2007/02/19

we are not the robot

随分前に自分のサイトに記載した内容だったのだが、もうそのサイトは使っていないので、こちらに移動したいと思う。そのなかの1つを下記に多少もともとの文章からブラッシュアップして掲載することにした。

下記はその内容

いきなりですが、「ロボット工学3原則」というのをご存知でしょうか?これはSF作家アイザック・アシモフが提唱したもので
  • 第1条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過するようなことによって、人間に危害を及ぼしてはいけない。
  • 第2条 ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、与えられた命令が、第1条に反する場合は、この限りではない。
  • 第3条 ロボットは、前掲第1条および第2条に反するおそれの無い限り、自己を守らなければならない。
というものです。まず robot という言葉はですが、これはチェコのカレル・チャペックが 1920年に発表した戯曲 ”R.U.R.”(R.U.R.は「ロッスム万能ロボット製造会社の頭文字)ではじめて使われたものであって、もっとも、このロボットは、いまのイメージ とはかなり違うものでした。なにしろ作中のロボットは、人間に代わって労働作業をさせるため、人体構造を極限まで単純化し、大量生産が可能になった人間の ことをさしています。今風にいえば、バイオテクノロジーで作られた人工生命体といったところでしょう。しかも、これは強制労働(robota)や労働者 (robotik)といった言葉をもとに作られたことからもわかるように搾取される労働者階級の寓意として設定されたもので、最終的には反乱を起こして、 人類を滅ぼしてしまうのです。つまり、もともとのロボットという言葉にはいまのようなメカニカルな存在というイメージは与えられていなかったわけですが、 なぜかいまでは機械仕掛けというイメージがまとわりついています。言葉が生まれてから80年後の今日、そうした意味を超えた自由で、創造的で、秀明な新し いロボットたちが次々と表れ、ロボットは単なる「ロボット」ではなく芸術の分野にも入りこみ、さらには生活の一部として身の回りに自然と入り込んでいま す。

って、そんな「ロボット」の話を書くために今回は設けたのではないのです。ロボット工学 についてや、ロボットが生活にどう役立っているとか、また今後のロボットはどうなっていくとかっていうことについては専門家でもないし、知識も乏しいので ここではやりません。じゃ、一体なんなのぉぉぉ?という風に思われたんでしょうけど、今回は表題のとおり「We are NOT the Robots」なんです。僕らのまわりにはなんとなくロボットみたいな人がたくさんいるなぁと感じたことがありませんか?ロボットみたいというのはいまい ち分かりにくいところですので、ここで僕が考えるロボットみたいな人についてを書きたいと思っています。

ロボットのイメージは冒頭でもちょっと書きましたけれど、みなさんはどう思っているで しょうか?無機質、感情表現なし、従順、行動がパターン化、などなど・・。思いはそれぞれあるでしょうけど、ぼんやりとしたイメージがあるだけでこれと いった断定的なものはまったくないです。が、日本におけるロボットはガンダムやアトムの世界をイメージをしている人も多いのではないでしょうか。他の世界 の国々のひとでは、日本のようなイメージをもっているところはないと思います。僕もロボットについてはあんまり好印象というものはなくて、物質のようなイ メージしかないです。それと人間を勝手に結び付けてしまう「ロボットみたいな人」という表現を説明するのはかなりの困難ですが、まぁ、やってみましょう。

自分の気持ちを押し殺して物事を遂行するということはしたことが誰でもあるとおもいま す。一種の「ロボット的な人間」の行動のひとつのように見えますが、僕にとっては単なる我慢としか見えません。何をするにも自分の感じるがまま思うがまま の行動をとれるひとは、端から見ると「わがまま」に見えることでしょう。状況と場所にあわせて、ある時には控えめの態度をとったり、従順な態度をとった り、したくもない行動をしなくてはいけないことはあります。それは自分がなんらかの組織やグループのなかの一員だからいえることなんでしょうね。(たし か、こないだのTOEFLの書き込みのテストで「組織やグループの存在意味は?」という題で書かされたような気がします。)またこのような姿はある時に は、「お淑やかだ」という印象を他人に与えることができ、結構ポイントがあがったりとかするもんです。しかしながら、こういう行動を取らなくてはいけない ときには、大体の人は何らかのストレスを持つことになるはずです。でも、中には何も考えないで他人のいう通りの行動しかできない人もいるのはおわかりで しょう。僕が「ロボットみたいな人」とさしているのは、単に感情を押させているというのではなく、自分で考えて行動ができない人のことをさしています。あ る意味前に書いた「ネコ」に似ているかもしれません。それは、他人に従うことしか自分を見出すことができないという人種のことをさしているからです。自分 の意志を他人にコントロールされているっていう思いはこういう人たちにはないんだろうか?偉い人に従っている人などは、立場的にそのような演技をしなくて はならないということがあるのでしょうが、そんな立場の人は除いて、自分から他人に心を置いている人をみると、なにがおもしろいんだろう?と疑問に思いま す。確かに他人に従うというのは生きていく上で楽かもしれないが、自分という「個」がなくなるように思います。洗脳された人は、もう支配者のロボットとし か生きる道がないんでしょうけど・・・。

他人のいうとおりしか行動ができないひとと似ているのですが、決まったことしかできない 人もロボット的な人間といえるんじゃないでしょうか?その先を考えてやってくれればいいのですが、言われたことしか本当にやらないひととかいますよね。別 にその人をプログラミングしているわけじゃないのに、学習能力がないというか、ちょっと例外が出たりとかやったことがないものにぶち当たると、「困難」の 2文字を掲げて何もできなる人。言われたことに対しては、最高級の仕事をしてくれるのであるが、それ以上の事が期待できないので、結果としては「当然」と してしか評価をすることができないですね。確かに経験が無い物に対しては、どのようなことをすればいいのかがまったく分からないというのは理解できないこ とはないが、それだからといって何もできないということはないと思います。今までやってきたことを基に考えられる範囲での行動というのができると思われる のですが、失敗が恐いのか、努力ややる気がないのかわかりませんが、まったく手をつけないという人がいます。困難なことは誰かがやってくれるだろうとか、 別に自分がしなくても他にもやってくれる人がいるだろうとかという気持ちがあるからなんでしょうか?僕には理解ができません。

考える能力がない人というのもロボット的な人なのではないでしょうか?考える能力がない というよりも、自分の意見がまったくないという人も該当すると考えています。よく「なにしたい?」と言われて、「なんでもいい」と言う人がいますけど、多 くの人は「なんでもいい」という言葉の裏には、ある種の自分の期待する回答相手に求めている場合があると思うのですが、まったくなーんにも考えていない で、他人任せの人と一緒になにかをすることはかなり疲れます。1つのことをするのに決めた後に、一緒にいるときには「決めてくれてありがとう」みたいな表 情や行動をしているのですが、後で「あんときこういうことしてくれたらよかったのにぃ」ということもなしに、何でも他人に決めてもらうということは結構恐 いと思う時もあります。

僕らは感情をもった動物なので、自分の意志でこれからも生きていきたいと思います。他にも結構ロボット的だと思う人もいるのですが、また気づいたら書きたいですね。

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