2008/02/23

陳冠希

1月頃から衝撃的なニュースが中国語圏では話題になっていたのは、俳優であり歌手の香港人・陳冠希のプライベート写真の流出だろう。日本ではほとんど無名に近いこの俳優も、香港ではスターの中のスターであり、日本人俳優でいえば、妻夫木聡みたいなものだろうといえよう。陳冠希が、プライベートで自分が彼女と写していたエロ写真を、本人のPCが壊れたときに修理を出した店から写真だけ抜き取られて、そのままネット上にばら撒かれたから、さぁ大変。これが陳冠希だけの問題ならよかったのだが、写っていた相手が悪すぎた。これが1人だけじゃなく、5-6人の香港を代表とする女優や歌手(グループ)だったからである。ブラウン管の中では「彼氏は居ません。結婚するまで純血です」なんて馬鹿なことを言っていたアイドルたちが、実は陳冠希の前では大股広げて、惜しげも無くマンコ丸見えで写真で写っている、それもアイコラではなく純粋の写真だったから、もうお笑いにしか思えない。テレビに出てきても、「あぁ、あのケツ毛バーガーの女か」と既に香港や台湾のファンの中では呆れ返って、ファンを辞めてしまったという人も多い。それに当人たち、自分の股間を既にネット上でばら撒かれているので、表立って街中を歩くことも出来なくなってしまったということなのだ。

陳冠希を初めて知ったのは、台湾に初めて旅行をしたときに、なにか記念にCDでも買って帰ろうと空港のレコード屋で見つけたときだった。そのときには、レコードを出しているのでてっきり歌手だろうと思っていたのだが、日本に帰国して実際にCDを聞いてみると、聞くに堪えないほどの下手糞で、よくもこんなやつが歌手なんかやっていられるなぁーと驚いたものだ。あとで調べてみると、実は俳優が本業だったというから、単に調子に乗ってCDも出しちゃったという程度の奴だったのである。しかし、盲目のファンは、陳冠希がCDを出したからというだけで、歌の上手い・下手は別にして、買っていたのだろうと思う。日本では全然売れていないのは知られていないので当然だが、それでも顔だけは見たことがあるという人も多かったに違いない。

陳冠希が今回の事件で謝罪したのは、まぁ何に対して謝罪したのか分からない亀田兄弟の記者会見と同じようなものなのだが、彼がこんな写真を撮るという性癖があったことにファンは少なからずショックだったようである。影で何をやっているのか人間わからないとはいえ、写す馬鹿も居れば、その誘いに乗って写される馬鹿な女も女だと思った。それにいわゆる「引退記者会見」というのを開いた陳冠希だが、そのコメントの中で「香港での活動を止める」と言っただけで、「芸能活動を一切止める」とは一言も言っていないところである。英語が話せるので、名前が売れていないハリウッドに拠点を移して活動するという話が実現的に濃厚な情報だ。あとは、日本語も少し話せるという本当かどうだか分からない話もあり、それに便乗して、全然顔が売れていない日本で拠点を活動するというのもありのようである。しかし、市場規模や言葉の問題から考えれば、芸能活動を続けるというのであれば、チャイナタウンが充実しているロスに拠点を移して、そこでハリウッド映画に出るというのがいいのだろう。しかし、まぁ、転んでもタダでは起きない精神には、純粋な中国人気質を感じることができる。あとは、陳冠希の父親が超有名な金持ちであるので、金でなんとかケリをつけるということが正しいところだろう。女性たちにも、金でなんとかケリをつけたのは想像に難くない。

まぁ、妻夫木聡が伊藤美咲や押切もえなんかと実はセックスをしていて、それを写真に撮っていて、その写真がネットに流出してしまったというのを想像してもらえれば、中国語圏での反響のすごさは分かると思う。日本では不思議なほど報道されていなかったので、きっと中国語圏から来た人たちにとっては、日本での報道の少なさにかなり吃驚していたようだ。
しかし・・・彼のアソコはそれほど大きくない。チビだから仕方ないだろうな。

スイス探訪


スイスに関する本というのは、どちらかというとスイスの自然を写真に収めて「のどかだなぁ~」とか、またはアルプスの少女ハイジの世界をメルヘン的に紹介するというものしかなかった気がする。このように、スイス人の気質と現実的なスイスにフォーカスが当たった本というのを未だに見たことが無かった。それもこの本を書いたのが、なんとオウムの襲撃事件で話題になった「國松元警視庁長官」とあれば、何故?!という疑問が湧くのも当然だろうと思う。狙撃された人とスイスの関係が読む前にはわからなかったのだが、その理由が分かった。なんとその後、スイスの大使として赴任していたのだそうだ。そこで知りえた2年間のスイスの状況を警察的な洞察と観察力で、現在のスイスとそこに住む人たちの考え方をまとめた日記風のものが、この本の成り立ちである。

特に何も産業がなかったスイスが、列強の属国にならずにこれまでヨーロッパの中で君臨してきたかは、やはり傭兵制度があったからだというのは驚きだ。確かに今でもスイスは、EUに加盟もしていないし、もちろんNATOにも加盟していない。従って何か軍事があった場合には自力で守らなければならないのだが、それはかつて、「傭兵としてヨーロッパの各国で雇われ兵士として生活していた」から、自分のみは自分で守るという精神が息づいているのだそうだ。そして、この傭兵制度のおかげで、ヨーロッパの各国で今何が起こっているのかという情報がスイスに全部集まってきていたというのも面白い。その情報収集能力から、近代になって金融ビジネスにつながり、スイス人の口の堅さも手伝って、世界の銀行として君臨することになったという歴史をよくまとめているとおもった。マフィアでさえも、最終的にはスイスの銀行を通して綺麗な金にするということに、スイスの銀行は使われたりするので、表の舞台でも裏の舞台でも、スイスの銀行は信用で成り立っていることの証拠だ。

また、金融ビジネスで成功している人が多いから、金に対してはあまり無頓着な人が多いのだろうと思うと、実際には全く逆で、財布の紐が硬く、そうは言っても、公共のためならいくら寄付しても構わないという気質も素晴らしいと思った。どこかの大国のように、自分のためには金を使うが、公共のためには一銭も身にならないので出さないと思って居人が多いのとは全く違う。

それと、日本人は気軽に「スイス人」と読んでいるのだが、彼らからすると「スイス人」という概念が全く内容である。たまたま、世界から見たら「スイス」という名前の国に属しているだけのことで、実際にはジュネーブ人とかチューリッヒ人とか、町の名前で自分たちを呼んでいるのもおもしろい。あんな小さい国なのに連邦国になっている理由もここにあるのだろう。そもそも今の連邦になったときのきっかけが、反ハプスブルグだったというから歴史はどこでどう繋がっているのかわからないものである。イタリアとドイツの間の関所として君臨した、スイス連邦の原形になる地域が、その関所の税金を背景に巨人のハプスブルグと戦ったことはすごい。勝てると思ったことがもっとすごいし、実際に買ってしまい、スイスから追い出してしまったのがもっとすごい。

ほぼスイス全域についてのスイスの文化と考え方を述べているので、そのへんの刊行ブックよりも十分に内容として豊富であるし、役に立つものだと思った。実際にスイスに行く前に、この本を読んで、スイスのことを知り、そして実際のスイス人と接してみるのもいいだろう。


スイス探訪―したたかなスイス人のしなやかな生き方
國松 孝次 (著)
文庫: 236ページ
出版社: 角川書店 (2006/03)

北京


今年は北京オリンピックの年。しかし、思ったほど北京オリンピックが盛り上がっていないことに気付く。中国本土では、国家の威信をかけているので、絶対に成功しないと、ただでさえ面子の国なので、共産党独裁政治の崩壊に繋がり、中国の崩壊に繋がることは目に見えている。ただ、それも成功するのかどうかかなり疑わしい段階になってきたのは中国以外の人が思っていることだろう。

政治的な世界はどうでもよくて、北京という町だけにフォーカスを当てて、その町を舞台にどんなことが行われたのか紹介しているのが、今回の書物である。小さい頃から、あの巨大な領土の国の、なんであんな北のほうに首都があるのだろうかと、地球儀を見て思っていたのだが、この本をみれば一目瞭然だ。

単一民族で、日本の領土以外のところとは領土争いをほとんどしてこなかった環境とは異なり、大陸では常に異民族同士が、虎視眈々と派遣争いをしていたのは歴史をちょっとでも勉強したことの有るひとなら分かることだが、それも全く血筋も違い文化も違う民族が、常に取り・取られている領土のなかでは、政治の中心地の場所も、時によって刻々と変わるのは当然だろう。日本の場合は、神様・天皇を中心とした国家形態が2000年ほど続いているため、いくらいくつかの幕府が成立されても、最後は天皇の承認のもとに丸く収まる。しかし、大陸ではその絶対的権力者が居ないため、常にそこを収めていた人間のトップが神様なのだ。

北京を舞台とした政治は、正直、清朝以降の話は多くなってしまうのは当然だろうが、北京を作ったのは清朝ではないため、どちらかというと清朝の時に何が起こったかというのはどうでも良かった。北京を作ったモンゴル系の元の時代に、なぜここを首都としたのかを知ると歴史は楽しくなる。元々モンゴルの草原で、どこでも首都機能を持っていてもよかった元王朝ではあるのだが、中国大陸では少数民族であるため、なんとか人数の多い漢民族を押さえ込むための手段として、モンゴル人や色目人(要は、漢民族以外の外国人)を王朝の役人に抜擢していて、漢民族を最下位の層の民族として扱っていたが、その不満からの反乱を押さえ込むために、モンゴル草原に首都機能を持ちつつも、中国大陸にも首都を持つ二重首都機能を有していた。モンゴルからはあまり遠いとその移動にも大変なので、比較的モンゴルからも移動がまだいける場所につくったということだ。そのあとは、首都機能をここに作ったために、それを継承して明・清もここを首都にしたのが落ち着いたようだ。

北京といえば、紫禁城は北京のシンボルになっているのだが、その名前の由来もこの本では教えてくれる。さらに紫禁城を取り込む数々の門がなぜあるのか、またその名前は何なのかもこの本を見れば一目瞭然だ。いまはそれこそ広場としての名前が有名になってしまっている天安門もその1つであるし、城を囲むように存在する門が、なぜか南に固まっているというのも新しい発見だ。先にも記載した、首都機能を中国大陸の北のほうに置いたというのも、実はこの門の考え方に繋がってくる。答えを言うと、中国での考え方なのだが、神は南を向いてどっしり構えるものだという考えがあるようで、その神に会うためには、神々しくもいくつものの門を通って、その検問を通り、苦労して会うことができるというつくりにしているのだそうだ。そして、北は万里の長城で防いでいるために、北からの敵はこないし、もともと北京を作ったときには元が作ったのだから、自分たちの原産地からは敵なんかやってくるわけがないというのも考えの中にある。

それから北京は、過去に何度も名前を変えているのも面白い。中華民国時代には、首都が南京や重慶にあったので、北京は「北平」だった。いまでも、ちょっと前の台湾、つまり中華民国の地図を見ると、中国大陸は自分たちの領土だと思っていたので、北京は北平と書かれているのが分かる。さらにいうと、今の中国の領土よりも広い地域が「中華民国領土」になっているのがわかる。それも北京という町を中心にどこまでを中国と認めるのかということの歴史に繋がるものだ。

それと、北京の街並みといえば、胡同と呼ばれる横町がいまではすっかり段々なくなってきているというのは悲しいことである。古き街並みがなくなることは、その歴史を全部否定してしまうことに違いない。中国文化では歴史は重要なのだが、古いことが必ずしも良いことであるとは思われていないのである。だから、平気で文化的には重要だろうと思われるエリアさえも、平気で近代化という名前の下にめちゃくちゃな都市設計をするのはよくあること。日本人の感覚ではとても考えられない。この胡同もモンゴル時代に建設された街並みであり、500年近く続いてきたこの街並みも、いよいよ消滅の時期に来ているようだ。それも北京オリンピックという名前の下に。

「京劇」と呼ばれる中国歌舞伎は日本でも言葉として有名なのだが、なぜ「京劇」といわれるのかもこの本を読めば分かる。もともとは上海近郊での芝居団体が、そのまま北京に住み始め、北京語で芝居をやり始めたために「京劇」と呼ばれるようになったのが原因なのだが、日本の歌舞伎文化と同様、京劇俳優たちの裏の姿もここでは説明がされている

1つの都市だけに注目して歴史を見るという感覚は新しい発見だと思ったのだが、その果感覚を通してでも、各王朝がどういう理由でその都市を利用したのかというのが整理されていてとても分かりやすい。清朝に興味があるのであれば、さらに紫禁城とその周りに庭園のことについても詳しい内容が書かれているので、読み応えがあるだろう。中国の歴史を見る上での助けになるので、是非手に入れて読んで欲しいと思う。

北京―世界の都市の物語
文春文庫
竹内 実 (著)
文庫: 455ページ

張学良

中国の歴史で一番面白いのは、中華民国建国から第2次世界大戦終了の頃までの、中国大陸のごたごたであるのは誰もが認めることだと思う。あの時代には、それこそ個性の強い人たちが色々な思惑で生きていた、エネルギッシュな時代なのである。その中の登場人物ではあるが、後世、隠遁生活になってしまった有名人といえば、東北軍閥で名を馳せていた張学良だろう。しかし、その張学良のことはあまり日本では書籍になっていないのである。蒋介石を西安で拉致した人としては知られているが、それは蒋介石の歴史や、国民党と共産党の内戦の中の1ページに出てくる人としてしか紹介されているに過ぎず、張学良だけにスポットを当てた書籍というのを今まで見つけることが出来なかった。そもそもそんな本があるのかも知らなかったのである。

イーブックオフで検索してみると、その名も「張学良」という名前の本を見つける。フィクションの小説かと思ったら、ほぼ史実に則った伝記ものだったので、これは是非購入。もちろんイーブックオフなので中古本だと思うが、見た目は全然中古に見えない。たぶん新古本なのだとおもう。それも第1版だし。

東北の軍閥である張作霖の子供として生まれ育ったため、小さい頃から「王子」と呼ばれて育った。軍閥といわれても、今で言うところのヤクザの親分みたいなもんだったために、そのヤクザの親分の子供として育てられていたため、周りや家にやってくる人たちからちやほやされて育ったことは言うまでも無い。父親の張作霖が無学で単なる暴れんぼう将軍だったのに比べて、どこの親でも同じように子供への期待が大変強かったため、小さい頃からヨーロッパ式の家庭教師をつけられて育った。そして当時は、満州地方を攻め込んできた敵国であった日本からも家庭教師として日本人がつけられていた。ヨーロッパ人の中国侵攻は「しょうがない」とおもっても、同じアジア人で「小日本」と馬鹿にしていた日本人による中国侵略に対してあまり快く思っていなかったというところも、基本的な中国人気質だったようである。

父親が日本の関東軍に電車ごと爆破されてからは、日本人に対して憎しみが募ったのは言うまでも無い。しかし、軍閥の長になったにも関わらず、お坊ちゃん育ちであったために他の軍閥からは馬鹿にされるし、蒋介石にも言いようにコントロールされるし、といいつつも世渡りの感覚は抜群だったので、あまりきな臭いことへの関心が少なかったように見受けられる。しかし、根っから中国をヨーロッパ諸国のように強い国にしたいという思いがあったし、日本軍に言いように自分の支配地域を脅かされることに対しても言いように思っていなかった。日本軍が自分が支配している中国東北地方ではないところへ侵攻していた場合には、彼はどういう意見に変わったのだろうか?と思う。とはいいつつも、漢民族が満州地域に入ってきたのは、そんなに昔のことではない。なんといっても、万里の長城の「向こう側」だったのだから、そこまで「中国だ」と言い張るのは都合の良い話しで、清朝のふるさとだったところであり漢民族にとってはぜんぜん関係のない地であったから、南のほうに居る漢民族の人たちにとっては、日本軍が満州地域に侵攻しても、「ふーん」と知らんぷりしていたのも当然のことといえば当然のことだろう。

張学良が日本軍を蹴散らしたいと思ったのは当然だろうし、それを当時中国で一番の実力者であった蒋介石に知らせたいという思いはもちろんあった。本当なら自分が中国の代表として立ちふりまわるのが相応しいとこのお坊ちゃんは思っていたが、実力でははるかに中央政府である蒋介石の軍隊には適わない。そこで何を思ったのか、共産党と手を組んでしまったことに彼のその後の人生を大きく変えてしまったのは有名な話し。これがいわゆる西安事件に繋がる。彼の満州地域における支配快復を願うためにしでかしたことだが、蒋介石にとっては中国全体のことを考えて行った政策であったので、まったく意見が異なる。最終的には張学良は、軍隊を没収され、領土は元々日本軍に取られたので持っておらず、蒋介石のいた南京に軟禁されたままになる。国民党と共産党の内戦がひどくになり、国民党が最終的に台湾に逃げていったときに、一緒に台湾へ行かざるをえなかった。台湾ではもちろん表立った舞台に出てくることは無い。

そんなときに著者が台湾の教会の日曜ミサで本人にあって、「かつて、お坊ちゃんと呼ばれた人がいたんだ」という話を本人から聞く。それを文章として本になっているのだ。だから、話がとても生々しい。個人的には謎だなとおもっていた東北軍閥の西安事件までの生い立ちがとてもよく分かったので、この本はとても参考になったと思う。是非、中国のあの時代が好きな人は読んでみることをお勧めしたい。

もっと早く台湾のことを知っていたら、宋美齢や張学良が生きていたときに生の彼らに会ってみたかったと思う。

張学良-忘れられた貴公子-
松本一男 著
中公文庫
1991年

雪まつり

2月の三連休にどこかにいきたいなーとふと思った。最近忙しくて疲れきっていたので、のんびりしたいということと、現実逃避したいという気持ちが重なったのかもしれない。といいつつも、台湾に行くには航空券を探しても旧正月に重なっているので空き席が無い。となると、国内のどこかに行くしかないのだが、この時期に暖かい沖縄便は、同じようなことを考える人が多いために、やっぱり席は無い。じゃぁ、逆に北のほうにいくとどうなるんだろうと考えると、札幌便は三連休でもかなり席はあった。といっても、三連休の2日前では、昼過ぎの便くらいしか空いていなかった。さらに札幌は雪祭り開催中であるニュースをたまたま見てしまったのだが、そういえば今まで見たことが無いと思い、一度はスキーではなく、純粋に冬に北海道に行くのもいいかなという思いが重なり、とりあえず、札幌行きの飛行機と宿を抑えることにした。ANAの株主優待券があるので、当日に便を変えてもいいし、事前予約においてもいくらでも便を変えても手数料は取られないので、席だけ事前に予約することは可能だ。前日になってもっと早い時間に出発する便があいていたら、それに変更すればいいだけなのだから。宿については、そんなに臨機応変なことができないので、さっさと宿だけは旅窓から押さえることにした。しかし、雪祭り期間は札幌にホテルがたくさんあるといっても、もう結構空いていない。とりあえず値段と利便性を考えて、空室状況を見ると「法華クラブ」しか空いていなかったので、そこを選ぶ。

出発前日に再度ANAの空き状況をみたら、昨日はほとんど席が空いていなかったので、かなり早い便も含めて席があまっていることが判明。当初は2時くらい出発の便しか空いていなかったのに、予定変更をして12時の便に変更した。もっと早い便も空いていたことは空いていたが、そんなに朝早い便を使って、あちこち見に行かなくてもいいだろうと思ったからである。なぜなら今回はのんびりしたいからだ。よく考えると、のんびりしたいのであれば、温泉地に宿を取ればよかったかなという気もする。

新千歳空港に到着すると窓からの景色は雪景色一色になっていた。でも、幸いにも天気は快晴だったので嬉しい。当日も次の日も快晴だったので、本当に自分は晴男だとおもった。空港から札幌行きの電車は、札幌方向に行く人たちで満員で、早めに電車に乗って座れたのはラッキーだなと思う。札幌到着は約3時頃になり、ちょうどホテルにチェックインできる時間だった。一度荷物をホテルに置いてから出かけようと思う。荷物をもって出かけるほど面倒くさいものは無いからだ。しかし簡単に見つかるだろうとおもっていたホテルが意外にも分からなくなり、途中でもってきた地図を何度も見ながら到着。着いてしまえば簡単だと思えるのだが、なんで簡単に見つからなかったのだろうと馬鹿だなと感じる。チェックインは簡単に行うことができ、最上階のフロア-に泊まれた。夜は地下にある温泉が使えるということを聞いて、温泉地を選べばよかったーという思いをここで払拭できる。

部屋は思ったよりは広く、特にベッドが広いなーとおもった。なぜかセミダブルになっていて、部屋着やスリッパなどが2つ分用意されていた。それって、2人で泊まるようなもの?それとも現地の人を調達して泊めちゃっていいのぉ?と思う。あとは必要なものはなんでもここで揃えられるので、手ぶらで札幌にやってきても十分満足できるものだったと思う。

早速雪祭り会場のほうに向かう。雪祭りは大通り沿いに1丁目から12丁目まで横一面に広がって開催されている。従って、テレビ塔方向にまず行けばいいのだ。この雪祭りを見に来ている人が本当に多いというのは雪祭り会場に近づくととてもよくわかる。それも日本人はもちろんたくさんいるのだが、異様に中国系の人たちが多いことに気付く。旧正月を日本で過ごすという人たちが来ているみたいなのだ。それから西洋人にも雪祭りというのは有名らしく、あちこちで西洋人団体客・個人客を見つけることができた。

初めて見た雪像群は、よくもまぁこんな巨大なものを拵えたものだと感心するものばかりである。自衛隊が作っているものがメインではあるが、市民グループが作っているものもあるし、大きさもいろいろである。各丁目にはメインとなるキャラクターの雪像が飾られているが、どれもこれも巨大である。そのうち溶けてしまうというのはわかるので、後片付けをするのは簡単なのはわかるが、作製中はかなり大変だったのだろうと想像できるものが沢山だ。雪像のほかにはもちろん出店があったりして賑やかである。しかし、大通り公園はたくさんのひとが花火大会の帰りみたいに行列になっているため、足元がかなり不安定になっている。それも天気がいいと、足元がぬかるみ、そのまま夜中の寒いときに凍ってしまうので、溝が深くない靴では滑ってしまうので危険だ。数回滑りそうになったのは言うまでも無い。あと、出店のほうをよそ見をしながら歩いていると、足元がおぼつかなくなるから危険である。

それにしても昼間よりもライトアップしてからの雪像のほうが魅力的だ。きっと雪像がなければ夜に出歩きたいとは思わないくらい寒いのだが、こうライトアップされた雪像がたくさんあると、それだけでわくわくする。昼間も人混みは多いのだが、ライトアップされたからというのも人通りが全く途切れないくらいたくさんのひとが来ていた。その景色は幻想的であるというほか、何ものでもない。一度見てみて感動した。しかし、悪く言えば、一度見てしまえばもう二度と見なくてもいいかなと思った。寒い思いをしてまで見る必要が無いという意味である。テレビで雪祭りの風景を垣間見る程度で十分で、大人数が集まるところにわざわざ行く必要も無いし、寒いし、雪だるまの巨大版だと思ってしまえばなんてこともないものであるからである。一度見てみたいと思ったので、それが実現できたから、それでいいだろう。

華原朋美


友達から華原朋美のベスト版を借りた。なんでいまさら華原朋美なのかと聞かれると、ちょっと少し前のことから話さなければならないだろう。そもそも久しぶりに聞きたいと思ったのは、ちょっと前のドラマ「ランデブー」を見たからである。このドラマ「ランデブー」は、桃井かおりと田中美佐子が共演したドラマだが、どちらも猫型人間を徹底して演じており、その周りに出てくる人たちも、ホテルの支配人を演じている岸田今日子や、金で擬似的恋愛を演じることになった柏原崇、そして後々「サラリーマン金太郎」で大ブレークしてしまった高橋克典と、メンバーを見ただけでかなりわくわくする。ドラマ自体は、TBSのサイトにあらすじが載っているので、興味があるひとはそれをご覧になると良い。そのドラマの主題歌を歌っていたのが華原朋美なのだが、これがまた下手糞の極まりない歌なのである。この曲が発表された頃には、すっかり小室哲哉との仲も終わってしまったため、小室がほとんど興味を示していないというのが曲を聞けばすぐわかる。そのドラマを、台湾で買ってきたVCDで久しぶりに見たときに「華原朋美ってこんなに下手だったっけ?」と思ったので、思わず前もこんなに下手だったのかなと疑うようになったので、ちょっとベスト版でも聞いてみようとおもったのがきっかけなのである。

華原朋美が歌手として出てきた時には、またわけのわかんな小室ファミリーの1人が出てきたなーとおもったら、小室の当時は「愛人」だったことが発覚し、それがもうほとんど公になっていたくらいだから、誰でも知っている愛人だった。その後小室が離婚をしたために、華原朋美一人を独占的に面倒見るようになる。このときが彼女にとっても曲としても最高の曲ができていたんじゃないかとおもう。「I BELIEVE」を初めて聞いたとき、なんちゅう高い声だとおもい、たぶん当時に流行っていたマライヤキャリーと比較されて報道されて居たような気がする。しかし、いま聞くと、高音部分に力が足らなく、とてもマライヤキャリーと比較されていたなんて言うのは馬鹿馬鹿しいと思うのだが、当時としては盲目になっていたのだろうと思う。誰もが歌えない高音の曲を作ってもらったーとテレビで言っていたのをとても印象的に覚えているのだが、今考えると「ふーん・・・」と冷静に思えるのは何故だろう。それだけ、周りが小室ファミリーで音楽が毒されていたのだろうと思う。しかし、この小室ファミリー独占の音楽界が、のちに多用な音楽ジャンルを生むきっかけになったのはありがたいと思う。小室ファミリーの単調な曲にだんだん世間が嫌気をさしたためというのが原因だ。そう考えると、小室本人にとっては全然ありがたくないのだが、日本芸能界としてはいい事をしたと思う。

華原朋美に話を戻してみると、最近テレビで見ることが無いなーとおもったら、どうやら現在契約しているプロダクションがないために仕事が無いのが原因なんだそうな。歌手として復帰することはもうないだろうし、笑っていればなんとかなるというような都市でもなくなったのを考えると、使いようが無いタレントとなってしまったのだろう。そのうち「あの人は今?」の番組に出てくるのじゃないかと思う。「桃の天然水」のような誰でも知っているCMをかつてやっていた輝かしい栄光は、すでに過去のものになったのだと思う。

歌に関することに戻してみると、初期の頃の小室が作った曲が一番いいと思う。そのあと、だんだん曲に手抜きを感じられるようになるし、声の張りが全然無いのが良く分かる。こうもまとめて聞くとなぜ粗や欠点が見えてくるのだろう。なかなか不思議である。第一線で常に活躍している歌手の場合には、ベスト版を出した場合においても、あまり欠点が見えてこないので、それだけ素人を納得させるだけの魅力と特徴を備えれ居たのだろうと思うが、ポッと出の素人上がりで、たまたま小室の愛人になっていた華原朋美が、努力をせずに売れていたことが不思議だと思った。

Wikipedia 華原朋美 : http://ja.wikipedia.org/wiki/華原朋美
アルバム批評 :http://www.h6.dion.ne.jp/~jpop/music/kahala.html