2007/11/03

うなぎ


全然今の季節(秋)の食べものとは関係ないのだが、個人的には鰻が好きだ。鰻といえば、浜松と言われるくらいなのだが、実際に、鰻を一番消費されている地域は九州だったりするし、関東近郊においても、浜松に行かなくても美味い鰻を食べられる名産地は結構実は近くにあったりする。意外なところでは、浦和だとおもう。しかし、実際に浦和に鰻屋さんが多いというのを目撃したことがないので、ここでは言及しない。今回書いてみたいのは、伊豆方面に行く場合には必ず立ち寄ってしまう、三島の鰻である。

同じ静岡なのに、なぜか三島の鰻のほうはそれほど注目されていないのだが、これが不思議だ。しかし、駅の近くには老舗の鰻屋が結構あったりするし、うなぎ目当てに同じように三島に立ち寄る人も多いのだ。特に西伊豆方面や修善寺に行く場合、必ず三島は電車では通る場所なので、ここで立ち寄って、昼ご飯として鰻を食べたあとに、最終目的地に行くのが良いだろう。
駅前ロータリーを廻って中央通を下って、しばらく歩いていくと、「本町うなよし」が見えてくる。商店街の中にあるので、一瞬、見失ってしまいそうなくらいひっそりと立っているため、ここが名店なのかというのを忘れてしまいそうになるのだが、実際に中に入ると、食べるのを待っている人たちが狭い店の中で待っているのだ。
メニュは超簡素。並・上・特上のうな丼しかない。あとは、肝を使ったお吸い物があるくらいだ。飾り気がなく、品物1本で勝負しているところが商売人らしい気質を感じる。ちなみに、並や上などのランクは、鰻の大きさだけで決められているので、味はどれを食べても全部同じであるのは常識だ。従って、自分の食べる量によって、鰻の大きさを決めれば良いので、それが「上」の大きさなら「上」を注文すればいい。ここでは「上」にした。
ちなみに、事前に注文をしておけば、弁当も作ってくれる。食べている間に、結構たくさんの人が、「注文していた○○です~♪」と店に入ってきた人たちが多かった。鰻の弁当はいくらするのか良く知らないが、確かに、自分たちが食べていたテーブルとは違うところに、買われる弁当が山になって積まれていた。

鰻はあのタレと一緒に食べるから美味いのであり、この店もご多望に漏れず、超美味い。この味なら値段を多少出しても美味いなとおもった。並んでまで食べたいという客がたくさんいるのは納得である。本当に昼ご飯の時間になると、長蛇の列になるので、時間を少しずらしていくと効果的だと思われる。
bつづいてご紹介するのは、三島から伊豆急行に乗って1つ目の駅である三島広小路駅傍にあるのが、もう一つの名店である「桜屋」だ。こちらも、三島の商店街にあるのだが、さきほどの「つなよし」とは異なる商店街沿いにある。歩いていると、店の前で待ち行列を作っている客がたくさんいるのが見えるので、どこに店があるのかは一目瞭然だ。つなよしよは異なり、こちらの店のほうがキャパシティが大きい。しかし、回転率が悪いらしくなかなか客の出入りが進まないのが難点だ。建物は、3階建てになっており、それぞれのフロアは、巨大な畳が敷かれた部屋があり、そこにテーブルが備わっている。だから、客がたくさん入るというのが良く分かるというものだ。
こちらはのんびり鰻を食べて貰おうという主旨のようで、鰻の焼き方も、白焼きからタレまであるし、日本酒も飲むことができる。飲むことができるということは、飲みのための小料理も提供されているので、そのために回転率が悪いように見えるのだろう。
うなぎの種類はたぶんつなよしと同じだろうと思うが、美味い。しかし毎日毎日鰻を食べていたら、精力は付くだろうが、それを発散できるところがないと悲しい。桜屋の場合は、店が大きいからという理由だと思われるが、遠くから団体でやってくる客が多いようだ。そして、いつ入れるのか分からないので、時間調整をするのがとても難しいはずなのに、それでも団体が舞ってでも入りたいとおもうのは凄い。団体旅行といっても、個人旅行の場合だから、ツアコンがいるというわけでもない。この桜屋にいったときには、大阪から来ているひとがいたようで、新幹線の時間をとても気にしていた。せっかく店には入れたのだが、何が早く食べられるかとか、この大人数を満足させるものを、ちゃちゃっと持ってきてくれーという意味不明な注文の仕方をしていたグループもいて、ちょっと笑った。

ソ連への旅行(古本)


昔の旅行本というのは、その時代を反映した内容をかなり盛り込んでいるため、いま改めて読んでみると、不思議だなーとか、あーっ、この頃はこういう考えが流行っていたんだとか、少し上からの目線で当時の人たちの心情を読み解くことができるのが楽しい。それも旅行記を書いているひとが訪れている場所が不変の地域であれば、今読んでみても違和感は全然無いと思うのだが、ダイナミックに変わってしまった地域を描写している場合は、ほとんど芝居をみているようにしか思えない。

今回近くの古本屋で100円で売られていたのが、「世界の旅行5・ソ連/東欧諸国」(中央公論社)がカバー付き売られていたので、思わず手に取ってしまった。出版期日を見てみると、昭和37年と書いてあるので、とても古い。戦後15年以上経過しているとはいえ、まだまだ戦争の記憶は新しいひとたちが書いている内容であるので、戦前・戦中・戦後の思想の変化も加味しつつ書かれている所が面白い。カバーは年季が入って、もうぼろぼろのようなのだが、中身のほうはというと、多少黄ばんではいるものの、本としては問題なく読めるし、丈夫に出来ている。さすが中央公論社と、この時ばかりは感心した。

そして、この本は、いろいろな作家や著名人が色々な雑誌などに投稿している内容を、寄せ集めた本ではあるのだが、その寄せ集められた作家群が凄すぎる。それを列挙してみると、こんな人たちが書いていた。

・野々村一雄「ソヴィエト紀行」
・瀬戸内晴美「30万円ソ連旅行」
・栗本和夫「ソ連文化交流の旅」
・竹山道雄「モスコーの地図」
・松田道雄「レニングラードの日記から」
・栗原武夫「アルメニア紀行」
・森恭三「東ヨーロッパ通信」
・開高健「夜と霧の爪あとを行く」
・近藤忠義「プラハの春」
・大江健三郎「若いブルガリア」
・阿部展也「ユーゴ民族芸術の旅」
・羽仁進「民族と抵抗のエネルギー」
・大宅壮一「もう1つの世界」

作家として今でも活躍している人はもちろんのこと、各界でも著名な人も並んでいるので、その蒼々たるメンバーを見たときに、内容はともかく、まぁ、100円だから買っても良いかなとおもった。しかし、昭和37年当時としてはこの本は370円で売られていたようで、今の貨幣価値だったらいったいどのくらいの値段なんだろうということも考えてしまった。

今では、社会主義とか共産主義というと、「ははは」とお笑いのネタになるくらい馬鹿げた主義であるのは明確ではあるが、ソ連崩壊後だからこういう感想が言えるのであって、昭和37年当時としては、戦前からのばりばりの社会主義者やソビエト万歳主義者は、かなり一杯いたはずであろう。さらに「進歩的思想家」と称する意味不明な共産主義者などもこのときには、大手を振って歩いていた時期であるから、ソ連を中心とする社会主義に対して、勝手な妄想と幻想と、実際に本場の現場に行ってみて、見れるところは狭いくせにそれが全体の様子をあらわしているところだというものと判断して、やっぱり社会主義は凄いというような感想を書いている内容を見ると、「ぷぷぷっ」と笑ってしまう。特に、一番最初に書かれていた、社会主義経済学者の野々村一雄が書いた内容は、いろいろな意味で抱腹絶倒できる内容だ。こういう人は、ソ連が崩壊したあと、どのような人生になったのか、または自分の思想に対してどのように修正をしていったのか、改めて聞いてみたいところがある。

いまでは旅行をするというと、自由でどこでも好き勝手にいけるのが普通だとおもわれるが、当時のソ連への旅行というものは、かなりハードルが高かったようである。ハードルが高いというのは値段が高いというのではなく、旅行の自由度がないというものなのだ。誰がいつどこにいくつもりなのかというものを、渡航前にヴィザと一緒に申請する必要があり、1人でふらふらすることは外国人は許されず、いまの北朝鮮への渡航と同じように、必ず現地の人間が半分スパイのようにつきっきりになる必要があるからだ。今はもう無いと思われるが、ソ連を旅行する場合には、インツーリストというところを通してでなければ、ソ連滞在中は何も出来ない。すべて前払いで、滞在中はお土産以外はお金を払う必要がないらしいのだが、自由がないが、インツーリストから派遣されてきた人に「明日はここに行きたい」ということをいう自由はあるらしい。決まりきったコースしか旅行ができないという北朝鮮とは違うようだ。「シベリア鉄道9400km」の本にも書かれているのだが、このインツーリストが絡んだ旅行中のやりとりは、ソ連への旅行者にとって、かなりあとから記憶として楽しいものだったと思うらしい。好き勝手に出来ない分、その制約のなかで楽しみを見つけるからだろう。

それと、不思議だったのは竹山道雄が書いている地図に関する話だ。旅行社にとって、地図とガイドブックは切っても切れない関係なのだが、この地図というものが曲者で、地図はスパイ活動に繋がるという意味から一般人には手に入らないものとして、ソ連では扱われている。ソ連はスパイ活動に対してKGBを中心とする目を光らしているため、外国人に対してはそのスパイ活動ができないように、街中に地図を売らせないという政策だったようだ。従って、色々なところを自由に歩いてみたいと思った著者が、地図を求めて本屋を駆け巡ったりする苦労とか、無理やりコンシェルジェからもらった地図を頼りに行きたい場所に行こうとするが、地図をローカルの人に見せて、現在地を教えてもらおうとしても、だれも地図が読めないというのが面白かったという感想は、漫画の世界のように思える。地図の中に指し示してくれたのはいいが、全然違う場所だったために、変な場所に出てしまったという話は、良くありがちだ。地図はタブーなのだというオチがとても新鮮に思えた。

ソ連国内としてまだ連邦国だったため、アルメニアもソ連に扱われてしまっているが、キリスト教徒の聖山として崇められているアララト山や、文化の交差点であるアルメニアは、その当時から美人が多いと書かれていて、やっぱりねーという感想はあった。それほど昔から文化的にはそれほど変化がないのだろうから、ここには一度行って見たいとおもうが、昔の話とはいえ、アルメニアのほのぼのとした様子を見ていると、なお一層行きたくなってしまうのは不思議だ。

行った事がある旧東ヨーロッパ諸国の、プラハやブダペストの話を見た場合、その文化性は理解できるが、この本が出版された直前に起こった、プラハの春とかハンガリー動乱の話が生々しく残っているのは、タイムリーな記事としてここに掲載されているので、とても不思議に思う。不思議に思うというのは、あんな事件はめちゃくちゃ過去のこととして感じていたところ、当時としてはまだ風化するには早すぎる事件として誰でも知っている出来事として書かれているからだ。従って、文化性とソ連による介入を連携させて、民族主義とソ連化以前からの経済体制など、複雑な要素を孕んでいるこの地域の説明をするには、ネタとして困らないし、読んでいるだけでわくわくしてくる。

阿部展也や大江健三郎の内容は、行った事がない場所であり、いまでも良く分からないので、彼らが昭和37年に書いている内容から、個人的にはこれらの国々に対するイメージは基本的な日本人としては変わっていないと思う。実際には、現在ブルガリアは農業国というのは未だに変わっていないが、イギリス人による移民が多い場所でも有名になってしまった。物価が安く治安がよく、黒海沿岸のため気候がよく、そして食べものが美味いからというのが理由のようだ。時代とともに、人と思想は流動的になるのだが、ヨーロッパのこういう一見したら時間が止まっていると思われていた地域が、実際には動いているというギャップが経済というものなのだろう。ユーゴの場合、今ではすっかり分裂してしまったので、まだ連邦だったというときの話は、とても違和感があるのだが、その中でもサッカーのワールドカップをきっかけに、クローズアップされたクロアチアは、旧ユーゴの中でも最近注目に値する国だといえよう。旧ハプスブルグ家の領土内だったから、その文化性の高さは今でも残っているところだ。次回ヨーロッパに行く場合には、スロベニアやクロアチアには行ってみたい。

しかし、45年以上も前の本をみると、下手な歴史書を見ているより、その当時の考え方がよく読み取れて楽しい。また別の機会に、他の古本を探してみたいと思う。

deafness

最近めちゃくちゃ体調が悪い。違う病院に行くたびに色々な病名を聞かされると、なんだか自分が本当に病人になったような気がする。当の本人は、それほど病名を聞いても気にしていないのだが、周りに言うと、大変だー!と騒ぐので、そこで初めて大変なんだと思うようにしている。が、あまり人の話を深刻に聞いていないのか、いたって普通に生活をしている。

ここ2週間前から、左耳の奥のほうが、ちくちくと痛いなと思い始めた。そのときには、最近耳の掃除を真面目にしていないなーと思ったので、綿棒で耳の垢の掃除をしたりしていたのだが、それでも違和感というものは取り除くことができなかった。いろいろな病気はしたことがあるが、耳の病気というのは生まれてこの方、小さい頃に体験した中耳炎くらいしか覚えていないので、もしかしたら、これは中耳炎にでもなったのかなという気もした。そこで、出社前に耳鼻科へ立ち寄りしてみることにした。

耳鼻科はそれこそ前に行ったのがいつだろう?というくらい、行った記憶がない。前に耳鼻科に行ったときには、耳の中がガサガサした感じがあったので、それを取り除きにいったら、耳の奥に超デカイ耳垢があって、吃驚したというとき以来だ。年寄りの先生なのだが、腕はかなり確かのようで、家の近所の人たちも含めて、自分の家から半径5kmくらい範囲に住んでいる人たちの御用達耳鼻科になっている。しかし、耳鼻科というのは昔から、小さい子供と年寄りばかりが集まってくる場所でもあるので、スーツを着た人が来るとかなり場違いのように思える。

診察の段階になって、診療台に乗せられた後、耳の中をチェックして貰ったのだが、そのとき医者からは外傷とか見た目では問題ないとのこと。そこで、ありがちの聴力検査を行う。昔から、左耳の高音域はあまりよく聞こえていないのは、定期検診や人間ドックのときに分かっているので、またいつものように高音域だけ聞こえていないのだろうと思っていた。検査の方法も、定期検診のときにも頻繁にやっている、「ぴー」という音が聞こえつづけている間、手にもたされたボタンを押しつづけるという単純明快のもの。ただ、最近の耳鼻科は、その方法が2種類あって、耳の穴を通して聴力を検査する一般的なものの他に、骨伝導を利用した聴力の検査も行うようである。骨伝導というのは、最近の携帯電話でも老人用として新規開発されるきっかけになったものだが、これが身近で体験できたので、かなり楽しかった。耳の中に入れていないのに、音が聞こえるという不思議さは、神秘的だ。骨伝導の聴力検査は、被検査の耳とは逆側の耳は、別の音が流されていて、その音は気にするなという方法。正式検査名は良く分からない。そのあと、鼓膜が破れているのかというのを検査する特別の装置を使って、チェックされた。

検査の結果、鼓膜には異常がないのだが、やはり左耳のほうに異状が見つかった。異状というのは、左耳の聞こえている音域が狭くなっているとのこと。高域だけではなかったらしい。病名は「左突発性難聴」という。原因は未だに解明されていないのだが、ストレス性からのものか、または風邪などを引いたときに、菌が内耳に入ったことによる障害というものも考えられるようである。いずれにしても、10日間くらいは毎日通院が必要で、そのときに、ビタミン剤も含まれている太い注射を打つとともに、毎日3回薬を飲まないといけないといわれた。絶対安静が必要だとも言われた。普通に仕事をするには全然問題ないのだが、あんまり無理するなとのこと。

文化の日あたりはいつも天気が良いので、伊豆あたりの温泉にのんびりしたいとおもっていたのだが、医者から「耳が聞こえなくなっても良いんだったら、どうぞ。ことの深刻さを理解していないね?」と言われてしまった。軽く考えていた自分の甘さにガックリである。従って、週末の温泉旅行は、急遽キャンセル。踊り子号の特急券もキャンセルし、宿もキャンセルした。一緒に行く約束をしていた友達にはお詫びをいれるとともに、今回は自分の責任のためにキャンセルになったので、キャンセル分はこちらで支払うことにした。

会社に行って、「明日から毎日朝通院しなければならなくなりました。でも、普通に残業も含めて仕事をしてもいいようです」という報告は一報入れておいたが、直属の上長も少し抜けている人なので、「わかりました」とは言ってくれたが、あまり真剣に聞いてくれる様子ではなかった。しかし、いちおうその上の上司にも報告しておこうと思って、連絡をしてみたところ、こちらのほうが恐縮してしまうくらいの気の使い様を受けてしまった。違うロケーションにいるその上長に連絡をとろうとするのは、なかなか難しく、電話が繋がらなかったので、まずはメールで先に報告をし、そのあと、そのロケーションで打ち合わせをする機会があったので、そのときに症状を改めて自分の口から説明した。その上長は、ネットで症状について調べたらしく、その結果からとんでもない状況になってしまったと判断したらしく、すぐさま、フォーメーションの見直しをしてくれたとともに、真剣になって症状について聞いてくれた。「もしかして、本当は入院しなければならないのに、お前は、医者に入院したくないんですというようなことを言ったんじゃないのか?」とも言われたことはかなり衝撃的だった。いまの部署にきて、まだあまり時間が経っていないのに、すでに性格を見抜かれていたことが分かったからである。

そんなこんなで、ここ数日は毎日通院しているのだが、毎日腕のどこかに注射を打たれているので、警察に尋問を受けた場合には、シャブ中毒の人間に間違われないかと心配である。内科の診断ではないので、耳鼻科が腕に注射をするというのは余りなれていないようで、この間は、1回の注射を打つのに、「血管があまりうまく浮き出ない」という理由から違う場所を4回も指されてしまった。注射後のバンソウコウが4箇所に張られている様は、病人の証拠になりかねん。

飲まされている薬というのは、いまのところ次の3種類だ。

・メチコバール錠
・アデホスコーワ顆粒
・リンデロン錠

処方してくれた説明によると、「メチコバール錠」は末梢神経障害の症状を改善する作用があるとのこと。「アデホスコーワ顆粒」はめまい治療に用いられるらしく、心臓の働きを強くする作用があるそうだ。「リンデロン錠」はステロイド剤であるため、炎症を鎮める作用があり、医者の忠告を聞かず勝手に飲むのを止めるとダメなのだそうだ。

2007/10/28

台湾便直接運行

台湾にいくときにいつも困るのが、どこの航空会社に乗ればいいかということだ。便数から考えると、JALの子会社である日本アジア航空チャイナエアーラインかエバー航空だとは思われるが、JAAだとJAL系列だからということもあり、結構値段が高いからあまり乗りたくない。でも、その反面、JALカードを持っているので、JALのマイルが貯まるからという理由から、以前乗ったことがあるし、マイルを使って親と台湾に行くときにも使ったことはある。中華航空は安いのだが、やはり先日起こった那覇空港での事件や名古屋空港での事故のことを考えると、機体に期待(しゃれじゃないです)していない分、これもあまり乗りたくない。でも、値段が安いし、便数が本当に多いので、時間に余裕がない場合には仕方なく乗っている場合がある。エバー航空は、興味もないので選択肢の中に入らない。

その他に台湾へ就航している航空会社で考えると、ユナイテッド航空があるが、最近はこればかり使っている気がする。しかし、アメリカからの客を中心に考えているためか、成田発の出発が遅いため、台湾での滞在時間が少なくなるから、あまり本当は使いたくない。しかし、格安航空券としては安いし、マイルも貯まるので、実はこれを利用しているのだが、最近は使いたくないと思っている理由に、マイルは貯まっても、持っているカードがスカンジナビア航空であるため、格安航空券の場合、最近ユナイテッドに乗っても25%しか付かないことが判明したため、ユナイテッドに無理やり乗らなくても良いかなという気がしてきている。

他にはキャセイパシフィック航空も就航しているが、こちらも数回利用したことがある。昼過ぎに出発し、夕方には到着するので、まぁまぁ使いやすい時間帯を飛んでいる飛行機ではあるが、マイルのことを考えると、持っているアメリカン航空には格安航空券だとまいる加算されないので、極力避けていた。なので、キャセイパシフィックのカードもわざわざ作ってしまったのだが、最近になって、JALが正式にワンワールドに加盟してしまったため、アメリカン航空のカードもキャセイパシフィックのカードも、中途半端に貯まっただけで、あまり意味のないものになってしまった。どちらも13000マイルくらい貯まっているのであるが、使おうにも使えるほどのマイルではないため、このままでは失効してしまう。

そんなこんなで、何に乗れば良いのか結構迷ってしまっているのだが、だいたいは勢いで、航空会社を決めている場合が多い。

しかし、ここで朗報が入った。下記のように、日本の航空会社で台湾に乗り込んでいるのは、わざわざ子会社を使って運行しているものを、直接JALとANAの名前で運行する予定であると発表があった。これによって、今までエアーニッポンはANAのグループだと知っていたが、スカンジナビア航空のマイレージカードでは貯められなかったので、無視していたものを再度見直すことが出来るようになった。JAAがJALに変わるのは、あまり影響がないと思われがちだが、機体がJALの機体を使えるので、あのボロい、JALからのお古を使っていた機体じゃなくなるだけ嬉しいかもしれない。あとは値段との関係で、どちらの航空会社にのろうかと迷うところだろう。

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<日台航空路>JAL、ANAが直接運航 子会社運航中止へ

10月27日0時5分配信 毎日新聞

 日本-台湾間の航空路線で、日本航空(JAL)と全日本空輸(ANA)が直接運航に乗り出す見通しになった。1972年の日中国交正常化に伴う日本と台湾の断交後、中国への配慮もあって日本の航空会社は75年以降、台湾便で子会社名の運航を続けていたが、JALやANA名で乗り入れる方向で最終調整している。中国も黙認するとみられ、近く発表される日台民間航空取り決めに盛り込まれる見込みだ。 JALとANAは中国便では直接運航している。しかし、台湾便はJALが75年から日本アジア航空、ANAは94年からエアーニッポンというそれぞれの子会社が運航していた。最近は親会社の機体を使い、パイロット、客室乗務員も親会社の社員を一時的に転籍するなど子会社方式は形だけになることも多かった。 かつては台湾からの便は羽田に乗り入れ、中国からは成田へと、空港も分けていたが、日中台の経済交流が活発化していることから空港の区分けを解消。直接運航についても、実態にあわせて中国側が容認する環境が整っていた。【後藤逸郎】