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長崎の出島のことは、日本人であれば、そのへんのクソガキでも知っていることである。出島のことを知らない日本人は、日本人として失格であり、無知もいいところであろう。江戸時代では海外との窓口として唯一開けた場所であるため、オランダ人が日本国内で踏める唯一の場所であった。
オランダ人はこの出島から外に出ることは許されなかったのだが、日本人は結構自由に出島に出入りできたようである。蘭学を学びにやってきた日本人は数多く、その中から偉大な人たちを輩出しているのはご存知の通りである。偉人のほかに出入りしていたのは、売春婦と商人であった。やっぱり海の男が陸に上がった場合にすることといったら、女を抱くこととと酒を浴びるように飲むことなのだろう。
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出島の形は痕跡として残っているのは、出島の扇形沿いに壁があることで、面影を残している。いまではすっかり周りが埋め立てられてしまったために、どこまでが出島なのか分かり難い。路面電車も出島沿いに走っているが、昔は海だったところを今は走っている。
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さて、当時の最先端の情報収集地点であった出島での様子はどうだったのかを初めて訪れてみた。
これがなかなか興味深いものがたくさんあった。
建物はどこかでみても和風なのだが、中身はオランダ人の住居および仮宿のための施設としては十分だったということだろう。
カピタン(船長)の部屋というのがあったので覗いて見ると、現在でも十分に通用できる模様の壁に西洋のテーブルセットが保存されていた。それは今見てもセンスが良いのであり、決して奇抜でもなければ時代遅れな感じがしないのが不思議である。当時の日本人も給仕として働いていたのは居たのだろうが、こういう西洋文化を触れたときに、驚きの連続だったのだろうと想像する。
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全員が食事をする場所というのが公開されていたが、ここではクリスマスイブをお祝いする料理が例として飾られていた。結構豪華な食事をしていたのだというのが分かる。食事に使われた食品は、本国または途中の経由地で仕入れたものなのだろう。肉類は日本人は食べていなかったので、本国から持ってきたものなのだと思う。
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普通の部屋をみたのだが、ちょっと前の明治時代の日本人の部屋のように思える。畳の部屋にベッドがあり、机や椅子がある姿は、日本の家庭のどこにでもあった風景そのものであろう。ちょっと笑えたのは、船乗りなので飲兵衛なのはわかるが、ワインのビンが部屋に置いてあることだろう。どうしてもワインは手放せなかったのだろう。
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外に出てみると、用水路があるのがわかる。この用水路、当時のままなのだそうで、瓦屋根に使っている瓦を用水路の底にしているところが味があってよい。
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石見銀山が世界遺産になったが、それほど日本では銀の産出が世界でも指折りであった。オランダ人がやってきたのも、そんな銀を仕入れるためであって、日本はオランダに銀を大量に輸出していた。しかし、その後銀の流出を止めるために金や銅に変わられることになった。銀はヨーロッパでもそのまま通貨として流用するために必要であり、メキシコからの大量の銀がヨーロッパに入ってくるまで、日本と清にある銀が大量にヨーロッパに持ち込まれていたのである。
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銀とともにヨーロッパへ輸出されていたのは、陶器であった。中国の陶器も同じようにヨーロッパに輸出されていたのだが、日本の陶器も大変人気があってヨーロッパ人の心を掴んでいた。輸入ばっかりしていたのではなく、自分たちでも陶器を作りたいと始めたあと、ようやくウェッジウッドやロイヤルコペンハーゲンという陶器がヨーロッパで作られたのであり、それまでは銀の皿を使うのがヨーロッパでは定番だった。
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オランダの祝日や長崎奉行の船が長崎港外視察のために出島の傍を通過するときには、オランダの旗が旗竿に掲げられていた。ナポレオンがヨーロッパを片っ端から自分のものにしていたとき、オランダもご多望に漏れずナポレオンに屈していたが、その当時、世界で唯一オランダんの国旗を掲げていたのがこの出島だったという皮肉な歴史もある。
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