていないとしたら、それはネーミングのシステム も検索用のキーワードも、ネット検索のシステマティクスとして機能しがたいことの証なのである。

デジタル技術は物理的・空間的に隔てられたものを、均質な、一つの同じ枠組みのなかでな がめることを可能にしてくれる。どのような物体や現象であれ、ひとたびデジタル情報化してしまえば、あとは一元的な記号システム内で自由自在に変形加工で きるからである。この素晴らしい汎用性・可塑性は、人類が営々と築いてきた資料保存庫という壁という壁を一掃し去り、またたくまに地球規模的なサイバー文 化圏を現出させるにいたった。しかしながら、その巨大なデジタルアーカイブの情報分節システムはいまだ旧態依然のままである。例えば、象とノミ、大宇宙と DNA、昆虫の斑紋と大地の地形、鉱物の結晶と現代の絵画、植物の葉脈と河川の流痕 - これらの間に見出される意味深い相同性や対照性をシステマティックに開陳して見せる、そうした集類型分類システムはいまだ存在しない。確かに、時間的・空 間的に隔てられたもののあいだの相関性から驚くべき知見が得られたというニュースは枚挙にひまがない。しかし、それらの成果の大半は、鋭敏な研究者の直感 や偶発的な出会いの産物にすぎないのである。もしわれわれに、博物館の将来像を構想することが許されるなら、それは万象間の相互関連性をシステマティック に検出していくことのできる情報環境基盤の上に立つもの以外でありえない。「量」として蓄積されたデータを、21世紀の多様なニーズにこたえられる多元 的・多軸的な時空間系列内に配分しなおし、「質」として、より高度な利用形態を可能とする布置モデル、その創出こそが21世紀大学博物館における情報戦略 のかなめなのであろう。

21世紀社会が必要としているのは、自然物であれ人工物であれ、なかで有価値であると認 められるものを効率的・選択的に収集・蓄積しつづけるための資源戦略であり、他方でそれらの資源をデジタル情報化し、脱文脈的な観点からの集類、定時、照 合を可能とする情報戦略なのではないか。ものを収集し、蓄積することの重要性については、ここで触れぬこととするが、この後者の汎界的、超域的なデジタル アーカイブの将来的な可能性については、繰り返し強調しておいてよい。確かに、大学や研究所等の情報研究環境整備は、この面においても急速な勢いで進んで いる。その一方で、それらの具体的な活用成果が容易に見えてこないのはなぜか。理由は明白である。どのデジタル情報財も、それぞれの教室内、研究室内、研 究分野内でしか適用しない「学術用語体系」に縛られ、身動きがとれずにいるからである。人類が真の意味での「地球共存」を実現するためには、必要な知恵と 情報を自然財のなかに求め、それらを現実的な課題解決のために統合する手法の開発が不可欠である。とくに、地球温暖化や環境汚染など、人類が地球規模で直 面している深刻な問題については、上述のような異界を近接させ、接合させ、融合させるためのあたらしい検索ツールの開発が急務である。換言するなら、デジ タル情報財の高度利用を図るための非序階型分類システムの開発研究は、地球環境の危機的な状況を前にした現代のわれわれにとって、焦眉の急なのである。

このあたらしい分類システムは、すでに膨大な量に膨れ上がった多種多様な博物財(自然 財、文化財、情報財)を「かたち」「骨組み」「色」「組成」「表面構造」など脱文脈的な観点から整序しなおし、情報の新たな組みかえと張りかえを行なうた めのものである。言葉をかえるなら、古くからある「貼り交ぜ」技術をデジタルベースで実現するための検索ツールといってよい。もしそうしたものが存在すれ ば野は梨であるが、微小世界から極大宇宙、二次元から四次元、無機物から有機物、自然携帯から人間文化という、現在のわれわれが考えうる限りの汎界的なデ ジタル情報財を大量に備蓄している大学博物館は、高精細画像を媒介する高速検索、変形加工、集類対比等の実演によって、新たな知や技術や素材の構成母体と なりうるにちがいない。この機能の充足を図らずして、大学博物館の将来像は思い描きがたい。

現に、堆積物コアの含有物から新薬や化粧品が研究開発され、さめの皮の表面構造からあた らしい工業的テクスチャーが開発され、製品化される時代である。また、みつばちの巣や動物の骨の構造が、現代の最先端テクノロジーを駆使した建築物の骨組 みに反映されることもある。調和の取れた「地球共生」は、人間が自然界の秘めるさまざまな知恵や情報を汲み取り、それらを人間的な文化の体系へ無理なく組 み込むことのできたとき、初めて実現可能となる。高度情報化社会のニーズにかなうあたらしい博物財分類システムの確立は、博物資源の内在する情報を社会生 活の思いかけぬ局面で役立てるための具体的な視点を獲得させ、ひいては、新たな産業産物の発明や工夫の誕生を誘い、促すにちがいない。

デジタルアーカイブは、情報財のなかから思いかけぬ論点を導きだしたり、意外な試料にた どり着いたりすることで既存の知的体制を根本から揺るがし、その基底的な刷新を実現する。そうした研究の基盤装置として今後ますますその重要性をましてい くにちがいない。デジタル技術を最大限に活用し、バイオからアートまで多種多様な博物財をひとつに統合する場としての公共的資源蓄積庫、近未来にあるべき 大学博物館像の一斑がそこにあるのではないか。

博物館の歴史をひもとくと、近代博物館の祖型とされる王侯貴族のコレクションや自然哲学 者の「珍奇陳列室」では、優れた古代の美術遺品も珍しい自然史標本も、いかがわしい人工物も、すべてを抱き込むという姿勢が貫かれており、その包容力の大 きさが、コレクション全体の価値を左右していたことがわかる。コレクションをかたちづくるというのは、世界を自らの掌中に収めるに等しい、そうしたアナロ ジカルな発想があったからである。それに対して、現代の博物館はどうかといえば、情報基盤の整備が進む一方で、「もの」を博物資源として蓄積するための戦 略はおろか、それらの啓発的な展示物として組み立てるための想像力さえ、見事なまでに喪失してしまった。21世紀博物館に必要なのは、異界を隣接させる大 いなる想像力と、世界を抱き込もうとする多分に誇大妄想的な意志力なのである。

2007/02/19

we are not the robot

随分前に自分のサイトに記載した内容だったのだが、もうそのサイトは使っていないので、こちらに移動したいと思う。そのなかの1つを下記に多少もともとの文章からブラッシュアップして掲載することにした。

下記はその内容

いきなりですが、「ロボット工学3原則」というのをご存知でしょうか?これはSF作家アイザック・アシモフが提唱したもので
  • 第1条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過するようなことによって、人間に危害を及ぼしてはいけない。
  • 第2条 ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、与えられた命令が、第1条に反する場合は、この限りではない。
  • 第3条 ロボットは、前掲第1条および第2条に反するおそれの無い限り、自己を守らなければならない。
というものです。まず robot という言葉はですが、これはチェコのカレル・チャペックが 1920年に発表した戯曲 ”R.U.R.”(R.U.R.は「ロッスム万能ロボット製造会社の頭文字)ではじめて使われたものであって、もっとも、このロボットは、いまのイメージ とはかなり違うものでした。なにしろ作中のロボットは、人間に代わって労働作業をさせるため、人体構造を極限まで単純化し、大量生産が可能になった人間の ことをさしています。今風にいえば、バイオテクノロジーで作られた人工生命体といったところでしょう。しかも、これは強制労働(robota)や労働者 (robotik)といった言葉をもとに作られたことからもわかるように搾取される労働者階級の寓意として設定されたもので、最終的には反乱を起こして、 人類を滅ぼしてしまうのです。つまり、もともとのロボットという言葉にはいまのようなメカニカルな存在というイメージは与えられていなかったわけですが、 なぜかいまでは機械仕掛けというイメージがまとわりついています。言葉が生まれてから80年後の今日、そうした意味を超えた自由で、創造的で、秀明な新し いロボットたちが次々と表れ、ロボットは単なる「ロボット」ではなく芸術の分野にも入りこみ、さらには生活の一部として身の回りに自然と入り込んでいま す。

って、そんな「ロボット」の話を書くために今回は設けたのではないのです。ロボット工学 についてや、ロボットが生活にどう役立っているとか、また今後のロボットはどうなっていくとかっていうことについては専門家でもないし、知識も乏しいので ここではやりません。じゃ、一体なんなのぉぉぉ?という風に思われたんでしょうけど、今回は表題のとおり「We are NOT the Robots」なんです。僕らのまわりにはなんとなくロボットみたいな人がたくさんいるなぁと感じたことがありませんか?ロボットみたいというのはいまい ち分かりにくいところですので、ここで僕が考えるロボットみたいな人についてを書きたいと思っています。

ロボットのイメージは冒頭でもちょっと書きましたけれど、みなさんはどう思っているで しょうか?無機質、感情表現なし、従順、行動がパターン化、などなど・・。思いはそれぞれあるでしょうけど、ぼんやりとしたイメージがあるだけでこれと いった断定的なものはまったくないです。が、日本におけるロボットはガンダムやアトムの世界をイメージをしている人も多いのではないでしょうか。他の世界 の国々のひとでは、日本のようなイメージをもっているところはないと思います。僕もロボットについてはあんまり好印象というものはなくて、物質のようなイ メージしかないです。それと人間を勝手に結び付けてしまう「ロボットみたいな人」という表現を説明するのはかなりの困難ですが、まぁ、やってみましょう。

自分の気持ちを押し殺して物事を遂行するということはしたことが誰でもあるとおもいま す。一種の「ロボット的な人間」の行動のひとつのように見えますが、僕にとっては単なる我慢としか見えません。何をするにも自分の感じるがまま思うがまま の行動をとれるひとは、端から見ると「わがまま」に見えることでしょう。状況と場所にあわせて、ある時には控えめの態度をとったり、従順な態度をとった り、したくもない行動をしなくてはいけないことはあります。それは自分がなんらかの組織やグループのなかの一員だからいえることなんでしょうね。(たし か、こないだのTOEFLの書き込みのテストで「組織やグループの存在意味は?」という題で書かされたような気がします。)またこのような姿はある時に は、「お淑やかだ」という印象を他人に与えることができ、結構ポイントがあがったりとかするもんです。しかしながら、こういう行動を取らなくてはいけない ときには、大体の人は何らかのストレスを持つことになるはずです。でも、中には何も考えないで他人のいう通りの行動しかできない人もいるのはおわかりで しょう。僕が「ロボットみたいな人」とさしているのは、単に感情を押させているというのではなく、自分で考えて行動ができない人のことをさしています。あ る意味前に書いた「ネコ」に似ているかもしれません。それは、他人に従うことしか自分を見出すことができないという人種のことをさしているからです。自分 の意志を他人にコントロールされているっていう思いはこういう人たちにはないんだろうか?偉い人に従っている人などは、立場的にそのような演技をしなくて はならないということがあるのでしょうが、そんな立場の人は除いて、自分から他人に心を置いている人をみると、なにがおもしろいんだろう?と疑問に思いま す。確かに他人に従うというのは生きていく上で楽かもしれないが、自分という「個」がなくなるように思います。洗脳された人は、もう支配者のロボットとし か生きる道がないんでしょうけど・・・。

他人のいうとおりしか行動ができないひとと似ているのですが、決まったことしかできない 人もロボット的な人間といえるんじゃないでしょうか?その先を考えてやってくれればいいのですが、言われたことしか本当にやらないひととかいますよね。別 にその人をプログラミングしているわけじゃないのに、学習能力がないというか、ちょっと例外が出たりとかやったことがないものにぶち当たると、「困難」の 2文字を掲げて何もできなる人。言われたことに対しては、最高級の仕事をしてくれるのであるが、それ以上の事が期待できないので、結果としては「当然」と してしか評価をすることができないですね。確かに経験が無い物に対しては、どのようなことをすればいいのかがまったく分からないというのは理解できないこ とはないが、それだからといって何もできないということはないと思います。今までやってきたことを基に考えられる範囲での行動というのができると思われる のですが、失敗が恐いのか、努力ややる気がないのかわかりませんが、まったく手をつけないという人がいます。困難なことは誰かがやってくれるだろうとか、 別に自分がしなくても他にもやってくれる人がいるだろうとかという気持ちがあるからなんでしょうか?僕には理解ができません。

考える能力がない人というのもロボット的な人なのではないでしょうか?考える能力がない というよりも、自分の意見がまったくないという人も該当すると考えています。よく「なにしたい?」と言われて、「なんでもいい」と言う人がいますけど、多 くの人は「なんでもいい」という言葉の裏には、ある種の自分の期待する回答相手に求めている場合があると思うのですが、まったくなーんにも考えていない で、他人任せの人と一緒になにかをすることはかなり疲れます。1つのことをするのに決めた後に、一緒にいるときには「決めてくれてありがとう」みたいな表 情や行動をしているのですが、後で「あんときこういうことしてくれたらよかったのにぃ」ということもなしに、何でも他人に決めてもらうということは結構恐 いと思う時もあります。

僕らは感情をもった動物なので、自分の意志でこれからも生きていきたいと思います。他にも結構ロボット的だと思う人もいるのですが、また気づいたら書きたいですね。